( ※ 本項の実際の掲載日は 2013-02-10 です。)
2013年のセンター試験・国語がひどい、という話のついでに、「これで3年目だ。去年も病んデレ彼女でひどかった」という話を見かけた。そこで、問題文に当たってみた。
→ 問題文と正解のリンク ( 問題PDF )
該当箇所を画像で示すと、次の通り。(クリックして拡大)


正解は5である。(公式では)
つまり、次の文だ。
私は、突然現れた美しいたま虫を彼女に無慈悲に扱われたことに驚き、恋人を責めるような発言をしているが、恋人は,大切な二人の時間を邪魔したたま虫をはじき落としたのに相手が理解してくれないと思い、互いに落胆し、非難するような気持ちになっている。──
これが正解だとすれば、この女性は「精神が病んでいる」と思われていても、仕方あるまい。しかし、そうか。
これはあくまで心理の推定だから、本当はどうであったかはわかりにくい。しかし、私なりに考えるなら、その女性が「精神が病んでいる」とは思えない。むしろ、真実は次のことであろう。
「主人公は、オタクであった。だから、自分の愛するもの(たま虫)をものすごく大切にしており、それを粗雑に扱う人の心理が理解できなかった。しかるに、女性はオタクではなかった。萌えオタクの大切にするフィギュアなんて、まともな人間にとってはゴミであるにすぎないのと同様に、虫オタクの大切にする虫なんて、(ゴキブリと同様に)ありふれたただの虫にすぎないので、(ちょっとぐらいはきれいであっても)邪魔なものはあっさりつぶしてしまうべきだと感じた。それは、ゴキブリを押しつぶすのと同様である」
つまり、問題は、「オタクと非オタク」の心の食い違いにすぎない。
萌えオタクにとっては、フィギュアを捨てるような女性は鬼女のように思えるだろうし、ゴキブリを踏みつぶす女性にも恐れをなすだろう。しかし、まともな人間にとっては、フィギュアなんてゴミにすぎないし、ゴキブリを踏みつぶすぐらいのことは当たり前のことにすぎない。「ゴキブリが怖い、キャー、キャー」なんて騒ぐのは、生活力の弱い無能女にすぎないのだ。そういうお姫様っぽいのは、料理もろくにできない無能女に決まっている。(台所で生魚をさばいたりしていれば、ゴキブリを見かけてつぶすぐらいのことは、ありふれたことだ。)
──
結局、出題者は何もわかっていないのだ。主人公は、生活力のある女性がゴキブリみたいな平凡な(ちょっときれいな)虫を踏みつぶしたのを見て、度肝を抜かれて、「この美しいものを殺す女性は、いったいどういう精神をしているんだ」と目を見張った。一方、女性の方は、「ありふれた虫をつぶしたぐらいのことでいちいち驚くような男って、いったいどういう神経をしているの」と呆れた。作者はその両方を書いているのだが、出題者自身は、自分がオタクっぽいので、主人公の心理だけは理解できるが、女性の心理は理解できないでいる。ただし、「主人公の想像した、女性の心理」というのだけは理解している。そして、その「主人公の側から見た心理」だけが本当の心理だと思い込んで、女性の本心を理解できないままでいる。
つまり、女心がわかっていない。

画像出典
問題文に戻ろう。
「大切な二人の時間を邪魔したたま虫をはじき落としたのに相手が理解してくれないと思い」
これじゃ、精神が病んだ女(メンヘラ女)みたいなものだ。この女は、頭がイカレているから、虫の命の大切さがわからないんじゃない。虫の命なんて、ゴキブリの命と同様で、価値はないのだ。
一方、主人公の方は、いわば、
「ゴキブリを踏みつぶす女って、何て残酷なんだろう」
「魚をさばく女って、何て残酷なんだろう」
「牛や豚や鳥を屠殺するなんて、何て残酷なことなんだろう」
と思うような、世間に無知な引きこもりみたいなものにすぎない。
そして、その主人公の生活力の弱さや引きこもり体質のことを、出題者は理解できていない。
似た例で言えば、次のページを見るがいい。
→ 普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話
こういうふうに「鳥を絞めて解体する」ようなことができるのが、生活力のある女だ。
