2012年06月01日

◆ 光子の過去を変える?

 《 物理学の話題です。やや難解。 》
 二重スリットの実験をさらに複雑にしたような実験がある。その実験を見て、「光子の過去を変える?」という疑問が生じている。 ──

 電子の二重スリットの実験は有名だ。ただ、その元になる実験として、光の二重スリットの実験がある。それは「ヤングの実験」と言われる。詳しくは下記。
  → Wikipedia 「ヤングの実験」

「ヤングの実験」

 ここまでは広く知られた話だ。
 一方、近年になって、もうちょっと複雑な実験が知られるようになったらしい。日経 2012/1/21 の記事を引用しよう。
《 光子の過去を変える!? 量子力学の不思議な実験 》
 現代物理学の根幹である量子力学が語るミクロな世界は、常識を超えた不思議な現象にあふれている。とりわけ奇妙なのが、今の現象を測定すると、過去が変化するかのような現象だ。
 壁に開けた2つのスリットに光を当てると、背後のスクリーンに光の縞(しま)模様が映る。2つのスリットを通った光の波が重なって強め合ったり弱め合ったりするためで、光が波であることを示す「ヤングの実験」として、よく教科書に載っている。
 一方で、光は1個2個と数えられる「光子」という粒でできていることが知られている。ヤングの実験で光を極限まで弱めると、光子が1個ずつ2つのスリットに当たるようになる。この光子をスクリーン上で検出してその場所に点を打ち、これを何度も繰り返すと、やはり光の点は縞模様を描く。
 粒である光子の1個1個が干渉を起こすというのも変な話だが、現在では、光子は観測されていない時には空間に広がる波として伝わって干渉を起こし、観測すると粒となって現れると考えられている。
 ではスリットで光子を観測し、光子がどちらを通ったかわかるようにしたらどうなるだろう。2つのスリットにそれぞれ偏光板を置き、右を通った光子と左を通った光子が異なる偏光を持つようにする。光子に目印がつき、どちらを通ったかわかるようにすると、干渉縞は消えてしまう。光子はスリットのところで観測されて粒となり、スリットの一方しか通れなくなるからだ。と、これまで説明されてきた。
 ところが光子の行く手にもう1つ偏光板を置いてすべての光子の偏光をそろえ、どちらを通ってきたかわからなくすると、再び干渉縞が現れる。光子は再び波になったのだろうか? だがスリットはもう通ってしまった後だ。光子が第2の偏光板に当たったとたん、スリットに戻って干渉をやり直すというのだろうか。
 さらに高度で奇妙な実験も行われている。まず互いに連動する光子のペアをたくさん作り、一方の光子を適当に飛ばしてスクリーンに当てた上で、他方の光子の経路を気まぐれに調べたり調べなかったりする。スクリーン上の光子のうち、相手の光子がたまたま調べられなかったものだけを取り出してスクリーンを感光させると、そこには干渉縞ができている。逆に相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えない。相手のどれを調べるかは後から決めたのに、そのことが先に飛んできた光子の過去を書き換える。
 光子の運命はいつ決まるのか。名古屋大学の谷村省吾教授は、光子が観測器に飛び込んだ時ではなく、それよりずっと後、「人間がいるマクロな世界で結果が確認された時」だと見ている。それまでは光子の過去は変更可能だという。
(詳細は 日経サイエンス 2012年3月号
 ──

