2012年08月13日

◆ 人類の進化(総集編) 2

 人類の進化の全体像を眺めよう。今回はホモサピエンスの歴史。
 (シリーズの 第2回 :一番面白い話。)

 ホモサピエンスの歴史


 話はここからが佳境だ。ホモサピエンスの歴史を見よう。
 実は、その内容は、この一週間ほどのうちに述べたことだ。本項では、それらをまとめる形で、展望する。(新しい情報も多い。)

 ──
  
 初めに、すでに得た図式を書くと、次の通りだ。


            ┏━━━━ ピグミー
            ┣━━━━ コイサン
           ┏┻━━━━ ネグロイド
  初期サピエンス ━┻━┳┳┳━ 北アフリカ
  (エチオピア人?)   ┃┃┗━ 欧州コーカソイド
             ┃┗┳━ 古モンゴロイド
             ┃ ┗━ 新モンゴロイド
             ┗━━━ オーストラロイド


 この図を見ながら、以下の説明を読んでほしい。
 
 ──

 (1) 最初のホモ・サピエンス

awash.png
 最初のホモ・サピエンスは、エチオピアのあたりで誕生した。さまざまな証拠から、そう推定されている。場所は特に、下記が有力だ。
  → アワッシュ川下流域

 さらに、エチオピア南西部の、次の場所も有力だ。
  → トゥルカナ湖 ( Google 地図 )
 200から300万年前、この湖はもっと広く肥沃な湖であり、化石人類の生活の中心であったと考えられている。
( → Wikipedia :トゥルカナ湖

 なお、アワッシュ川の上流域は、トゥルカナ湖に流れ込むオモ川の流域と隣接する。だからこの二つの領域は一体化していると見なしてもいいだろう。右上図の赤丸から左下に斜線が延びているが、この斜線のあるあたりが該当する。それを下図に示す。)

ethiopia2.gif
Google 地図

 これらの地域(エチオピアの北東から南西にかけての地域)では、ホモ・サピエンスだけでなく、さまざまな化石人類が誕生したと考えられる。その理由は、ここだけがアフリカで水の豊かな緑地帯であったからだ。そのまた理由は、大地溝帯だ。
大地溝帯
 アフリカ大陸東部には、インド洋からの湿った空気が流れ込んでくる。しかし大地溝帯周囲の高原地帯がこれを遮るため、高原地帯を抜ける風は湿度を失って乾燥した空気を大陸内部に供給する。これによりアフリカ大陸北部の砂漠地帯や東アフリカから中央アフリカにかけてのサバナ地帯形成の要因の一つになっていると考えられている。
( → Wikipedia : 大地溝帯
 地形的に言って、周囲には高原地帯があり、そのせいで、インド洋からの風を受けて雨を降らせる。その領域は、東アフリカの大地溝帯だけなのだ。そのなかでも特に生命が育ちやすいのが、トゥルカナ湖やアワッシュ川下流域などのエチオピアだった。だからここではさまざまな生物が育った。特に、魚介類が育った。おかげで、それを採集する類人猿が育った。
 太古の類人猿は森林にいた。初期の猿人(ラミダス猿人)もまた森林にいた。しかしアウストラロピテクスは、エチオピア東部のアワッシュ川下流域にいた。こうしてエチオピアの水辺で魚介類を採集しながら、人類の歴史で何度も新種が出現したのだろう。
  → 前項 [ 付記 ]
 その後の原人も、ネアンデルタール人も、エチオピアの水辺で出現したのだろう。そしてついにホモ・サピエンスが出現した。

 最初のホモ・サピエンスは、原ネアンデルタール人から 50万年前に分岐したもので、原ホモ・サピエンスとも言うべきものだ。それはまだ数も圧倒的に少なかった。しかし数十万年をかけて、少しずつ進化していった。そして約 20万年前には大幅な進化をなし遂げており、その数を増やした。だからその化石が残るようになった。
 最初の化石として残っているのは、ホモ・サピエンス・イダルトゥ というものだ。
  → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 4 の (3)
 ホモ・サピエンス・イダルトゥもまた、アワッシュ川中流域で化石が発見された。
  → Wikipedia


 (2) ネグロイドの分岐

 エチオピアで最初のホモ・サピエンスが誕生したあと、およそ 17万年前ごろに、ネグロイドが(亜種として)分岐して、アフリカ南部に進出した。
 さらに(たぶん)ネグロイドから、ピグミー、コイサンなども分岐していった。
  → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 3

 これらの亜種に共通することは、「ネアンデルタール人やデニソワ人とのとの共通遺伝子を失った」ということだ。(失った時点は不明だが、それら全体に共通していることから、分岐の初期に失ったのだろう。つまり、約 16〜17万年前。)
 また、これらの亜種に共通することは、肌が黒いことと、顔がやや平べったくなったことだ。
  → 鼻頬角の違い

 これらの亜種は、アフリカ南部に進出した。そのとき、(魚介類の豊かな)水辺での採集生活を捨てて、狩猟生活に入った。
 すると、狩猟生活の特性から、孤立した小規模な血縁集団をなすようになった。そのせいで、たがいの遺伝子は独自に進化していった。結果的に、約 17万年を経て、その遺伝子は非常に多様性を帯びるようになった。
  → 人類の祖先は黒人か?

