闘牛では、牛は赤い布に興奮して角を突き立てる。

画像出典:Wikipedia
本当に、牛は赤い布に興奮するのか?
「それは嘘だ。牛は色盲なんだから、赤い色を理解できるはずがない」
という説がある。
牛の興奮をあおるのに赤い布(ムレータ)が使われているため、牛は赤いものを見ると興奮すると思われがちであるが、牛の目は色を区別できず、実際は色でなく動きで興奮をあおっているのである。この説は有名なので、知っている人も多いだろう。その説を知っているトンデモマニアならば、冒頭の説を見て、
( → Wikipedia )
「牛が赤い色を見るというのはトンデモだ!」
と騒ぎそうだ。
しかし、本当にそうか?
──
実は、「牛は色盲だ」というのは、正しくない。Wikipedia にも別項には次の解説がある。こちらが正しい。
爬虫類と共通の祖先から進化した哺乳類は、はじめはこの4色型色覚をもっていたが、中生代の哺乳類は夜間の活動に適応するため桿体細胞が発達し、昼間活動することが少なかったため4種類あった錐体細胞のうち2種類が失われ紫外線を吸収できなくなり、2色型色覚となった。
実際イヌ、ネコ、ウシ、ウマなどの多くの哺乳類は、2色型色覚を持ち、これらの生物は波長420〜470ナノメートルの青い光を吸収する青錐体と、緑から赤にかけての波長の光に対応した赤錐体しか錐体細胞を持っていない。ゆえに、ヒトでいう赤緑色盲に類似した色世界に生きていることとなる。
( → Wikipedia )
従来、偶蹄目(ウシ、イノシシなど)は色盲とされていたが、現在では 2 色型色覚を持つことが判明している。もっとも、2 色型なので赤から緑にかけての色を見分けるのは難しいようである。つまり、たいていの動物は、色を理解できる。「明暗しかわからない」ということはない。明暗を知るだけの桿体細胞のほか、色を知る錐体細胞が二種類あるのだ。
( → Wikipedia )
ただ、人間のように色を理解できるわけではない。完全な色盲でなく、赤緑色盲である。
見た感じは、こんな感じだ。
→ 色覚異常の人が見た世界がわかる比較画像
( → もうちょっと大きな画像:やや重い )
モノクロではなくて、「青と黄色だけ」の世界。ここでは、赤い布を見ても、「赤」というふうには感じられないだろうが、「青と黄色の世界における真っ黄色」というふうには理解されそうだ。となれば、半分ぐらいは、赤い色を理解できているのである。
では、色ではなく、布の動きに興奮しているのか?
まさか。布の動きぐらいで興奮するはずがない。「布が動いたから興奮する」のではなくて、逆に、「興奮しているから布に突っかかる」のである。見境なく。
ではなぜ、牛は興奮するのか? 人が前もって興奮させているからだ。どうやって? とがったもので刺すことによって。
1.まずつれてきた牛を興奮させるために、馬に乗った人が牛の背中に槍を突き刺します。これは良い解説だ。うまく説明している。
2.その後、突き刺し役の人が何人か出てきて、突進してくる牛をよけながら、針のようなものが着いた棒を牛の背中に突き刺します。これで更に興奮させます。
3.その後、闘牛士が出てきます。闘牛士は突進してくる牛を、ひらりひらりとかわしながら、剣で牛を攻撃します。
( → 知恵袋 )
ともあれ、こうして牛は突き刺されて、興奮する。興奮すると、見境なく攻撃しようとする。そのせいで、目の前にある赤い布(それは黄色っぽく見えるだけかも)に、ひたすら角を突き立てる。
ま、その色には、確かに意義があるはずだ。先の「赤緑色盲の世界」の図でもわかるように、「真っ赤」または「真っ黄色」のものは、かなり目立つ。仮に、茶色とか青色とかだと、あまり目立たないので、そこに突っかかりはしないだろう。かわりに、闘牛士の方に突っかかりそうだ。
「赤い色を見ると興奮するのは、観客の方だ」
という解説もある。それはまあ、妥当だろう。人は血の色を見て興奮するわけだ。
とはいえ、「牛は色なんか認識しない」というのは間違いだし、「牛は布の動きを見て興奮する」というのも間違いだ。牛は闘牛場に入ったときには、もともと興奮している。そして、闘牛士と戯れている間には、ときどき闘牛士が突き刺すから、そのことでいっそう興奮する。
牛を興奮させるものは、布の赤さでもなく、布自体でもなく、闘牛士がもう片手に持っている剣なのである。(その剣に刺された痛みで牛は興奮する。)
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世間では、「この俗説は間違いだ」と解説して、鼻高々になる人々が多い。検索しても、いっぱい見つかる。
→ 「闘牛 興奮 赤」 - Google 検索
しかしながら、「その俗説は間違いだ」と主張する本人の方こそ、実は間違っているのである。そういうことは、けっこうある。
「他人は間違いだ」
と主張すると、自分が利口になった気分になれて、鼻高々になる人がいる。しかし、他人の愚かさをいくら指摘したところで、自分が利口になるわけではない。他人を「トンデモだ」と否定することで自分の優秀さを誇ろうとする人もいるが、実際には自分の愚かさを暴露するだけだ。
他人の愚かさを指摘して得られるものは、自分のサディスティックな精神の満足感だけだ。
まともな人間は、他人の愚かさを知っても、少しも嬉しくはない。それよりは、何か新たな真実を知ったときに、嬉しくなるものだ。

あと、人間に関しては目のセンサーとしての色覚のほかに、生活を送る上での共通認識としての色の学習とか使い方によって共通認識ができあがると個人的に考えています。
私が仕事をしている演出照明の世界では、一般人から見ると異常かキチガイ扱いされるほどの細かい色の識別や共通理解が要求されますが、これは後天的に学習して身につく能力でしょうね。音が聞こえるのと音色を判別できるのはまた違う能力とかと同じことなのかもしれません。
ただ、感じる波長の範囲が狭いので、狭い波長の範囲に対して、広い感じ方をすることになります。
ちなみに、人間の色覚も、ごく限られた範囲(可視光線の範囲)だけであるに留まっていますが、その範囲内で、豊かな色覚があります。
波長の範囲と、色覚の豊かさは、何の関係もありません。