リビアの内戦は、独裁者の追放という形で終結した。このような形の「戦争」をどう評価するか? ──
一般に、「すべての戦争は悪である」という発想がある。
しかし、今回の戦争は、「独裁者の追放」という形で集結した。それによる被害は、
・ 政府軍側は、傭兵が多くて、かなりの死者数
・ 反政府軍側は、地方部族の国民が多くて、死者数は少数
という形となり、国民の側の被害は少なかった。
それでいて、「独裁者の追放」という利益は大きかった。全国民が独裁者の圧政から解放されたことは、とても喜ばしいことだと言える。(そう思わない人は、独裁者のいる北朝鮮で暮らせばいいだろう。)
つまり、「すべての戦争は悪である」という発想は、今回においては成立しなかった。リビア解放の戦争は、正義の戦争だった。被害も最小で済んだと言えるだろう。
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このような戦争について、私は以前、どう評価したか? 初期の時点で、次のように評価した。
→ リビア情勢とカオス理論
ここにすべては書いてある。それを読んでほしい。
簡単にまとめるなら、次の原理だ。
「流れを右から左へ変えるような戦争は、多大なコストがかかるので好ましくないが、流れが右か左か迷っているような分水嶺となる戦争は、小さなコストによって(右か左かという)大きな違いをもたらす。ゆえに、そのような戦争では、介入することによって、好ましい結果に導く方がいい」
この原理によって、次のように説明した。
「リビアの状況は、二つの状況のあいだで揺らいでいる。体制側の勝利で安定するか、反体制側の勝利で安定するか。そのどちらの状況になるとも決まらずにいる。ここでは、外部の力によって、一方の側に安定させることが可能だ。国際社会の要望が、カダフィ追放による民主主義政権の樹立であれば、その方向に進むように力を入れると、容易にその方向に進めることができる。(今のようなどっちつかずの状況であれば。)」
「しかしながら、いったん状況が安定したあとでは、それを反対方向に動かすことは、非常に困難である。たとえば、カダフィ側が勝利したら、それをひっくり返すことは非常に困難である」
そのあとで、次のことを提言した。
「国連主導のもとで(あるいは米国中心の主要国の連合で)、リビアに介入する。カダフィ側の傭兵を壊滅させる」
具体的には、降伏を呼びかけたあとで、次々と空爆して、傭兵を壊滅させればいい。
そして現実には、そうなった。つまり、NATO 軍の介入のもとで、空爆により、カダフィ側の軍を壊滅させた。
私の提言通りと言える。ただ一つ、違いがあるとすれば、NATO 軍の主力が米軍でなくフランス軍であったことだ。しかしまあ、そのくらいの違いは、どうでもいいだろう。
私としては、フランスの決断を高く評価したい。サルコジ大統領というのは、ろくでもない大統領なのだが、リビア内戦への介入については、きちんと正解を出したことになる。おかげでリビアの国民は救われた。
[ 余談 ]
私のことを「戦争好きの軍事マニアめ!」と思っている人もいるだろうし、私のことを「軍事のことも知らないで平和を好む軟弱な素人め!」と思っている人もいるだろう。
しかし私は、どちらでもない。合理主義だ。(人的な)コストがとても小さくて大きな戦果が得られるならば、戦争をした方がいい。(人的な)コストがとてもかかるならば、戦争をしない方がいい。物事を一律には考えない。その点では、軍事マニアの右翼とは違うし、降参することしか知らない左翼とも違う。
【 関連サイト 】
→ リビア内戦・写真集
2011年08月24日
過去ログ
ttp://nando.seesaa.net/article/413347804.html
では管理人様は以下のように述べておいででした。
>( ※ なお、以上のことは、イラクに限ったことではない。リビアも同様だった。
>カダフィ大佐を排除することだけを考えて、後先のことを考えなかった。
>結果的に、リビア軍の大量の武器は、暴力的に奪われた。かくて、テロ組織が生み出されこととなった。
>……何のことはない。リビアで大量の武器組織を供給して、あえてテロ集団を誕生させたのは、
>カダフィ体制を崩壊させた西側諸国だったのである。
>西側諸国があえてテロ集団を誕生させたのだ。軍事介入によってリビア政府を崩壊させる という形で。)
一方こちらの記事では
>しかし、今回の戦争は、「独裁者の追放」という形で集結した。
>(中略)
>それでいて、「独裁者の追放」という利益は大きかった。
>全国民が独裁者の圧政から解放されたことは、とても喜ばしいことだと言える。
>(そう思わない人は、独裁者のいる北朝鮮で暮らせばいいだろう。)
>つまり、「すべての戦争は悪である」という発想は、今回においては成立しなかった。
