2013年のセンター試験・国語については、ネット上で議論が渦巻いている。受験生のツイッターには「爆死した」というような声がわんさと湧いていた。掲示板には「困った」という声も湧いた。
→ 小林秀雄がセンター試験に出題されたぞクソッタレがあ!!
その後、「平均点が大幅に下がった」という報道も出た。
→ 小林秀雄のせい? センター試験国語平均点が大幅ダウン
→ 国語の平均点、17点下がり過去最低に 予想外?小林秀雄で苦戦
この惨状について、「現代文の問題に小林秀雄の文章を出すことが好ましくない」という見解も出た。
しかし、小林秀雄の文章ならば、名文であるはずだ。そう思って、私も問題に当たってみた。これだ。
→ 試験問題 (PDF) (キャッシュ) , 正解
確かに名文である。また、問題として正解の唯一性も揺るがない。これを国語の問題としてみるならば、とてもいい問題だとも言える。しかしながら、センター試験としては不適切だ、と断じざるを得ない。では、なぜか?
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ひとことで言えば、この問題は、レベルが高すぎる。東大・文系の問題として出したのならば適切だろうが、一般的な高校生(受験生)向けの問題としては、レベルが高すぎる。これではたいていの受験生が「誤答」となるので、試験としての要件を満たさない。
・ 誰もが零点となる
・ 誰もが満点となる
このようなテストは、テストとしては意味がないのだ。テストというものは、点数が正規分布になるようなものが適切なのであって、今回のように「平均点が大幅に下がる」(ほとんどが誤答だ)というような問題は、問題として失格なのである。
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では、どうしてこうなったのか? その理由は、二つある。
第1に、問題文のレベルが高すぎる。特に、「鶴丸透」の箇所だ。
(鳥の)一羽が、かなり低く下りて来て、頭上を舞った。両翼は強く張られて、風を捕(とら)え、黒い二本の脚は整然と折れている。嘴(くちばし)は延びて、身体に吸われたように、硬い空気の層を割る。私は鶴丸透の発生に立会う想いがした。
これはとても名文だが、平均的な受験生の正しく理解できるレベルを超えている。これをきちんと理解できる受験生は、きわめて優秀な受験生に限られる。はっきり言って、大学生(以上)レベルの文章だ。まるで数学の複素解析や、物理学のシュレーディンガー方程式の問題を出すようなものだ。高校レベルでは理解できなくても仕方ない。
これは、小林秀雄の文そのものにひそむ難点だ。(名文ではあるが、受験問題としてはレベルが高すぎて不適切だ、ということ。)
しかしまあ、この件は、感受性の高い受験生ならば、何とかなるとも言える。素晴らしい名文に触れることの是非も考えると、あながち非難すべきことでもない。設問の一つぐらいが難問であっても、特に非難するには当たらないだろう。
第2に、これが重要だが、設問に罠がある。受験生をあえて引っかけるような、トリックふうの罠がある。それは、次のことだ。
「鶴丸透とは何か、ということが示されていない」
これが致命的に受験生を戸惑わせる。なぜか?
