2010年10月24日

◆ トンデモと仮説

 トンデモとは何か? 仮説とはどう違うのか? トンデモマニアはそこを誤解している。そのせいで自分自身がトンデモとなってしまっている。

  ( ※ 本項は、特に読む必要はありません。たいしたことは書いてありません。)
 ──
 
 トンデモマニアは、自分自身がトンデモである。そのわけは、彼らがトンデモとは何かを、勘違いしているからだ。

 トンデモというのは、定説のある分野で、定説に反する異端の説を唱えることを言う。特に、科学的な根拠のないものを言う。科学的な根拠があるものは、定説には反していても、異端の説という。
 異端の説として有名なのは、「常温核融合」だろう。これは、定説に反するのだが、ある程度の科学的な根拠があるので、異端の説となる。「常温核融合」を科学的に否定することができていないので、これは「トンデモ」ではない。

 一方、「相対性理論は間違っている」というようなのは、定説に反するだけでなく、科学的根拠が皆無なので、「トンデモ」である。

 以上のように、たとえ定説に反していても、科学的な根拠の有無によって、「異端」と「トンデモ」とは区別される。
( ※ しかしまあ、科学的な根拠があるかどうかは、主観の差もあるので、トンデモであるか否かは、判断しがたいこともある。「トンデモだ」という説が必ずしも間違いとは言えない。)

 ──

 一方、トンデモマニアが話題にするのは、次のようなものだ。
 「科学的に定説がない分野で、主流である仮説を、科学的な定説と見なして、それに反する仮説を、トンデモと呼ぶ」

 これはまあ、「科学とは何か」を理解していない、小学生的な態度だ。
 「先生が言っていることは全面的に正しい。先生の言葉に反することを言う人は間違いだ」

 このような態度は、ホメオパシーの信者にも見られる。つまり、トンデモマニアというのは、ホメオパシーの信者と同じで、一定の教義を盲目的に信じている、非科学的な人々なのである。

 一般的に、科学的に定説がない分野で、主流である仮説というのは、何らかの欠陥をかかえている。そのせいで、主流にはなれても、定説にはなれない。しかしながら、初心者がそれを見ると、「科学者が一番支持している説だから、それはきっと真実なのだ」と思い込む。
 比喩的に言うと、19世紀後半には、古典力学が優勢だった。そこで、
 「原子や分子の世界も、古典力学が成立しているはずだ」
 という発想が主流になった。そして、
 「水素原子は陽子のまわりを電子が回っている」
 というようなモデルをつくったが、その場合、古典力学に従うと、陽子と電子はくっついて、原子は崩壊してしまうはずだ。こうして自己矛盾に陥り、その仮説は定説とはなりえなかった。
 にもかかわらず、ここでトンデモマニアが出現すると、こう言うだろう。
 「その説が一番確からしいのだから、その説が真実だ。それに反することを言う奴は、トンデモだ。量子力学なんて、トンデモだ」 

 要するに、仮説と真実との区別ができないのが、トンデモマニアだ。たとえ誤った仮説であっても、それが主流派の説というだけで、それを「真実」と見なす。それを盲目的に信じてしまう。ホメオパシーの信者と同様に。

 ──

 現代科学では、定説がない分野は、いくつもある。次のように。
  ・ ダーウィンの進化論
  ・ 利己的遺伝子説
  ・ 走鳥類は翼のある鳥類から進化した
  ・ 鳥は恐竜から進化した
  ・ シュレーディンガーの猫(の解釈)
  ・ 二重スリット実験