 こうして遺伝子に多様性が生じたことは、のちの分子遺伝学者を混乱させることになった。「これほど遺伝子に多様性があるのは、アフリカの黒人が最も初期に誕生したからだろう」というふうに。しかしその推定からは、コーカソイドやモンゴロイドがきわめて新しい時代に誕生したことになるので、遺跡による考古学的な知見に合致しない。かくて矛盾が生じた。さらには「ホモ・サピエンスは、デニソワ人やネアンデルタール人と混血した」という不自然な結論をも導き出した。
 しかし、こういう矛盾は、次の二点によって解消される。
  ・ ネグロイドは、ごく初期に、エチオピア人から分岐した。
  ・ ネグロイドは、孤立した小規模な血縁集団をなしていた。

 ゆえに、この二点が真実であった、と推定される。かくて、ここでも、最古の人類はエチオピアで誕生したことが確認される。

 
 (3) エチオピア人の展開

 エチオピアで誕生したホモ・サピエンスは、南方に展開してネグロイドに分岐するだけでなく、分岐せずに北方にも展開した。では、どういうふうに? 
 すぐに思い浮かぶのは、ナイル川伝いに、エジプトに達することだ。特に、青ナイル。

nile.gif

 しかしながら、青ナイル伝いに北方に移動するのは無理だ。というのは、この地域は、非常に厳しい渓谷であり、谷間伝いに進むのも無理だし、川伝いに進むのも無理だからだ。(滝などがたくさんある。)
  → 人を寄せつけない青ナイル川渓谷の底
  → 青ナイル (画像)
 
 次の記述もある。トゥルカナ湖の北方にあるオモ川の話。
 オモ川(Omo River)は、エチオピアの川。エチオピア南部のオロミア州西部を水源とし、南部諸民族州を通ってトゥルカナ湖へと注ぐ。全長760km。流域全域がエチオピアに属する。
 水源はエチオピア高原の標高2000mの地点にあり、そこから500mのトゥルカナ湖へと注ぐ。標高差が激しいため流れは速く、ココビ滝などいくつもの滝があり、船舶の航行はできない。
( → Wikipedia
 北方には行けない。では、どうしたか? 大地溝帯に沿って、地形のなだらかなところを北東に進んだのである。そして、紅海に達した。(赤丸Aはトゥルカナ湖)

land.gif
Google 地図

 その地形図は、次に見られる。(クリックして拡大)

land2.gif

 このこと(北東に進んで紅海に達したこと)は、実証的に裏付けられている。この地域の人々は、遺伝子的にも言語的にも共通するのだ。
 遺伝子系図(英語版)の手法により、ソマリ族の由来がいくらか判明している。(ただし、その報告はまだ数報に留まっている。)それによると、アフリカの角と呼ばれるアフリカ北東部に住むソマリ族、エチオピア人、エリトリア人は人種的な関連が深く、その他の周辺地域とはやや孤立している。
 世界の人種の中で、アフリカ人と非アフリカ人の遺伝的隔たりは大きい。北東アフリカ人はその中間に位置する。北東アフリカ人は南アフリカ人と遺伝子がかなり異なっているため、人類の歴史の比較的初期の段階で分かれたものと考えられる。
( → Wikipedia
 この説明では、「ネグロイドからエチオピア人が分岐した」というふうに解釈されているが、「エチオピア人からネグロイドが分岐した」という解釈でも、同様にうまく成立することがわかるだろう。
 ともあれ、エチオピア人は、大地溝帯を通って、紅海に達した。その時期は、かなり早くて、13〜15万年前ごろだろう。


 (4) 一度目の出アフリカ

 紅海に到達したあと、しばらくその周辺に留まっていただろうが、やがて、筏や小舟を使って、航海することを覚えただろう。そしてやがては、紅海の海峡を渡っただろう。そこはほんの 30キロほどの海峡だし、途中に島もあるからだ。

land3.gif
Google 地図

 海峡を渡ってアラビア半島へ達したことの証拠はある。それは、石器だ。前出項目でも記したが、ホモ・サピエンスが作った化石が発見された。
 → 100,000年前の石器(しんぶん赤旗)
 → 100,000年前の石器(原論文:英語)
 記事の写真を見ればわかるように、明らかに高度な加工をした打製石器である。ネアンデルタール人も打製石器を作ったことはあるが、それはもっと後の時代になってからのことだ。この時代では、このような打製石器を作ったのはホモ・サピエンスだけだ。だからこれはホモ・サピエンスがこの時代にこの地にいたことの証拠となる。
 
 もう一つ、根拠としては足りないが、次の石器もある。
 → 125,000年前の石器(時事)
 → 125,000年前の石器(英語)
 これもアラビア半島で発見されたもので、ホモ・サピエンスが作ったものだと推定されている。ただ、私の見た判断では、打製石器の加工の度合いが弱い。原人の化石としては高度すぎるが、ネアンデルタール人の化石として不自然とも言えない。だからこれはネアンデルタール人の化石である可能性もある。(この当時、ここにネアンデルタール人が進出したという根拠はないが、可能性はある。)
 この石器は、証拠としてはあやふやなので、この時代にホモ・サピエンスがここに進出したと断定するには、やや弱い。(私見)

 ともあれ、次のようには言える。
 「12万5千年前〜10万年前に、ホモ・サピエンスがアラビア半島に進出していた」

 それはつまり、一度目の出アフリカがこの時期にあった、ということの証拠である。
( ※ 逆に言えば、それまで分子遺伝学で推定されていた6〜7万年前という値は正しくない。分子遺伝学で推定する値は現実の5割強の値になってしまう、という歪みを証明したことになる。)


 (5) 古モンゴロイドの展開

 アラビア半島を渡ったホモ・サピエンスは、さらに南アジアや東南アジアに進出した。さらには、スンダ大陸とサフル大陸を経て、オーストラリアにまで達した。

migrations.jpg
出典:Wikipedia

 そして、この長大な旅の過程で、当初はコーカソイドだったホモ・サピエンスから、オーストラロイドと古モンゴロイドが出現した。彼らは遺伝子的には近い。最初はオーストラロイドが出アフリカをして、次に古モンゴロイドが出アフリカをした。いずれも、次の経路を経て、東南アジアに到達した。
  アフリカの角 → アラビア半島南岸 → インド → 東南アジア