これまでの注釈つき文章から従えば、ここでいきなり「鶴丸透」が出現することはありえない。それゆえ、受験生は戸惑う。はるかにわかりやすい「刀の鐔(つば)にすら、図入りで解説が出ているのだ。だとすれば、ここに「鶴丸透」がいきなり出現することはありえない。それゆえ、受験生は「どこにあったかな?」と問題文を探し回ることになる。そのあとで、「どこにもない」と気づく。そうして戸惑いのうちに、あたふたとしながら、落ち着くことができずに、頭で正解をひねり出そうとする。
ここで、「罠」とは何か? 次のことだ。
「わかりにくい用語には大量に注釈を付けていたこと」
このような注釈は何も付けなければよかった。あるいは、ごく限られたものだけ(象嵌と地鉄だけ)に注釈をして、他の固有名詞には一切、注釈を付けなければよかった。そうすれば、難解なものは難解なまま、単に固有名詞として受け入れて、その意味は前後から漠然と推察しただろう。それならば、「鶴丸透」の箇所であわてふためくこともなかっただろう。
つまり、次の二者択一だ。
・ 注釈を大量に付けたりしない。
・ 注釈を付けるならば、「鶴丸透」にも注釈を付ける。
後者ならば、次のような図版を付けておけばよかった。
→ 鶴丸透 (画像一覧)
こういう図版を一つ付けておくだけで、受験生は戸惑いを避けることができる。また、図版だけであるから、受験生の文章読解には何ら影響を及ぼさない。
なのに、「図版を一つ付けておく」ということをしなかった。そのせいで、受験生はとんでもなくあわてふためくことになった。文章読解力とはまったく別の理由で、混乱に突き落とされることになった。
これが、設問にひそむ「罠」である。
これを「罠」と呼ぶのは、次のことによる。
「優秀な受験生ほど、『どこかで鶴丸透という用語が既出だったのでは?』と思う。そのせいで戸惑う」
つまり、次の結果をもたらした。
・ 優秀な受験生は、戸惑って、時間を無駄にして、点数が下がる。
・ 馬鹿な受験生は、戸惑わず、時間を無駄にせず、点数が上がる。
つまり、
「利口は低得点で、馬鹿は高得点」
というふうになり、試験の目的とは逆の結果をもたらすからだ。
どうせならば、この設問(問5)は、ない方がよかった。なければ、利口も馬鹿も対等なので、別に弊害はなかった。ところが、この設問があったせいで、「利口は低得点で、馬鹿は高得点」という結果をもたらした。
これほどの悪問はない、とすら言える。
結論。
この問題は、問題文(小林秀雄の文)そのものは、名文であり、悪くなかった。レベルが高すぎるとはいえ、悪くはなかった。
しかしながら、設問はどうしようもなく悪かった。そこには「罠」があったからだ。その罠は、「どうでもいい箇所にはやたらと注釈を付けておいたのに、肝心の箇所だけには必要な注釈(特に図版)がなかった、ということだ。このようなトリックめいた罠があったせいで、多くの受験生は混乱に突き落とされた。
《 付け足し 》
この設問は、国語の問題としては最悪の問題だが、「トンチ」とか「クイズ」とか「なぞなぞ」とか、そういう「引っかけ問題」としてなら、きわめて優秀だとは言える。設問には「注釈をたくさん付ける」という形で、受験生を引っかける罠がひそんでいた。その罠を見抜いた人だけが高得点を取れる……というふうになっていた。
しかし、それはもはや、国語の問題ではない。「トンチ」みたいな問題だ。
第2問について。
第2問は、牧野信一の小説を扱う問題だ。
これは、第1問とは逆の意味でひどい。問題文のレベルがひどすぎるのだ。まともな小説となっていない。日本語としても、著しくレベルの低い文章だ。
「スピンスピンスピン」
なんて、子供の書いた文章じゃないんだから、馬鹿げた話を書かないでほしいものだ。
ま、こういう滅茶苦茶な低レベルな文章を読んで理解できる人もいるかもしれないが、それは、受験生の選抜という目的には適していない。
「標準的な文章をきちんと読める」
というのが、国語の問題の目的であるはずだ。ところがこの問題では、
「イカレた文章をきちんと読める」
というのが、目的となってしまっている。これでは、
・ まともな頭の持主には理解できない
・ イカレた頭の持主には理解できる
というふうになってしまっている。これでは、試験の目的とは、正反対だ。
ま、たとえば、殺人部隊の兵士を募集するために、イカレた文章を読ませて、イカレた文章を理解できるイカレた精神の持主を選抜する……というのが目的なら、まだわかる。