 簡単な紹介なので、詳しい事情はわからないのだが、いちおう理解した範囲で解釈すれば、この問題は「超球理論」で説明が付く。

 超球理論では、二重スリット実験で途中観測する場合について、次のように説明した。
 次のことが重要だ。
 「途中の真空中では、波としての性質だけがある」
 途中の真空中では、電子は、「粒子でも波でもある」のではなく、「完全に粒子である」わけでもなく、「完全に波である」のだ。
 したがって、途中で電子を観測しようとしても、「粒子としての電子」を観測することはできない。たとえ光を当てても、観測することはできない。
 仮に途中で観測することができるとしたら、「波 → 粒子」という転換が途中で起こった場合である。
( → 超球理論の基本原理
 もっと原理的には、次のように説明した。
 途中で観測した場合と、途中で観測しない場合とでは、最終的な結果が異なるのだ。では、それは、なぜか? 
 コペンハーゲン解釈では、「観測が現実に影響する」というふうになる。つまり、「観測することで、波動関数が収束する」というわけだ。
 二重空間モデルでは、そうではない。かわりに、次のように説明する。
 「途中で観測した場合と、途中で観測しない場合とでは、まったく別の事象なのである。まったく別の事象であるから、まったく別の実験結果が出るのは、当然である」
 では、なぜ、まったく別の事象であるか? それは、途中で、考察対象を変更したからだ。
 途中観測なしの場合には、粒子は出発点にあるだけだった。一方、途中観測ありの場合には、二重スリットのところで、粒子は新たに出現した。──かくて、両者はまったく別々の事象となった。
 要するに、途中観測の有無は、存在確率を変えたのではなくて、事象そのものを変えたのだ。
( → 二重スリットと観測問題(概要)
 以上をまとめて言えば、次のように言える。
 「『途中(スリットの横)で光を観測すると、干渉縞が消える。これは、観測が状態を左右する、ということだ』
 というふうに説明されることが多い。だが、勘違いだ。
 観測した場合と、観測しない場合とは、事象がまったく異なる。どう異なるかというと、次の差だ。
  ・ 光がのままである場合
  ・ 光が粒子になった場合
 前者の場合には、光は波のままであるから、干渉縞が発生する。(当り前だ。)
 後者の場合には、光が波から粒子に転じている。そのように事象が変化してしまっている。観測が事象を変えたのではない。事象が変わったから観測可能になっただけだ。(仮に、波から粒子への転換がなければ、観測しようとしても、観測できない。いくら目を凝らしても、何も見えない。人の意思では現実は変えられない。)」


 比喩的に言えば、こうだ。
 「女性の裸を見たいからといって、いくら観測しようとしても、見る人の意思だけでは観測できない。現実に対象が変化したら(女性が裸になったら)、そのときようやく、女性の裸が観測される」
 これが事実だ。ところが、たいていの物理学者は、次のように勘違いする。
 「女性の裸を見たいと思わないで、目をふさいでいたら、何も見えなかった。しかし、女性の裸を見たいと思って目を凝らしたら、女性の裸を見ることができた。これは観測が現実を左右したということである。観測者の意思が女性を裸にすることができたのだ」
 馬鹿げているが、これが物理学者の現実だ。

 ではどうして、物理学者は、こういうふうに馬鹿げた発想をするか? それは、次のように考えるからだ。
 「量子は光と粒子の二重性をもつ。一つの光子が、粒子性と波動性の双方をもつ」


 しかし、それは成立しない、というのが、超球理論の認識だ。超球理論では、次のように考える。
 「量子は光と粒子の、いずれか一方だけの性質を持つ。粒子のときは粒子だけであり、波のときは波だけである。双方の性質を同時に持つことはない。そして、波から粒子への転換が起こったときだけ、量子は観測される」

  → その説明

 ──
 
 以上が、超球理論の認識だ。
 この認識に従えば、日経の実験については、次のように解釈できそうだ。(二つの実験について逆順に説明する。))