 その後、オーストラロイドは、さらに次の経路を取った。
   → スンダ大陸とサフル大陸 → オーストラリア

 その後、スンダ大陸とサフル大陸が水没して島々になった。だから現在では、オーストラロイドはニューギニアとオーストラリアに残るだけだ。彼らは、見かけでは黒人にちょっと似ているようだが、遺伝子的には古モンゴロイドと大差ないことがわかっている。
 また、他にアメリカ先住民も古モンゴロイドの系列だとわかっているが、遺伝子的にはかなり早期に分岐したらしいので、西アジアからシベリアを経由してアラスカに渡ったのではないか、と推定されている。(東南アジア経由ではない。)

races.gif
出典:Wikipedia

 一度目の出アフリカのあと、その後も出アフリカは継続して何度もなされたはずだ。ただし、同じルートなので、いっぺんと数えていい。また、出アフリカをした人々が、すべて東南アジアに到達したわけではなく、途中で止まったことも多いだろう。その場合、あとから来た人々と混血することになる。したがって、アフリカに近い土地ほど、コーカソイドの血が濃いことになる。
 古モンゴロイドのうち、最も西の方で残っている明瞭な痕跡は、ドラヴィダ人だ。彼らは遺伝子的にも、古モンゴロイドの遺伝子を受け継いでいる。(今日では混血も多いが。)
  → Wikipedia :ドラヴィダ人
 また、言語的にも、ドラヴィダ語は、印欧語(コーカソイド系)とは隔絶しており、アジア系の言語(古モンゴロイド系)と近親性がある。
 なお、ドラヴィダ語は日本語との近縁性もあるが、この件は後述する。

 さて。出アフリカをした人類は、デニソワ人との共通遺伝子を持たない。ただし、メラネシア人(オーストラロイド)はデニソワ人との共通遺伝子を持つ。このことから、次のことが推定される。
 「古モンゴロイドの仲間で、初期のものは、メラネシアやオーストラリアに達した。そのときはまだ、デニソワ人との共通遺伝子を持っていた。その後、(真の)古モンゴロイドがやって来たが、彼らはアフリカ北東部を出発の時点で(または東南アジアに達する途中で)、デニソワ人との共通遺伝子を失った」

 なお、デニソワ人との共通遺伝子は、他の箇所でも失われている。(前述のネグロイド。)
 このように、複数箇所で失われていることから、「デニソワ人との共通遺伝子は、比較的失われやすい遺伝子であった」と見なせるだろう。


           共通遺伝子が消失
   北東部人 ━┳━━┳┳━ 北東部人
         ┃  ┃┗━ コーカソイド
         ┃  ┗┳━ 古モンゴロイド
         ┃   ┗━ 新モンゴロイド
         ┗━━━━━ オーストラロイド

    ※ 北東部人は、アフリカ北東部人の略。

 (6) 二度目の出アフリカ

 5〜6万年前に、二度目の出アフリカがあった。アフリカ北東部にいたコーカソイドが、スエズ地峡を渡ったのだ。さらに、シナイ半島を経て、欧州へ達した。そして 4.2〜 4.4万年前には、イギリスに到達した。

europa.gif
出典:Google 地図

 これは二つの経路があったらしい。
 一つは、バルカン半島を経て、南欧に達する経路。これは(有史時代のノルマン征服を経て)イギリスまで達する。この過程では、メラニン色素を失うことはなかった。だから南欧のコーカソイドは、アフリカ北部のコーカソイドとかなりよく似ている。また、比較的古い形質を残している。
 もう一つは、北欧を経て、イギリスに到達する経路。この過程では、途中で寒地適応をしたので、メラニン色素を失い、肌が白くなり、金髪碧眼などになった。体格も大型化したようだ。(いずれも寒地適応。)
  → Y染色体DNAのハプロタイプ
  → 欧州の Y-DNA のハプログループ (地図)
  → 南欧と Y-DNA

 コーカソイドはこれで打ち止めではない。このあともアフリカ北東部から続々と出アフリカをした人々が続いただろう。ただし、同じルートなので、いっぺんと数えていい。
 なお、あとから来た人にとっては、先住民が増えるほど、その地に進出しにくくなるだろう。だから出アフリカはだんだん減っていったはずだ。また、あとから来た人ほど、先住民との混血が進んだはずだ。とはいえ、古モンゴロイドの場合と違って、どちらもコーカソイドだから、あまり違いは目立たないだろう。せいぜい「メラニン色素が多い」というぐらいの違いでしかない。

 ※ なお、遺伝子で移動の経路を知るのは、ハプログループという概念による。詳しくは → Wikipedia
 ※ 欧州のハプログループについての参考書は:
   → イヴの七人の娘たち




 (7) 新モンゴロイドの出現と展開

 二度目の出アフリカをしたコーカソイドの一部は、アジアに進出して、新モンゴロイドとなった。では、どこで?

 西アジアからモンゴルに至る途中のどこかで、少しずつ変化したのだろうか? その可能性もあるが、私は否定的だ。どちらかというと、モンゴルで一挙に新モンゴロイドが誕生したのだろう。
 その後、新モンゴロイドが騎馬民族として各地を征服したことで、その遺伝子が各地に混ざったのだろう。
 ではなぜ、そう考えるか?

