2012年03月08日

◆ 湯浅誠の話の転載

 記事の転載。
 湯浅誠「内閣府参与辞任について」を、転載する。
( ※ 適宜、改行を削除したり、新たに改行を入れた。)
 ──

 内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)


 湯浅 誠
 
 このたび、内閣府参与を辞任することになりましたので、ご報告します。
 辞任は二度目になります。最初は2009年10月26日に任用の辞令交付を受け、2010年3月5日に辞任。その後、同年5月10日に再任用され、今日に至りました。その間、総理大臣は鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3氏に亘りました。また、私の直接のアドバイス先である内閣府の経済財政担当大臣も数多くに及びましたが、経済財政担当大臣付の参与だったのは、私に声をかけた菅直人さんが当時その任にあったからです(参与職は内閣府にしかない)。政策的には厚生労働省の所管事項が多かったです。

● 経緯

 2010年5月に再任用されたのは、同年3月の辞任時に提案していた複合的な困難を抱えた方の生活・就労一体型支援を、当時の鳩山総理が取り組むと決断されたからでした。それは現在、「パーソナル・サポート・サービス(以下PS)」のモデルプロジェクトとして現在25の地域で実施されています。また、内閣府にPS検討委員会が設置され、制度化を検討しています(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kinkyukoyou/suisinteam/、PSのHP → http://ps-service.jp/)。それとは別に、2011年1月18日に菅総理の下に「一人ひとりを包摂する社会」特命チームが発足して、その座長代理になったことから、同年4月1日から内閣官房・社会的包摂推進室長を勤めてきました。社会的包摂は、鳩山総理が「みんなに居場所と出番を」とより平易に言い換えた理念で、社会の変容の中で取りこぼされている人たちの参加を保障するために社会の組み換えを目指すものです。このチームは同年8月10日に「緊急政策提言」をまとめました(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/housetusyakai/dai7/gijisidai.html)。ここまでは、再任用の際の政府との〈契約〉の範囲内だと思いますが、予期していなかった事態もありました。東日本大震災の発生で2011年3月16日に内閣官房に設置された震災ボランティア連携室長を勤めました(同年9月16日に復興対策本部(現・復興庁)に吸収)。

 辞任の直接の経緯としては、以下の要因を挙げられます。
1) PSモデルプロジェクトの第三次募集が終了し、モデルプロジェクトに一定のメドが立ったこと。PSの予算は2012年度まで確保できました。2013年度以降の設計についても、引き続きPS検討委員会委員として関与していきます(「反貧困ネットワーク事務局長」の資格で参加)。2013年度からは、厚生労働省が中心になって制度設計を行っていくのではないかと思います。
2) 社会的包摂推進室の「緊急政策提言」のうち、「ワンストップ相談支援事業」については第三次補正予算通過後、厚生労働省に移管され(所管替え)、2012年3月11日からは、震災一周年を期に全国で「寄り添いホットライン」が始まります(一般社団法人社会的包摂サポートセンターHP → http://279338.jp/)。2012年度予算案にも所要の経費が盛り込まれました。
 よって、再任用時に「課題」として設定した事項(いわば政府との〈契約〉内容)については、一定のメドが立ったものと判断しました。

● 政府への要望
 
 今回の辞任にあたり、最初の辞任時に書いた「内閣府参与辞職にともなう経緯説明と意見表明、今後」(http://www.moyai.net/modules/news/article.php?storyid=244)(2010年3月5日)を読み直しましたが、特に修正する部分はありません。参与という立場の性格が政府との一種の契約関係であり、政府との関係は水平的・部分的なものであること、政府の中にも外にもそれぞれの可能性と限界があること、官民関係はもっと頻繁に「出たり入ったり」できることが望ましいことなどについては、今でも同じように考えています。できたことがわずかであること、できなかったことが多いことも、「隅(コーナー)のないオセロのようなもの」という感慨も、前回同様です。「私は政権にとって外部の人間であり、大きな方針やそれに基づく具体的な課題設定は、政府が決めるべきものです。それが選挙を通じて国民から国政を付託されている政府の責任でもあり、主体性でしょう。そして、その課題について個別具体的に協力するかしないかを判断するのが、私の主体性です」とも書いていました。したがって今回も、課題設定の主体性と責任を持つ政府に、これからのさらなる課題を要望しておきたいと思います。