しかしながら、センター試験の目的は、気違いを選抜することではないのだ。
結局、第2問は、試験の目的とは正反対の結果をもたらしている。(イカレた頭の持主ほど点数が高い。)
第1問と第2問をまとめて、総評しよう。
この二つの設問は、結果的に、「まともな受験生は点数が低い」というふうになってしまった。つまり、試験の目的とは正反対の結果をもたらしている。
こんな問題を書いた出題者は、頭が根本的に歪んでいる、とすら言える。
こんなひどい問題を国語の問題として出題した出題は、受験生にお詫びして、頭を刈って坊主頭にするべきだ。その懺悔した姿を YouTube に出すべきだ。
とにかく、ひどい問題にぶつかった受験生には、お悔やみを申し上げる。可哀想に。ひどい目に遭いましたね。大学受験の際には、本来の合格者が不合格となり、本来の不合格者が合格することになる。人生の不条理。
[ 付記 ]
最後にオマケで一言。
国語の問題は、原則、論説文にするべきだ。それも、哲学の抽象的な文章なんかではなく、次のいずれかがいい。
・ 現代文化論
・ 歴史論
これらの分野での論説文が好ましい。それらには客観的な意味伝達があるから、解答も客観的な唯一性が保たれるからだ。
( ※ 哲学の文章は駄目だ。独りよがりの自己満足の文章が多くて、他人への伝達という目的を達していない、ひどい文章が多すぎるからだ。)
一方、小説の心理問題は駄目だ。
「このとき作中人物Aはどんな思いでいたか?」
なんて、絶対に駄目だ。(今回の牧野信一の問題では、そういう設問が出た。)
そもそも、人の心理というものは、客観性が保たれない。「彼はこう思っているだろう」と想像するのはいいが、そこに唯一性があると思ってはならない。「多分そうだろう」というぐらいのことしか言えない。
たとえば、次の文章を見よ。
「太郎はガラスケースに入ったライスカレーの見本を見ながら、にっこりして、よだれを垂らしていた。」
この文章について、「太郎の心理を述べよ」という設問を書くと、たいていは次のことが正解となる。
「太郎はライスカレーを食べたくて仕方なかったので、にっこりして、思わずよだれをこぼしてしまった」
しかし本当にそうとは限らない。実際には、次のことだったかもしれない。
「太郎は先週、みなみちゃんとエッチしたのだが、そのとき、カレーを食べながらエッチした。で、そのときのことを思い出して、ついつい、にっこりしながら、よだれをこぼしてしまった。太郎がこのとき思っていたのは、カレーライスのことじゃなくて、みなみちゃんの裸体であった」
こういうふうに、人の心理というものは、わかりにくいものなのである。「普通はそうだ」ということは成立しても、「必ずそうだ」とまでは言い切れない。心理というものは非常に窺い知れないものなのだ。
なのに、「登場人物の心理はどうであったか」なんて、それは、臨床心理士の問題にはなるかもしれないが、国語の問題にはならない。このような問題を出したという意味で、今回の第2問は失格だ。
また、これは、今回に限ったことではない。あらゆる現代文の文章で「心理はどうか?」と問う問題は、すべて失格なのである。(心理を問うのは、国語の問題になっていない。読解力よりも、別のことをチェックしている。)
【 追記 】
あとで考え直したが、「鐔」の方は、実にひどい悪問だ。その理由は、前にも述べたが、多量の注釈があることだ。
ただ、その理由は、新たに次のことが見つかった。
「本文と注釈を行ったり来たりするので、本文を読むことに専念できない」
このせいで、注釈をいちいち読むような律儀な受験生は、壊滅的な打撃を被ったのだと思える。
実は、注釈なんか無視して、そのまま素直に本文だけを読めば、特に難しいことはない。いろいろと固有名詞が出てくるが、その固有名詞についての知識はまったく必要ない。
「文章中で例示されている固有の一概念だ」
とだけ理解しておけばいい。つまり、
「それは固有名詞だと理解しておいて、いちいち語義を考えない」
というふうにしておけばいい。それで素直に読める。
どうしても注釈しておいた方がいいものは、次の三つだけだ。
・ 鐔
・ 形而上学
・ 象嵌
これらは固有名詞ではない。また、その言葉を知っているのと知っていないのとでは、点数に若干の差が付きそうだ。特に、「鐔」の方は、知っていないと致命的だから、是が非でも解説が必要だ。「形而上学」と「象嵌」は、それほど必要性は高くないが、知っている方が有利だから、注釈はあった方がいい。