一方、今回の小説の主人公ならば、「鳥を絞めるなんて、何て残酷なことをするんだろう」と呆れて、「理解できないよ」という目を向けるのだろう。それでいて、「鴨なんばん」みたいな料理を出されれば、「おいしい、おいしい」と喜んで食べるに決まっている。こういう人間は、牛肉を見ても、「それは、もともとは牛であったのが屠殺されて解体された」ということに思い至らず、「どこかの工場で自動的に生産されているのだろう」とでも思っているのだろう。
──
まとめて言おう。
出題者は小説をまともに理解できていない。主人公の解釈を、小説そのものの解釈だと、勘違いしている。それというのも、出題者がオタク体質で、現実の生活力が弱いからだ。
そして、そういうオタク体質の偏った心理だけを正解だと見なして、そうではない普通の心理を正解のなかに書き込むことができない。(選択肢に含むことができない。)
これは、問題そのものが愚問であることを意味する。「正解のない問題」であるからだ。
【 補説 】
より根源的に言えば、そもそも「小説の登場人物の心理」を問うことが、根本的に間違っている。「小説の登場人物の心理」は、文章を読んだだけでは、決して理解できない。それを理解するには、登場人物の過去の生い立ちなどを理解しておく必要がある。ところがそれは、小説には書いてないことが多い。(短編ならばなおさらだ。)
そもそも、人間の心理というものは、他人には理解しがたいものなのだ。どういう生い立ちだったのかもわからないし、どういう過去の恋愛体験があったのかもわからないし、どれだけオタク体質であるのかもわからない。なのに、「登場人物Aはこういう心理なのだろう」と推定したとしても、それはほとんど当てずっぽうに近い。また、仮に当たるとしても、それは心理分析の問題であって、国語の問題ではない。
国語の問題に「小説の登場人物の心理」を問うのは、あまりにも理不尽なことなのだ。それは国語とは関係のない問題だからだ。
ちなみに、同じ例を国語ではなくて漫画で描くこともできる。その場合、「登場人物Aはどういう心理であったか?」を問うとして、それが漫画力のテストとして役立つか? 絵の上手下手と何らかの関係があるか? もちろん、関係はない。
国語力というのは、漫画で言えば画力に相当する。その能力だけを問えばいい。一方、小説にもマンガにも映画にも共通するような能力(ストーリーやキャラ設定の能力)は、小説の能力とはあまり関係がない。
国語の試験というものは、あくまで言語的な面だけを扱えばいいのであって、ストーリーやキャラの分野(特に心理)に踏み込むのは、大幅な逸脱なのである。
どうしてもストーリーやキャラの質問をしたいのであれば、いっそのこと、小説を扱うのはやめて、アニメか長編漫画でも使えばいい。たとえば、「けいおん」を見せて、「あずにゃんはどうして放課後のティータイムにコーヒーを飲みたくなったのでしょう?」というような質問をすればいい。
馬鹿げている? 確かに、馬鹿げている。しかし今の国語の問題というのは、こういうレベルなのだ。
【 関連項目 】
→ 2013年センター試験・国語は悪問
→ 国語と文学 (次項)
※ 本項の続編。「国語と文学とを区別せよ」という趣旨。
→ 漫画を学校で教えよ
→ http://ameblo.jp/shinzenbicreation/entry-11164974698.html
出題者と同じなのかもね。
こんなのを理解せよと迫られた受験生は、ひどい被害を受けたものだ。
気違い出題者が気違いの文章を読ませて、「気違いを理解できた人だけに正解点を与えます」というわけ。
気違い病院に入院する資格を与える試験。
→ http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2012/01/2011-8767.html
ここには次の記述もある。
> 大学入試には「小説」の問題を出すべきではありません。そして、文学鑑賞や創作は「国語」ではなく「芸術科目」として「音楽」や「美術」や「書道」と並べてやるべきです。
ごもっとも。私の次項の主張に重なる。