だが、ノーベル賞を受賞するような独創的な科学者は、連中の基準からすれば、「トンデモ」と見なされるものだ。 ──
ノーベル化学賞を受賞した下村脩のインタビュー記事が掲載された。
一部抜粋しよう。
ぼくはアマチュア化学者だ。ちゃんとした型にはまった有機化学の教育を受けていないが、そこが強みでもある。ほとんどが独創で、自分で考え出した。先生から教えられていないから、先入観も最小限なのでよかった。──
一番、信頼でき安心できるのは自分で考えること。人の意見を聞くと、それが間違っていても、考慮しないわけにはいかない。だから学界に行くのが大嫌いだった。学界では誰かがアドバイスしてくれる。親切だけど、あまりいいアドバイスをもらったことはない。
(朝日・朝刊 2008-12-30 )
実は、これに似たことは、他の人々も言っている。江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二など。彼らはいずれも、学界では排斥された。
「おまえは主流派の意見に反しており、異端だ」
「独創的なことを考えたければ、まず主流派の見解をしっかり理解しろ」
「主流派の見解をしっかり果たしてから、自分の道に進め」
「主流派の見解もわきまえずに、独自の道を進んでも、トンデモだよ」
彼らはこのような扱いを受けた。今日、科学者に向かって「おまえはトンデモだ!」と非難する連中と、何とよく似ていることか!
しかしながら、歴史の教えるところでは、「おまえはトンデモだ!」と非難する連中が間違っており、下村脩・江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二などの方が正しかったのだ。つまり、当時「トンデモ」扱いされた人々の方が正しかったのだ。
──
実は、こういうふうに「トンデモだ!」と騒ぐのは、日本で特に顕著に表れる社会現象だ。
江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二などは、日本では激しく排撃されたが、米国では排撃されなかった。下村脩は、謙虚だから(そして外人っぽい顔をしているから)日本人を批判しないが、日本から外国に抜け出したことからして、日本ではあまり良い思いをしていなかったと推察される。
日本という国では、独創的な科学者とトンデモな科学者とは、同一視されるのだ。
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これはどうしてかというと、国情の違いによるのだろう。
・ 日本では、「他人と同じであること」「和の精神」が尊ばれる。
・ 米国では、「他人と違うこと」「独自であること」が尊ばれる。
この違いから、日本では、独創的な科学者は「トンデモ」と非難され、米国では「独創性がある」と尊重される。
ただし、このような国情の違いだけで説明するのでは、話が不足する。国情の違いは、背景にあるだけにすぎない。実際、誰もが「トンデモだ!」と騒ぐわけではないからだ。「トンデモだ!」と騒ぐのは、一部の半可通の連中に限られる。
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「トンデモだ!」と騒ぐ連中に共通するのは、次の点だろう。
・ 読解力が低くて、文章を誤読する。
・ 専門知識が低い。
第1に、読解力が低くて、文章を誤読する。そのせいで、勝手に妄想を描いて、妄想を攻撃する。ナノバブル水では、「ナノバブル水を飲めば、あらゆる癌が治ります」という主張があるというふうに誤読して、勝手に妄想を描いて、勝手に「トンデモだ」と騒ぐ。自分の幻想で描いた怪物に向かって突き進むドン・キホーテ。
第2に、専門知識が低い。主流派の意見を知ることはできても、主流派の意見の問題点を理解できない。専門家ならば、学界にある公的見解だけでなく、問題点をも知っているはずだ。なぜなら、そここそが、研究対象となるからだ。専門家というものは、未解明の部分を探り当てて、そこを研究するものだ。……ところが、半可通の人々は、それを理解できない。「主流派の意見は完全無欠である」と勝手に思い込む。「専門家はその分野のすべてを完全に理解しており、未解明の分野などはない。専門家は神様なのだ」と勝手に信じ込む。そこで、「未解明の分野についての研究」をした独創的な科学者を、「トンデモだ」と攻撃する。たとえば、ダーウィンの進化論は仮説にすぎないのに、「証明された定説だ」と思い込む。あるいは、ドーキンスの利己的遺伝子説は、仮説ですらないのに、「証明された定説だ」と思い込む。そのあげく、それに反する仮説を、「トンデモだ」と批判する。(実は、定説になっていない以上、どちらも仮説なのだが、彼らにはそういう認識ができない。自分の信じているものだけが真実で、他はすべてトンデモだと思い込む。世の中には「仮説」というものがあるということを理解できない。)
