これは私の意見ではなく、朝日新聞(投書欄 2012-07-30)に掲載された意見。次の趣旨。
節電で命の危険にさらされることがある。私は視覚障害で、網膜疾患のため、よく見えない。薄暗い場所では身動きが取れない。一番困るのは、駅の暗さだ。特に階段では暗くて、階段の段差がわからず、転落する視覚障害者仲間が増えている。ホームはもっと危険で、足を踏みはずして落下し、電車にはねられた仲間もいる。節電による殺人と言っても過言ではない。なるほど。視覚的な弱者にとっては、節電で薄暗いことは、とても危険なことなのだ。健康な人にはわからないものだが。
……と書いたところで、思い出した。同じような趣旨のことを、私も前に書いたことある。「駅が暗くて不便だ」という趣旨。その部分を再掲すると、次の通り。
JRの階段は、照明が暗すぎる。足元があやふやだ。駅みたいに人の多いところで少量の節電をするなんて、馬鹿げている。電力が不足しているならともなく、生産時間をハズレた夜中には電力がたっぷりと余っているのに。ちっとも節電になっていない。というわけで、駅で節電をするのは、困ったことだし、やるべきではないのだ。(すでに昨年中から指摘したことだが。)
( → 節電の緩和 )
「電力は余っているのに無理に節電する」というのは、次のようなことだ。
・ 暑くて苦しい地下鉄で、冷房をつけない。
・ 駅のエスカレーターの電源を切る。
このせいで、多くの人々がひどい迷惑をこうむっている。駅では、高齢者や、身障者や、ベビーカー利用の母親が困っている。駅の案内板は照明を切っているので、見にくくなっており、お年寄りなどに不便だ。(私も乗り換えで迷ってしまったことがある。見えないわけではないが、目立たないので。)
( → 電力使用制限令は不要 )
だいたい、駅の照明で浮かせることの電力なんて、たかが知れている。その程度の節電のために、危険な場所を増やして、生命を失うハメになるなんて、帳尻がおかしい。
何しろ、その間、パチンコ店では照明の電力を化かすか食っているのだから。 (^^);
→ (画像)パチンコ店の照明
──
そもそも、物事の本質を考えよう。節電は常に必要なわけではない。「限界を突破しないこと」が目的なのだから、ピークのときだけに節電をすればいいのだ。具体的には、次のとき。
「猛暑のピーク日における、日中の午後」
それ以外のときは、ことさら過度に節電をする必要はないのだ。特に、夜間では、すでにクーラーの使用量も減ってきているし、産業用の電力も減ってきている。だからことさら節電をする必要はないのだ。
節電とか省エネとかでは、人々はやたらと目に見えるものばかりを節約しようとする。
・ 節電で …… 目に見えない冷気よりも、目に見える照明。
・ 省エネ …… 目に見えないガソリンよりも、目に見えるレジ袋。
しかし、こういうふうに目に見えるところでばかり節約しようとしても、たいして効果はない。
その一方で、「目に見える」という大切な機能(照明の機能)が損なわれてしまう。
──
どうしてこういうことが起こるのか? それは、人々が、節電や省エネを、一種の「気分」「精神運動」というふうに考えているからだ。
たとえば、エコキャップ運動では、「キャップ回収にエコの意味はありませんが、エコ活動は大切だという啓蒙のためにやって下さい」というふうに推進者が述べている。
呆れた話だ。実効性がないことを認めたあげく、「やめます」というかわりに、「啓蒙のため」という名分で続けようとする。
こういうふうに「啓蒙のため」という形で運動をするのは、昔の日本軍の「兵器はなくても精神力で戦争に勝つ」というのに似ている。日本の伝統なのかも。……科学からは懸け離れた、迷信の信仰みたいなものか。
エコや省エネというものは、今の日本では、そういう「実効性のない精神運動」となってしまっている。その典型がレジ袋有料化だろう。(効果もないのに、エコだと信じて、多大な手間を無駄にする。)
そして、そういう馬鹿げた非科学的な迷信みたいなものがひろがるせいで、社会的な弱者は命の危機に瀕する。
「電車の進行が遅れています。××駅で人身事故があったせいです」
という駅内放送がなされることがある。それはひょっとしたら、節電のせいで死者が出たのかもしれない、と思った方がいい。
今は人々は「いじめで死者が出た」と騒いでいる。一方、「節電で死者が出る」ということにも着目するべきだろう。
[ 余談 ]
非科学的な大衆行動には、次のようなものがある。
・ 過剰な節電
・ レジ袋有料化 / マイバッグ(エコバッグ)
・ エコキャップ
・ 放射線恐怖症 (放射脳)
【 関連項目 】
前に「レジ袋の有料化」で、似た趣旨のことを記述した。以下に転載しよう。
* * * * * *
では、なぜ、こういう皮肉なことが起こるのか? それは、次の図式からわかる。
∪ 3リットルの節約
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2000リットルの消費
3リットルの節約は、赤くて目立つので、そこにばかり目を引かれる。
2000リットルの消費は、灰色で目立たないので、すっかり見失っている。
で、赤くて目立つ方で節約している間に、その陰では、灰色で目立たない方では莫大な消費が無視されて浪費が増える。目立つところばかりに目を奪われて、目立たないところをすっかり見失っている。そちらでいくら無駄をしても、気づかないので、「節約だ、節約だ」と大騒ぎする。
今の発電量はしょぼいですけど、発電所のピークカットという意味では太陽光発電は有効ということでしょうかね?。
http://openblog.meblog.biz/article/5610109.html
http://openblog.meblog.biz/article/9402196.html
ありがとうございます。
結局、餅は餅屋ということで、供給側(専門家)の足をひっぱり過ぎない節度ある規制に留めるというのが一般的には妥当なことが多いということでしょうかね?。
行き先を示す内照式の表示板は全く見えません。
……と思っていたら、数日後に白紙に太い黒文字の表示が上から貼られていました。表示自体はすごく良く見えるようになりました。
なぁんだ、これで良いんじゃないの?
安全のための電気をケチるのは危険ですが、「ちょっとしたオシャレ」のためだけの電気はこの際だからヤメてもいいんじゃないか、とも思いました。
なにしろ、甲子園大会の主催者は「太陽光発電推進、原発無くとも電気は足りる。」が社是の朝日新聞ですので、たとえ計画停電が予想されてでも中継を死守するものと思います。
その初期値ですら健常者むけで、視覚障害を持った人のことまでは考えられていない数値なのに、気分で照明を間引きしたり消灯するのはバカがやることです。完全に体育会系の精神論のようなものです。
そもそも照明の電力なんて、総量で比べてみたら、多少削減しても何の効果もないですし。
採算度外視しても金のためではなく電力のためにやっているなら、新規工事で新しい効率がいい照明設備を再配置するべきです。ただし、どんなに高高率な照明にしたとしても、煌々と照明をつけていると、もったいないから消せという馬鹿げたことを言い出す人物が少なくありません。
まずこういう人種を排除しないとマトモな節電は難しいです。