 その理由は、新モンゴロイドの成り立ちだ。
 新モンゴロイドの形質を「寒地適応」と述べる人が多いが、モンゴロイドは「寒地適応」などしていない。「寒地適応」をしたのは、北方に進出したコーカソイドだ。すなわち、次の点だ。
 「メラニン色素を失い、肌が白くなり、金髪碧眼などになった。体格も大型化した」
 これはまさしく寒地適応であり、コーカソイドに見られる。また、同様のことは、シロクマ(ホッキョクグマ)にも見られる。(メラニン色素を失って大型化した。)
  → ホッキョクグマと他のクマの大きさの比較 (図)

 では、新モンゴロイドに起こったのは、何だったか? 肌の色で言えば、古モンゴロイドに近いが、アラビア人の色にも近いから、どちらが先祖だとも言えない。ただ、遺伝子的には、新モンゴロイドは古モンゴロイドの遺伝子を引き継いでいるようだから、アフリカの角を出たあとで、アラビア半島の東岸を経由してカスピ海あたりに北上した古モンゴロイドが先祖だっただろう。
 では、その古モンゴロイドが、モンゴルに進出すると、どうして新モンゴロイドになったのか? それは環境への適合か? いや、もっと遺伝子的な原理がある、と私は推定する。
 それは、「21番染色体の異常」である。このことのせいで、新モンゴロイドは、ダウン症とよく似た形質を帯びるようになった。(似てはいるが、同じではない。)
  → モンゴロイドとダウン症
 ここでは、瞼がどうのこうのというような個々の形質はあまり関係なく、21番染色体にかかわる形質が一挙に変化した。これが新モンゴロイドの進化の特徴だ。(個々の形質を問題とする普通の進化論では扱いがたい。)
 21番染色体の影響の特徴は、いろいろとあるが、顔で言えば、ダウン症に似た顔になることだ。ただし、顔は生存率とはあまり関係ないから、進化には影響しない。
 進化に影響したのは、「手足が短くなる」ということだ。これは次の点で著しい影響を及ぼした。
 「馬に乗る騎馬民族では、体重が軽くなるので、乗馬において非常に有利だった」
 このことは、今日でも競馬の騎手が「小柄だと有利」という形で実証されている。それと同様のことが、騎馬民族では起こった。

kyrgyz.jpg
出典:frickr

 そもそも、新モンゴロイドが誕生した中央アジアは、降水量の少ない草原である。そこでは農耕は不可能だ。かわりに、広い領域で草を少しずつ家畜に食べさせる形で、牧畜が起こった。今日はこの土地で、明日はあの土地で、というふうに移動しながら。
 こういう形で遊牧が続いたが、それは西アジアで出現したあとで、中央アジアにまで拡大していったのだろう。

 【 この箇所削除 → 追記 】
 【 次の説明を追加。(*)まで。 】


 中央アジアから東アジアまで到達した古モンゴロイドの一部は、ベーリング海峡を経て、アメリカ先住民となったようだ。(およそ2万年前。)
 その後、中央アジアから東アジアまで進んだ古モンゴロイドのうちの一部で、新モンゴロイドが出現した。すると、それは小柄であるがゆえに乗馬で有利なので、遊牧の領域をどんどん支配していった。一方、(ポリネシア人のように)もともと大柄だった古モンゴロイドは乗馬には適さないので、新モンゴロイドとの競合に敗れて、新しい領域を奪われていった。
 こうして中央アジアから東アジアに至る草原の地域は、新モンゴロイドによって占められるようになった。そのまま新モンゴロイドの人口が増大していった。ただし新モンゴロイドの一部は、中国の北部に定住して、そこで(遊牧のかわりに)農耕を始めるようになった。そういう農耕民族が、中国の各地に展開していき、中国の古代文明を形成するようになった。( → 文明の形成
 すると、それまで中国で狩猟採集生活をしていた古モンゴロイドは、それまでの領域をしだいに奪われていくようになった。(これは「銃・病原菌・鉄」における、アフリカのコイサン族などの狩猟民族の場合と同様だ。狩猟民族は農耕民族に領域を奪われていく。)
          (*
 こういうふうに新モンゴロイドの拡大という歴史にともなって、古モンゴロイドはどんどん衰退していった。(アフリカの狩猟民族の場合と同様。)
 古モンゴロイドの一部は、太平洋上に追い出されて、オーストロネシア人となった。一部は北方から来た新モンゴロイドと混血して、部分的に遺伝子を残した。
 日本でも同様で、もともといた縄文人(古モンゴロイド)と、新たにやって来た弥生人(新モンゴロイド)とが、混血した。

 なお、古モンゴロイドの系列でも初期のものであるオーストラロイドは、デニソワ人との共通遺伝子をよく残しているが、その後にやって来た古モンゴロイドはデニソワ人との共通遺伝子をほとんど残していない。
 さらに、コーカソイドも、新モンゴロイドも、デニソワ人との共通遺伝子をほとんど残していない。このことから、古モンゴロイドが二度目の出アフリカをする以前に、デニソワ人との共通遺伝子は失われたと推定される。
 参考のため、前出の図を再掲する。


           共通遺伝子が消失
   北東部人 ━┳━━┳┳━ 北東部人
         ┃  ┃┗━ コーカソイド
         ┃  ┗┳━ 古モンゴロイド
         ┃   ┗━ 新モンゴロイド
         ┗━━━━━ オーストラロイド