 鳩山元総理が「みんなに居場所と出番を」と表現した「社会的包摂(Social Inclusion)」は、1990年代以降の社会の劇的な変容の中で重要性を増していますが、政府としての取組は始まったばかりです。社会的包摂は、個々の政策に意味付与する理念であり、ある一つの政策があれば社会的包摂、なければ社会的包摂ではない、というものではありませんから、「何を」というのを個別政策として具体的に名指すことはできません。イメージとしては、現状において社会参加・政治参加に支障のあるさまざまな立場の人たちにとって(この状態を「社会的排除」と呼ぶ)、それが可能となるような条件づくりを多方面(給付やサービス、まちづくりなど)で行い、社会自身がユニバーサル(普遍的)かつ多様性のある状態に変容していくことを後押しする理念だと言えます。
 イギリスではブレア政権時にこの理念が強調され、推進部局として「社会的排除局」が設置されました。そこでは各省の個別政策で社会的包摂理念に沿うものをかき集めて「社会的包摂政策」としてまとめあげ、それを発表することで、さらなる推進を促していったそうです。同時に、ホームレス問題や子どもの貧困問題といった社会的排除の象徴的なテーマを順番に取り上げて、数年単位でそれらの課題に予算を重点配分していきました。その成果が、コネクションズやチルドレン・トラストなどの子ども若者支援体制の充実と2010年に制定された「子どもの貧困対策法」でした。首相のリーダーシップで社会的包摂理念を政府全体として盛り上げつつ、特定の課題に対する集中的取組を進めました。
 私が関わった社会的包摂政策は、社会的排除を受けた人々に生活支援や就労支援(生活・就労一体型支援)を行い、生活再建・就労実現を目的とするものでした。それは「排除を生み出してしまうような社会」の本格的な組み換えを伴うものではなく、組み換えは生活・就労一体型支援を行う中で見えてくる諸課題を社会的・政治的に提言することで、徐々に雰囲気を醸成していくべきもの、と位置づけられています。この「控えめ」なスタンスが、「社会的包摂なんていう言葉は、ほとんど誰も知らない」という日本の現状を反映していることは言うまでもありません。
 日本とイギリスの歴史的経緯には大きく異なる点があるし、社会的包摂理念を日本で強めれば、いまの諸課題がきれいに解決するなどということはありません。イギリスにおいても、福祉国家の挫折とサッチャリズムの後に出てきたブレア政権の「第三の道」路線には従来の左右両派からの批判があります。社会的包摂理念は新自由主義と親和的な側面もあり、福祉国家論者の中には批判的な人も少なくありません。その意味で、社会的包摂の理念や政策には、あらゆる社会構想と同じく、限界も課題もあります。
 ただ、男性正社員片働きモデルを固定化する日本型雇用と、高齢と障害のみを社会保障の対象として、子育て・教育・住宅については高い私費負担を前提にする日本型福祉社会とのセットが支配的で、そこから排除された人々を自己責任論という名の社会的無責任論で片付けてきた日本社会において、社会的包摂理念のもつ意義は大きいと考えています。これからの超少子高齢化・人口減少社会に対応するためにこの理念をより強く打ち出し、より広く社会に浸透させる努力を積み重ねることは政府の責務であり、私としてはそのことを現政権に要望しておきたいと思います。
 国家戦略会議は今年半ばに最終報告書の提出が予定されていますが、そこで社会的包摂の理念が「中間とりまとめ」以上に強調され、政府が総理を筆頭にこの課題に積極的に取り組むことを決め(そのためには、女性や若者の就業率の向上や家計支出の低減(子育て・教育・住宅費用の低減)、子ども(子育て世帯)やひとり親世帯、および日本全体の相対的貧困率の低減、に向けた数値目標の掲げられる必要があると思います)、そのためにまた協力を求めてもらえるのであれば、私も協力したいと思います(社会的包摂の実態調査も2012年度に予定されています。その成果をどう生かすかも今後の課題です)。それが、現在の野田政権であっても、また民主党の次期政権であっても、さらには民主党以外の政権であっても、それは重要ではない。これも、前回の辞任時に書いた通りです。
 
 *    *    *

 基本的には以上ですが、この1年10ヶ月の再任用期間に、民主党政権自身やそれを取り巻く雰囲気が大きく変化したことは確かなように思います。それとは別に、私自身の考えにも変化の生じた部分があります。別々に生じながら、相互に無関係ではないこれらの全体を、整理した文章にすることは現時点ではできませんが、いま感じていることの一端を、蛇足ながら記しておきます。長文になりますので、特に関心のある方のみ、お読みいただければと思います。