>リビア解放の戦争は、正義の戦争だった。被害も最小で済んだと言えるだろう。
>そのあとで、次のことを提言した。
>「国連主導のもとで(あるいは米国中心の主要国の連合で)、リビアに介入する。カダフィ側の傭兵を壊滅させる」
>具体的には、降伏を呼びかけたあとで、次々と空爆して、傭兵を壊滅させればいい。
>そして現実には、そうなった。つまり、NATO 軍の介入のもとで、空爆により、カダフィ側の軍を壊滅させた。
>私の提言通りと言える。ただ一つ、違いがあるとすれば、NATO 軍の主力が米軍でなくフランス軍であったことだ。
>しかしまあ、そのくらいの違いは、どうでもいいだろう。
>私としては、フランスの決断を高く評価したい。
>サルコジ大統領というのは、ろくでもない大統領なのだが、リビア内戦への介入については、きちんと正解を出したことになる。
>おかげでリビアの国民は救われた。
カダフィ政権打倒の為の軍事介入を提言され、フランス軍の軍事介入を高く評価され、
カダフィ政権のリビア政府を崩壊させたことを「とても喜ばしいこと」だとされています。
また、引用記事にあるような「後先のことを考え」ておられるお言葉もないように見えます。
両方のお言葉には一致が見られないように思えるのですが、どのように理解すればよろしいでしょうか。
>カダフィ大佐を排除することだけを考えて、後先のことを考えなかった。
のも、「2011年の時点で、2015年の情報を入手することは不可能」だったからなのではないでしょうか。
時間の経過に伴う事態の変化に合わせて、ご意見が変わることも当然あるかとは存じます。
肯定されたお立場から否定されるお立場へ変わられることもあるかと存じます。
しかしながら否定される際、かつて肯定しておられた過去のご自分の姿勢も併せて批判されないのは、
筋が通らないように思われます。
肯定しておられた過去がなかったかのように批判を口にされるのは、卑怯な印象をお受けしております。
> しかしながら否定される際、かつて肯定しておられた過去のご自分の姿勢も併せて批判されないのは、 筋が通らないように思われます。
私はカダフィ大佐を排除することだけを考えてリビアで戦争をした覚えはないのですが、もしかしたら私が失念していたのかもしれませんね。検校さんのおっしゃるとおり、私は戦争していたのかもね。
それではお詫びします。
2011年当時、私がリビアに侵攻して、爆撃して、多大なリビア人を殺害したのは、私の誤りでした。当時の私の戦争行為が歴史的に誤りであったこと認めて、お詫びします。このように私がふたたび国家レベルの戦争をすることがあったら、ふたたびご指摘ください。
これでいいですか? 検校さんのご指摘は、いつもいつも、本質を見事に突いていて、すごいですね。誤読して重箱の隅を突く誰かさんとは違うので、感心します。さすが。
> かつて肯定しておられた過去のご自分の姿勢も併せて批判されないのは、 筋が通らないように思われます。
過去記事のことは単に忘れていただけです。以前の記事をすべて覚えているわけじゃないし。四年も前に別のブログに書いた記事と照合して矛盾点を見つけ出す……なんて暇なことをしている人はめったにいません。だいたい、そんなことをやり出したら、誰だって矛盾点を見つけることはできる。大量の記事を読んで、その中から矛盾点を見つけて指摘する、……なんてことをやっても、意味はない。たいていは、過去から現在へと意見が変化しただけ、ということで片付く。
「過去記事のことを忘れて言及しないのはけしからん」なんて言い出したら、私のブログ記事では大量の矛盾点を見つけることができますよ。
行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず。
それだけ理解しておけば済むことです。過去記事との食い違いや矛盾点を見出しても、「ああ、そうか」と思うだけで足りるし、いちいち「卑怯だ」などと詰る必要はないのです。
そんな下らない無意味なことをするより、生産的なことに知性を使いましょう。せっかくの知性が泣きますよ。
> カダフィ大佐を排除することだけを考えて、後先のことを考えなかった。
カダフィ大佐を排除すること自体は正しくて、それを本項では主張しています。
後先のことを考えなかったというのは、カダフィ大佐排除以外の諸点を考えていなかったということです。「Aは正しかったが、Bが抜けていた」ということです。これが2015年の主張です。
2011年 …… Aは正しかった。
2015年 …… Aだけあって、Bが抜けていたのは、正しくなかった。
この両者は、別に、矛盾していません。これを矛盾だと思うのは、そちらの論理ミスでしょう。
私が批判した相手は、特定の学者や個人ではなく、リビアに侵攻したフランス軍などです。政府および軍です。
これらを批判した私の意見に難点があったとしても、その場合には、