 これらはいずれも仮説であり、定説ではない。しかしトンデモマニアは、それが仮説であるとは理解できず、それを学界の定説だと思い込んでしまう。以下のように。

 (1) ダーウィンの進化論

 ダーウィンの進化論は、定説ではなく、仮説である。
 「生物は進化した」という意味でなら、その主張は正しい。しかし、「生物は進化した」というに唱えたのは、ダーウィンではなくて、むしろその前のラマルクなどだ。他にもいるだろう。別にダーウィンが初めてではない。その意味で、「進化」という概念は、ダーウィンの説ではない。
 ダーウィンの進化論は、「小進化の蓄積で大進化が起こる」という説だ。しかしこれは、まったく証明されていない。むしろ、化石的な事実は、それに反する。この件は、下記で詳しく述べたとおり。
  → 断続進化 (断続平衡説)
 ただし、ここを誤解する人々もいる。
 「中間的な化石がないというのは、まだ化石が見つかっていないだけだ」
 「中間的な形質が見つからなくても、遺伝子は連続的に変化している」
 というふうに。これは誤読の典型だろう。
 「中間的な化石がない」というのは、昔あった批判だが、そんな批判は意味がない。その批判は、ここでは話題にはなっていない。彼らは、話題になっていない批判を取り上げて、妄想を相手に反論している。
 断続進化において重要なことは、「中間的な化石がないこと」ではなくて、「種というものが存在すること」である。たとえば、「ホモサピエンス」とか「ネアンデルタール人」とかいう種が存在することだ。
 仮に、ダーウィンの進化論が正しければ、どの生物もなだらかに連続的に変化するはずだから、種という概念は成立しないはずだ。たとえば、ホモサピエンスという種は存在しえないはずだ。20万年のうちに大幅に変化してしまっているはずだからだ。また、それ以前の旧種との境界線も、存在しえないはずだ。ところが、現実には、そうではない。

 (2) 利己的遺伝子説

 ドーキンスの利己的遺伝子説もまた、定説ではない。これが正しければ、学界の定説になっていいはずだが、定説ではなくて、あくまで「学説」という扱いだ。それというのも、そこには定説になるための十分な「証拠」がないからだ。
 さらに言えば、これは事実に反する点がある。特に、「自分の遺伝子」という概念は、自己矛盾を起こしている。
 第1に、自分の遺伝子という概念は、科学的に成立しない。たとえば、「鎌形赤血球の遺伝子」というものは成立するが、それを「ジョンの遺伝子」とか、「スザンナの遺伝子」とかいうふうに呼ぶことはできないし、そういう認識自体が非科学的だ。
 第2に、自分の遺伝子という概念を取って、血縁淘汰説を考えると、科学的に破綻する。ミツバチの行動のときに、妹育てをすると、姪には自分の遺伝子を 37.5% しか残せないが、これは自分の子を育てた場合の 50% を下回るからだ。つまり、学説が破綻する。( → 検索

 (3) 走鳥類は翼のある鳥類から進化した

 「走鳥類は翼のある鳥類から進化した」という説がある。これもまた仮説にすぎない。
 実は、この仮説が間違いであることには、証拠がある。鳥の進化の系統図だ。
  → 鳥類の系統樹
 この系統樹によれば、走鳥類は、翼のある鳥類から進化したのではない。逆だ。走鳥類は最も原始的であり、翼のある鳥類は走鳥類よりも進化した生物なのである。
 こうして、それまでの仮説は、否定された。にもかかわらず、その古い仮説を、いまだに真実だと思い込んでいる人々が多い。
( ※ 実は、ダチョウには、翼の痕跡と見なされる退化した骨がある。それを見て、「ダチョウはもともと翼があったのだ」と思い込んでしまった。しかし実は、その痕跡器官は、翼が退化したものではなくて、前肢が退化したものだったのだ。走鳥類の前には、前肢をもつ恐鳥類がいたことからもわかる。)
 
 (4) 鳥は恐竜から進化した

 鳥は恐竜から進化したというのは、定説ではない。というか、定説は何も存在していない。
 鳥は恐竜から進化したというのは、おおまかに言うなら、真実であろう。しかし、ここで言う「恐竜」とは何であるのかが、まったく曖昧だ。
  ・ ヴェロキラプトル
  ・ トロオドン
  ・ 始祖鳥
  ・ リムサウルス
  ・ オビラプトル

 これらが場合によって、かわるがわる取り上げられる。それはいわば、次のような状況だ。
 「人類は猿から進化した。その猿とは、チンパンジーとか、オランウータンとか、テナガザルとか、ニホンザルとか、マントヒヒとか、メガネザルとか、キツネザルとかだ」
 こういう説は、まったくの間違いとは言えないまでも、相当に不正確である。なぜなら、チンパンジーやマントヒヒは、人類の先祖ではないからだ。(ただし原猿類は、人類の先祖にきわめて近い。)

