「我思うゆえに我あり」というデカルトの有名な言葉については、次の解釈が普通だ。
一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。──
( → Wikipedia )
一方、これは誤訳だ、という説がある。
これはつまり、"I am" というのを "I exist" でなく "I am (something)" というふうな形で解釈することになる。
"cogito, ergo sum"つまり、「コギト・エルゴ・スム」とラテン語命題にされるのだが、これってデカルト自身はラテン語で言ってなくて、ヴァルガーに"Je pense, donc je suis."としか言っていない。ほいで、これの英訳が"I think, therefore I am."
……
「私は思念している、だからそれが私だ」なのではないか。
( → 極東ブログ )
この解釈は意味的には妥当だろう。上記の Wikipedia の最後にも、次のような説明がある。
アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。このような理解の方が自然だ。
──
ここで、私なりに、論理的に考えよう。
次の二通りの解釈がある。
「我思う、ゆえに我は存在する」
「我思う、ゆえに我は思念する」
このどちらが成立するか? 言葉の解釈としてならば、どちらも成立しそうだ。ただし、真偽で言うなら、前者は偽であり、後者は真である。つまり、前者は成立せず、後者だけが成立する。
ここで、後者が真であることは、間違いない。なぜならば、それは「トートロジー」(同語反覆)だからである。
「我思う、ゆえに我は思念する」とは、「我思う、ゆえに我は思う」ということであるから、「 A ならば A」という論理式となり、常に真である。ただし、ろくに意味もない。
大事なのは、前者が偽であることだ。
前者は偽である。つまり、
「我思う、ゆえに我は存在する」
というのは、偽である。
そのことを理解するには、次の例を考えるといい。
「夢のなかで自分の存在を考えている。夢のなかにいる自分が『我思うゆえに我あり』と考えている」
このような自分は、夢のなかの自分である。その自分は、何か奇妙なことをしている。たとえば、大金持ちになって、マリリンモンローとキスして、空飛ぶじゅうたんに乗っている。そこから転げ落ちるが、翼を生やして、自由自在に飛んでいる。ところが突然地面が割れて、そこに飲み込まれて、地獄に落ち込んだ。目が覚める直前に、「これは現実なのか? 夢ではないか?」と疑いながら、「我思う、ゆえに我あり」と考えている。
このような自分は、自分自身かもしれないが、本当の自分ではなく、「夢のなかの自分」であるにすぎない。それは、現実には存在しないが、(夢のなかで思念する思考体として)夢のなかに存在する。
「存在する」という言葉を「(架空世界や夢の世界でなく)現実世界に存在する」という意味で理解するのであれば、夢のなかの自分は存在しない。それゆえ、夢のなかの自分が「我思う、ゆえに我あり」と考えても、そのような自分は存在しない。(現実世界には存在せず、夢のなかだけに存在する。)
しかしながら、そのような思考作用がなされていることは事実だから、そのような思考体である自分(眠りながら夢を見ている自分)が、現実世界に存在することは、事実である。

ただし、夢見ている自分が存在することを、夢のなかの自分は理解できない。夢のなかの自分が「我思う、ゆえに我あり」と考えても、その命題はまったくの偽である。夢のなかの自分が「我は存在する」と信じても、実際には、その「我」は存在しないのだ。
とはいえ、夢のなかの自分が思考しているということは、現実の自分の思考作用としてなされている。
ここでは、次の二重性がある。
・ 夢のなかで自分が思考している
・ 自分が思考している、ということを、現実の自分が夢に見ている。
夢のなかの自分は、思考しているつもりでいる。しかし本当は、「自分が思考している」という夢を、現実の自分が(夢として)見ているだけだ。
その意味で、「自分は思考している」と自分が思考することは、自分の存在性を裏付けない。単に「自分は思考している」と思考する、という自己認識の作用があるだけだ。そして、その自己認識が夢であるか現実であるかは、思考している自分自身には理解できないことである。つまりそこには、何の確実性もないのだ。(デカルトの否定。)
結論。
自分が何かを思っているということは、現実における何らかの真実を意味しない。自分の思っているすべては夢であるかもしれないからだ。
[ 付記 ]
本項で述べたことは、
「錯覚とは何か?」
ということと、ほぼ等価である。(逆の面から見れば、「錯覚」となる。)
一般に、世間には、錯覚が広まっている。
「地球温暖化は炭酸ガスのせいだ」
「太陽光発電はエコである」
「エコキャップはエコである」
こういう錯覚がなかなか是正されない理由も、本項からわかるだろう。
要するに、こういう錯覚をする人々は、夢を見ているのだ。そして、夢のなかで、自分の正しいということを信じきっているのだ。そのせいで、現実世界における真実に気づかない。
ここまで来ると、話は岸田秀の「唯幻論」(共同幻想論)に似てきそうだ。
岸田秀の話は、下記にもある。
ものぐさ精神分析
【 読者批評 】
この本を読んで目からうろこがぽろぽろと剥がれ落ちました。いうならば 魚のうろこを打った時のようです。
「すべては幻想である」と言うのが著者のメッセージでありますが ヤケノヤンパチを謳っているわけではありません。冷静に丁寧に説明してあります。
[ 余談 ]
人工頭脳が「我思うゆえに我あり」と思ったら、どうだろう?
人工頭脳が、肉体をもつロボットであれば、まだ問題はない。
しかし人工頭脳が、クラウド上のソフトウェアにすぎないとしたら、どうなのか? そのソフトが起動しているときのみ存在することになるのか? そして、存在するとしたら、どこに存在するのか? クラウド上に? それとも、ソフトウェア空間のなかに?
また、ゲームソフトのなかの登場人物が、「我思うゆえに我あり」と思ったら、どうだろう?
バーチャル空間が問題となる時代には、デカルトの言葉も疑われる。
今の世界を見たら、デカルトさんもびっくりか。 (^^);
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似たネタだが、「実は主人公は死んでいた」というオチの映画もある。主人公は、自分が存在しているとばかり思っているが、実は存在していなかったとわかる。(デカルトの主張には矛盾する。)
語り口があまりにも巧みであり、見た観客は衝撃を受ける。ネタバレがわかっていて、もう一度見直しても、やはり衝撃を受けるようだ。よほど上手なんですね。

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「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。
でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」
であると。
たとえ、
「疑っている」ということを疑ったとしても、
やっぱり「何かを疑っている」ことは真なのだ。
たとえ、すべてが夢であっても、
その夢を見て、夢じゃないかと疑っている自分が存在することは決して疑えない。
→ http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/wareomou.html
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しかしその説明の内容は成立しない。上の趣旨は、夢のなかに存在することと、現実世界に存在することを、混同しているからだ。
それが、本項の趣旨だ。
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”夢の中で蝶になった。ひらひらと、大変楽しく飛びまわったものである。然し、夢から覚めてみると人間に戻っている。人間に戻っているときは当然「人間の荘子が夢で蝶になった」と思っているが、この人間としての存在は、逆に「蝶々が夢を見て人間になった気になっている」という可能性をどうして否定できるだろうか。”
こちらの方が、古く、デカルトよりは有名でないものの、一枚上手な気がします。
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http://homepage3.nifty.com/sawai/descartes.html
あからじめ指摘しておこう。