一方、それ以外のすべては、注釈は不要である。その意義を知っていようがいまいが、点数にはまったく影響しない。それゆえ、注釈は必要ない。
その反面、注釈をいちいち読むと、本文をスラスラ読めないので、本文の理解に難儀してしまう。つまりここでは、次の区別が生じた。
・ 注釈をいちいち読むと、理解困難となり、点数低下。
・ 注釈を無視すれば、理解が進むので、点数低下なし。
つまり、この大量の注釈は、罠だったのである。
元の小林の原文には、こんな注釈はなかった。それをそのまま読めば、特に難解なところはなかった。ところが出題者が「大量の注釈」という罠を仕掛けたせいで、純情で律儀な受験生ばかりが壊滅的な打撃を被った。一方、頭のいい秀才と、もともとずぼらな凡才は、注釈なんか無視してどんどん読んだので、罠に引っかからずに済んだ。
これほどにも悪質な罠を仕掛けた出題は、センター試験というものを冒涜しているね。ほとんど「センター試験テロ」に近い。被害者は、真面目な受験生だ。
【 関連項目 】
小林秀雄の「鐔」という文章については、下記項目で本を紹介した。
→ 書評ブログ: 小林秀雄の「真贋」「鐔」
──
国語の入試や教育については、下記の各項でも論じた。
→ 2012年のセンター試験・国語は愚問
→ 国語と文学
→ 漫画を学校で教えよ
《 オマケ 》
国語ではなく、世界史と日本史についての学習法。
世界史を学ぶには、漫画で学ぶのが一番いいだろう。ただの断片的知識でなく、生きた物語として理解することができる。
詳しくは、下記項目で。
→ 世界史は漫画で学べ
冗談はさておき、鶴丸透は字面から家紋か鍔につける紋かなんかだろうと予測はつきますが、こんな形をしているとは。
私は鶴丸透の注釈があるかないかで受験者の点数が変わるとは思えません。キーワードが出たか出てないかは注意深く読んだ人なら読み返すまでもなくわかります。文章のレベルが高いというのには同意です。
第二問はイカレた文章というより単純な文章ですね。問題もそれっぽい選択肢が正解でした。
しかし、ハイレベルではあっても、難解というほどじゃない。難解というのは、「無常ということ」という文章だ。あれは本当に難解だ。私がいちいち解題したほどだ。
→ http://nando.seesaa.net/article/111221340.html
それに比べれば、今回の随筆は、難解ということはない。東大文系の受験生(のうちの合格者)ならば、多くが正解に達したと思える。単にハイレベルだっただけだ。
例。
>昨日やった2009のセンター国語が8割越えたので楽勝だと思ったらボロボロでしたマジでボロボロでした
> グッバイ俺の青春!!グッバイ俺の希望!!
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100533438
しかし、誰もが解けないのであれば、別に不利になったわけではない。合否はあくまで相対的な得点で決まり、絶対的な得点で決まりはしないからだ。
ただ、「変な設問なので焦ってしまって頭がスピンスピン」という状態になった人だけは、大いに点数が下がったことになる。
この場合は、国語力の良し悪しで得点が決まったのではなく、おかしな設問に落ち着けるかどうかで得点が決まったことになる。
精神力テストみたいだったですね。やっぱり悪問だ。
私は昔、『作者はこのとき、何を考えていたのでしょうか?』という設問に対して、『〆切!』と元気に答えて国語の先生に殴られたことがあります^^;
でもこれ、現代の作家なら、大体あっているような気がするんですよねえ………
「原稿料」の方がよかったかも。
→ http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100560539
どうやら、次のようになっているようだ。
・ 非常に良くできる人は得点を取っている。
・ 国語がちょっと得意な人は壊滅的で大打撃。
・ 国語が不得意な人はもともと点が取れないが、他人も点が取れないので、並ぶことができて、大いに有利。
・ 国語力がないが勘を働かせた人は小説で高得点。
──
要するに、普通に国語力のある人だけが壊滅的な打撃を受けた。選抜試験としては最悪の部類だろう。
