これだ。
abサンゴ・他
私の情報収集力で、すぐに見つけた。
どうせ1日で売り切れるだろう。買うなら急げ!
※ 大手出版社のものではないという、稀有の例。
将来的にプレミアム価値が付くかもね。
※ 中古品はすでに価格が倍値になっている。
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書籍は 19日発売とのこと。こちらの方が早いか。
Amazonでは予約殺到で、予約ベストセラーの1位。
abさんご
【 追記 】
追加情報。以下、引用。
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《 評者の言葉 》
選評「黒田夏子の『abさんご』が群を抜いて素晴らしかった」
實重重彦
奇蹟というべきだろうか、三百作を超える応募作品の中に、一篇だけ、「ため息」をもらさずに読み終えることなどとてもできない作品がしたたかにまぎれこんでおり、その作品をみたしている言葉遣いと語りの呼吸にはとめどもなく心を動かされた。その文字をたどりながら、何度か「ため息」をもらし、何度か「驚き」、これをおいて当選作などありえようはずもないと確信するのにさしたる時間は必要とされなかった。その確信をもたらしてくれたのは、黒田夏子の「abさんご」である。(以下略)
《 冒頭引用 》
a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,a にもb にもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.
またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.そこで片親とひとり子とが静かに並んでいた.いなくなるはずの者がいなくなって,親と子は当然もどるはずのじょうたいにもどり,さてそれぞれの机でそれぞれの読み書きをつづけるまえのつかのま,だまって充ちたりて夕ばえに染みいられていた.そういう二十ねん三十ねんがあってふしぎはなかったのだが,いなくなるはずの者がいなくなることのとうとうないまま,親は死に,子はさらにかなりの日月をへだててようやく,らせん状の紅い果皮が匂いさざめくおだやかな目ざめへとまさぐりとどくようになれた.ぎゃくにいえば,そうなれたからたちあらわれたゆめだ.
ひきかえせないといういみでなら,もっと早いいつのまくらにただよいからんでもおなじだったろうが,どんな変形をへてでも親と子ふたりでくらす可能性ののこっていたあいだはもちろん,それが死によってかんぜんにうしなわれてもなお,帰着点がにがすぎればたちあらわれてはならないたぐいのゆめがあった.
ゆめの受像者の,三十八ねんもをへだてて死んだふたりの親たちのうち,さきに死んだほうの親のゆめも,ふたりともが死んでしばらくたつまではほとんどたちあらわれなかった.受像者が,あとから死んだほうの親とふたりだけというじょうきょうでつくられたじぶんに淫しきっていて,それいじょうさかのぼった未定などじぶんがじぶんでないからはかかわりもないとかんじていたからか,かかわりがないというよりはむしろ,親ふたりそろっていてのじぶん,きょうだいがあったりするじぶんなど敵でしかないとかんじていたからか.
親がふたりとも死んで,さらに年をへて,朝の帰着点がさざめきでかざられるようになった者が,ゆめの小べやの戸をあけると,さきに死んだほうの親がふとんに寝ていた.寝てはいたがいのちのあやういほど病んでいるというふうではなく,そうだったのか,あけさえすればずっとここにいたのだったかとなっとくした者は,じぶんの長いうかつな思いこみをやすらかにあきれていた.またべつのゆめで,親ふたりと子とがつれだって歩いていた.歩いてはいたが,さきに死んだほうの親がすでに病んでいるともわかっていた.なおるともなおらないともきまっていないところまではひきかえしたということ
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出典は
→ http://www.bungaku.net/wasebun/pdf/WB25WEB.pdf#page=5
【 関連サイト 】
→ 芥川賞「abさんご」がすごいので1回読んでみたほうがいい - NAVER まとめ