東大が秋入学をめざした。これについて私は反対して、「秋進級」を提唱した。
→ 東京大学の秋入学
→ 東大の秋入学 (続)
→ 東大の秋入学 (その3)
→ 秋入学より秋進級
→ 秋入学より秋進級 2
私の提案のあとで、東京大学は最終的には「秋入学のかわりに秋進級」という形で方針を決めた。
現行の春入学を維持したまま、正規の授業を秋から始める学期スケジュール……おおむね私の提案に沿っているが、細部では改良している点もある。なかなか現実的だ。私としては支持したい。
秋入学移行を巡る学内の反対論に配慮した案で、秋までの半年近くは新入生向けの導入教育を行うという。卒業時期は従来通りの3月となる。
入学後の4〜5月は「フレッシュプログラム」を実施。受験勉強から離れて、大学で何を学ぶかを考えさせる。夏休みは6〜8月とし、海外の著名な研究者や学生を招いた夏季講座「サマープログラム」を開く。希望者は4月から8月末まで、ボランティアや短期留学などをする「ギャップターム(空白期間)」も選択できる。
授業開始は9月。9〜12月、1月中旬〜5月を学期単位とする。最終年次の最後の学期は3月で終わる。授業期間の減少を補うため、週ごとの授業時間数を増やすことも検討されている。
( → 読売新聞 2012年10月24日 )
( ※ ただし、最初の半年がちょっと無駄になるのは、支持できない。最初の半年もきちんと教育した方がいいだろう。また、夏休みが6〜8月というふうに長すぎるのも問題だ。これらの点は支持できない。……といっても、現状も「秋休み」なんてものがあるから、大差はないのかも。受け入れ可能な範囲内かな。)
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さて。朝日新聞・社説が、この方針に反対している。「どういうわけで?」と首をひねって読んでみた。(一部抜粋)
《 秋入学―東大よ、初志を貫け 》呆れた。ここには「秋進級でなく秋進学の方がいい」ということの具体的なメリットは、何一つ示していない。根拠レス。
グローバル化への一歩として評価できる。
しかしながら、東大が1月に発表した当初の構想は、東大だけが変わればいいというような狭い了見ではなかった。
東大だけではやらない。他大学と手を組み、産業界にも春の新卒一括採用の慣行を改めるよう働きかける。国内だけ考えて事足れりとする社会の内向き志向を変えよう。スケールの大きな提案だから注目されたのだ。
修正案は社会の仕組みをいじらずに東大単独でやれる。現実的な分、大学も社会も変わろうとのメッセージは弱まった。
あくまでこれは一里塚。海外で主流の秋入学への全面移行をめざす方針はそのままだと東大はいう。ここで足を止めず、粘り強く初志を貫いてほしい。
( → 朝日・社説 2012-10-27 )
そのかわりに、秋進級を「狭い了見」と批判して、秋進学を「スケールの大きな提案」と肯定している。しかしこれは、論理的な主張ではなくて、ただの感情的な好き嫌いにすぎない。「こっちの方がカッコいいから、こっちにしよう」というだけ。
結局、物事を朝日のオモチャにしている。しかし大学教育というものは朝日のオモチャではないのだ。勝手に遊ぶな。
「秋進級でなく秋進学の方がいい」と主張するなら、ちゃんと論理を立てて、きちんとメリットとデメリットを比較するべきだ。そうすることもできずに、「スケールの大きな提案」だからいい、というような主張は、主張にすらなっていない。
朝日の社説は、物事を論理的に述べるということができていない。単に好き嫌いを書いているだけだ。そんなくだらない論説は、2ちゃんねるにでも書いていろ。有料の紙面で書くべからず。
ただ、逆に言えば、「秋入学」が「秋進級」よりも勝るメリットは、何もない、ということなのかもしれない。だから論理的に示せなかったのだろう。
一方、「秋入学」が「秋進級」よりも劣るデメリットは、たくさんある。移行期の大混乱による、さまざまなコストだ。このコストは、ものすごく大きなコストになる。特に、移行期の学生たちは、一方的に多大な損失をこうむる。可哀想。
一般に、朝日の議論は、「コスト」というものを考えず、単に「理想」だけを追い求める。そういうふうに現実離れした空疎な主張を「書生論議」と呼ぶ。
朝日の社説は、毎度毎度、書生論議だ。
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同じ社説は、次のようにも続く。
残念なことがもう一つある。呆れる。次の二つの主張を同時に書いている。
初めの構想は、合格から入学までの「空白の半年」を使い、ふつうの勉強を離れて海外生活やボランティアなどを原則、全員に経験させるとしていた。そこには「タフな人材を育てる」という理念があった。
修正案では、これが希望者の選択制に後退した。代わりに、大学で学ぶ意味を考える導入的なプログラムを、大学側が用意するという。やらないよりはいいが、お仕着せのメニューでタフな人材が育つだろうか。
それに、春卒業のまま秋始業にすれば、4年分のカリキュラムを3年半で学ぶことになる。そもそも学生の質を高めるのが大きな目標のはずだ。詰め込みに陥っては元も子もない。
「空白の半年は、タフな人材を育てるのに有意義である」
「4年分のカリキュラムを3年半で学ぶのは、詰め込みだ」
前者では「空白の半年」を「有意義だ」と肯定している。
後者では「残りの3年半」を「詰め込みだ」と否定している。
馬鹿じゃなかろうか?
