2011年09月08日

◆ 超球理論の数式 4 (場の理論)

 前項の続き。 ──
 
 ここまで見れば、物事の本質がわかる。
 波とは、エネルギー保存則を満たしながら、エネルギーが空間的に伝播していくことだ。
 シュレーディンガー方程式もまた、波の方程式だ。それは、量子において、エネルギー保存則を満たしながら、エネルギーが空間的に伝播していくことを示す。
 
 さて。次のような見解がある。
 「シュレーディンガー方程式は、粒子の存在確率を示している」
 「シュレーディンガー方程式は、確率波を示している」

 これらは、通説だ。シュレーディンガー方程式については、このように解釈されることが多い。
 しかし、本項を読めば、そうした見解には否定的な判断を出せる。
 かわりに、次のような見解を取る。
 「シュレーディンガー方程式は、エネルギー保存則を満たしながらエネルギーが空間的に伝播していくことを示す」


 この本質は、次のことだ。
 「シュレーディンガー方程式は、粒子についての理論でもなく、についての理論でもなく、についての理論である」


 ──

 シュレーディンガー方程式は、場についての理論である。これが決定的に重要なことだ。
 なのに、多くの人々は、ここを根本的に誤解している。古典力学を量子力学に変形するときに、「量子化」という手続きを取るが、それを、ただの数式の手続きだと思い込んでいる。そのことによって、古典的な粒子が、量子的な粒子になる、と思い込んでいる。
 違う。量子とは、「量子論における粒子」のことではない。また、「粒子と波の双方の性質を持つもの」でもない。
 では何か? 量子とは、「場の現れ」なのだ。

 人々は量子を考えるときに、粒子の形で考えがちだ。つまり、
 「広い空間のなかで、空間からは独立した形で、粒子が存在する」
 と考えがちだ。
 違う。量子は、空間から独立しているのではない。空間の一部にすぎないのだ。
 で、他の空間とどこが違うかと言えば、(ある次元における)位相が異なるだけのことだ。
  ・ 位相が  1 である …… 粒子
  ・ 位相が -1 である …… 反粒子
  ・ 位相が  0 である …… 真空

 このような位相差で理解するといいだろう。
 
 この際、それぞれの位相は、実数と虚数で表される。つまり、複素数で現される。
 実数と虚数の単振動を複素数で現すと、複素平面上の円という形になる。
 この円は、 cos θi sin θ という形で示されるが、この θ がたくさんの変数 ( θ1θ2θ3θ4 …… )となると、多次元(n次元)の複素数の球となる。
 これが超球だ。
  
 ──

 こうして、最終的な結論が得られる。つまり、こうだ。
  1. シュレーディンガー方程式は、エネルギー保存則を満たしながらエネルギーが空間的に伝播していくことを示す。
  2. シュレーディンガー方程式は、場の理論である。
  3. 量子は、粒子ではなく、場の表れである。
  4. 場において、各点は調和振動子として働く。(エネルギー保存則ゆえに) 
  5. この調和振動子は、多次元の複素平面で円を描く。それは「超球」と呼ばれる。
 要するに、「エネルギー保存則」という概念を初めに取ると、シュレーディンガー方程式の意味するところは超球だ、とわかる。
 そしてまた、量子論というものは、場の理論である、ということもわかる。

 ──

 その意味で、量子論を考えるときに、
  ・ 量子は粒子だ
  ・ 量子は粒子と波の双方の性質をもつものだ

 という発想で考えることは正しくない、とわかる。

 たとえば、「二重スリット実験」や「シュレーディンガーの猫」について考えるとしよう。通常は、コペンハーゲン解釈などで考えるが、その際には、
  ・ 量子は粒子だ
  ・ 量子は粒子と波の双方の性質をもつものだ

 という発想で考えるものだ。しかし、それは正しくないのだ。むしろ、「量子は場の表れである」という発想のもとで、「場の量子論」によって認識するべきなのだ。

 具体的に示そう。
 (1) 二重スリット実験についてはどうか? コペンハーゲン解釈を取ると、「量子は粒子だ」という前提のもとで、次のように考える。
 「一つの量子が同時に二つのスリットを通り抜ける」