● PSとワンストップ相談支援事業の意図

 すでに数多くの指摘がなされていますが、私も現在の状況を、大きくは、高度経済成長期以降の「日本型雇用、日本型福祉社会の崩壊過程」と捉えています。具体的には、現役世代は家族と企業で支え、引退世代は社会保障で支える、というモデルです。そこでは、国が企業に補助金を与えたり、企業の福利厚生を非課税扱いにするなどして企業活動を助け、企業が男性正社員に一家全員分の生活費を渡し、男性正社員が稼いだ生活給で妻子(場合によっては高齢者も)を養う(その代わり、子育て・教育・住宅にかかる費用は私費負担割合が高い)というのが、「ふつう」のあり方とされてきました。
 そのため、男性は学校を卒業するまでは父親に養ってもらい、学校を出たら定年退職までは会社に養ってもらい、社会保障のお世話になるのは退職後の高齢期、女性は結婚するまでは父親に養ってもらい、結婚したら夫に養ってもらい、社会保障のお世話になるのは夫の収入が途絶えた高齢期、というのが「標準的なライフサイクル」とされてきました。妻子を養うに足りる収入を得られない男性は「甲斐性なし」などとも言われました。
 しかし、このような「標準的なライフサイクル」に当てはまらない人たちは高度経済成長期から存在し、その典型が母子家庭であり、日雇い労働者でした。この人たちは国・企業・男性正社員と重なる三つの傘の下にいなかったため、以前から「働いても不安定で貧困」なワーキングプア状態に追い込まれていました。しかし90年代以降、国も企業も余裕なく傘を閉じていった結果として、家族の支える力も弱っていき、傘の外で雨に濡れる個人・世帯が増えていきました。
 典型的には、ホームレス状態にある人々、働きすぎでメンタルヘルスを害した労働者、就職氷河期世代の未婚男女、親が高齢化していった障害者やひきこもりの人たち、リストラされた中高年男性とその家族、貧困家庭に育った子どもたち、家族に支えられなくなった低年金・無年金の高齢者、親の介護や子育て負担から十分な就労機会を持たない人たち、廃業せざるを得なかった自営業者などです。傘の外の世界が多様化していきました。相談現場の実感としては、2000年代前半には、もう誰が相談に来ても驚けない状態になっていました。
 この人たちは、一言でいうと「日本型雇用、日本型福祉社会モデル」で対応されるはずと言われながら、現実には対応されていない人たちです。上記モデルにとって「想定外」の人たちだと言ってもいい(もちろん、本当はとうの昔に想定されるべきだったのですが)。
 そうした傘の外の人たちが多様化し、量的にも増加していく中で、それに対応するさまざまな取組が行われてきました。私自身は90年代半ばからホームレス問題に関与してきましたが、他にもDV被害者問題、自殺対策、ひきこもり、フリーター・ニート、多重債務被害者、外国人労働者、障害者手帳を持たない障害者、貧困家庭の子どもたち(高校中退などを含む)など、多様な問題が、当事者およびそれに気づいた人たちによって認知され、対応されてきました。
 最初は問題そのものを否認していた社会も(否認のために使われた便法が自己責任論でした)、徐々に問題の存在を認めざるを得なくなり、各分野での地道な活動が奏功し、それぞれの分野で一定の成果が蓄積されてきました。具体的には、DV防止法(2001年)、ホームレスの自立支援法(2002年)、自殺対策基本法(2006年)、子ども若者育成支援法(2009年)などです。2000年代は、テーマごとの取組の結果として、各分野において不十分ながらも一定の制度が構築されてきた10年間だったと言えるかと思います。
 ただ、これからの10年を展望する場合に、これらの制度が今までの延長線上で徐々に拡充されていく見通しがあるかというと、私は悲観的です。たとえば、ホームレス、DV、自殺といった各分野が、高齢や障害のような形で制度化に至るかといえば、それは難しいのではないか(高齢や障害分野も、その分野の当事者に言わせれば、まだまだ不十分にしか制度化されていないことは言うまでもありません。しかし、介護保険、地域包括、障害者自立支援施策、作業所・施設に対する基盤整備の補助金など、「何もなかった」分野に比べると、相対的に充実していることは間違いありません。もちろん、しばしば言われるような「恵まれているからもっと削れ」といった含意は一切ありません)。
 理由の第一は財源問題ですが、これについては、単なる財源問題としてではなく、社会の考え方の問題として考察する必要があると思うので、まとめて後述します。
 理由の第二に、単純な量の問題もあります。ホームレス、DV、自殺いずれも被害者になり得る潜在的な人数は多いですが、すでにホームレス状態になった、DV被害から逃げてきた、といった人たちの対応数は、高齢や障害に比べて多くはありません。
 理由の第三は、原因に遡ると重複が目立つということです。ホームレス、DV、自殺等は結果です。そこに至る背景には失業や生活苦、さらに遡れば職場でのトラブルや生れ落ちた家族の貧困などさまざまな要因があり、それらは相互に重なり合っています。ホームレス、DV被害者、自殺念慮者といえば別々の人たちの問題のようですが、働き方の問題、生活苦の問題、住居の問題、多重債務の問題などと生活課題で分ければ、どのカテゴリーの人たちも重複する複数の課題を抱えています。アイデンティティ別で分けることには一定の必然性がありますが、アイデンティティにかかわらず生活者として抱えている課題に着目すれば、むしろ共通点のほうが前面に浮かび上がってきます(それでも「DVとは何か」「自殺のサインをどうキャッチするか」など、啓発事業などで取り扱われるべき独自の領域が残ることは言うまでもありません)。
