2009年12月11日

◆ 自然淘汰と多様性

 前項 の続き。
 進化をもたらすのは、自然淘汰か? いや、もっと大切なものがある。それは多様性だ。 ──
    ( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-12-23 です。)


 進化をもたらすのは、自然淘汰か? その問いに、たいていの人は「イエス」と答えるだろう。
 しかし、その答えからは、前項のような主張が出てしまう。(障碍者は死んでしまった方がいい、という阿久根市長の主張。)

 阿久根市長の主張は、論理としては間違っていない。ただし、原理が間違っている。「自然淘汰」(による進化)という原理が。
 では、その原理が間違いだとしたら、どういうふうに間違っているのか? それを説明しよう。

 ──

 初めに結論を言えば、私の主張は、こうだ。
 「進化にとって大切なのは、自然淘汰と多様性である」

 より極端に言えば、こうなる。
 「進化にとって大切なのは、多様性である」


 多様性とは何か? さまざまな個体差があることだ。背の高い人もいるし、背の低い人もいる。痩せた人もいるし、太った人もいる。頭が良くてスポーツのできない人もいるし、頭が悪くてスポーツのできる人もいる。……そういうふうに、人はさまざまなバリエーションがある。
 ここでは、「優者と劣者」というような、単純な二分法は成立しない。当然ながら、「健常者と身障者」というような二分法も成立しない。なぜか? 次のことがあるからだ。
 「個体はどれも、たくさんの遺伝子をもつ。一つの個体には、ある形質Aでは優者となる遺伝子もあるが、ある形質Bでは劣者となる遺伝子がある。優者ばかりの遺伝子をもつ、ということはない」

( ※ これはクラス進化論の発想そのものである。マトリックス淘汰という言葉で説明されている。 → マトリックス淘汰 )

 というわけで、この世界には、さまざまな遺伝子がある。それが当然なのだ。遺伝子というものは、もともと多様性をもつのである。

 ──

 さて。ここからが大事だ。
 こういう多様性こそが、進化の源泉となる。その原理は、クラス進化論では、「クラス交差」という概念で説明された。
  → クラス交差

 クラス交差とは、多様な遺伝子が組み合わさって、新たな組み合わせを生むことだ。(交配によって。個体レベルで。)
 そして、それが意味を持つためには、もともと遺伝子に多様性があることが必要だ。その意味で、進化の源泉は、多様性なのである。
( ※ 詳しい話は、上記のページを参照。本項では詳しく説明していない。)

 ──

 さて。多様性とは何か? 自然淘汰とはどういう関係があるか? こうだ。
 「多様性とは、自然淘汰が弱い状態である」

 もし自然淘汰が強ければ、特定の優者である1通りだけの遺伝子が残る。一方、自然淘汰が弱ければ、特定の優者以外の何通りもの遺伝子(劣者としての遺伝子)がいずれも残る。
 だから、「多様性がある」というのは、「自然淘汰が弱い」というのと同義である。 【 重要! 】

 そして、先に述べたとおり、進化においては「多様性」が重要だ。とすれば、三段論法で、次のように結論できる。
 「進化において大切なのは、自然淘汰が弱いことである」

 これは非常に重要な結論だ。

 ──

 さて。先にも述べたとおり、私の主張は、
 「進化にとって必要なのは、自然淘汰と多様性の双方である」

 ということだ。
 ここでは、一方では「自然淘汰」を重視し、他方では「自然淘汰の弱いこと」を重視している。これは矛盾ではないのか? (白であり、かつ、黒である、と主張するように見える。)
 いや、矛盾ではない。双方が同時であれば矛盾だが、双方の時期をずらせば矛盾ではない。
 正しくは、次のようになる。
 「自然淘汰の強い時期と、自然淘汰の弱い時期とが、(時期をずらして)ともに成立することが、進化の源泉となる」


 ──

 このことは、具体的には、「哺乳類の進化」という例で見出される。
  1. 恐竜と哺乳類が共存した時期には、哺乳類は、強い淘汰圧にさらされていた。そこでは、哺乳類の進化は緩慢であった。
  2. 恐竜が絶滅すると、そのあとにできた空白領域において、「適応放散」という形で、哺乳類の進化が大規模に起こった。
 つまり、自然淘汰が強かったときには、進化は緩慢であったが、自然淘汰が弱くなると、多様性ができたおかげで、進化は急激に進んだ。
 このような進化の過程では、もちろん、自然淘汰という原理は働いた。その意味では、ダーウィニズムの発想は間違いではない。ただし、自然淘汰だけで進化が起こったのではない。自然淘汰が強いだけでは、かえって進化は抑圧されてしまうのだ。進化が起こるためには、自然淘汰のほかに、多様性もまた必要なのだ。