「空白の半年」があれば、残りは3年半になる。4年間という教育の期間があれば、それは当然だ。足し算と引き算ができればわかる。
では、「秋入学」ならば、どうか? 「空白の半年」があると同時に、大学教育は4年間を維持できる。これはうまい案に見えるが、実は、卒業が1年遅れて、5年間を費やすことになる。5年間かけて、「空白の半年」(ギャップターム)と、4年間の教育と、「空白の半年」(卒業後の無駄期間)とがあるわけだ。これは、1年間余分に使って、教育期間を半年だけ延長する、という案だ。壮大な無駄。馬鹿げている。
たぶん朝日は、「秋入学を導入すれば、大学に4年間でなく5年間かかる」ということを理解できていないのだろう。だから、「半年間のギャップタームと、4年間の大学教育の、双方ができる」と浮かれているわけだ。
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結局、朝日は、「物事のコスト」も理解できていないし、「4年と半年間の教育のためには5年間かかる」という事実も理解できていない。小学生レベルの算数すら理解できていない。馬鹿すぎる。単に自分勝手な夢を見ているだけだ。
朝日はそろそろ、社説を廃止するか、論説委員をすべてクビにするか、どっちかにした方がいい。さもないと、小学生にすら、笑われる。
こういうレベルの阿呆が、東大の大学制度について論じるのだから、何をかいわんや。幼稚園児は、幼稚園に留まっているべし。

というのは入学時期を欧米標準にして世界中から留学生を集めるという制度改革趣旨だったからです。
税金使って他国の人間を育てるのが主眼って順序が違うでしょうと。
改革案が変更になったようで取り敢えず良かったです。
しかし半年の無駄ができるのは確かにもったいないですね。
勤勉で効率的な東大生からは不評を買いそうに思えますが、現役東大生はどう思っているのでしょうね。
東大には他大学に例のない進振り制度があるそうですから、進路を決定するためのモラトリアム期間を特に設けなくても良さそうに思えます。
入学前の半年は、何もしないわけではなくて、準備勉強みたいなことをするそうです。
しかし、それは聞いたことのある話だ。そう.あれです。「ゆとり教育」です。たっぷりと時間を与えて、じっくりと考えさせて、考える力を付けさせよう、というもの。しかし現実には、まともな教育は与えられないから、結果的には生徒・学生の能力が低下してしまう。
東大は、半年間の「ゆとり教育」をすることに決まったんですね。何年か十数年すれば、その馬鹿らしさに気づくと思うが、彼らが気づく前に、私がここで指摘しておくことにします。
※ 未来の皆さん、東大の半年間の「ゆとり教育」の馬鹿らしさは、すでにここで指摘してあることを、あとで探し当ててくださいね。
他の大学が、学部内や学科内でしかコース分けをしないのに対して、東大は学部を横断して、それを行なっているだけです。
化学系学科なら、理、工、農、薬、養のどこにでも存在しているから、入学時に選ぶ必要はなく、どれにでも進学可能という制度は全く正しい。
ギャップイヤーが無駄かどうかですが、それを言い出すと、大学教育の大半が無駄ですので、通信制大学でも使って、さっさと卒業するのが一番ましではないでしょうか。
確かに。
なので、半年のゆとり教育で4年のカリキュラムが3年半になっても生徒・学生の能力低下はほとんどない気がします。
もし、最初の半年で「覚える」→「学ぶ」という意識改革が少しでもできるなら、能力はむしろ上がると思います。でも、そこまでは期待できないかな。
それを言い出したら、公教育のすべてが無駄なので、小学から高校までの公教育をすべて全廃して、自習した方がいい、というふうになります。ま、実際、どこかのエリート生徒がすべて家庭教師でやっていましたが。
> 通信制大学でも使って、さっさと卒業するのが一番ましではないでしょうか。
それができるのは意思の強い、ごく一部の人だけです。自分ができるからといって、世間の大衆ができると思うのは、勘違い。それができる人だけがやればいい。