    ※ 北東部人は、アフリカ北東部人の略。

 なお、新モンゴロイドの展開した経路については、ミトコンドリアやY染色体のハプログループによって推定されている。
 まず、ミトコンドリアによる推定経路は、下図だ。(再掲する。)

migrations.jpg
出典:Wikipedia

 Y染色体による推定経路は、下のリンク先にある。
  → 日本人が持つY染色体DNAのハプロタイプ (地図あり:下記に転載)

ydna.jpg
出典:サイバー大学

 なお、次のページも参考になる。
  → 日本人のハプログループ
 
 【 後日修正の再修正 】


 ユーラシア大陸を北方経由でアメリカ大陸に達した集団は、新モンゴロイドかと思ったが、そうではなくて、古モンゴロイドであった。(うっかりミスで一時的に勘違い。:修正済み。)
 新モンゴロイドについては、「中央アジアから東アジアにかけてのどこかで突発的に誕生したのであろう」というのが、もともとの想定だったが、これを裏付ける遺伝子データがあった。
 我々の発見した蒙古系民族を特徴づけるGm(t)型の生じた時期は、それよりもずっと後の時期であり、今からおよそ1万数千年位前という時期に、点突然変異によって生じたものと考えている。
( → 出典

 このことからも、「新モンゴロイドは比較的新しい時代に突発的に出現した」そして「騎馬民族の進展にともなって広大な領域に展開した」というふうに理解していいだろう。(もともとの記述通り。)
 
 なお、アイヌやエスキモーやアメリカ先住民は、北方の中央アジアやシベリアを経由して、樺太・北海道・アリューシャン列島を伝わって、アラスカに達したようだ。
 このことからすると、北方経由の古モンゴロイドから、新モンゴロイドが突発的に誕生した、と考えると、合理的であるようだ。
 この場合、新モンゴロイドは、コーカソイドから分岐したのではなく、北方の古モンゴロイドから分岐したことになる。(南方の古モンゴロイドから分岐した、という標準説は成立しない。)

( ※ 私は前に「コーカソイドから新モンゴロイドが分岐した」と述べたが、これは間違いだったようだ。コーカソイドから古モンゴロイドが分岐して、さらにそこから新モンゴロイドが分岐した、と考えると合理的だ。)
( ※ その場合、二度目の出アフリカをした集団の一部はもともと古モンゴロイドだったことになる。彼らはアラビア半島から北上して、中央アジアに出たことになる。)


 (8) 日本

 日本にはかなり古くから人類が住んでいた。石器は約 10万年前からある。これは、原人がいた証拠だろう。
 2〜3万年ほど前に、海水面が低下したので、陸地経由で古モンゴロイドがやってきた、という説がある。だが、実は当時、対馬海峡も宗谷海峡も地続きではなかったようだ。それでも、海峡の幅は狭まっていたので、小舟で容易に日本にやって来ることができたようだ。
 そのあとは、採集生活をしていた。縄文人が採集生活をしていたということは、すでに明らかになっている。
  → 縄文人のくらし
  → 縄文人の生活(動画)
 日本という国はとても食糧に満ちている土地なので、いちいち危険な狩猟をする必要はなかったようだ。魚介類や木の実を取るだけで、十分に豊かな食生活を送ることができたようだ。(ただ、貯蔵の問題は、ちょっとあるようだが。)
 最古の土器は、1.6万年前のものだ。実は、つい近年まで、日本の土器は世界最古だということで、「日本は文化が最も早く発達した」というふうに言われていた。
  → 世界最古の土器は、12,700年前に日本で作られた
 ただし現時点では、中国の土器の方が最古となっている。
  → 中国で発見の土器 世界最古か
  
 さて。古来の縄文人が住んでいたあとは、どうなったか? 次の二つが流入したと考えられる。
  ・ 南方からのオーストロネシア人 (黒潮経由)
  ・ 朝鮮半島からの弥生人 (対馬海峡経由)

 そこれらの人々が渡来して混血したのだろう。そのことは遺伝子的にも、ほぼ明らかになっている。先に示したY染色体のハプログループの研究がそれを明らかにする。(再掲)
  → サイバー大学
  → 日本人のハプログループ

 また、日本人の言語も、これらの人々の言語が混合したのだろう。その裏付けはある。
 第1に、文法だ。日本語の文法と韓国語(朝鮮語)の文法は、ほとんど同じだ。このことは、弥生人の言葉が日本語の骨格をなしている、ということを示す。
 第2に、語彙だ。語彙には、ドラヴィダ語との共通性がある。これは大野晋が前に指摘したことで有名だ。(ドラヴィダ語のなかでも、タミル語との共通性が高い。)
 以上のことから、次のように結論できる。
 (1) 日本語の骨格は、弥生人が持ち込んだもので、それは韓国語(朝鮮語)と同じ系列にある。それは新モンゴロイドの持ち込んだものであるから、モンゴル地方に由来するものだ。持ち込んだ時期は、弥生人が渡来した紀元前3世紀。
 (2) 日本語の語彙は、弥生人が持ち込んだ語彙のほかに、縄文人が使っていた語彙もある。それは古モンゴロイドの持ち込んだものであるから、南アジアや東南アジアに由来するものだ。特に、ボートに乗るオーストロネシア人が、南インドや東南アジアから持ち込んだ語彙がある。時期はオーストロネシア人が活発に海洋を渡航した紀元前 3500年から、弥生人が日本を支配する紀元前のころまで。
 それ以前に住んでいた原住民である古モンゴロイドは、言語をあまり発達させていなかったはずだから、その語彙はたぶん失われてしまっただろう。つまり、古モンゴロイドの語彙は、二つの系統があり、一つは失われ、一つは残った。

