2012年08月04日

◆ 利己的遺伝子説の「遺伝子」とは?

 ドーキンスは「利己的遺伝子説」というものを唱えた。しかし彼のいう「利己的な遺伝子」というのは、実は、遺伝子ではない。(そこには一種の自己矛盾がある。) ──

 ドーキンスは「利己的遺伝子説」というものを唱えた。そこで言う「利己的な遺伝子」というものは、どんなものだろうか? それを探ろう。

 ドーキンスはしばしばこう言う。
 「遺伝子は不死身だ」
 「遺伝子はダイヤモンドのように永遠だ」

 しかし、これはおかしい。なぜなら、遺伝子というものは、たやすく変化するものだからだ。実際、遺伝子の複写エラーという形の突然変異は、けっこう多い。2万個の遺伝子をもつ生物種が、10万個の個体数をもつのであれば、そこには 200億個の遺伝子があるわけだが、それほどたくさんの遺伝子があれば、そこにはけっこう頻繁に、遺伝子の複写エラーという形の突然変異が見られる。その意味で、
 「遺伝子は不死身だ」
 「遺伝子はダイヤモンドのように永遠だ」
 というドーキンスの説は、成立しない。
 というか、ドーキンスの言う「遺伝子」とは、遺伝子そのものではない。ある抽象的な何ものかだ。
(具体的に言えば、さまざまな変異タイプをもつ遺伝子グループの全体だ。たとえば、HA65R という遺伝子の、さまざまな一塩基の集団だ。それは、ダイヤモンドのように固いものではなく、雲のような曖昧なものだ。)

 ──

 ドーキンスの言葉には矛盾が含まれる。
 しかしながら、ドーキンスが「利己的な遺伝子」という言葉で意味しようとしていることは、基本的には正しいことだ。それは「有利な遺伝子が増える」というふうに、自然淘汰説を遺伝子レベルで述べているにすぎないからだ。
 では、そうだとしたら、上記の矛盾(食い違い)は、どこから生じたのか? 

 ──

 このことを理解するには、ドーキンス説を知るだけでは足りない。むしろ、私の説を知るといい。
  → 利全主義と系統 (生命の本質)

 ここには、「系統」という概念が出てくる。
 「群れ」とか「」とかは、一つの個体を空間的に拡張した概念である。たとえば、あなたがいて、あなたのまわりの空間に同種の仲間がたくさんいる。それが「群れ」や「種」などの概念で示される。
 一方、一つの個体を時間的に拡張した概念もある。たとえば、あなたがいて、あなた以前には親などの「先祖」がいて、あなた以後には子などの「子孫」がいる。先祖と子孫。それらはいずれも、あなたを基準にして、時間的に拡張したものだ。これを「系統」と呼ぼう。
 系統とは、ある個体を基準にして、先祖から子孫に至る集団全体のことである。

( ※ 系統は、自分において最も濃い。子と親では、濃度は 1/2 だ。過去に遠ざかるほど稀薄になるし、未来に遠ざかるほど稀薄になる。)
 このような「系統」という概念を取れば、次のように言える。
 「遺伝子を通じた系統は、永遠である。つまり、ある個体を基準として、過去の方向にも、未来の方向にも、限りなく延びていく。ただし、その濃さは、1世代ごとに半分に稀釈される」(有性生殖の場合。)


 これが、ドーキンスが言おうとしたことの、真実の姿だ。ここでは、永遠で不滅なのは、「系統」だけである。「遺伝子」は永遠でも不滅でもない。というより、「遺伝子」は歴史のなかでどんどん変化していく。たとえば、あなたのもつ遺伝子は、1万年前はともかく、10万年前、100万年前、1000万年前、1億年前には、かなり違った姿であったはずだ。それでも、太古の先祖から、現在のあなたを経て、将来の子孫に至る「系統」は、永遠で不滅なのである。すなわち、変化しながらも、同一性を保っているのである。
 それは川の流れのようなものだ。利根川という川は、源流から河口に達するまでの間に、次々と姿を変えていく。それでも、利根川という同一性を保っている。
 このような意味で、「系統」は永遠で不滅である。ただし、決して「変化しないもの」ではない。むしろ、時間のなかで次々と変化していくものだ。(遺伝子の変化につれて。)