一般的に言えば、公教育はひどいけれど、クラスメートの存在がすごく大きい。一人で勉強している限りでは、クラスメートとの交遊がないので、人間としてひどいことになりますね。教育制度の一番大切なことは、教育そのものではなくて、「ともに学ぶ」仲間の存在。
これが不完全だった生徒が、引きこもりやニートなどになる。最終的には結婚できないまま、子孫を残せずに絶滅する。進化論的には、環境に適合しない絶滅危惧種みたいなもの。
> ギャップイヤーが無駄かどうかですが、それを言い出すと、大学教育の大半が無駄です
論理が逆。ギャップイヤーが無駄なのは教育を受けられないから。大学教育が無駄だと思うのなら、大学教育を受けられないギャップイヤーはかえって好ましいことになる。「4年間すべてをギャップイヤーにすれば」と考えればいい。
つまり、ギャップイヤーの無駄と、「大学教育は無駄」論とは、正反対。水と油。論理が逆。……この二つを同等と思うのは、共産主義と資本主義を同等と見なすようなもの。論理矛盾。
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一般に、学校で学ぶことの意義は、異なる意見と出会うことです。一人で勉強していると、「自分の意見だけが正しい」と思い込んだあげく、独りよがりないびつな見解にとことんこだわるようになります。発想の豊かさもなくなる。自己否定もできなくなる。
社会性がなくなるせいですね。一人で勉強してきたような若者は、どんなに頭が良くても、社会性がないので、企業は採用しないでしょう。下記に参考記事。
→ http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110927
1)「大学教育の大半が無駄」と言ってますが全部無駄とは言ってない。効率が悪いという現状を言っているだけです。
2) 小学校〜高校までの無駄と大学の無駄ではレベルが違うので同じには語れない。高校までの半年の教育機会が無くなったら大変ですが、大学ではそこまで問題にならない。
「通信制大学でも使って、さっさと卒業するのが一番まし」には私は同意しませんが、大学教育をやめた方が良いという趣旨ではないと思いますよ。
http://blogos.com/article/27981/
http://agora-web.jp/archives/799263.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/agora-web.jp/archives/1355133.html
大学教育を受けて、よほど失望したのでしょう。私は何も期待していなかったから、失望もしませんでしたが。
私としては、大学は教育よりも、「人と人との出会いの場」という意味が最大の意義を持つと考えるが。
どちらかというと、私の見解は、「大学教育を改善せよ」です。たとえば、サンデル教授の講義みたいに。
ただ、私の見解としては大学教育の改善ももちろん必要ですが、小・中学校の教育改善のほうがより本質的に必要なことだと考えてます。
「思考力」は一朝一夕には身につかないので、大学からの対応では少し手遅れ。それでもやらないよりましですが。
だって、医学生は、朝から晩まで本を読んでいるだけなんですから。講義には出ない。実習はサボれるだけサボる。学校は何もしてくれないのが一番まし。教育的配慮と称して、学生集めると、それだけ学習時間が減少するのでやめてほしい。
医学教育なんて、自宅でも十分できるんですよ。試験だけ学校に集めてやればいい。何のことはない、放送大学で十分なわけです。
・ 医学生は、朝から晩まで本を読んでいるだけ
・ 講義には出ない。実習はサボれるだけサボる。
講義も実習もあるんでしょ? だったら「講義や実習を受ける」というのが普通であるはず。
「医学生は、朝から晩まで本を読んでいるだけ」
というのは成立しない。
「私(だけ)は、朝から晩まで本を読んでいるだけだった」