 しかしこのようなことは言語矛盾であろう。二つの場所に同時存在するのであれば、それはもはや「一つのもの」ではないからだ。(まさか半分ずつに割れて存在するわけではあるまいし。)
 (2) シュレーディンガーの猫についてはどうか? コペンハーゲン解釈を取ると、「量子は粒子だ」という前提のもとで、次のように考える。
 「一つの量子が同時に二つの状態に属する(重ね合わせ状態にある)」

 しかしこのようなことは言語矛盾であろう。二つの状態に同時存在するのであれば、それはもはや「一つのもの」ではないからだ。(まさか半分ずつに割れて属するわけではあるまいし。)
 
 このような奇妙な屁理屈は、「場の量子論」を取ることで回避される。なぜか? そこではもはや、「一つの粒子」という発想は捨てられるからだ。かわりに、次のようになる。
 (1) 二重スリット実験では、「エネルギーの波」が二つのスリットを同時に通る。このエネルギーの波が干渉したあとで、感光板(電子乾板)に到達して、そこで、「波から粒子へ」という転換が起こる。その転換は、エネルギーの密度に応じて、確率的になる。エネルギーの密度に干渉縞が生じるので、確率にも干渉縞が生じる。

二重スリット実験
 電子銃から電子が発射される。電子は二つのスリットを
通過して、感光板にぶつかる。そこでは干渉縞が描かれる。


 (2) シュレーディンガーの猫では、「エネルギーの波」が確率的に 0.5 という値を取る。そのあと、エネルギーの波が、「波から粒子へ」という転換をするか否かは、あくまで確率的な現象だ。その途中では、「エネルギーの波」という現象があるが、それは、「粒子が0個」と「粒子が1個」の重ね合わせではなくて、あくまで「エネルギーの波」という現象である。
 比喩的に言うと、コインを回転させておくと、コインが倒れたときに、裏か表かが決まる(0か1かが決まる)。ただし、コインが倒れる前の状況は、「裏と表の重ね合わせ」(どちらも半々で生じていること)ではなくて、「裏でも表でもない」(回転している)という状況なのだ。……このように、回転しているコインを「回転中」と認識するのが超球理論であり、回転しているコインを「裏で静止した状態と、表で静止した状態の、重ね合わせ」というふうに誤認しているのが、コペンハーゲン解釈だ。そこでは量子について、「裏で静止した状態(裏の粒子)」と、「表で静止した状態」(表の粒子)という、二通りの粒子の発想しかない。そこでは、「回転する超球」という発想がない。そのせいで、物事を正しく認識できないのだ。
[ ※ コインで言うなら、「裏で静止した状態(裏のコイン)」と、「表で静止した状態」(表のコイン)という、二通りの発想しかない。そこでは、「回転するコイン」という発想がない。そのせいで、物事を正しく認識できないのだ。]
 
 以上からわかるように、粒子説は、物事を正しく認識できない。超球理論(場の理論)ならば、「回転する超球」という認識が可能なのに、コペンハーゲン解釈(粒子の理論)では、「粒子」つまり「静止する超球」というふうにとらえることしかできない。そのせいで、「回転する超球」というものを認識できないのである。
 
 以上のことを、イメージ的に認識するには、次の図を見ればいい。

     粒子論    ・────────── →
   
    超球理論   ))))))))))))))))))))))))))))) →

 粒子論では、一つの粒子が、直線運動する。その粒子は、波の性質も備える。
 超球理論では、一つの粒子があっても、その粒子はまったく移動しない。最初から最後まで、同じ場所にある。ただし、その粒子が消滅すると、エネルギーが発生する。そのエネルギーが波となって空間全体に伝播する。そして、エネルギーが波となって伝播したあとで、そのエネルギーが到達した場所のうちの1箇所で、「波から粒子へ」という転換が起こる。……そして、空間を伝播している途中では、波としてのエネルギーは、粒子ではない。位相が 1 の粒子でもないし、位相が -1 の反粒子でもないし、位相が i の完全なるエネルギーでもない。波としてのエネルギーは常に振動している状態である。その状態は、調和振動子の振動でもあるし、超球の回転でもある。
 超球理論では、空間を伝わる量子は、波である。それは「粒子の重ね合わせ」ではない。その意味で、「粒子」という発想から逃れることのできないコペンハーゲン解釈とは、まったく異なるものである。