 繰り返しますが、この人たちには日本型雇用、日本型福祉社会の「想定外」(傘の外)という共通点があります。日本型雇用、日本型福祉社会モデルでは「生活苦に至らなかったはず」だが、現実には至ってしまっている人たちです(ついでに言うと、「無縁」という概念も、基本的には傘の外を指し示す言葉です。日本における「縁」は家族(血縁)・地域(地縁)・会社(社縁)であり、それのない人が「無縁」ですから、その領域は基本的には傘の外と重なります)。ホームレス、DV、自殺等々といった領域は、いわばその中の小集団(サブカテゴリー)です。私はホームレス支援を行ってきましたが、ホームレス状態にある人たちは「日本型雇用、日本型福祉社会で対応されていない人たち全般の中で、特に路上や公園で暮らしているという特徴に着目して括ったサブカテゴリー」という特性をもちます。他も同様です。
 とすると、これまでの各分野の蓄積が今後着々と制度化され、予算が増額されていくという見通しが(少なくとも短期的には)立たない中で、日本型雇用、日本型福祉社会の「想定外」、傘の外、という共通項に着目して、その全体に対応するための仕組みづくりを行っていく必要が出てきます。それは「対象を限定せず、従来の制度では対応されてこなかった人たちに対応する」という形を取ります。なぜなら、傘の外は、何かしら名指して定義した(アイデンティファイした)とたんに、その定義にあてはまらない人たちを生み出してしまうからです。「ひきこもり」を定義したとたんに、事実上ひきこもり状態なのに、その定義にあてはまらない人たちが出てくる。「ホームレス」を定義したとたんに「ネットカフェ難民」はホームレスではなくなる。定義から漏れた人たちのサブカテゴリーを定義し、それに対応する施策を次々と打ち出すのは初期には必要なことですが、それを繰り返していると、施策はさらに細切れになり、制度全体は複雑化していき、ほとんど誰も全体像を理解できない迷路のような構築物ができあがる、となってしまうからです。
 その改善を考えたとき、重大な鍵の一つは民間団体の「縦割り」問題でした。「縦割り」はふつう行政に言われる批判で、それも問題なのですが、実は民間団体も縦割りで、両者は映し鏡のような関係にあります。たとえば、ホームレス分野でも、DVでも自殺対策でも、保護された人がいっとき体を休める一時避難所(シェルター)のようなものは必要で、実際にそれぞれの分野でその必要性が訴えられています。刑余者、家族関係が煮詰まった家庭の子どもたちなど、一時避難所を必要としている人たちはさらに広がります。
 しかし、ホームレス、DV、自殺対策分野の人たちが一緒になってシェルターを建設した、国や地方自治体に申し入れたことがあるかというと、私は聞いたことがありません。各分野は各分野の実情から必要性を訴えていますが、それが傘の外に共通するニーズだという意識は、それぞれに希薄でした。すると、対応する施策も、分野ごとカテゴリーごとに積み上げられていくので、現場では、ホームレス向けのシェルターはあるが、刑余者向けのシェルターはないので、シェルターを必要とする刑余者は一晩路上で過ごして「ホームレス」となったら入所できるとか、DV被害者用のシェルターはあるが、ホームレス女性向けのシェルターはなく、後者が事実として排除されてしまう、といった事態が起こります。
 それぞれのカテゴリーが完全に独立して排他的な関係にあれば、そうしたことも「やむを得ない」と言えるかもしれませんが、その刑余者はもともとホームレス状態にあって無銭飲食を起こしてしまった人だったりするわけです。こうした不都合は、通常「行政の縦割りの弊害」として語られますが、実はその弊害を作っているのは民間団体の縦割りでもあるのです。
 私は、解決すべき課題があるときに、それを誰かの責任にすることで自分は免責されるとする思考が嫌いです(たいていの場合、「誰か」にも自分にも、双方にそれぞれの責任があるものです)。それは真に課題を解決しようとする姿勢ではないと思う。私は基本的に民間団体の人間です。だから、民間の人たちは、行政の縦割りの弊害を指摘する以上に、自分たちの縦割りの問題に敏感であるべきと思います。それは、行政の縦割りの弊害を免責することを意味しません。その意味で、縦割りの弊害打破は、行政とともに民間の課題です。そしてどちらが先にその弊害を打破できるか、競争のようなものだと感じています。
 PSやワンストップ相談支援は、そうした問題意識の下、民間のネットワークづくりを目指して施策化しました。ある地域において、A、B、Cという3つの団体がある。対象者は相互に重なり合う活動をしながら、お互いに接点がなく、それぞれが行政に包括的な協議体をつくってくれと要望する。行政が要望を聞き入れたとして、結果として生まれるのは似たような横断的協議会が3つできる、という事態です。そこで足りないのは行政組織の横の連携であるとともに、民間団体同士の連携です。だから「対象を限定せず、既存の制度では対応されない人たち」への対応を、PSやワンストップ相談支援では謳っています。そして、地域のネットワークを拡大し、漏れのない面的支援が可能になるような官民連携型の支援体制の構築を求めています。
 それぞれの事業が、その展望に対して理想的な活動ができるかといえば、各地に大量の課題があり、言うほど簡単ではありません。しかし、こうした取組を進めていくことが、少しずつ意識と状況を改善していくと私は考えているし、願っています。また、そうした方向に進展していかないと、次の10年の展望がないと感じています。

