原発推進派だったメルケル首相が、脱原発に転じたのは、なぜか? それを扱う書籍がある。
なぜメルケルは「転向」したのか
書籍紹介から一部引用すると、次の通り。
ライプチヒ大学で物理学を専攻し、理化学中央研究所で研究者として働いた。2000年に野党となっていたCDUの党首となったメルケルは、2005年に社会民主党との大連立政権で首相に就任した。保守政党CDUの方針通り、メルケルは原子力関しては明確な原発推進派だった。ところが、3・11の福島の原発事故を機に原発撤廃へと態度を変える。そして、2011年6月、ドイツ連邦議会は「2022年12月31日までに原発の完全廃止」を決めた。このように、原子力にも詳しい物理学者である秀才が、脱原発に転向した。それは、なぜか?
朝日の書評によると、メルケルは次の趣旨のことを述べているるそうだ。
「日本ほど技術の高い国でも、原発で事故が起こったから」
なるほど、わかりやすい理屈だ。しかし私としては、それは妥当な発想ではない、と思う。そのわけを示す。
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福島で原発事故が起こったのは、原発技術が駄目だったのではない。正確に言えば、原子炉の制御技術が駄目だったのではない。では何が駄目だったかというと、津波対策の土木技術が駄目だったのだ。
さらに言えば、土木技術そのものが低水準だったのではなく、土木技術を使おうともしなかったことが駄目だったのだ。「対策していたのに無効だった」のではなく、「対策をしようともしなかった」ことが駄目だったのだ。要するに、安全意識が欠如していたことが問題なのだ。
とすれば、ここから得られる結論は、「原発をやめる」ことではなくて、「安全意識を高める」ことだ。そもそも、安全意識がなかったことが、この事故の本質なのだ。
なのに、その本質を見失って、安全意識を欠いたまま、「原発をやめれば大丈夫」だなんて思っていると、ひどいことになる。原発をやめても、原発のない地域でふたたび津波や地震の大被害を受ける。たとえば、東京の地下鉄が水没する、というふうな。
とにかく、大切なのは「安全意識」だ。「反原発」ではない。そこを勘違いしてはならない。
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そもそも、「原発で事故が起こったから原発をやめる」なんて言うことを言い出したら、「あらゆる技術を捨てる」というふうになりかねない。
・ 飛行機事故が起こったから、飛行機を捨てる
・ 船舶事故が起こったから、船舶を捨てる
・ 石油事故が起こったから、石油を捨てる
・ ガス事故が起こったから、ガスを捨てる
・ 電気事故が起こったから、電気を捨てる
・ 道路で事故が起こったから、道路を捨てる
・ 牛肉で食中毒が起こったから、牛肉を捨てる
こんなことをやっていたら、文明の利器は何一つ残らなくなる。メルケルの発想は、あまりにも単純すぎるのだ。
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ただ、だからといって「原発は安全だから、原発を今のまま使え」と主張したいわけではない。
原発について言うなら、私は福島の事故が起こる前から「原発の事故の対策をせよ」と唱えていた。また、大地震が起きそうだから、警戒しろ、とも述べていた。なのに人々は大地震が来たときの対策をしようともしなかった。
結局、何よりも大切なのは、安全意識なのだ。それを持った上で、事前の対策をなすべきなのだ。なのに、そうしないで放置していたから、福島の原発事故が起こった。
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結論。
「原発推進」という従来路線も、「脱原発」という新路線も、いずれも間違っている。それらは問題の核心を見失っている。
原発事故が起こったのは、「原発があったから」ではない。「安全意識が欠如していたから」だ。その真実を見失って、「原発があったから」と思うようでは、「原発を捨てればいい」という結論になる。だが、それでは今後も次々と、(原発以外の)似た事故が起こりかねない。そのたびに「××があったから、××を捨てればいい」と思うようでは、いつまでたっても事故は消えない。
真実は、「原発があったから」ではなく、「安全意識がなかったから」である。そのことに気づくべきだ。
( ※ 地震対策も同様だ。政府は「津波対策」ばかりを考えていて、それ以外のことをまるきり失念している。原発では「防潮堤」ばかりを考えていて、「細管破断」のことをまるきり失念している。)
[ 付記 ]
なお、誤解されると困るが、私は「現状でいい」と述べているわけではない。では、どうするべきか?