 ついでに言えば、現代の量子力学はすべて、「場の量子論」である。朝永のくりこみ理論であれ、強い相互作用や弱い相互作用を考える理論(標準理論)であれ、ゲージ理論であれ、いずれも「場の量子論」である。
 にもかかわらず、量子論の主流派は、「場の量子論」のかわりに「粒子の量子論」にしがみついて、コペンハーゲン解釈を信じている。それは20世紀前半の発想であり、1世紀古いのだが。
 そこで、20世紀前半の発想である「粒子の量子論」にもとづく「コペンハーゲン解釈」のかわりに、「場の量子論」にもとづく「超球理論」を取るべきなのだ。21世紀には。

 ──

 結論。

 量子論を正しく理解するには、「量子論は場の理論だ」という事実を直視するべきだ。
 その上で、量子論のモデルとしては、粒子のモデル(波の性質を持つ粒子というモデル)を捨てて、場のモデルを取るべきだ。場のモデルとは、「空間は調和振動子によって構成されている」というモデルだ。
 そのようなモデルは、超球理論しかありえない。(複素数の調和振動子というモデルを取れば自然に超球になるからだ。)
 粒子のモデルを取るコペンハーゲン解釈は、20世紀前半の古臭いモデルであるにすぎない。それはもはや時代遅れだ。21世紀には、「場の理論」に基づくモデルを取るべきだ。なぜなら、量子論とは、「場の理論」であるからだ。(量子論の数式を見ればわかる通り。)



 【 補説 】
 補足的な話を少し加えておこう。

 (1) 場の量子論

 「場の量子論」とは何か? それは、量子論の教科書を読めばわかる。
 量子力学は、初歩的には、「質点の力学」を拡張する形で導入される。そういう形で初歩の量子力学を一通り学んだあとで、「空間の量子化」という措置が導入される。そこでは、空間が調和振動子の集合として認識される。こうして構成された理論が「場の量子論」だ。
 そして、「空間が調和振動子の集合である」というのが、超球理論のモデルだ。ただしその調和振動子は、虚数の次元をもつ。そこが超球理論の独自性だととも言える。(普通は、数式が虚数であるだけで、虚数の次元という発想はない。)

 (2) 近接作用・遠隔作用
 
 「場の量子論」が必要である理由は、近接作用遠隔作用 という概念からもわかる。
 古典力学的な発想では、力は「遠隔作用」として存在した。つまり、離れた二つの質点が、万有引力のような力で相互影響する。その力は、瞬間的に空間を伝わる力だ。
 しかしながら、電磁力は、そのような「遠隔作用」では説明されない。電磁力は古典力学の発想では認識できないのだ。
 ではどう認識されるか? 「電磁力は空間に電磁場が生じたときの力だ」というふうに認識される。ここでは、空間が「場」を構成して、その「場」のなかで物体が「場」からの力を受ける。そして、物体は、それ自体が「場」を構成する。つまり、
    物1 → 場 → 物2

 という形で影響が生じる。ここでは、二つのものがそれぞれ場との間で力を及ぼす。これが「近接作用」だ。(空間を経由する作用、というのが本質。「空間経由作用」と名付ける方が正確かもしれない。)
 ともあれ、電磁力は近接作用である。それは、
   電磁力は「電磁場」という「場の理論」で説明される

 ということでもある。ここでも「場の理論」が重要となる。
 ひるがえって、粒子説(量子を粒子として認識する)というのは、場の理論ではない。それは遠隔作用の発想に似て、古典力学的であり、あまりにも時代遅れであり、真実からは遠く隔たっているのである。
( ※ あと百年もすれば、21世紀初頭の物理学は、「場の理論をモデルとして理解できなかった、一世紀前の古臭い物理学」と見なされて、軽蔑されるだろう。「21世紀初頭の物理学は、どうしてこれほど古臭い古典力学的なモデルから、脱することができなかったのか」と呆れられてしまうだろう。)

 (3) ウェーブ

 現代の物理学者はどうしてこれほど古臭い考えに縛られているのか? それは、「波とは何か」ということを、本質的に理解できていないからだ。
 「量子は粒子と波の双方の性質を持つ」
 というふうに物理学者が述べているとき、たいていは、基本的には「粒子」の立場を取り、そこに「干渉縞が生じる」というふうな発想を足すだけだ。その発想はあくまで「粒子」なのである。
 しかし、「波とは何か」という本質を考えるならば、次のことがわかる。
 「波は、物自体は移動せず、媒体の位相だけが次々と変化していく」