 ただし、例外がある。それは、アイヌ語だ。
 金田一京助も、…(中略)…アイヌ語がアメリカインディアンの言語などと同じく抱合語であることを発見し、アイヌ語は日本語などの属するウラル・アルタイ語族とはまったく違った語族に属すると断定した。
( → 出典
 これについては、アメリカインディアンの由来について、先に述べたことを参考にするといい。こう述べた。
 「アメリカ先住民も古モンゴロイドの系列だとわかっているが、遺伝子的には早期に分岐したらしいので、どうやら西アジアからシベリアを経由してアラスカに渡ったのではないか、と推定されている。」
 この説に従えば、アイヌ語が日本語から隔絶していることがわかる。それは南方にいる古モンゴロイドとは全く別の、北方の古モンゴロイドから伝わったものなのだ。
 先の図を再掲しよう。

ydna.jpg
出典:サイバー大学

 この図で、シベリア経由でアラスカに向かう流れがある。その流れの一部が、北海道にまで到達した、と考えればいい。

tisima.gif
千島列島とカムチャッカ半島 (出典: Google


 それは次のことで裏付けられる。
 カムチャツカ南端はかつてアイヌ民族の居住地であり、……
( → Wikipedia
 つまり、次のように考えればいい。
 「古モンゴロイドの一部は、(北方の)中央アジアとシベリアを経由して、間宮海峡から樺太伝いに宗谷海峡を渡って、北海道に達した。これがアイヌだ。そのあと、この系統の人々は、カムチャッカ半島からアリューシャン列島を経由して、アラスカに達し、さらに南北アメリカに移った。これがアメリカ先住民だ」
 このことは、次の事実に裏付けられている。
  ・ アイヌ、エスキモー、インディアンの言語的共通性。
  ・ アイヌ、エスキモー、インディアンの遺伝子的共通性。

 遺伝子的共通性については、次の図がある。
  →  (出典(人種間の遺伝子差)

( ※ アメリカ先住民の遺跡については → 参考項目

 
 (9) 結語

 前出の図は、モンゴロイドについての考察が不十分だった。そこで、(7)(8) では、モンゴロイドについての考察を加えた結果、次のことがわかった。
  ・ 古モンゴロイドには、北方系と南方系がある。
  ・ 新モンゴロイドは、北方系の古モンゴロイドから分岐した。


 この二つを考慮して、既出の図を書き換えると、次のようになる。(出アフリカ以後の部分のみ。)


          ↓ 共通遺伝子が消失
   北東部人 ━┳┳┳┳━ 北東部人
         ┃┃┃┗━ コーカソイド
         ┃┃┗┳━ 古モンゴロイド(北方系)
         ┃┃ ┗━ 新モンゴロイド
         ┃┗━━━ 古モンゴロイド(南方系)
         ┗━━━━ オーストラロイド

    ※ 北東部人は、アフリカ北東部人の略。
 
 これが新たに得られた図式だ。
 ともあれ、遺伝子や言語を探ることで、20万年前にエチオピアで誕生した初期人類が、アフリカ北東部やユーラシア大陸の各地を経て、ついに日本にまで達した経路が、かなり細かくわかることになる。
 また、「日本語の由来は?」という大野晋の問題や、「アイヌ語の由来は?」という金田一京助の問題にも、かなりはっきりと答えることができるようになった。
 遺伝子だけでなく、言語や文化を多層的に考察すると、意外な真実が判明してくるものだ。
 


 [ 注記 ]
( ※ 以下は細かな話なので、読まなくてもよい。)

 新モンゴロイドについての説明は、実はあやふやなところがある。それは、アメリカ先住民との関係だ。
 本項の説明では、「21番染色体のせいで新モンゴロイドは小型化した」と説明している。ただし、アメリカ先住民もまた、新モンゴロイドと同様に小型化している。
  → インディアンの人々は我々日本人と殆ど同じ体格です
 これは、「アメリカ先住民もまた騎馬民族だったときに小型化した」というふうに説明できる。ただ、21番染色体では説明できない。
 というわけで、矛盾が生じるというわけではないにせよ、ちょっと不自然なところがある。小柄な体格や四肢の短さは、新モンゴロイドの特徴ではなく、北方系の古モンゴロイドの時点で獲得されたのかもしれない。だが、そうだとすると、「蒙古襞や体毛の薄さが、ダウン症と共通する形質だ」ということが説明しがたい。
 新モンゴロイドを、21番染色体で説明することは合理的なのだが、アメリカ先住民が小柄であることがどうしても引っかかる。この点は将来への課題としたい。

 


 【 追記 】
 以下の文章は、当初の記事の (*) の箇所にあったのですが、間違いだと思うので、本文中から削除しました。ただし参考のために以下に収録しておきます。残骸として。小さな文字で。


 それが紀元前数世紀まで続いたと思える。(この段階ではいまだ古モンゴロイドだった。)
 ところが紀元前数世紀になると、すでにどこかで小規模に誕生していた新モンゴロイドが、騎馬民族という形で侵略を始めた。それは圧倒的な威力を持った。たちまち東アジアから欧州のあたりまでを、大規模に征服するに至った。
 騎馬民族の軍事的な強力さについては、Wikipedia に記述してある。

 騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、その人口に比して極めて大きな軍事力を発揮した。……生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。
( → Wikipedia