 (1) 光子のペアの実験

 光子のペアの実験は、こうだった。
 まず互いに連動する光子のペアをたくさん作り、一方の光子を適当に飛ばしてスクリーンに当てた上で、他方の光子の経路を気まぐれに調べたり調べなかったりする。スクリーン上の光子のうち、相手の光子がたまたま調べられなかったものだけを取り出してスクリーンを感光させると、そこには干渉縞ができている。逆に相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えない。相手のどれを調べるかは後から決めたのに、そのことが先に飛んできた光子の過去を書き換える。
 これは上述の、原理の話から説明が付く。
 比喩的に言うと、そのトンチンカンは、次のような理屈と同様だ。
 「裸の女性を見ようと思ったのは、後で決めたことだ。なのに、そのことで、裸の女性が観測された。つまり、後で決めた意思によって、女性が裸になるという過去の現象が決まったのだ」
 馬鹿げている。では、正しくは? 
 相手のどれを調べるかは後から決めたことだが、「どれを調べるか」が状態を決定するのではない。「どれを調べることができたか」という状態はもともと決定済みなのだ。裸を見ようと思ったから裸が現れたのではない。もともと裸だったから、「裸を見よう」と思ったときに見ることができただけだ。仮に裸がもともと存在しなかったら、「裸を見よう」と思っても、見ることはできない。ただし、「見ようと思っても見ることはできなかった」という部分を、まるきり数えないでいる。そのせいで、「見ようと思うと、見ることができる」というふうに勘違いしてしまっているのだ。
 そして、それというのも、「量子は粒子性と波動性の双方をもつ」と思い込んでいるからだ。正しくは、そうではない。見ることができるのは、量子が粒子になったときだけだ。量子が波のときには、見ることはできないのだ。女性が裸でないときには、裸を見ることはできないのだ。
 ここを勘違いするから、「どれを調べるかは後から決めたのに、その意思が過去を変える」と思い込んでしまう。自分の勘違いに気づかないまま。
( ※ 論理的な認識が狂っているわけだ。物理学の問題ではなく、論理の問題だ。「光のペア」というよりは「女性の裸」という形で論理を組み立てる方がいい。どっちにしろ、狂った論理の問題だ。)

 もっと詳しい話は、最後の [ 付記 ] に記した。

 ──

 (2) 偏光板の実験

 偏光板の実験は、こうだった。
 ではスリットで光子を観測し、光子がどちらを通ったかわかるようにしたらどうなるだろう。2つのスリットにそれぞれ偏光板を置き、右を通った光子と左を通った光子が異なる偏光を持つようにする。光子に目印がつき、どちらを通ったかわかるようにすると、干渉縞は消えてしまう。光子はスリットのところで観測されて粒となり、スリットの一方しか通れなくなるからだ。と、これまで説明されてきた。
 ところが光子の行く手にもう1つ偏光板を置いてすべての光子の偏光をそろえ、どちらを通ってきたかわからなくすると、再び干渉縞が現れる。光子は再び波になったのだろうか? だがスリットはもう通ってしまった後だ。光子が第2の偏光板に当たったとたん、スリットに戻って干渉をやり直すというのだろうか。
 これは、次のように解釈できる。
 観測されない場合には、光は波のままである。波のままであれば、波には偏光性がある。偏光板を通して、特定の偏光性だけを取れば、波の干渉が弱まるのは当然のことだ。特に、偏光性が90度ずれれば、干渉縞は完全に消えてしまうだろう。
 では、その先にもう1つ偏光板を置いてすべての光子の偏光性をそろえると、どうなるか? いったん消えたものがよみがえることはない。ただし、弱まったもののうち、ごくわずかの共通部分があれば、それだけが新たに生き残るので、干渉縞はふたたび発生する。
 具体的に言おう。
 二つの偏光性が90度 異なれば、干渉縞は完全に消えている。その先でもう一つの偏光板を置いても、干渉縞は消えたままだ。(よみがえらない。)
 二つの偏光性が80度 異なれば、干渉縞はほとんど消えているが、わずかに残っている。ただし干渉縞以外の光が強いので、その干渉縞は目立たない。一方、その先でもう一つの偏光板があると、共通部分が消えるので、弱い干渉縞がふたたび現れる。
( ※ 明るみの量が 100 だとすると、弱い干渉縞は 0〜1 の間で弱い縞模様が生じる。ただし、そのうえに、50ぐらいの明るみが追加されると、50〜51 の間で変動する干渉縞は、ほとんど認識されない。それが認識されるのは、50ぐらいの明るみを消した場合だけだ。それが、もう一つの偏光板の役割だ。 )
  
 この問題は、論理の問題ではなく、物理の実験の処理において、初歩的なミスをしていることになる。
 しかしまあ、「光は粒子性と波動性の双方がある」と思い込んでいると、その間違いには気づきにくいものだ。
 