● 税と財政の規模について

 先ほど、財源の問題に触れました。端的に言って、私は税の問題をもっと簡単に考えていました。「なんとかしようとすれば、なんとかなるはずの課題」と。参与としての2年間は、それが「なんともならない」ことを知った2年間でもありました。その点で「なんとかなる」と言って政権を取り、そうはならなかった民主党と同じです。
 予算は、きわめて厳しい状態にありました。最初にぶつかったのが「ペイ・アズ・ユー・ゴー原則」と言われたもので、新規の予算要求をしようと思ったら、その予算要求をする省庁が、その金額を自分たちが所管する予算のどれかを削って捻出しないといけない、という原則です。それに加えて、政策経費の毎年10%カットという原則もありました。法令化されて恒久的な制度になっているものは、その制度にしたがって、毎年一定の金額が出ていきます。年金、介護や障害関係の諸費用、扶助費、人件費などです。それは義務的経費と言われ、それにあてはまらない単年度事業などが政策的経費です。各種調査費用や庁舎の一般的な運営費(庁費)なども含まれます。現在は、高齢化の進展などによって義務的経費が増え続けているにもかかわらず、十分な税収を確保できないために、政策的経費が圧迫され続けている状況です。
 したがって、ただでさえ毎年10%ずつカットされている中で何か新しいことを始めようとすると、さらに他から政策的経費を奪ってこないといけないことになります。奪われる側からすれば「10%+新規予算要求分の予算」が減らされることになり、当然打撃が大きいため、抵抗は大きくなります。
 私が関わっている分野は、先ほど言ったように日本型雇用、日本型福祉社会の「想定外」の部分であり、これまでは何もなかったに等しい分野です。問題そのものが新しく、かつこれまで手をつけてこられなかった課題のため、基本的に新規予算で対応する他ないのですが、何かしようとすると、必ず既存分野との予算の競合関係が生じます。自分の関心のある分野しか見ていなかったときは「こういう分野にちゃんとお金がつけられていない」と「意識」や「やる気」の問題にしていましたが、たとえやる気があっても、税と財政の規模が確保できず、義務的経費が政策的経費を圧迫し続ける状況の下では、十分な予算措置を講じる余地がそもそもないことを思い知りました。
 たしかに税の分配の優先順位を高めれば、限られた財源の中から優先的に資源配分されるようになりますが、すべての予算にはその先に人々の生活があり、現在の優先順位が歴史的に作られてきた政治的・社会的力関係の反映であることを考えると、長期的にはともかく、短期的にそれを変えるのは容易なことではありません。また、日本ほどの「小さすぎる政府」で世界一の高齢社会をやりくりしているような現状にあっては、どこから持ってくるにしても、取られたところで深刻な生活課題を惹き起こす可能性が少なくありません(「既得権益!」と叫べば解決するというレベルではありません)。総じて、弱い者同士で限られたパイを奪い合う、という結果にもなりかねません(実際、いろんな人たちとの会話の端々に、そうした怨嗟のメッセージを感じる場面が増えてきました)。政府の中に無駄なお金が大量にある、と思っている人は今でもたくさんいます。実際、政府の予算はいくらでも削ることができます。公的業務をより安い価格で運営してくれる民間団体・企業にアウトソーシングすれば、差額は浮きます。また、医療や介護、教育の公費投入分を減らして私費負担割合を増やせば、支出を削減できます。さらには、国の役割を外交や安全保障に狭く限定し、公共事業や社会保障を地方自治体に引き渡せば、国の支出は大幅に削減できるでしょう。
 これらはすべて、国から他のところ(民間団体・企業、地方自治体)にアウトソーシング&ダウンサイジング(たとえば、一括交付金としてパッケージ化する代わりに総額を抑制する)する手法です。小泉政権下で行われたように、これを強引かつ強力に推し進めていけば、国の支出はさらに縮小し、財政状況は一見好転するでしょう。難しいことではありません。しかし、それはいったい何のためなのでしょうか。税と財政の機能が弱くなった分は、家計(私費負担)でカバーしなければなりません。社会保障分野のどこをとっても同じ話ができますが、たとえば医療分野をとって話をすると、ある人が一生涯に受ける医療サービスは、皆保険制度の国でも、混合診療が全面解禁された国でも、基本的には変わりません(混合診療が全面解禁された結果うまれる医療格差の大きい社会のほうが公費・私費合計の医療費総額は増えるという検証結果もありますが、ここでは割愛します)。それが平均1000万円とすれば、税と財政による負担と給付が100万円分であれば、私費による負担と給付は900万円分になる、700万円分なら300万円分になる、というだけの話です。かかる総額は変わりませんが、2つの点で違いが生まれます。
 1つは、公費1:私費9の社会では、7:3の社会に比べて、お金のある・ないが医療サービスを受けられるかどうかの分かれ目になる。
 もう1つは、1:9の社会では、7:3の社会に比べて、たまたま一生涯大きな病気なく過ごせた人の負担は少なく、たまたま病気がちだった人の負担は大きくなる、ということです。一般的にいって、全般的に健康で、かつお金がある人は、1:9の社会のほうが、出費も少なく、万が一病気になっても支払うお金があるので、望ましいと感じます。他方、病気がちで、かつお金があまりない人は、ふだんから少しずつでも出費しておいたほうが安心できて望ましいと感じます。そこは社会の選択です。
 ただ実際には、人生何が起こるかわからないという不確実性は誰も回避できないので、社会保険が弱体化すれば、人は民間保険に入ることでリスクを分散しようとするだけです。現状は、多くの人が皆保険制度を望ましいと感じながら、実際には混合診療を拡大する方向に進んでいるように見えます。なぜなら、医療技術の高度化等にもかかわらず、一向に医療費の公費投入を(高齢化に伴う自然増分以上には)増やせないので、私費負担割合を増やさないことには病院が経営できず、医者も働き続けることができなくなっていくからです。
 医療技術の高度化は、これまで生き延びることが困難だった未熟児や難病の方たちの存命を可能にする代わり(それは本人・家族の切実な願いです)、医療費を高騰させますから、それにもかかわらず公費投入を増やせなければ、公費:私費の比率は、放っておいても7:3から6:4、5:5、4:6へと徐々にその比率を変化させて対応していかざるを得ません。高い私費負担を強いられる人たちの不満を強め、リスクを個人化する混合診療全面解禁論の「説得性」を高める方向に世論を導いていくでしょう。いまの社会は、人々の望む方向とは逆の方向に進んでいます。
 混合診療の全面解禁については、アメリカの民間保険会社などが長らく主張しており、日本の財界もそれに呼応しています。国会議員の中にも、それを主張する人は少なくありません。よって「その連中が悪い」と言われることがありますが、だとしたら「そうならないように、医療費の負担と給付を増やそう」と主張しないと、筋が通りません。混合診療全面解禁は反対だが、医療費負担も反対というのでは、現実は私費負担割合が増えていく方向に進まざるを得ません。両方に反対していれば病気になる人が減る、というのでないかぎり、実際にかかる経費は変わらないからです。そのため、混合診療全面解禁も反対だが、医療費負担増も反対だというとき、人々の矛先は「どこか(自分ではない)他のところにお金があるはずだ」というところに向かいます。それが企業だったり(法人税)、富裕層だったり(所得税・資産課税)、消費税だったり、政府(特別会計など)だったり、主張する人の意向によって矛先はまちまちです。
