2010年08月10日

◆ 礼儀とは (⇔ オタク)

 礼儀とは何か? 挨拶やお辞儀などだ。しかし、そこにおいて本当に大切なのは、相手にとってそれがどういう価値をもつかではない。むしろ、「オタクとは正反対の概念だ」と考えるといい。 ──

 礼儀とは、挨拶やお辞儀などだ。つまり、他人に対する思いやりを示す、定型的行動のことだ。
 そこでは、相手にとってそれが価値をもつ。だが、ここにおいて本当に大切なのは、相手にとっての価値ではない。では、何か? 逆に、自分の価値か? もちろん、違う。

 礼儀において大切なのは、相手にとってそれがどういう価値をもつかではなくて、「相手にとってそれがどういう価値をもつか」を自分が考える、ということだ。
 たとえば、相手に挨拶をする。ここで、相手にとって挨拶が大切かどうかは、あまり重要ではない。むしろ、「相手にとっていくらかでも、ためになることをしたい」と自分自身が思うことだ。そういう思いやりだ。
 礼儀の価値は、それをなされる相手にあるのではなく、それをなす自分にある。それは「思いやり」の大切さでもある。
 そして、このような思いやりに対する反対語は、「敵意」ではなく「無関心」だ。

 ──

 ここまで考えると、「礼儀」の問題が、現代人の問題と、密接に関連することがわかる。というのは、次の二点があるからだ。
  ・ 現代人は、礼儀にこだわらない人が多い。
  ・ 現代人は、他人に無関心な人が多い。


 こうして人々はバラバラ化していく。人と人の関係や結びつきがきわめて稀薄になっていく。マンションの隣人が同じエレベータに乗り合わせても、挨拶一つしないで知らんぷりでいる、というようなことは、ざらにある。
 
 ここで、隣人同士が、挨拶をしたら、どうなるか?
 「おはようございます」
 「あ、おはようございます」
 と挨拶を交わす。そのことで、結びつきや関係性ができていく。挨拶を何度も交わすうちには、会話が形成される。
 「今日はいいお天気ですねえ」
 「そうですねえ。しかし暑すぎますなあ」
 「ほんとに。でもビールがうまいし」
 「あははは」
 というような会話がはずめば、関係性も構築される。

 ──

 礼儀の問題は、現代人の関係性の薄さと、密接に関係する。
 逆に言えば、オタクや引きこもりのように、他人との関係性の薄い人間は、子供のころから礼儀を学んでいなかった、と言えるだろう。
 親としては、子供に礼儀を教えるとき、それが誰のためになるかを、よく考えた方がいい。子供に礼儀を教えるのは、子供が社会に貢献するためではない。子供自身を、まともな人間に育てるためだ。子供に礼儀を教えるということは、子供が社会のなかで他人との関係性を保てるように人格形成するということだ。
 
 ひるがえって、現代の大人は、子供に礼儀を教えないことが多い。「礼儀なんて封建的な前近代的な習慣だよ」とでも思い込んで、「現代人は礼儀なんか不要だ」とばかり、子供を礼儀知らずに育てる。
 そして、そのせいで、子供は社会から隔離された( or 浮いた)存在となり、人間関係を絶たれて、孤立化・バラバラ化する。
 こうして、子供たちは、現代化していく。つまり、孤立化・バラバラ化する。
 そのあげく、子供たちは、ケータイに閉じこもったり、ゲームに閉じこもったりする。そこからオタクや萌えマニアに転じるまでは、ほんの一歩でしかない。

 結局、礼儀とは何かを、親が知っておく必要がある。その上で、親が子供に躾(しつけ)をする必要がある。



 [ 余談 ]
 昔は、親が教えなくても、教師や祖父母が教えたものだ。しかし、少子化の今では、子供は大切にされすぎるし、また、兄弟喧嘩さえもしなくなる。(兄弟がいない一人っ子なので。)
 今の子供たちがオタク化していくのは、当然のことなのかもしれない。そして、最終的には、ラブプラスのキャラクターと結婚することを目的としながら、他人との間で次世代を生まずに、滅亡していくのかもしれない。  (^^);

 
                   いやーん、見ないで。

posted by 管理人 at 21:46 | Comment(0) | 一般(雑学)1 | 更新情報をチェックする
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