 騎馬民族の軍事的な強力さについては、「銃・病原菌・鉄」という本でも解説されている。ただ、それについて私が批判したように、その本には「スペイン人の征服」のことがあるばかりで、「モンゴル民族による征服」のことは記していない。しかし、モンゴル民族による征服こそ、歴史的に圧倒的な影響を及ぼしたのだ。何しろ、欧州だって、征服される寸前だったのだ。(征服されなかったのは、歴史の偶然にすぎない。 → 説明
 これほどにも強力な騎馬民族だが、それが軍事的な有利さを誇ったのは、強大な侵略をなした紀元前数世紀のころらしい。(この時代の文献は残っていないので、はっきりしたことはわからない。そもそも匈奴は文字をもたなかった。)
 紀元前数世紀より前には、たぶん、新モンゴロイドではなくコーカソイドが多かったのだろう。しかし、いったん短小な新モンゴロイドが出現すると、その短小さゆえに、騎馬民族としては圧倒的な威力を発揮して、たちまち中央アジアを制圧した。……私はそう想像する。
 つまり、現在の新モンゴロイドの分布は、歴史的に少しずつ拡張した結果ではなくて、軍事的な侵略の結果なのだ。つまり、中央アジアでは、「人口の総入れ替え」が起こった結果、モンゴル民族が領域を占めるようになったのだ。(有史時代の直前に。)
 そう聞くと、不自然に聞こえるかもしれない。しかし、それと同様のことは、南北アメリカでも起こった。そこでは、もともと定住していた先住民(古モンゴロイド)が、スペイン人による民族虐殺の結果、ほとんど絶滅してしまった。人口は、あとからきた白人や、その奴隷であった黒人によって占められるようになった。
 「銃・病原菌・鉄」という本によると、先住民が激減した理由は、「スペイン人が銃を持っていて、病気への免疫力を持っていたから」ということになる。なるほど、そういう面もあっただろう。しかし、それとは別に、「スペイン人による先住民虐殺」という積極的な政策もあったのだ。

 コンキスタドーレスはマヤ文明、アステカ文明、インカ文明といったアメリカの文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富をスペインにもたらした。この過程で多くのインディオが虐殺され、キリスト教への改宗事業が進み、また、インディオ女性に対する強姦が横行し、……
 スペインは南米侵略以降、暴虐の限りを尽くし、サント・ドミンゴ、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバなどを征服。その先住民およそ100万人を殺すか病死させるか奴隷にした結果、ほとんどが絶滅してしまった。純血は確実に絶滅してしまったため、いまでは白人と黒人で成り立っている。
 スペインはその植民地政策において、アメリカ合衆国・カナダとは比べ物にならない数の先住民を一掃してしまった。生き残った先住民も侵略者である白人と黒人奴隷との混血が進んだ。
( → Wikipedia

 これは歴史にはっきりと残っている侵略行為である。それと同様のことが、モンゴル民族によってもなされたはずだ。
 そして、その結果として、アジアの大部分は新モンゴロイドに制圧された。たとえば、中国はモンゴル民族に征服された。元朝や清朝がそうである。そのせいで、今の中国人はほとんどが新モンゴロイドだし、Y染色体にはモンゴル人由来の遺伝子が多く残っている。(モンゴル人の征服によってモンゴル人のY染色体が大量に流れ込んだ、と推測される。女系のミトコンドリア遺伝子ではそういうことはないので、モンゴル人の女性が中国人男性を襲った、ということはないようだ。)
 元朝や清朝は、中国全体を征服しただけでなく、東南アジア全体も征服した。
  → 東アジアの領土の歴史 (動画)




 【 関連項目 】
  
 → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 1
 → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 2
 → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 3
 → デニソワ人・ネアンデルタール人との混血 4
 → 人類の祖先は黒人か?
 → 人類の祖先は白人だ
 → 人類の進化(総集編) 1

 


【 後日記 】
 
 《 ハプロタイプの研究がある 》

 ハプロタイプの分岐図。
  → http://j.mp/1ly5ikr
 英語版
  → http://en.wikipedia.org/wiki/Human_Y-chromosome_DNA_haplogroup
 分布図
  → http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/World_Map_of_Y-DNA_Haplogroups.png
 Nilotic peoples
  → http://en.wikipedia.org/wiki/Nilotic_peoples
 その翻訳
  →  http://j.mp/1vSQmOj
 マサイ族
  →  http://j.mp/1tZwYhe

 ──

 以上から、意外なことがわかった。
  @ 古モンゴロイド(北方系)と、古モンゴロイド(南方系)は、遺伝子的に遠く隔たっている。[両者を同一グループと見なすのは誤り。]
  A 古モンゴロイド(北方系)は、白人と近い。チベット人や、縄文人や、アメリカインディアンも。[縄文人を古モンゴロイド(南方系)と見なすのは誤り。]
  B チベット人は、古モンゴロイド(北方系)である。[チベット人を新モンゴロイドと見なすのは誤り。]
  C 新モンゴロイドは古モンゴロイド(南方系)から生じた。[新モンゴロイドは古モンゴロイド(北方系)から生じたと見なすのは誤り。]
  D オーストラロイドは、遺伝子的には古モンゴロイド(北方系)に近い。[かなり孤絶している、と見なした本項は誤り。]

 ──

 新モンゴロイドの位置づけは、本項ではうまくできていなかったのだが、ハプロタイプの研究からは、かなり明らかになってきたと言えるだろう。(上のC)
 他の@ABは、意外ではあるが、本項とは矛盾しない。
 Cは、本項とはいくらか矛盾する。
 Dは、本項の見解が誤っていたということになる。
 以上の線に沿って、本項を少し修正した方がいいようだ。(書き直すのは面倒なので、今はやらないが。) 

 ※ ただ、修正は必要でも、根本的に狂っているというわけではないようだ。オーストラロイドと北方系モンゴロイドは古いので、これらはかなり古いところでつながっている。その意味で、オーストラロイド以降で共通遺伝子の消失があったと見なすのは、間違いとは言えない。


 ──

 なお、参考のため、Wikipedia(英語版) の図を掲載しておく。(クリックして拡大)