高校生はもう、国語の勉強なんかしないで、勘を働かせる訓練だけした方がいいかもね。勉強なんてやるだけ無駄。……それがセンター試験の教訓かな。
( ※ 皮肉です。ホントに勉強をサボっちゃ駄目だよ。)
→ http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100560539
では、次の例が紹介されている。
> いつも140はいくのに今回は89(−_−;)
これに対して、
> 89点が実力なんだと見つめ直してこれからの私大頑張ってください。
というアドバイスがあるが、これはおかしいですね。報道によると、
> 平均点を見ますと、国語が16.91点低い101.04点
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130207/k10015365451000.html
ということだから、一般的には、そんなに悪化していない。ところが、国語が普通より得意だというレベル(平均120に対して 140)の人だと、140から 89 まで落ちてしまう。まさしく「少し優秀な人に限って壊滅的な打撃をこうむる」というふうになっている。
選抜試験としては、明らかに歪んでいる。
小林秀雄の文が難解なのは脱線が多いからでしょう。主題→脱線(なんとなく主題の補足)→主題というのは日本的な文によく見られる展開ですが、小林秀雄は脱線のクオリティが高いために日頃文章を読まない人にとっては何の話をしているのかわからなくなる。しかしよく読むと感覚的なばらつきを論理的に収束している。大筋の収束だけでなく細かな枝葉の収束も見事です。
そんな風に喜んで読んだ僕も最後の鶴丸透は何なのか分かりませんでした(人かと思った)。鍔の話だから鍔だときちんと導き出せたacl atさんは優秀ですね。
これは文芸を専攻する学生が大学で学ぶべき内容です。小林秀雄の芸術性はその芸術性ゆえに唯我独尊的であるしまたあらゆる解釈を生み出せます。試験向きではない。牧野信一の方は読むに耐えませんでした。失敬。
音楽や美術においても入試で試されるのは専門家としての最低限の技術と知識です。「芸術点」はあくまで加点に過ぎません。最低限の素養がなければどんな芸術性も生かすことは出来ないからです。国語は芸術としての文芸だけではなく、言語としてまず実用でなくてはなりません。芸術とエンターティメントの課題を全学科に向けたセンター試験に出題するのははかなり問題だと思いますね。
その件、本日別項とダブっています。 (^^)
「2012年〜国語〜」と、もう一つ、「文学と国語」というのがあります。
タイムスタンプは 下記 ↓
そうじゃなくて、本文中にちゃんと記述してあります。「透鐔」「透」という箇所。「すかしつば」というルビも振ってあります。
だから「つるまるとおる」じゃなくて「つるまるすかし」です。きちんと読めばわかるはず。
なに言ってるんだ。実際にこの試験受けた自分にとっては腑煮え繰り返る思いだ。胸糞悪い。
センターの現代文がコンスタントに九割取れている人間ならこの問題でもいい点数は取れる。私もそうだった。
中途半端な人間が振るい落とされただけだろ。なに目くじら立ててんの?
悪いのは出題者じゃなくて出来なかった解答者の方だ。
あなたの文章を読むと、あなたの国語力がわかります。例のテストで高得点なのも、さもありなん。
本番では168点と不満の残る結果でした
ひどいもんだよね。
それでも「実力があれば高得点を取れたはず」なんてほざいている知ったかぶりが多い。「悪問で高得点を取れるのはバカだけだ」というのを理解できないようだ。
自分は第一問は現代文としては全く問題ないと思ったのですが、第二問が正直笑わされました。
試験終了後あちこちで泣いていたり、慰め合いしてたり、泣きながら誰かに電話したりで・・・受験生には地獄絵図でしたね〜。
現代文は精神攻撃枠なんでしょうかね。
それにしても連投に加えて人格否定なんて、貴方の人間性もたかが知れていますね。とても短絡的なようで心配です。
さて、結局点数のまま合否は決まったわけですが、貴方の言う賢い人たちは志望校には受からず、私のような馬鹿が試験をパスした事についてはどう思われますか?
そして私のような馬鹿に馬鹿と言われた腹立たしさ、悔しさ、苛立ちなど、是非お聞かせください。
もちろん連投でね。