 現在のところ、多くの人たちが合致できる最大公約数が「政府に隠れたムダ金があるはずだ」という点にありますから、「まずは政府が身を削れ」という行革路線が強くなり、それを主張する分には、国会議員もマスコミも、あまり批判にさらされず安心、という状態になっています。これは税と財政の機能を強めるために税と財政の機能を弱めている状態で、「社会保障は強化するが、官の肥大化には使わない」という言葉で法制化されてもいます。税と財政=(@年金、医療、介護+Aその他の社会保障を含むさまざまな政策経費+B公務員等の人件費)のうち、@を維持するためにAとBを削る、という結果です。しかし、@とAは公務員が設計・運営しています。ここを減らし続けるということは、公務員の中に専門的な技能を持った人が減り、いわゆる官製ワーキングプアが増え、長い歴史的蓄積と長期の展望に立った設計・運営能力が低下していくことを意味します。本当にそれで世の中がうまく回っていくのか、私は疑問です。私は公務員を無批判に擁護しようというのではありません。不満はないのかと言われれば、不満はあります。私が擁護したいのは社会です。社会を擁護したいという視点から現在の状況を見ると、公共サービスを設計・運営するのが公務員という当たり前のことが忘れられて、公務員批判が自己目的化しているような危機感を抱きます。何らかの目的を擁護するための手段にすぎなかった批判が、そもそもの目的を見失って自己目的化するとき、それをバッシングと呼びます。
 その意味で、現在の状況は「公務員バッシング」だと感じています。そしてそれが擁護すべき社会を強化する行為であるかといえば、私は懐疑的です。私は公務員を盲目的に擁護はしませんが、盲目的な公務員批判には反対です。それは結局、公共サービスを劣化させてしまうからです。そこで出てきている概念が「公共を担うのは官だけではない」という「新しい公共」です。これについてもいろいろとありますが、ここではこれ以上は深入りしません。一言だけ書いておくと、私は「新しい公共」を盲目的には批判しませんが、「新しい公共」を盲目的に擁護するのは反対です。話を戻します。医療崩壊と言われて久しい現実を前にして、医療を強化すべきという意見には、大方の同意が得られるのではないかと思います。それはつまり、
 1)医療に関する税と財政をもう少し大きくすべき、という主張になります(医療にビタ一文減らす余地がない、ということではありません。精神医療の入院治療のあり方などは見直す余地が大きいと思いますが、それをやれば十分な財源が出てくるかと言えば、そうではないと思います)。そして、では医療を充実させるために、より多くの税を拠出するとして、
 2)誰が拠出するのか、という論点が次に出てきます。税目の話です。2)について、現在、消費税増税が議論され、賛成と反対で世論が二つに分かれているのは、よく知られている通りです。しかしその前段階としての1)については、より多くの人たちの合意が取れるのではないかと、私は感じています。
 つまり、世界一の高齢社会にもかかわらず、ずっと若いアメリカ(高齢化率は日本の半分程度)並みの社会保障給付しかない現在の日本の状況では、医療にしろ介護にしろ、子育てにしろ教育にしろ、まともな公共サービスを整備することは無理だから、税と財政の規模をもう少し大きくすべきだ、という意見です。
 こう言うと、すぐに「じゃあ社会主義的な大きな政府にするのか」と目くじらを立てる人がいます。第一に、日本よりも社会保障給付費のGDP比の高いヨーロッパ諸国は、すべて資本主義諸国です。この批判はあまりにも低劣です。第二に、はるかに高齢化率の低いアメリカと同程度の社会保障支出しかない現状を改善しようということと、北欧諸国のような大きな政府にしようということとの間には、大きな開きがあります。
 前者は、いわば「せめて小さな政府に」と言っているにすぎず、「大きな政府」とは雲泥の差があります。私は、日本社会の歴史と現状から考えて、私や他の誰かが何を言おうと、実際問題として日本が北欧並みの「大きな政府」になることなどないだろうと思っています。
 私が言っていることは、はるかにずっと控えめです。医者が過労で倒れ、介護ヘルパーは低賃金でどんどん辞め、低年金・無年金で生活できない人が増え、非正規が増えているにもかかわらず、まともなセーフティネットが生活保護以外になく、本人や家族が課題を抱え込んで煮詰まり疲弊して残念な事件が頻発し、自殺も減らず、社会に閉塞感が蔓延している現状を少しでも変えるために、せめて小さな政府になるくらいの税と財政規模を確保しませんか、と言っているにすぎません(もちろん、この控えめな主張に対しても反対する人がたくさんいるのは重々承知しています)。
 また「いまの政治状況で増税を認めると、消費税増税になるから、認めるべきではない」という人もいます。「せめて小さい政府」などと中途半端なものではなく、正々堂々と「大きな政府」を要求すべきであり、その財源は消費税ではなく企業や富裕層の増税で賄うべきだ、という意見です。
 これについて触れ始めると、とても長くなってしまうので、この論点についてはいずれ改めて触れたいと思いますが、簡単にまとめておくと、
 1)税の原則は「あるところからもらう(応能原則)」なので、税目として消費税だけを考えるのは適当ではなく、所得税の累進制強化や資産課税・相続税強化、グローバルな金融取引課税や法人課税など広く考えるべき。実際の経緯としても、法人税減税が行われる、リーマンショックにもかかわらずグローバルな金融課税はなかなか進展しない、タックスヘブン(ケイマン諸島など)を経由した不正事件が日本でも相次ぐ(オリンパス、AIJ)など、国内外において企業が強すぎ、各種租税特別措置、証券取引優遇税制など改善すべき余地が多々ある。
 2)ただし、消費税を頭から否定する必要はない。日本で消費税に反対する人も消費税率の高いヨーロッパ諸国をモデル視するように、「徴収した税を何に使うか」が問題であり、税と財政をトータルで考え、それによって所得再分配機能が強化されるかどうかで判断すべき。高所得者から徴収しても、徴収分を高所得者に使うのなら所得再分配機能は強化されない。逆も同じ。
 3)今回の税制改革では社会保障改革に限定して使うなど、所得再分配機能は強化される方向。ただ、総合合算制や給付つき税額控除の設計がまだなされていないので、詳細は不明。その議論に積極的にコミットしていくためには、入口で議論を閉ざすべきではない。
 4)消費税を投入することでこれまで社会保障費に充てていた国費の一部を国債償還分に回す対応については、現役世代を含めた社会保障費に充てる分との按分率を決めるべきとの主張を「社会保障と税一体改革集中検討会議」で行っていたが、残念ながら力及ばなかった(http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/syutyukento/dai4/yuasa.pdf、P28~31)。
 5)何よりも優先されるべきは、世界一の高齢社会に見合った財源規模の確保と所得再分配機能の強化であり、消費税をめぐる賛否よりも争点化すべき。企業は法人税がイヤ、富裕層は所得税・資産課税がイヤ、庶民は消費税がイヤで、結局必要な税と財政の規模が確保できないのでは、現実には、社会保障から排除され、脱落していく貧困層がさらに拡大し、孤独死・孤立死も増加していく。税目以前に国の財政規模を確保し、所得再分配機能を強めていく発想からは「消費税を受け入れるから、あんたたち(富裕層や企業)ももうちょっと保険料など負担してくれ」という持っていき方があってもいいのではないか。そちらのほうが迫力があって、状況を変える力も生まれるのではないか。今のままでは「政府はどうなってもかまわないから、税を支払いたくない」という声が強く、その力関係の変わる兆しがなく、結果として政策的経費縮小の打撃を傘の外の人たちがもっとも強く受け続ける状態が続いてしまうことを、私は懸念しています。