 進化には、自然淘汰と多様性の双方が重要である。── これが私の主張だ。



 [ 付記 ]
 こういう発想を取れば、阿久根市長のような発想をすることもなくなる。
 この世界にいるのは、「優者と劣者」ではない。この世界にいるのは、「さまざまな劣者」だ。誰もが劣者なのである。それがつまり、「生物には多様性がある」ということの意味だ。
 身障者もまた多様性のうちの一つにすぎない。阿久根市長のような愚か者も多様性のうちの一つにすぎない。「阿久根市長はトンデモだ」と大騒ぎするトンデモマニアもまた多様性のうちの一つにすぎない。この世は人それぞれ。……そう理解するべきなのだ。
 そう理解すれば、「劣者だから死んでしまえ」というような自然淘汰主義の発想を取るかわりに、「多様な個体の一つとして生きる権利がある」と理解できるはずだ。「あんたも阿呆、私も阿呆、みんな阿呆で、踊らにゃや損損」とばかり。  (^^);
 
 というわけで、「自然淘汰」というものばかりを唱えるかわりに、「多様性こそ大事なのだ」と理解するべきなのだ。
 


 【 補説 】
 たいていの人は、「自分は優者だ」と思って、「障碍者は劣者だ」と思い込んでいる。その理由は、自然淘汰だ。
 「自然淘汰ゆえに、適者生存となる。現時点で生存しているのは、みんな優者だ。ただし例外的に、突然変異による障碍者が生じる」
 というふうに。
 しかしこれは間違いだ。なぜなら、自然淘汰という発想そのものが間違っているからだ。自然淘汰という概念は、部分的には成立するが、あくまで不完全なのである。すなわち、
 「自然淘汰ゆえに、適者生存となる。現時点で生存しているのは、みんな優者だ」
 ということは、成立しない。正しくは、こうだ。
 「自然淘汰は不完全なので、適者生存も不完全である。現時点で生存しているのは、さまざまな劣者である」(前出の通り。)
 
 「さまざまな劣者」がどうして存在するか? 現実を見るといい。
 どの人間も、遺伝子レベルでは、かなり重篤な欠陥遺伝子をいくつかもつ。誰もが障碍者となる遺伝子をもつ。(統計的に考えると、5〜10個ぐらい。)
 ただし、遺伝子は二つの相同染色体に併存している(二つある)から、一方の遺伝子に欠陥遺伝子があっても、他方の遺伝子が補填する。というわけで、現実には、欠陥遺伝子は発現しないのが普通だ。
 逆に言えば、たいていの人は、欠陥遺伝子が発現しなくても、それでも欠陥遺伝子を備えているのである。
 そして、それが発現することが、ときどきある。それは、ほとんど偶然によるものだ。だから、先天的な障害を持つ人が誕生したとしても、それは、「欠陥遺伝子があるから」というよりは、「運悪く、欠陥遺伝子が男女で重なってしまったから」というだけであることが多い。

 ただし、例外もある。それは、近親婚をした場合だ。近親婚をすれば、欠陥遺伝子が男女で重なってしまう事は、十分に起こりやすい。だから、近親婚を避けるべきだ。
 しかしながら、自然淘汰説を遺伝子レベルで推進すると、「利己的遺伝子説」のような発想となる。そこでは、「自分の遺伝子を増やすことが大事だ」というふうになり、近親婚をすることが正当化されてしまう。
  → 近親婚のタブー(自分の遺伝子)
 
 結局、「自然淘汰」という発想は、さまざまな点で狂っている。現実にはさまざまな劣者があるということも無視しているし、近親婚を正当化するということもある。こんな狂った理屈に基づいて、「自然淘汰ゆえに、自分は優者である」と思い込むなんて、馬鹿げたことだ。
 阿久根市長の発想は、馬鹿げた発想だが、それと同じ発想は、一般の人々の頭にも巣を張っているのである。「自然淘汰説」という形で。
posted by 管理人 at 17:46| Comment(2) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
管理人様、はじめまして。

「他者の生死を一方的に決定する権限は誰にもありません (阿久根市・竹原信一市長の支持者に訴えます)」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1563.html

という記事を私のブログに書いたところ、コメント欄でこちらの記事の存在を教えていただきました。
私の記事にはない視点で、とても参考になりました。ありがとうございました。
Posted by 村野瀬玲奈 at 2009年12月27日 22:16
最後に 【 補説 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2009年12月28日 06:47
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