ということじゃないの? あくまで例外。そういう人が一部にいるからといって、他のヒットには当てはまらない。
> 医学教育なんて、自宅でも十分できるんですよ。
自分がそうだからといって、他の人の教育を受ける権利を阻害するべきではない。
ついでですけど、
> 朝から晩まで本を読んでいるだけ
なんて、ひどい人生。灰色の青春ですね。哀れを催す。それじゃ女の子と口を利く時間もない。
医学教育というのは、知識を伝授する行為ではなくて、「知識を伝授している」という体裁を取り繕う行為以上のものではないのです。
医科大学が、入学試験以降の一切の教育を放棄しても、国家試験合格率は変わらないと思います。
まあ、もっとも、学校教育に、全く価値がないわけじゃない。業界事情を知るという意味はあるでしょう。
毀誉褒貶激しい人だけど、精神科医の和田秀樹氏は、ほとんど大学に出ないで卒業してしまったので、医学知識はともかく、業界事情に疎くて、卒業後に大変苦労したと著書に書いてました。
http://blog.goo.ne.jp/9605-sak/e/efae2d6eb4359c589dd135a4c6d96d03
1.社会的な環境において社会生活をするため。引きこもりにならないため。
2.恋をするため。恋人をつくまでにはゆかなくとも、ガールフレンドとか、片思いとか、いろいろある。
あと、法科大学院で友達を作るというのは、相当ズレた発想です。友達は、小・中・高・大 の段階で作るべき。法科大学院は、学校というよりは社会であり、そこでは友達云々とは違う。
十代の青春期には友達は大事だが、25歳過ぎのいい年した大人が「友達を作るために学校に通う」なんて、気持ち悪い。
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それより、井上さんの写真らしいものがネットに見えますが、このくらいの顔で医師だったら、すごくモテモテになる条件を満たしています。
ただ一つ、条件からはずれるのは、発想がすごく引きこもり体質なこと。これじゃ、付きあっても、女はみんな逃げますよ。
「格好良くて、頭も良くて、スタイルも顔も合格点だけど、たった一つ、性格が引きこもりふう」
これじゃ、女性はどん引きです。
井上さんには、次のページがお勧めです。
→ http://www.mudainodocument.com/archives/54235616.html
井上さんよりもはるかに条件の悪い人でさえ、性格改造をすることで、モテモテになった。女性が男を選ぶ基準は、性格です。特に、引きこもりでなく、外向的な性格。
これを実戦して、モテモテになりましょう。高給の病院には、美人看護婦がいっぱいいるので、ねらい目ですよ。看護婦は遊び相手として最適……かも。
その話を読んだけど、次の趣旨であるならば、賛同します。
「医学部に行かないで独学ですでに医師国家試験に合格した人ならば、わざわざ医学部で勉強する必要はない。医学部に行くのは、お金の無駄ですね」
その通り。医師国家試験にすでに合格した人は、医学部に行く必要はない。
しかしそれは、別の話。
他の学部はどうかというと、一般に、理系の学部はまともに講義があるようです。文系はそうじゃないらしい。
ま、玉石混淆なのでは? 総じて、玉よりは石がいっぱいあるとは思うが。ただ、教育というのはもともと平均的な人向けにやるんだから、頭のいい人は別に独学すればいいだけの話。
チュートリアル導入以前に、学部長が職員を動員して、専門科目の出席率を調査させたところ、出席を取らない講義で3割、出席を取る講義で6割という、惨憺たる結果が出ました。また、これは講義に出たかどうかという必要条件だけを見たものであり、「講義を聞いているかどうか」は調査されていません。たぶん、ほとんど誰も講義なんて聞いていなかった。
医学部では講義が成立しないという状況があり、教員学生双方のモチベーションの低下がひどく、それを放置することもできないので、チュートリアル形式に移行したのです。しかし、チュートリアルを受けた自分の感想だと、自習の邪魔になっただけでした。弥縫策でしかなかった。