● 政府との関係、社会運動の立ち位置について

 この点については、すでに関連する拙文として「社会運動と政権」(岩波書店『世界』2010年6月号)、「社会運動の立ち位置について」(同、2012年3月号)がありますので、それを前提としつつ、少し付け加えたいと思います。
 後者の文章の中で、私が「調整の次元に主体的にコミットすべき」と書いたことについて、社会運動もより政府内部の調整過程にコミットすべき、と解釈した人たちがいたらしいことを、複数の人たちから聞きました。私の書き方がまずかったために、このような誤読を惹き起こしたのだろうと思うのですが、おそらくそう解釈した人たちは、政府内部での調整過程へのコミットを称揚したはずの私が、その直後に辞任に至った理由が理解できないだろうと思います。理解されないのは残念なことだし、それがまた誤読に基づくさらなる憶測を惹き起こすとしたら、あまりに生産的でないので、ここで釈明しつつ、私が感じている課題をさらに整理しておきたいと思います。
 あたりまえですが、政府内部の調整過程にコミットできるかどうか、その人選は政府が決めるものであり、外部の人間が決めることはできません。したがって、コミットするかどうかの選択権は外部にはなく、社会運動を含めた外部は受身でしかありません。端的には、声がかかるか、排除されるか、です。そして、政府の舞台設定は政府が行うものである以上、声がかかるほうがいいかどうかは、ケースバイケースです。望ましい方向性を打ち出すためのものであれば、声がかかるほうが望ましいし、望ましくない方向性を打ち出すためのものであれば、声がかかっても拒否する場合もあるでしょうし、排除されるほうがむしろ望ましいという場合もあります。途中で「席を蹴る」といった場合もあるでしょう。したがって、選択権のない外部(社会運動)にとって「政府内部の調整過程にコミットすべき」という命題は、ほとんど意味がありません。意味のないことを、私は主張しません。
 問題は、たとえば「席を蹴る」という行為を何のために行うか、です。そこには二つの可能性があります。
 1)気に入らないから、
 2)席を蹴ったほうが結論を有利に導けるから。
 1)は席を蹴ることによって結果責任を回避しています。このまま議論に付き合っていると、よからぬ結論の作成責任を自分も負わされてしまう可能性がある。それはご免こうむる、というわけです。それは心情的には理解できます。ただし、結論はその人が席を蹴ることによって、その人にとってより一層望ましくないものになる可能性があります。その結果責任は、席を蹴ったその人にあります。席を蹴らなければ、不満足であっても一部は意見が採用されたかもしれないからです。
 2)はその結果責任を自覚した振舞いです。席を蹴るというインパクトの強い振舞いをすることによって、たとえばマスコミにその問題を取り上げさせ、それによって席を蹴らずに内部で奮闘するよりもより自分にとって有利なものに導こうとするものです。その際、席を蹴るという行為は、いわば社会に向けて行われており、それによって醸成する社会的力で政治的力関係に影響を与えようとするものです。それが成功するかどうかは、政治的・社会的力関係の総体で決まります。社会的にマスコミの注目を引くことに成功しても、政府が無視できる程度のものであったとすれば、結論は席を蹴らなかった場合に比べて悪くなるかもしれません。政府が無視できないくらいに社会的力関係を形成できるとしたら、席を蹴ったことがその人にとっては「成功」となります。そうならなかった場合、席を蹴った本人は自分を責めます。自分の見通しが甘かったからです。
 ウェーバーは、いわば1)を「心情倫理」と呼び、2)を「責任倫理」と呼びました。私はウェーバーを引用しつつ、次のように書きました。
 「利害関係者間の調整を〈政治〉と言う。この意味での〈政治〉は、社会的領域(世間、地域)にも政治的領域(「霞ヶ関」、「永田町」)にも偏在している。(中略)政治的・社会的力関係総体に影響を及ぼす手法には、さまざまなものがある。選挙や裁判はそのもっとも公的なものだが、政治家や役人・官僚、審議会委員に働きかける方法もあるし、署名、陳情、デモ、座り込み、集会、マスコミ対策、インターネットを通じた意見表明と拡散、など社会的な働きかけによって世論形成を図る方法もある。これらはすべて調整=〈政治〉の一環であり、ある利害を政治的・社会的力関係総体の中で優位に立たせたり、また劣勢を挽回するために行うものだ。(中略)その意味で、政治的・社会的な働きかけを行う者は調整=〈政治〉の当事者である。(中略)したがって調整の当事者として、私たちはその調整結果に対して、幾分なりとも結果責任を負う。選挙で選んだ責任、ある政策・制度を推進または阻止できなかった責任などだ。それが民主主義システムにおける主権者としての責任であり、結果責任を負うのは政治家のみではない。(中略)そして、あらゆる政治的・社会的な働きかけは、意識的にせよ無意識的にせよ、調整の当事者として、政治的・社会的力関係の変容、およびその力関係の反映としての政治的領域における決定への影響力行使を目指して行われる」。
 「席を蹴る」のは、ある劣勢を挽回するために行うデモと同じ〈政治〉=調整です。席を蹴ったのはあいつらが悪いからで、おれは知らない、おれにはもう責任はない、では済まない。本人が自覚しているかどうかに関わりなく、常にすでに調整の当事者として結果責任を負っているということ、それが民主主義における主権者ということだ、と私は考えています。結果責任を消せるのは頭の中だけです。「席を蹴る」行為だけでなく「(声がかかったのを)拒否する」場合も同様です。もちろん、居酒屋やブログでいろんな不満や批判をぶちまけるのも同じです。
 しかし、居酒屋やブログで不満や批判をぶちまける人、デモや集会を行う人たちの中には、それが奏功しなかった場合の結果責任の自覚がない人(調整当事者としての自覚がない人、主権者としての自覚がない人)がいます。それらの行為がよりよい結果をもたらさなかったのは、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまう人です。その人が忘れているのは、1億2千万人の人口の中には、自分と反対の意見を持っている人もいて、政府はその人の税金も使っている、という単純な事実です。相互に対立する意見の両方を100%聞き入れることは、政府でなくても、誰でもできません。
 しかしどちらも主権者である以上、結局どちらの意見をどれくらい容れるかは、両者の力関係で決まります。世の中には多様な意見がありますから、それは結局「政治的・社会的力関係総体」で決まることになります。だから、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させることに成功したほうが、同じ玉虫色の結論であっても、より自分たちの意見に近い結論を導き出すことができます。
 しかし、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまうと、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させるために不足しているものは何か、どうして自分たちの意見は十分に広がらないのか、どんな工夫が足りないのか、という問題意識が出てきません。それは社会運動にとって、とても残念なことだと私は思っています(それは、よくある「独善的」との批判に根拠を与えてしまいます)。
 そして、政治的シニシズムが「強いリーダーシップ」によって政治的に活性化された現在、社会運動はますますそのことを強く意識する必要があるのではないか、というのが私の趣旨でした。だから、「政府の外でやってないで、政府内部の調整過程にコミットしよう」などという話ではありません。そもそも、もしそうだとしたら、社会運動を見切っているわけで、「社会運動の立ち位置」などという文章を書く動機が私自身に存在しません。