 [ 付記 ]
 (1) について、詳しく説明しよう。

 「なぜ一方の光子の経路観測の有無によって、干渉縞が出来たり出来なかったりするのか?」
 という疑問がある。この疑問には、次のように答えられる。
 
 「観測の有無によって、干渉縞が出来たり出来なかったりする」
 という認識そのものが間違いだ。それは、電子の二重スリット実験における場合と同様である。
 電子の二重スリット実験の場合も、次のように考える。
 「観測の有無によって、干渉縞が出来たり出来なかったりする」
 しかしそれは正しくない。正しくは、こうだ。
 「波から粒子への転換があった場合のみ、観測が可能となる。『観測するか否か』は関係なく、『観測可能か否か』だけが影響する。そして、『観測可能か否か』とは、『波から粒子への転換があったか否か』ということだ。」

 波から粒子への転換があった場合には、当然ながら、干渉縞は生じない。このとき、人は「観測したから干渉縞が消えた」と勘違いする。しかし本当は、「観測できるようになったから干渉縞が消えた」ということだ。後に生じる「観測するか否か」は関係がなく、前に生じた「観測可能か否か」「波から粒子への転換があったか否か」だけが関係する。なのに人は、「後の観測が影響する」と勘違いしてしまうのだ。

 電子でなく光の二重スリット(ヤングの実験)でも同様である。
 「相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えない」
 というのは事実だが、ここでは、「観測したこと」が影響するのではない。「その光子だけを取り出す」という形で、「波から粒子への転換」を起こしたから、干渉縞が消えるのだ。

 結局、干渉縞が消えるかどうかは、「波から粒子(光子)への転換があったか否か」で決まる。なのに人は、「観測したか否か」で決まる、と勘違いしてしまうのだ。それゆえ、「後の観測が前の事象に影響する」という矛盾に陥る。
 本当は、そうではない。後の観測は、何に対しても影響しない。観測しようがするまいが、そんなことは事実には何の影響も与えない。事実に影響するのは、「量子が観測可能な状態になったか否か」、つまり、「波から粒子への転換があったか否か」である。
 このことを混同すると、矛盾に陥る。
 
 《 注記 》

 ただし、「波から粒子への転換」というのは、超球理論に特有の認識である。
 普通の認識(コペンハーゲン解釈など)では、「量子は常に波であり粒子である」という発想だから、「波から粒子への転換」という認識はありえない。それゆえ、「波から粒子への転換」という認識がないまま、矛盾に落ち込んでしまうのだ。
 それはいわば、「一つの粒子が二つのスリットを同時に通る」という認識と同様の矛盾である。(現実にはそんなことはありえないのだが。なぜならこのときの量子はただの波だからだ。)
posted by 管理人 at 22:08| Comment(11) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最後に [ 付記 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2012年06月02日 21:02
観測しない時どうなってるかは、
もはや科学ではなく哲学ですからねえ、
だって科学ってのは観測した事実で、
その解釈の正当性を判断して、
正当性が認められれば立派な理論として、
認められるわけですから、、、
コペンハーゲン派解釈
多重世界解釈
パイロット波解釈
超球理論(解釈)
全て理論じゃなく解釈となってるのは、
そういうことでしょう、
量子力学は、本当はどうなってるのか?
を問うことはできない理論体系なんですよ。
でも自分はやはり人として、
そこの部分を考えることをやめてはいけないと、
思うのです。
Posted by かん at 2012年06月03日 08:22
超球理論は解釈じゃなくて理論です。他の解釈と違って、モデル(仮説)がありますから。
 そのうち実証されれば、科学として認知されるようになります。
Posted by 管理人 at 2012年06月03日 10:52
何をもって実証されるのでしょうか?
超球理論は、現在の量子力学よりも、
精度良く計算でもできるのですか?
それとも今まで発見されていない未知の現象を、
何か導き出しているのでしょうか?
観測されない部分の理論なんて、
もはや哲学であって科学ではないです。
Posted by かん at 2012年06月03日 11:37
たとえば、本項で示した二重スリット実験やヤングの実験がそうです。これは観測される実験です。それに対して合理的なモデルを提供できます。