 ※ なお、「永遠で不滅」というのは、文学的な誇張である。実際には、生物は高々数十億年の歴史しか持たない。未来にだって、どれだけ続くか、わかったものではない。百年後には地球上の全生物が滅亡しているかもしれない。特に、数十億年後には、地球は太陽に呑み込まれて消滅してしまうので、そのときには地球上の生物はすべて消滅するはずだ。(地球外に脱出した分を除く。)

 結論。

 「利己的な遺伝子」というとき、そこでいう遺伝子は、普通の意味での遺伝子ではない。たとえば、HA65R という遺伝子でもないし、QXS223 という遺伝子でもないし、こういう遺伝子の全体でもない。では何かというと、「永遠に不変なもの」としての、理念的なものである。一種の理想像だ。
 あるいは、文字で示された遺伝子タイプだ。現実の QXS223 という遺伝子ではなく、QXS223 という遺伝子の塩基配列を文字で示したコードだ。これはただの情報であり、実態をもたぬがゆえに、永遠で不滅である。ただし、ダイヤモンドのように硬質なものではなく、実態が皆無である。
 このような抽象的な「遺伝子」というものを想定した上で、「このような遺伝子の増減のために個体は行動する」という、行動原理を、ドーキンスは提出した。それが「利己的遺伝子説」である。
 つまりは、「利己的遺伝子説」というのは、一つの学説ではなくて、行動を解釈するための「お話」であるにすぎない。「個体は遺伝子の増減のために奉仕していますよ、と考えると、面白い話ができますよ」というわけだ。一種の曲解のようなものだ。



 [ 余談 ]
 こういう「曲解」を文学的に表現すると、擬人化した童話が書ける。たとえば、空から降ってくる雪を一つの生命体のように描写すると、次の同話的な小説が書ける。



雪のひとひら (新潮文庫)


 《 内容紹介 》
 雪のひとひらは、ある冬の日に生まれ、はるばるとこの世界に舞いおりてきました。それから丘を下り、川を流れ、風のまにまにあちこちと旅を続けて、ある日……愛する相手に出会いました。この時、人生の新たな喜びと悲しみが始まったのです。

 ドーキンスの「利己的遺伝子説」も、これと大同小異である。



 [ 付記 ]
 実は、ドーキンスは「生命とは何か?」を正しく理解していない。
 「生命とは、自己複製をめざすものだ」
 というふうに認識するだけだ。だから、「どんどん数を増やしていく永遠の遺伝子」なんていう妄想じみた概念にたどり着く。

 では、正しくは? 生命とは何か? それは、次のシリーズに詳しく記した。
  → カテゴリ「生命とは何か」

 ここでは、結論ふうに、次のように述べている。
 個体は、寿命があり、死を免れない。個体には誕生と死がある。
 一方、種( or 系統)は、長期的に続く。それは、個体における限界としての「死」を乗り越える。

 個体はもともと「死」に制約されている。その個体が、個体の全体としては「死」を乗り越える方法。それが「世代交代」だ。
 一方では「誕生と死」を持ちながら、他方では「誕生と死」を乗り越えた永続性をもつ。個体レベルでは「誕生と死」を持ちながら、全体レベルでは「誕生と死」を乗り越えた永続性をもつ。……ここに生命の特質がある。
( → 生命の本質(総集編)
 個体には寿命がある。個体は永遠ではない。
 それを理解したとき、ドーキンスは思った。「しかし、遺伝子は永遠だぞ。個体よりも遺伝子が主役だぞ」と。
 だが、それは、正しい認識ではない。個体を利用するものとして遺伝子があるのではない。逆だ。寿命に制約された個体が、個体としては有限であっても、全体としては有限を超えた無限になることができる。その全体が「系統」である。そして、「系統」が持続するために利用されるのが、遺伝子だ。
 個体は確かに最優先の原理ではない。しかしながら、遺伝子が最優先の原理なのでもない。最優先の原理は、「寿命に制約された生命が、個々でなく全体としては寿命を乗り越える」という原理である。その原理をもつ一つの全体が、「系統」だ。そして、さまざまな系統の全体が、「生命」だ。
 遺伝子は決して主役ではない。遺伝子は「生命」のために奉仕する何ものかなのだ。そして、遺伝子を用いることで、生命は、(個体の)寿命という制約や、死という限界を、うまく乗り越えることができるのだ。
posted by 管理人 at 19:21 | Comment(0) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
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