 このことは、サッカー球場などの観客席における「人のウェーブ」を見るとわかる。たとえば、次の動画だ。
  → 観客席のウェーブ (動画)
 これを見ればわかるように、人は位置を移動しない。最初から最後まで、同じ席に着いている。ただし、着席から起立へというふうに姿勢を変える。つまり、位相を変える。そして、多くの人々が連続的に次々と位相を変えることで、波が移動しているように見える。(実際には物は移動していないのだが。)
 以上が波の本質だ。そこでは、媒体は移動しない。物質レベルでは何も移動しない。単に位相が次々と変化するだけだ。ここでは、場が変化しているのであって、物が移動しているのではない。
 このような認識をすることで、「場の量子論」の認識を取ることができる。それは、「粒子説」の認識とは、まったく異なる認識だ。

 (4) 数式
 
 超球理論はなぜ、このようなモデルを取るのか? それはただの思いつきか? 違う。
 超球理論の発想の元になったのは、物理学の数式である。まずは物理学の数式をじっくり読み込む。その数式をあれこれいじって、さまざまな計算をする。しかし、そういう計算は、どうしても、ただのつじつま合わせにしか過感じられない。なるほど、たしかに数式を計算すれば結果が出るし、その結果は実験と合致する。しかし、そうしてそうなるのかは、さっぱりわけがわからないのだ。
 そこで、「数式は何を意味するのか?」を考える。たいていの物理学者に聞いても、「数式の意味なんか考える必要はない。とにかく計算結果が実験と合っていればいいんだ」という答が来るだけだ。しかしここで、「数式とは何か?」という本質を考える。すると、自然に、次のことがわかる。
  「量子力学の数式は、(虚数を使う)場の理論だ」
 しかしながら、コペンハーゲン解釈などの認識は、そうではなくて、こうなる。
  「量子は、粒子と波の性質を持つもので、基本的には粒子である」
 ここでは、数式とモデルとが、食い違っている。そこで、数式に合わせて、新たなモデルを構築してみようとする。そうしてできたものが、超球理論のモデルだ。
 つまり、「場の理論」である現代の量子力学を、素直に解釈すると自然に出るのが、超球理論だ。
 ひるがえって、コペンハーゲン解釈というのは、「場の量子論」がまともにできていなかった、20世紀初頭のモデルである。そんな一世紀も前の理論に従うモデルを使うと言うことの方が、本質的におかしいのである。古臭い!
 


 ※ 以下は細かな話。場の量子論よりは、前項の「エネルギー保存則」に関連する話。
 
 [ 付記1 ]
 ソリトン(孤立波)という概念も重要である。調和振動子を伝わる波は、普通の往復運動をする波でなく、ソリトンであることもある。というか、ソリトンを基本として考えた方がいいだろう。
 玉突きモデルにおける「鉄球の玉突き」では、ソリトンによって理解できる。
 玉突きモデルの場合も、それぞれの鉄球では、「左から入ったエネルギーが右に出る」という形で、エネルギー保存則が保たれている。

 [ 付記2 ]
 二重スリット実験について、もう少し詳述しよう。
 発射点で電子が消失したあと、エネルギーの波が空間に伝わり、到達点の感光板で「波から粒子へ」という転換が起こる。この際、次のようになる。
  ・ 発射点では、電子エネルギーに等しいエネルギーが消失する。(空間に出る)
  ・ 到達点では、電子エネルギーに等しいエネルギーが出現する。(空間から受ける)

 すると、疑問が起こる。到達点に到達するエネルギーは、空間全体に伝わったエネルギーのうちのごく一部にすぎない。最初に消失したエネルギーを1とすれば、1よりもずっと小さなエネルギーしか到達点には到達しない。なのに、どうして、そこでは電子が発生するのか? 