 他の解釈では、合理的な説明ができないのに、超球理論では、合理的に説明ができる。
 未知の事象ではなく既知の事象を合理的に説明できれば、それで理論として成立します。
 さらに、未知の事象を予知できるようになれば、完璧です。

 たとえば、特殊相対論がそうです。精度だけならば、ローレンツ収縮で精度よく説明できますが、それは合理的なモデルではない。特殊相対論ならば、合理的なモデルで説明できます。だから特殊相対論は科学としての位置を占めます。ローレンツ収縮はそうではない。

 二重スリット実験は観測される物理学的な実験です。そこで不足しているのは合理的な説明だけです。
 ここで合理的な説明をなすとしたら、それは哲学ではなくて科学です。
 そのことは、特殊相対論が哲学ではなくて科学であるのと同様です。

 ただしまあ、「コペンハーゲン派解釈、多重世界解釈、パイロット波解釈は、科学でなく哲学だ」という点については、同意します。これらには「科学的なモデル」がないですからね。
 超球理論は、そうではありません。
 この両者を混同しないでください。同じ話題を扱うけれども、よってたつ基盤はまったく異なります。
Posted by 管理人 at 2012年06月03日 12:16
なるほど良くわかりました。
しかし、
ディラックの海が、陽電子を予言し、
一般相対論が、水星の近日点移動のズレを、
見事に説明したようなものがないと、
かなり理論として厳しいですね。
特殊相対論の場合、
当時の科学者たちは、ローレンツ変換から導かれる内容をそのまま受け入れることが出来ずに苦し紛れにいろんな小細工を考えたんですが、アインシュタインは、その結果をそのまま受け入れ、 その際、何を根拠にそれを受け入れるか、という哲学的な指針を与えた彼の論文は芸術作品のようですからね、
超球理論がそこまでシンプルで芸術的かと言われると、
正直個人的には?ですねー
パイロット波解釈とどっこいどっこいのような気もします、もちろん前記のような決定的な
ものがあれば、誰も文句のつけようがないでしょうが。
Posted by かん at 2012年06月03日 16:14
「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、
科学史のうえでは、すでに終わっているという人もいますね、淋しいもんですが、
又、
科学は、世界について、
ホントウのことを知ることはできない。

「ホントウのことがわからない」のだから、
科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ。

量子力学が、科学に与えた革命的な影響……。
それは、人類の科学観を
「真理探求の学問」から「道具主義的な学問」へ
と転換させてしまったことである。
と言う人もいます。
道具主義とは、
「科学理論の役割は、結果の予測をすることなんだから、
 予測と結果に整合性さえあれば、理論は何でもいい」
という考え方です。
もちろん私は反対です。
だからいろいろ言っていますが、
超球理論、面白いとは思っています。
Posted by かん at 2012年06月03日 16:41
理論の検証の実験を知りたければ、下記ページの「コンプトン散乱」の箇所を参照。かなり長いが。
  → http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/2slits1.htm
Posted by 管理人 at 2012年06月03日 17:19
> もちろん私は反対です

http://openblog.meblog.biz/article/46841.html
Posted by 管理人 at 2012年06月03日 17:26
改めて説明しようと思ったけれど、初歩的すぎることに気づきました。
 かん さんはどうも、超球理論を 上つら しか理解していないようですね。一部をざっと斜め読みしただけでは? 
 隅から隅まで、全部を読むといいですよ。そうすれば、根本的な誤解をなくせます。

 とりあえず、このシリーズを読んでみて。
  → http://openblog.meblog.biz/article/1385976.html
Posted by 管理人 at 2012年06月03日 21:39
単に受光器があるから観測できるだけでしょう。
粒子性は波動性は側面であって、受光されたからといってどちらかに変化するわけではありません。
Posted by ひゃま at 2012年06月05日 12:23
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