2010年05月03日

◆ 主観確率

 主観確率とは何か? それは確率とはどう違うのか? ──

 「確率とは何か?」
 は、先に示した。
  → 物理と確率

 簡単に言えば、確率とは、次のようなものだ。
 「《 同等の確率 》をもつ基本的な事象を、天下り的に受け入れる。それを組み合わせた複雑な事象について、確率を考える」


 例。
 (1) コインの「裏」と「表」の確率 1/2 を天下り的に受け入れる。
   そのあと、「表」「表」「裏」という順になる事象の確率を考える。
 (2) サイコロの各の目の確率 1/6 を天下り的に受け入れる。
   そのあと、「2」「2」「5」という順になる事象の確率を考える。
  
 ここで注意。
 確率というものが意味を持つには、前提として、「同等の確率で生じる多数の事象」というものが、あらかじめ存在していることが必要だ。たとえば、コインの裏表とか、サイコロの目のように。
 一方、ある特定の女性への恋愛の成否のように、1回限りの事象については、確率は意味を持たない。(前提が成立しない。)

 ──

 では、主観確率とは? 次のようなものだ。
 「ただ1回限りの事象について、話者の確信の度合いを示すもの」

 一般に、ただ1回限りの事象については、確率の前提(上記)が成立しない。ただし、確率に似たものとして、主観確率というものが導入される。
 それは、科学的なものではなくて、話者による心理的なものだ。

 例。
 (1) 特定の1回について、コインは裏か表か? 
 (2) 特定の1回について、サイコロの目は何か?

 これらの例では、事象は1回限りだから、どれか一つに決まる。「 0.5 」というような中間的な値にはならない。ただし、別の数値が出てくるわけでもなく、まったくあやふやである。(はっきり言えば、占いと同じレベルのあやふやさ。)
 
 ここで、それぞれの話者が勝手に自分の確信を表明できる。
 「次のサイコロの目は、丁だ」
 「次のサイコロの目は、半だ」
 こういうふうに、おのれの確信を、全面的に表明することができる。そして、その確信の仕方は、人それぞれである。ここにあるのは、客観的な科学ではなくて、主観的な心理だ。

 このような主観的な心理の差が出るのは、競馬やルーレットなどのバクチだ。
 例。 「次の競馬では、マキバオーが1着になるぞ。確信度 100%だ。」

 ──

 まとめ。

 主観確率とは何か? それはただの「確信の度合い」であるにすぎない。それは各人の心理によって、人それぞれとなる。その違いは、バクチにおいて、典型的に現れる。

 主観確率は、「確信度」と呼んでもいい。あるいは、話者の存在を隠すために、対象を受動態ふうに表現して、「可能性」と呼んでもいい。
 例。
  ・ サイコロが丁になるという(私の)確信度。
  ・ サイコロが丁になる可能性。

 ただし、より科学っぽく見せるために、「主観確率」と呼んでもいい。こうすると、何となく、確率っぽく見せることができる。しかし、それだけのことだ。
 「主観確率」というのは、一種のレトリックだが、そのレトリックは、「主観確率」という言葉を使って表現される内容にあるのではなく、「主観確率」という言葉自体にある。(本当は、バクチの「カン」と同様のものだ。)



 【 補説1 】

 1回限りの事象については、「成立するかしないか」(○か×か)の二者択一である。
 たとえば、
  ・ 彼女は僕を好きか否か? 
  ・ 来年1月に平均株価は1万円を上回っているか否か

 これらは「○か×か」の形で決まる。とすれば、それ以前に「主観確率が 0.4 だ」とか「可能性が 0.6 だ」とか言っても、客観性はまったく保証されない。ここでは、どんな数字を出そうが、その数字は、語っている本人の心理を示すだけである。
 その意味で、ここで示される数値は、科学ではない。どちらかと言えば、「日常性の会話の楽しみ」である。料理の好き嫌いと似たようなものだ。