 「鳥は恐竜から進化した」という説も同様である。鳥の先祖は、恐竜の中のどれかではあるだろうが、その「どれか」というのが、実際にどれであるかは、まだ定説がない。
 それゆえ、始祖鳥やヴェロキラプトルを「鳥の祖先だ」と見なすことは、定説というよりは、間違いに近い。

 実は、次のような系統図が書ける。
  → 恐竜と鳥の系統図
 これに従えば、鳥の先祖は、オビラプトルという恐竜である。始祖鳥やヴェロキラプトルは、鳥の祖先ではない。したがって、
 「鳥の祖先は恐竜だ。ヴェロキラプトルには翼があったから」
 というような説は、全然成立しないはずなのだ。(それはいわば、「トカゲは二足歩行することもあるから、人類の祖先は爬虫類だ」というような理屈だ。結論自体は間違いではなくても、論理が非科学的。)

 (5) シュレーディンガーの猫(の解釈)
 (6) 二重スリット実験

 これらについて定説がないのは、周知の事実だ。さすがに物理学者は、これらが定説ではないということを理解している。
 そのせいで、定説に反する説(異端の説)を聞いても、「それはトンデモだ」と騒ぐ人はいないようだ。
 その点、物理学者の方が、進化論学者(というか進化論マニア)よりは、ずっともまともであるようだ。自分の限界を理解できるからだ。(「自分は正しい」と勝手に思い込まない謙虚さがある。)

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 以上からわかるだろう。
 定説のない分野では、異端の説が出ても、それを「トンデモだ」と見なすことはできない。なぜなら、定説がない以上、「定説に反するトンデモ」というものはありえないからだ。
 私の説は何かと言えば、「定説のない分野で新たに出した仮説」である。もちろん、仮説であり、いまだ真実とは実証されていない。「この仮説が真実だ」と断言することはできない。「この仮説は真実だと思う」と推断できるだけだ。
 ところが、ここにトンデモマニアが出現すると、
 「定説に反することを言うのは、トンデモだ!」
 と喚き立てる。彼らは、利己的遺伝子説やダーウィン進化論を、「科学的に認められた定説だ」と思い込んでしまうのである。定説がない分野で定説があると思い込むところからして、素人丸出しなのだが。
 というわけで、トンデモマニアというのは、素人の馬鹿騒ぎにすぎない。定説の有無さえ理解できないからだ。



 [ 付記1 ]
 「こういう連中」(トンデモ騒ぎをする連中)とは、何か?
 定義すれば、次のように言える。
 「理論や論理レベルで反論しない(できない)。これこれの点がおかしい、というふうに具体的に論述できない。単に『トンデモだ』『バカだ』とだけ悪口だけを言う」

 あるいは、次のことだ。
 「問題の本質から はずれた、どうでもいいような重箱の隅を突ついて、揚げ足取りをして、批判したつもりになる」

 一言で言えば、「いやがらせをするイヤミな連中」である。「他人を攻撃して自己満足する」という連中。2ちゃんねるに多い。
 最近は、こういう連中が多いですねえ。以前は、2ちゃんねるに閉じ込められていた(隔離されていた)ものだが

 [ 付記2 ]
 上に (1) 〜 (6) の例を示したが、いずれも定説がなく、仮説があるだけだ。
 そのなかでも最も軽い扱いを受けているのが、「利己的遺伝子説」だ。
 その仮説の一部にある「遺伝子淘汰説」の部分だけは、すでに「遺伝子淘汰説」として受け入れられている。しかし、それを除いた「利己的遺伝子説」本体は、今日ではもはや「仮説」の重みすら受けていない。
 たいていの進化論学者は「利己的遺伝子説」を「仮説」と見なすよりは、「文学的な比喩にすぎない」と見なしているようだ。つまり、科学ではなく、非科学だ。
 そして、このような非科学(ただの文学な比喩)を、科学のように扱うとしたら、それはもはや「トンデモ」と呼ばれても仕方ないだろう。
 


 【 関連項目 】
 
 → トンデモとは何か?

 本項と同趣旨。
posted by 管理人 at 10:54| Comment(0) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
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