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結局、次のように言えるだろう。
・ 無知な素人には、独創的な科学者と、トンデモとを区別しがたい。
・ 偏差値 60の素人には、偏差値 40の人と偏差値 80の人を、区別できない。
(どっちも規格外なので、どっちもトンデモに見える。)
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まとめ。
世の中には、たしかに「トンデモ」と言える異端の説もある。たとえば、「紅茶キノコで癌が治る」「アガリクスアガリクス」というような珍説だ。このような珍説はたしかに「トンデモ」と言える。また、学界では完全に否定されており、これを支持するような専門家はいない。ただのアホの説にすぎない。
一方、世の中には、「非主流の仮説」というものも存在する。まだ実証されていないとか、まだ主流派に認められていないとかの理由で、その時点では公的見解となっていない。
ただし、科学というものは、「非主流の仮説」というものを経て発展してきたのだ。そのことは、下村脩・江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二などを見ればわかる。
これらの人々の見解は、その時点では「公認されていない」のだが、「厳密には未検証である」だけであり、「完全に否定されている」わけではない。その点では、紅茶キノコやアガリクスとは全然異なる。
しかしながら、「トンデモだ!」と騒ぐ連中は、こういう最先端の学問分野と、紅茶キノコやアガリクスとを、区別できないのだ。学問分野における「主流派の説とは異なる説」と、「非科学的なデタラメ」とを、区別することができないのだ。
( ※ たとえば、彼らはこう言う。「主流派の意見を理解せよ!」と。実は、独創性のある人というのは、主流派の意見を十分に知った上で、自己の見解を出すものだ。しかし、半可通の人々は、それを見て、「主流派の見解を知らないから、独自の見解を出すのだな。おまえらは主流派の見解を知れ!」と批判する。ひどい言いがかりだ。江崎玲於奈・西沢潤一も、こういう「言いがかり」に悩まされてきた。…… 偏差値 60の素人には、偏差値 40の人と偏差値 80の人を、区別できない。そのせいで、偏差値 80の人々は、偏差値 60の素人[半可通]に、さんざん悩まされることになる。)
この意味で、これらの連中[半可通]は、次のように言えるだろう。
「知識だけは偏差値 60だが、『自分の頭で考える』という判断力では偏差値 40しかない」
つまり、自分で思考する人間というよりは、記憶するだけのロボットみたいなものだ。そういうロボットみたいな人間が、「トンデモだ!」と大騒ぎして、ネットにはびこるわけだ。
「この見解は、私のメモリーにある見解とは、異なります。ゆえに、正解ではありません」
というふうに。思考力ゼロ。規格外のものを、すべて「エラー」と判断してしまうわけ。
情けないが、これが最近の実状だ。最近は、こういう連中が多い。( → 後述の [ 付記 ])
なお、彼らがこういうふうに半可通であることの理由は、「文章読解力が低いせいで、勝手に誤読する」ことにある。彼らの批判はたいてい、頭の中で勝手に誤読して妄想によって生じたものだ。
「おまえはこんなことを言っているがトンデモだ!」
というふうに。だれもそんなことを言っていないんですけど。勝手に勘違いしている。何という読解力か。いや、誤解力。
結語。
独創的な科学者には、「おまえはトンデモだ!」という非難が降りかかる。下村脩・江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二といった独創的な科学者は、いずれも、こういう非難に悩まされてきた。(ふりかかる蝿や蛾のようなものに悩まされたわけだ。)
だから、独創性のある業績を上げるためには、これらの蝿や蛾のようなものに悩まされつつも、うるさいものを振り払う勇気が必要だ。(振り払っても振り払っても寄せてくるが。 (^^); )