Y-DNA_Haplogroups.png




 【 関連項目 】

 その後、新たな情報を得て、書き直すような形で、新項目を書きました。
  → 人類の移動 2
 ぜひお読みください。
posted by 管理人 at 21:28 | Comment(10) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
興味深い壮大な内容でした。
楽しく読ませていただき、オリンピックの選手達を仮説を元に見比べてしまいました。
関連項目を含め、実証されると良いですね。
大地溝帯、騎馬民族とモンゴリアン(他の章で述べられていたかと)そして日本語にまで発展するとは思いませんでした。
おつかれさまでした。
Posted by 京都の人 at 2012年08月13日 23:08
記述を一時変更しました。しかしその後、また元に戻しました。ついでに説明を少し補充しました。
 箇所は、(8)の直前です。
Posted by 管理人 at 2012年08月18日 19:36
(8) の後半を書き換えました。アイヌなどの話。
  ※ アラスカに渡る経路を書き換えました。
Posted by 管理人 at 2012年08月19日 10:52
(8) の後半をまた書き換えました。
 アイヌの経路ですが、日本から出たあと(アラスカに達するまで)はすでに書き換えていましたが、日本に来る前を「北方のユーラシア大陸経由」というふうに書き換えました。
Posted by 管理人 at 2012年08月19日 15:25
(7) の一部を書き換えました。旧稿・新稿・加筆分を列挙します。
 ──

《 旧稿 》
 では、新モンゴロイドに起こったのは、何だったか? 肌の色で言えば、古モンゴロイドに近いが、アラビア人の色にも近いから、どちらが先祖だとも言えない。ただ、遺伝子的には、新モンゴロイドは古モンゴロイドの遺伝子を引き継いでいないから、アラビア人あたりが先祖だっただろう。
 では、そのアラビア人あたりのコーカソイドが、モンゴルに進出すると、どうして新モンゴロイドになったのか? 

《 新稿 》
 では、新モンゴロイドに起こったのは、何だったか? 肌の色で言えば、古モンゴロイドに近いが、アラビア人の色にも近いから、どちらが先祖だとも言えない。ただ、遺伝子的には、新モンゴロイドは古モンゴロイドの遺伝子を引き継いでいるようだから、スエズ地峡を出たあとでアラビア半島を経由してカスピ海あたりに北上した古モンゴロイドあたりが先祖だっただろう。
 では、その古モンゴロイドが、モンゴルに進出すると、どうして新モンゴロイドになったのか? 

《 加筆 》
( ※ 私は前に「コーカソイドから新モンゴロイドが分岐した」と述べたが、これは間違いだったようだ。コーカソイドから古モンゴロイドが分岐して、さらにそこから新モンゴロイドが分岐した、と考えると合理的だ。)
( ※ その場合、二度目の出アフリカをした集団の一部はもともと古モンゴロイドだったことになる。彼らはアラビア半島から北上して、中央アジアに出たことになる。)
( ※ ただ、図式を書き換える必要はない。コーカソイドから新モンゴロイドに分岐する図式に置いて、途中に「北方系の古モンゴロイド」というのを差し挟めばいいだけだ。)
Posted by 管理人 at 2012年08月19日 17:56
最後の  (9) 結語 の箇所に、新しい図式を書き加えました。
( ※ 出アフリカ後の図式を修正した、新しい図式。)
Posted by 管理人 at 2012年08月19日 19:12

>これは二つの経路があったらしい。
>一つは、バルカン半島を経て、南欧に達する経路。
>これは(有史時代のノルマン征服を経て)イギリスまで達する。
(中略)
>もう一つは、北欧を経て、イギリスに到達する経路。
>この過程では、途中で寒地適応をしたので、メラニン色素を失い、肌が白くなり、金髪碧眼などになった。
>体格も大型化したようだ。(いずれも寒地適応。)

「ノルマン征服」において,イングランドを征服したノルマンディー公国は,
北欧のヴァイキング(ノルマン人)の建てた国ですので,上記の分類ですと
「北欧を経て、イギリスに到達する経路」に含まれるかと存じます。



>たとえば、中国はモンゴル民族に征服された。元朝や清朝がそうである。

清朝は,モンゴル族ではなく,遊牧騎馬民族ではない女真族(満州族)が建てた王朝かと存じます。


>そして、その結果として、アジアの大部分は新モンゴロイドに制圧された。
>たとえば、中国はモンゴル民族に征服された。元朝や清朝がそうである。
>そのせいで、今の中国人はほとんどが新モンゴロイドだし、Y染色体にはモンゴル人由来の遺伝子が多く残っている。
>(モンゴル人の征服によってモンゴル人のY染色体が大量に流れ込んだ、と推測される。
>女系のミトコンドリア遺伝子ではそういうことはないので、モンゴル人の女性が中国人男性を襲った、
>ということはないようだ。)

上記の御記述の前後の部分は,
「文明の形成」
http://openblog.meblog.biz/article/10995829.html
でコメント欄の御指摘を受けて修正された部分を鑑みてお読みすべきでしょうか。
Posted by 検校 at 2012年08月25日 23:50
最後に [ 注記 ] と 【 追記 】 を加筆しました。
 特に読む必要はありませんが、細かな話に興味がある人は読んでもいいでしょう。
Posted by 管理人 at 2012年08月26日 10:01
最後に 【 後日記 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2014年08月29日 07:30
新たな情報を得た。
 Y染色体ハプロタイプと、ミトコンドリアDNA の双方から分岐図をたどる研究の最新版。
  → http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-1.htm
  → http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/2-1.htm

 両者は、おおざっぱには一致しているが、異なる点もある。
 また、前者は研究に応じてしばしば内容がひっくり返るようだ。
 確定情報というほどではないが、おおざっぱにはかなり判明してきたと言えるだろう。
Posted by 管理人 at 2014年08月29日 23:26
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