 このことは、古典論では理解できないが、量子論では理解できる。古典論では、基準値となるエネルギーがないと粒子が出現しないはずだが、量子論では、基準値となるエネルギーがなくても粒子が出現する確率がある(その値はゼロではない)。
 その出現確率は、特定の1箇所では小さいとしても、あちこちでの値をすべてひっくるめると、確率の総和はちょうど1になる。なぜか? もしそうでなければ、エネルギーが消失してしまうので、エネルギー保存則が保たれないからだ。
 たとえば、いくつかの場所で、 0.1 とか 0.05 とかの値になる。それらの値をすべての場所で総計すると、きっちり 1 となる。
 では、 0.1 となった場所で粒子が発生するとしたら、そこではどんな現象が起こっているのか? 
 そこでは、粒子を出現させるために足りる 1 というエネルギーがない。なのに、粒子が出現する。
 それはいわば、10円しかもっていないのに、100円の商品を買うようなものだ。本来ならば、できないことだ。なのに、それができてしまうとしたら、差額の 90 円は赤字になっていることになる。 
 量子の場合も同様だ。エネルギーが 0.1 ならば、粒子を出現させるための 1 というエネルギーがないので、差にあたる 0.9 というエネルギーは不足する。その分は、赤字が生じたと考えればいい。つまり、「負のエネルギー」が生じたと考えればいい。そして、その「負のエネルギー」は、空間全体を伝播していく。その一方で、 0.1 のエネルギーのある場所以外には、残りの 0.9 のエネルギーが残っている。この双方は、帳尻が合う。
  ・ 0.1 のエネルギーの残りの分(空間に余っているエネルギー)
  ・ 粒子を発生させたときに赤字となった分(負のエネルギー)

 これらのエネルギーは、どちらも分量が 0.9 であり、帳尻が合う。だから、この双方は、エネルギーが空間を伝播するうちに、全空間では相殺する。こうしてエネルギー保存則は保たれる。
( ※ ただし瞬間的には、エネルギー保存則が保たれないこともある。空間の一部で電子が余分に発生して直後に消滅することもあるだろうし、反電子が余分に発生して直後に消滅することもあるだろう。微細な短時間のアンバランスは許容される。それは不確定性原理の示すことでもある。)
 


 【 関連項目 】
 本項に関連する話を、本サイト内でもすでに述べたことがある。そちらも参照。

  → 場の量子論とは

  → 二重スリット実験とは
     ※ 特に、外村彰の実験 

 ──
 
  → 次項 (さらにつづく)
posted by 管理人 at 22:03| Comment(4) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初書き込みとなります。

[付記2]末文について、実験による粒子の発生と不確定原理による粒子の発生を区別した理由は何でしょうか?
Posted by ねもげん at 2012年02月03日 15:57
実験の方は量子論の確率的な現象なので、回数を多大にすれば、理論通りの確率分布が得られます。

 不確定性原理は、個別の1回の事象なので、個別の1回については確率的な議論は原理的にできません。

 両者はもともと別のレベルの話。

 ま、どっちみち、たいした話題じゃない。量子論というよりは確率論の理解みたい話です。サイコロやコインで考えても事情はほぼ同様。考えたければ一人で考えてください。私は関係ない。
Posted by 管理人 at 2012年02月03日 18:46
[付記2]では、実験に関する個別の1回について詳細に述べているのではないでしょうか?
そう解釈する理由は、電子の干渉縞ではなく、電子の発生についてのエネルギー遷移を解説なさっている為です。

末文(不確定性原理)については、真空中の粒子・反粒子の対発生と勘違いしました。
申し訳ございません。

さて、[付記2]の本文についてですが、負のエネルギー=反粒子の発生の起源エネルギーと解釈しました。

最後に、管理人様は本当に「場=超球(有限小サイズ)」をお考えでしょうか?
(小生は無限になめらかな場の体現としての物質をかねてより考察しており、各理論における基準量子モデルは、あくまで自然現象の起源を直感でとらえる為にのみ提出されているように思えてなりません。管理人様も、超球ではなくなめらかな場と観測可/不可次元のエネルギー相互転換におけるおよその制約・理論(観測不可側の)を構築されているのではないですか?)
Posted by ねもげん at 2012年02月04日 01:52
実験は個別の1回の現象であり、理論は多数回についての一般論です。(理論は個別の現象については予想しません。)……この件は、シュレーディンガーの猫の箇所で述べたとおり。

> 最後に、管理人様は

 これ以下の話は、そちらの解釈で合っています。
 超球というのは、固定的なものではなくて、それぞれの粒子ごとに可変的にサイズを変えますから、一種のわかりやすいモデルです。現実に存在するのは、なめらかな場でしょう。そこから、有限サイズの粒子が出現します。
 なめらかな場の方は、「複素エーテル」という言葉で説明しています。こちらが本体。
Posted by 管理人 at 2012年02月04日 09:19
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