この世には害虫のような連中が多い。彼らは「悪」を駆逐しようとして、悪と善の区別がつかないまま、いっしょに駆逐しようとする。しかし、彼らに屈していたら、下村脩・江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二といった独創的な科学者は、業績を上げることができなかっただろう。
独創性のある業績を上げるような人々は、今も多いだろう。だが、そういう人々は、単に独創性を発揮すればいいのではない。下村脩・江崎玲於奈・西沢潤一・中村修二といった先人が、いかにトンデモ騒ぎの連中に悩まされてきたかを、知っておくといい。この件は、テレビや雑誌でも、ときどき報道される。
とにかく、外国はともかく日本では、こういう連中(独創性とトンデモの区別ができない連中)が、ものすごく多いのだ。それが現実だ。
( ※ マークシートなどの教育のせいかもしれないが。 → 該当項目 )
[ 付記 ]
世の中には、二種類の人間がいる。
・ 創造する人間
・ 破壊する人間
前者は、自ら創造する。この世界にないものを、新たに作り出そうとする。
後者は、他人の創造しつつあるものを、破壊する。「悪は破壊することが正しい」と信じつつ、とにかく他人のものを破壊することに熱中する。破壊そのものが快感になるからだ。……たとえば、子供のころ、昆虫の足をちぎって喜ぶとか。他人がゲームで築き上げた点数をチャラにして喜ぶとか。……こういう人間が大人になると、ネットでやたらと他人の悪口を書くことに快感を覚えるようになる。
それがこの世界の現実なのだ。こういう現実を理解しておこう。この世界には、善良な優しい人々ばかりがいるわけではない。金儲けに熱中する人もいるし、他人の構築物を破壊することに熱中する人々もいる。
( ※ ついでだが、正真正銘のトンデモもいるが、まともな人間は、正真正銘のトンデモを相手にしない。正真正銘のトンデモを攻撃して喜んでいるのは、精神を病んでいる人間だけだ。たとえば、小学校で、知能の低い弱者をいじめて喜ぶ奴。そういう歪んだ精神の人間が、大人になると、トンデモマニアになって、本物のトンデモを攻撃して、馬鹿者を笑いものにして、快感を覚えるようになる。)
( ※ 一方、子供のころにいじめっ子だった奴でも、大人になれば、昔の自分を反省することは結構ある。たとえば、
→ らばQ「いじめっ子の反省」
このような人間は、大人になって、まともな人間に成長したと言えるだろう。)
【 関連サイト 】
トンデモマニアを揶揄する文章が、別のサイト(書籍からの引用)にもある。孫引きの形になるが、引用しよう。
早い話が、優越感に浸った「頭のいい連中」(?)が「頭のわるい連中」をコケにして喜ぶという、おきまりの構図で成り立っている。その他、いろいろと批判の文章がある。ただし、トンデモマニアが読むと、頭に湯気を立てそうだ。
( → 該当サイト )
このサイトには、次の文章もある。
→ はやぶさのバクチ
宇宙探査機「はやぶさ」の研究チームが、可能性の低い探査機を出して成功した、ということに対する批判を批判し、「はやぶさ」チームを褒めている。良い文章だ。次の文章もある。
繰り返された先人たちの無謀な大バクチ(美談も多いネ!)の上に成り立っているということには、思いが至っていないようだ。何事であれ、未開拓の分野を切り開くというのは、容易なことではない。たいていは失敗で、たまたまうまく行くことが一つある、という程度だ。
しかし、安全確実なことばかりを狙っていては、未知の分野を切り開くことはできない。先人の切り開いた道をたどるだけでは、ただの後追いしかできないのだ。
こういう発想は、「安全確実な道をたどることだけが大切だ」と考えるトンデモマニアとは、正反対の発想だ。もしトンデモマニアが「はやぶさ」チームにいたら、安全確実な方法だけを取っただろうし、そのせいで、成果は何も挙げられずに終わっただろう。いや、それだけならまだしも、トンデモマニアがいたら、研究者に対して「トンデモだ」と足を引っ張って、探査事業を妨害しただろう。
【 関連項目 】
前出項目も参考にしてほしい。
・ ケペル先生の教え
・ Why と How many
・ 考えない教育(マークシート世代)
また、ついでに、次の話もある。
・ 「無常という事」解題
(これは、誤読しないための話。物事の核心を突く、というような話題。)