 実際には、社会的にも政治的にも利害関係は複雑で錯綜しており、アテにしていた反応・反響が得られないことはしばしばあります。すべてを計算し尽くして行動することは不可能です。「やってみないとわからない」のが現実であり、何らかの行動を選択した後に、それに見合う反応・反響を確保すべく奔走するのが普通だと思います。一定レベルのインパクトを狙っている場合に、それを事前に言ってしまうとインパクトが削がれてしまうので、真の狙いは当面言わず、タイミングを見計らうという判断もありえます。
 こうした細々した判断と行動の積み重ねによって政治的・社会的力関係総体への働きかけを行うわけですが、重要なことは、結果としてうまくいかないことはあり、その責めは、いろんな反応・反響を予期し切れなかった自分のシュミレーション不足だと考える必要がある、いうことです。それを「相手が悪かった」または「想定外」と無反省に切り捨ててしまったら、今後に向けた教訓は出てこず、進歩もない。それは、原発事故をめぐる一連の政府・東電の反応から私たちが学び取るべきものでもあると思います。
 こうした考え方は、自己責任論的に聞こえるかもしれません。社会運動の自己責任論です。たしかにそうです。そもそも、私が巷の自己責任論にもっとも不満だったのは、それが社会の構成員としての、市民としての、主権者としての自覚を伴わない物言いだという点にありました。誰かを排除する社会に住みながら、自分もその構成員の一人でありながら、その自己に対する責任の自覚なく、自分とは関係ない誰か、とりわけ排除を受けている誰かの責任に帰して、自分は無関係だと考えるその無責任さに腹が立っていました。
 その意味で、いわゆる自己責任論は社会的無責任論であり、私が「貧困は自己責任ではない」という言葉で訴えていたのは、「本人の人生には一点の曇りもありません」ということではなく、「貧困は社会的無責任論では解決しない」ということでした。その意味では、私は巷に流通している、自分の無責任さを正当化する理屈としての自己責任論者とは異なる意味での自己責任論者と言えるかもしれません。それが、どんなに嫌がっても主権者から降りられない民主主義というシステムなのだと思います。
 私の推測が間違っているかもしれませんが、今の社会に欠けているのは、少なからぬ人たちがそのように振舞って、それぞれができる範囲で、政治的・社会的力関係総体への働きかけを行っているという信頼感ではないか、と感じています。私がこの2年間で発見したのは、官僚の中にも、私と同じような方向性を目指しながら働きかけを行っている人たちがたくさんいる、ということでした。その人たちはテレビや新聞で原則論をぶったりはしません。錯綜する利害関係の中で説明・説得・調整・妥協を繰り返しています。決定権をもたない組織の一員として、言いたいことを声高に言うことなく、しかし結論が「言いたいこと」になるべく近づくように奮闘しています。
 ところが、外側の私たちは、そうした内部の奮闘の結果として最後に出てきた結論が情報に接する最初になるので、そこから評価が始まり、交渉が始まります。批判の矛先が奮闘した当の本人に向くこともしばしばです。Aという担当者がいて、ある事柄をなんとかしたいと発案し、提起する。課内から局、局から省、省から政府と持ち上がる過程でさまざまな修正が入り、結論としての政策が出来上がる。しかし、もともと同じ方向性の主張を掲げていた人たちが、その結論を原則的な立場から頭ごなしに批判し、説明者でもある担当者をなじる。この過程が何度となく繰り返されていけば、少なくとも私だったらだんだんと気持ちが萎えていきます。原則的な立場は大事です。問題は、原則的なことを言っていれば原則的なことが実現するわけではない、という点にあります。
 「ぶれずにある立場を堅持していれば、いずれ理解される」と言って、30年40年と同じことを言い続けている人がいます。しかし、言い続けてきた30年分40年分、世の中が言っていることに近づいてきているかというと、必ずしもそうでないという場合があります。世の中には、反対の立場から30年40年原則的なことを言い続けている人もいるからです。その際の問題点は「原則的な立場を堅持するかどうか」ではなく、「原則的な立場に現実を少しでも近づけるための、言い方ややり方の工夫をする必要がある」という点にあります。工夫が足りないことの結果として自分の見解が広く理解されなかったことの結果責任の自覚なく、「聞き入れないあいつらがわかってない」と言っているだけでは、さらに多くの人たちから相手にされなくなっていくだけで、その逆にはならないでしょう。
 あたりまえのことしか言っていないと思うのですが、実際にはそのあたりまえが通用しない局面があります。現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、より思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます。
 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です。
 容易に転換しそうにないこの風潮をどうすれば変えることができるのか、私にはまだよくわかりません。ただ少なくとも、このような局面で社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていくために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性により磨きをかけていくことではないかと思います。それが、私の考える「社会運動の立ち位置」です。
 この2年間、私はそれまで知らなかった世界を垣間見てきました。政策的に十分な成果を挙げられたかといえば、そうは言えないと思うので、政策的な働きかけはこれからも継続していきますが、個人的な経験としては、2年間で学んだものは非常に大きかったと感じています。これから民間の立場に戻りますが(参与職は非常勤国家公務員ですから、この間も半分は民間の立場で活動していましたが)、この2年間の経験を「なかったこと」にはできませんので、これからもこの経験を踏まえて、政治的・社会的力関係総体への働きかけを続けていきたいと思います。
 末尾になりましたが、この2年間、さまざまなことをご教示くださった方々に、深くお礼申し上げます。ありがとうございました。



 
 → 出典 http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html
  


 [ 付記 ]
 転載の理由は
  ・ はてなブックマークで話題になっていた
  ・ 原文は、体裁が、とても見づらい。そこで体裁を変えた。(改行を修正した。)
  ・ 該当ブログで「転載は歓迎」とされている。
 
 [ 余談 ]
 この話のポイントは、「菅直人がクビになったから、この人もやめざるを得ない」ということ。原因は国民にある。
posted by 管理人 at 19:04 | Comment(1) | 一般(雑学)1 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なかなか良い人ではないか。
よく読めば、分りやすそうだ。
Posted by ms at 2012年03月12日 16:11
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
  ※ コメントが掲載されるまで、時間がかかることがあります。

過去ログ