東日本大震災の前には、貞観地震(869年)のほかに、慶長三陸地震(1611年)と寛政地震(1793年)があった。 ──
「東日本大震災の地震(東北沖地震)は、1000年にいっぺんの稀な事象だ」としばしば言われる。特に池田信夫がそうだ。彼は「めったにない ブラックスワン だから、とうてい予測不可能だ」と述べて、原発の無防備さを正当化しようとする。
本当にそうか? まず、しばしば言われるのは、次の三つだ。
・ 貞観地震 (869年)
・ 明治三陸地震(1896年)
・ 昭和三陸地震(1933年)
これらはいずれも多数の津波被害をもたらした。(昭和三陸地震は、ちょっと規模が小さめだが。)……詳しくは下記。
→ Wikipedia 「三陸沖地震」
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一方、文献などの資料は少ないが、次の地震も東日本大震災とだいたい同程度の津波被害があったと推定される。
→ 慶長三陸地震 (1616年)
これは Wikipedia の記事だが、他にもネットから情報は得られる。(ググればいい。)
2011-09-25 の読売新聞・朝刊にも、この地震についての記事がある。(上に記した程度の情報。)
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一方、Wikipedia の 「三陸沖地震」の記事(上記)を読むと、次の地震もあったとわかる。
寛政地震(1793年:寛政5年)
この地震は、被害が小さかったので、独自の名前が付いていない。「宮城県沖地震」というグループ名が付いているだけだ。(他のたくさんの「宮城県沖地震」といしょくたにされている。)
本項では特に、「寛政地震」と名前を付ける。なぜか? これに留意するべき事情があるからだ。次のことだ。
「津波の規模は小さかったので、被害は少なかったが、地震の規模そのものは、かなり大きかった。マグニチュードで 8.0−8.4 と推定されている」
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このことは重要だ。次の意味があるからだ。
「津波の規模が小さかったので、被害は少なかった。そのせいで、人々はこの地震のことを無視しがちだ。しかし、人間への被害は別として、地球の構造の面から言えば、この時期にも大きな地震を起こすエネルギーは溜まっていて、そのエネルギーがまさしく地震という形で解放されたのだ」
ここから、次の重要な結論が得られる。
「三陸沖地方では、百年にいっぺんぐらいの割合で、定期的に大地震が起こっている。ただし、それが大きな津波被害をもたらすか否かは、偶然による差が生じる」
具体的に年代を示すと、次の通り。
・ 貞観地震 ( 869年)
・ 慶長三陸地震(1611年)
・ 寛政地震 (1793年)
・ 明治三陸地震(1896年)
・ 東日本大震災(2011年)
慶長三陸地震以来、マグニチュード8強の大地震が定期的に起こっていることがわかる。ここにはかなりきれいな規則性がある。決して「1000年にいっぺんのブラックスワン」なんかではない。地震が起こることはほとんど確実と言えるほど、はっきりとわかっているのだ。ついでに言えば、あと 100年ぐらいすれば、やはりまた同程度の地震が起こるだろう。そう予言できる。
ただし、大地震が起こるとしても、それが津波被害をもたらすか否かは、はっきりとしない。少なくとも 寛政地震 では、津波被害は小さかったようだ。
→ 寛政地震の調査 (PDF)
また、慶長三陸地震については、地質の調査からも、大きな津波被害はなかったらしい。(地質調査からわかるのは、貞観地震だけだ。つまり、その間の期間には、大きな津波被害はなかったらしい。)
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結論。
三陸沖で大地震が起こるか否かについては、「百年にいっぺんの割合で起こる」というふうに、かなり規則性があるとわかる。それは決して予測不能なことではない。(溜まったエネルギーが一定量になると解放されるというのは、ししおどしと同様で、規則性がある。)
ただし、大地震にともなって津波被害が起こるか否かは、はっきりとしない。それは、地殻の歪みのエネルギーが開放される場所が、地中のどこであるかに依存するからだ。場所によっては、(たとえ地震の規模が大きくても)津波をあまり起こさない場所であることもある。
だから、過去の津波被害を歴史的に調べるだけでは、将来を予測することはできない。
また、次に大きな地震が起こるか否かは、予測可能だが、次の大きな津波被害が起こるか否かは、予測可能ではない。
地震の規則性と津波の不規則性について、きちんと理解しておくことが必要だ。
なお、そういう理解があれば、少なくとも東日本大震災の前に、きちんと津波への対策を取っておくことができたはずだ。もちろん、原発の事故も予防できたはずだ。
本項に述べたことから、われわれがどういうふうに愚かであったかを、理解することができる。
[ 付記 ]
池田信夫みたいに、「東日本大震災の地震(東北沖地震)は、1000年にいっぺんの稀な事象だ」とか、「めったにないブラックスワンだから、とうてい予測不可能だ」とか述べれば、われわれの愚かさを正当化するだけだろう。そして、愚かさを正当化すれば、ふたたび愚かなことを繰り返すことになる。
愚かなことを繰り返さないためには、われわれの愚かさを自覚することが必要だ。それは自己正当化とは逆のことである。
孔子曰く、「過ちて改めざる、これを過ちという」。
南堂曰く、「過ちて改めざる、これをなすものを愚者という」。
読者曰く、「愚者とは誰ぞや」。
世阿弥曰く、「秘すれば花なり」。
2ちゃんねらー曰く、「池と田あり、池と沼あり」
2011年09月25日
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