「いや、私はそうは思いません。私はこれこれのように考えます」
というふうに別の反対意見を出せば足りるのです。
なのに、「政府や軍を批判したあなたの意見には自己矛盾がある。あなたが自己批判しないのは卑怯だ」というふうに、私という個人を攻撃するのは、論争の仕方としてはまったく間違ったことです。
一般に、学術誌では、反対意見を掲載することはあっても、元の意見を出した人を個人攻撃することは許されません。意見への批判はありえますが、意見を出した人個人を攻撃することは許されません。
このようなことは、学術論争では、基本的なエチケットです。このようなイロハをまずは理解してください。検校さんは十分に知性があるのに、その知性の使い方を間違っています。自分の知性を、もっと社会に有益な方面に使いましょう。私のサイトなんて、世の中のほとんどの人は知らない、小さなサイトです。こんな小さな相手のミスをアラ探しするより、巨大な国や軍のミスを批判しましょう。その方がずっと有益です。
>私はカダフィ大佐を排除することだけを考えてリビアで戦争をした覚えはないのですが、
>もしかしたら私が失念していたのかもしれませんね。検校さんのおっしゃるとおり、私は戦争していたのかもね。(中略)
>このように私がふたたび国家レベルの戦争をすることがあったら、ふたたびご指摘ください。
管理人様が戦争をしていたと申し上げた部分はなかったものと存じますが、
誤読されておらるのではないでしょうか?
お言葉の要領を得ないのですが、お疲れだったのではないでしょうか?
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>なのに、「政府や軍を批判したあなたの意見には自己矛盾がある。あなたが自己批判しないのは卑怯だ」というふうに、
>私という個人を攻撃するのは、論争の仕方としてはまったく間違ったことです。
>一般に、学術誌では、反対意見を掲載することはあっても、元の意見を出した人を個人攻撃することは許されません。
>意見への批判はありえますが、意見を出した人個人を攻撃することは許されません。
>このようなことは、学術論争では、基本的なエチケットです。このようなイロハをまずは理解してください。
ここまでのやり取りが「学術論争」だったというご認識がまず驚きですがそれはさておきまして。
>「あなたが自己批判しないのは卑怯だ」というふうに、
>私という個人を攻撃するのは、論争の仕方としてはまったく間違ったことです。
「肯定しておられた過去がなかったかのように批判を口にされるのは、卑怯な印象をお受けしております。」
と申し上げましたが、
「ご言動に対して、否定的な印象を受けた」という言葉は、
管理様にとって自身への「個人攻撃」なのですね。
もし私の言葉でお心が傷つかれたとしたら、お詫び申し上げます。
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>2011年 …… Aは正しかった。
>2015年 …… Aだけあって、Bが抜けていたのは、正しくなかった。
>この両者は、別に、矛盾していません。これを矛盾だと思うのは、そちらの論理ミスでしょう。
2011年と2015年のお言葉を「矛盾している」と申し上げたことはなかったものと存じますが、
誤読されておられるのではないでしょうか?
管理人様は2011年時点で「B」については全く言及されることなく「(Bが抜けていた)A」を肯定しておいででした。
そして2015年には、「Aだけあって、Bが抜けていた」ことを否定しておられます。
2011年時点では「Bが抜けていた」のは管理人様が批判される西側諸国も、管理人様も同じでした。
しかし管理様が批判されるのは西側諸国だけ、という点に疑問と否定的な印象を抱いております。
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>2011年 …… Aは正しかった。
>2015年 …… Aだけあって、Bが抜けていたのは、正しくなかった。
>私が批判した相手は、特定の学者や個人ではなく、リビアに侵攻したフランス軍などです。政府および軍です。
>これらを批判した私の意見に難点があったとしても、その場合には、
>「いや、私はそうは思いません。私はこれこれのように考えます」
>というふうに別の反対意見を出せば足りるのです。
2015年の「これらを批判した私の意見」に「難点があった」とは申し上げておりません。
2011年時点で「Bが抜けていた」のは西側諸国も管理人様も同様でした。
「Bが抜けていたのは、正しくなかった。」と批判されるだけでなく、
西側諸国も管理人様も、なぜ2011年時点で「Bが抜けて」しまったのかを考えてその原因を改めなければ、
今度は2019年にまた別の「Cが抜けていたのは、正しくなかった。」という恐れがあるのではないかと存じます。