「脱原発」は必要ないとしても、「脱東電」は必要だ。事故が起こったのは、「東電と原発」という組み合わせのせいだった。これでは安全意識は保てないことが判明した。
となれば、この組み合わせは捨てるべきだ。つまり、東電と原発の、どちらか一方を捨てるしかない。そして、原発を捨てられないのなら、東電を捨てるしかない。
とすれば結論は、「原発を捨てよ」ではなく、「東電を捨てよ」だ。
→ 東京電力をどう処理するか
【 関連サイト 】
最近のニュースを示す。フランスの原発事故。
フランス・パンリー(Penly)の原子力発電所で5日、2件の小規模な火災が発生して原子炉1基が自動停止し、放射能を帯びた冷却水が漏れた。同原発を運営するフランス電力(EDF)が同日発表した。その教訓は? ドイツは「脱原発」のつもりだが、自国だけ脱原発しても無駄だ。フランスに原発があるんだから。そこで事故が起これば、ドイツに放射性物質がやって来る。(韓国の原発事故で、日本に放射性物質が来るのと、同様だ。)
( → AFPBB )
→ 参考画像 (フランスとドイツの地図)
危険厨または放射脳の人々が、
「東日本も西日本も危険だ! 脱原発のドイツに移住すれば安全だ!」
なんて思っても、そうはイカ娘。
> 結局、何よりも大切なのは、安全意識なのだ。
全くその通り。
結局「現状の民主主義」下で日本はもちろん、ドイツでもフランスでも世界中、あなたの言うところの「安全意識」というものがどの国も持ててはいない。
あなたの言うところの「安全意識」というものは、これからも国家単位での方針としてはどの国も持てない可能性が高い。
であるならば、今回の記事はあなたが意図せずして、結局原発を運営するのはどの国にも無理、というお話になってしまっているのではないか?
「安全意識」をもつことが根本的に無理なら、自動車も飛行機もガスも石油も無理です。火を使うことも無理。猿になるしかない。
過った途端、壊滅的な悲劇を生むのが原子力技術です。(反原発派の学者は皆、そう指摘しています)改める「ヒマ」がないのですね。
たまたま「福島」では「この程度」で収まったかもしれない…次はどうなる?
自動車技術や飛行機の技術とは、ワケが違うのですよ。科学的反応を「制御」する温度も一桁二桁違うわけですしね…
まあ、確かにその通り。原発事故の死者はゼロだけど、自動車では毎年1万人で、飛行機もときどき死者をたくさん出す。危険度が全然違いますね。止めるとしたらどちらが優先かは、言わずもがな。
そう言えば、私もときどき自動車に轢かれそうになるな。確かにすごく危険だ。
飛行機は自分の意思で乗らないことができますが、自動車は歩行者の意思では止められません。車道のない生活道路は本来歩行者のためにあるのに、自動車が時速30キロで突っ走るから、危険な目に遭うことはしばしばあります。だから私は「生活道路では自動車は時速10キロ以下にしろ」と言っているんだが、そういう安全意識がないのが自動車関係。
こっちの危険度の方がはるかに高いんだが。安全意識の薄い人々が「原発は危険」なんてことばかり叫んでいるから、今日も全国各地で子供やお年寄りの命が自動車によって奪われる。大人の命も。
原発であれ自動車であれ、人々は私の言う「安全意識を」という声を聞かないんですよね。
原発については「水棺」が私の見解です。書こうと思ったら、書く手間が省けました。
現代人が発電のために石油を燃やし尽くし、人類の子孫は何のエネルギーを使うか考えた事はありますか?
「将来なんか関係ね-よ、今を生きるので精一杯」ですか?そのような人は、人類の将来の意志決定に意見するべきではないです。
私の認識は、将来の本命は核融合発電で、実用化までのつなぎが今の原子力発電だと思っています。
次世代エネルギー実用化より、浅はかな考えの人類の滅亡のほうが先かな。エネルギー問題でなく経済問題で滅亡する可能性も高いですし。