 料理の嗜好度 「私がカレーライスを好きである度合いは 0.654 である」
 
 というのと、似たようなものだ。個人の心理状態を数字で示しているだけのことだ。これは科学ではない。科学に見せかけているだけだ。
 そして、そういうふうに見せかけているのは、そこで語られている内容自体にあるのではなく、「料理の嗜好度」なんてものを導入したことにある。単に「好き嫌い」と言えばいいものを、「料理の嗜好度」なんて言葉を使うことで、科学に見せかける。
 「主観確率」という言葉も同様だ。単に「ヤマカン」と言うべきことを、「主観確率」と呼ぶことで、科学に見せかける。一種のインチキだ。
 (ただし、そこで語られた内容自体は、別にインチキではない。ヤマカンというのは、インチキではなくて、あやふやであるだけだ。あやふやなものを科学のように見せるのはインチキだが、あやふやなことそれ自体はインチキではない。……混同しないように。)

( ※ ただし、「特定の1回」と、「不特定多数のうちの1回」とを、きちんと区別するのは、ちょっと難しいかもしれない。日本人には the と a の区別をしにくいことも関係する。モンティ・ホール問題 のような例でも、それを「特定の1回」と見るか、「不特定多数のうちの1回」と見るかで、判定が異なる。 Wikipedia の記述も、ここを混同している。私はいちいち説明しないが、上記の点を混同しないように注意してほしい。)
  


 【 補説2 】
 「主観確率」という言葉を使うと、便利な点もある。それは、人々が「確率」だと信じているものを、「そうではない」(ただの主観確率にすぎない)ということを明らかにすることができることもあるからだ。

 例1。
 「世間における癌の罹患率は 0.5% だから、自分が癌である確率は 0.5% だと思っていた。だが、癌検診を受けたら、自分は陽性であると判明した。一般的に、陽性の人が癌である罹患率は高い。自分が癌である確率は急激に高まった」
( 詳しい数字の解説は → こちら

 これは正しくない。
 同じことを、一般的な「誰か」に当てはめるのであれば、これは正しい。
 だが、ここでは「自分」はただ一人である。だから、癌であるか否かは「○か×か」で決まる。確率は無意味だ。ここで変わるのは、確率ではなく、主観確率である。つまり、判断する人の確信度だ。確信度が、癌検診の前と後とで変わっただけだ。確率が変わったわけではない。

 例2。
 「シュレーディンガーの猫で、観測の前と後とで確率が変わった。観測が確率を変えた」
 
 これも正しくない。理由は同様だ。
 ここで変わるのは、確率ではなく、主観確率である。つまり、判断する人(観測して判断する人)の確信度だ。確信度が、観測の前と後とで変わっただけだ。確率が変わったわけではない。
 ところが、多くの物理学者は、「観測が確率を変えた」と思い込む。彼らは「確率」と「主観確率」との違いを理解できないのだ。
 「シュレーディンガーの猫」では、たくさんの猫(たくさんの事象)で見るならば、そこには「確率」が見出される。たとえば、シュレーディンガーの猫が千匹いれば、その千匹は、時間とともに、次々と死んでいくだろう。その死の割合の増え方は、粒子の崩壊と同じ割合になるだろう。(グラフを書けば同じ曲線になる。)
 一方、特定の1匹の猫だけについて、「生か死か」を考えるなら、そこにあるのは、「確率」ではなく、「主観確率」である。なのに、それを「確率」だと勘違いすると、「猫は半分死んで、半分生きている」というような馬鹿げた認識をするようになる。(物理学者はそれを「重ね合わせ」と呼んで平気でいる。)

 「主観確率」という概念は、「それは確率ではない」と認識するときには、きわめて有効な概念だ。(特に1回限りの事象についは。)



 [ 付記 ]
 話を戻して。
 確率は、量子論の世界では、次のようになる。

 それぞれの量子(電子や中間子)はたがいに区別できない。
 量子が観測されるときには、「これ」と特定することはできない。
 単に「一つの電子がそこに見つかる確率」というのがわかるだけだ。
 たとえば、二重スリット実験で、スクリーンに観測される電子。
(その電子は、電子銃から発射された電子だとは言えない。
 その電子は、確率的に、ある場所で見つかることがわかるだけだ。)

 このことは、二重スリットやシュレーディンガーの猫で、顕著にわかる。
 ここで、その電子などの量子を、「特定の一つ」というふうに見なすと、パラドックスが生じる。パラドックスを起こさないようにするには、あくまで、電子などの量子を、確率的なもの(たがいに同等であるもの)と見なす必要がある。
 下記の 【 関連項目 】 にも、似た話がある。
 


 【 関連項目 】

  → 物理と確率
posted by 管理人 at 16:21| Comment(1) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最後のあたりに  【 補説2 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2010年05月04日 09:37
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