2009年12月11日

◆ 阿久根市長と優生思想

 阿久根市の竹原信一市長が障碍者差別の発言をしたことで、各界の批判を浴びている。「トンデモ」と呼ぶ人もいるが、彼を「トンデモ」と呼ぶのは正しくない。
 彼と同じ思想は、現代人の根っこにはびこっている。それは「自然淘汰」という発想だ。(優生思想とも言える。) ──
    ( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-12-23 です。)


 鹿児島県・阿久根市長が障碍者差別の発言をしたことが話題になっている。
 (本人の発言:)
 例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
 「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。
( → 毎日新聞 2009-12-15 から孫引き。)

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が自身のブログに「高度医療が障害者を生き残らせている」と、障害者に差別的な記述をして波紋を広げている。
 記述は11月8日付。医師不足解消策として勤務医の給与増額が議論されていることを批判する中で「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった」(原文のまま、以下同)と記述。さらに「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」と持論も展開した。
 さらに翌9日付では、自身の発言を批判する読者のメールを紹介したうえで「慎重さを欠く見解に見えたかもしれない」と記述。だが「高度医療が多くの人々に高い精神性を追求せざるを得ない機会を与えているのは現実だ」と持論を続けた。
( → 毎日新聞 2009-12-03

 自身のブログに「高度医療のおかげで機能障害を持ったのを生き残らせている」と記述し、障害者団体などから批判を浴びた鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が21日、福岡市内での講演でこの話題に触れ、「木の枝の先が腐れば切り落とす。そうしないといけない」「表現として厳しいが刈り込む作業をしないと全体が死ぬ」などと発言した。
 講演後の記者会見で竹原市長は「『腐った木』とは障害者を指したのか」と聞かれ、「違う」と否定。「どういう意味だったのか」と繰り返し質問を受けたが、「答えない」「新聞は言葉狩り」などと言って回答を拒んだ。
( → 朝日新聞 2009-12-22

 乙武洋匡さんが両腕と両脚のない先天性四肢切断の障害をもって生まれたとき、周囲は母子の対面を見合わせた。母親が取り乱し、泣きわめき、倒れるかも知れないと。
 1か月して対面の時が訪れる。わが子を見るや、母親は言った。「かわいい」。乙武さんが著書「五体不満足」(講談社)に書いている。〈生後一か月、ようやくボクは「誕生」した〉。
 その一節を読んで聞かせたい人がいる。「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」。自身のブログでそう語った鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が、今度は講演で物議を醸したという。
 いわく、「木の枝の先が腐れば切り落とし、全体として活力のある状態にする」。いわく、「社会をつくるには命の部分に踏み込まないと駄目だ。刈り込む作業をしないと全体が死ぬ」
( → 読売・編集手帳 2009-12-23
 ──

 この問題についての世間の反応は、常識的なものである。「障碍者を死なせるのを善と見なすようなことはあってはならない」ということだ。
 一方、問題をあえて逸らして、「この市長はトンデモだ」というふうに批判したがる人もいる。「彼は人間豚という主張をしているから、トンデモだ」という理屈。(例によってトンデモマニア。問題が何かというよりも、他人を「トンデモだ」と非難するのが趣味の人。精神が病んでいますね。 → 脳内解析

 ──

 実は、この市長はトンデモでもない。なぜなら、彼の発想は、「優生思想」そのものだからだ。優生思想は、社会の片隅に存在したものではなく、人類の歴史上では、圧倒的な主流派であった時期があった。
( ※ マイクル・クライトンの「恐怖の存在」という本の巻末解説に詳しく記してある。間違った思想が社会全体を覆い尽くす、という歴史的な例の見本として。)
 
 優生思想は、かつては大々的な主流派であった。そして、今でも、形を変えて生き残っている。さすがに「障碍者を死なせてしまえ」というふうに、優生思想を丸出しにして語る人は少ないが、別の形では生き残っている。そのことを以下で示そう。

 ──

 それは、経済学における「市場原理」だ。しばしば、次のように語られる。
  ・ 赤字を垂れ流すゾンビ企業はつぶしてしまえ。
  ・ 市場で敗北したGMを救済する必要はない。

 竹中平蔵や池田信夫は、そのように主張した。そのせいで、実際に、「赤字企業がどんどん倒産させられる」という方針が取られた。その方針は、「不良債権処理」である。
 実は、デフレ期には、ほとんどの企業が赤字である。そのなかで、「不良債権処理」という方針が取られると、まともな企業さえも、不況期に赤字を出したというだけのことで、次々と倒産させられるハメになる。
 なかには、黒字企業でさえ、強制的に倒産させられることもあった。(融資総枠の減少により、融資引き上げが起こり、貸し渋りも起こった。そのせいで、融資を引き上げられた黒字企業が、運転資金に事欠いて、倒産させられてしまった。)

 デフレ期には、「赤字企業を黒字にする」という方針が正しい。比喩的に言えば、「患者を寒風にさらして生き残ったものだけを取り、他を死なせる」という方針ではなく、「患者を治療する」という方針が正しい。
 そのためには、市場原理を強めればいいのではなく、「生産性向上」という呪文を唱えればいいのでもなく、単にマクロ政策によって総需要を拡大すればいい。それだけで、病気の治療効果が出て、大多数の赤字企業が黒字になる。
 そして、デフレ脱出のあとで、まだ赤字の企業があれば、その分は、市場原理で淘汰してしまってもいい。

 現実には、ほとんどの企業が赤字であるときには、市場原理は成立しない。「赤字企業を倒産させればいい」という市場原理の発想は成立しないのだ。
 仮にその理屈が成立するとしたら、2009年前半には、トヨタもホンダも日産も大赤字を出したのだから、GMだけでなく、トヨタもホンダも日産もみんな倒産させてしまっていいはずだ。一方、現実には、2009年後半には、トヨタもホンダも日産も GMも、大幅に業績が改善した(一部は黒字になった)のだから、倒産させてしまったら、とんでもないことになっていた。

 要するに、「市場原理で劣者を淘汰させよ」という発想は、不況を扱う経済の場ではまったく成立しない。(成立するのは、健全な時期の市場だけだ。つまりミクロ経済学の場だけだ。)
 しかるに、経済学の世界では、「市場原理で劣者を淘汰させよ」という思想(市場原理主義)がまかり通っている。ほとんど優生思想そのまんまだ。
 池田信夫に至っては、「労働市場における失業を解決する方法は賃下げである」とまで述べている。しかしながら、生産量が大幅に減少している状況では、企業は生産すれば生産するほど赤字になる。その場合、均衡点は、価格(賃金)がマイナスの領域に存在する。つまり、企業が労働者を雇用するとしたら、賃金はマイナスになるしかない。労働者は、給料をもらうどころか、手数料を払うことで、企業に雇用してもらうしかない。(似たことは、稲作でも見られる。機械などを購入して、収入よりも支出が多いのに、稲作をする小規模農家がある。)
 池田信夫みたいな市場原理主義に従うと、企業は労働者に、「雇用してやるから金を寄越せ」と言い出す結果になる。労働者は、雇用してもらったあと、給料をもらうどころか、借金取りに襲われてしまう。ついには自殺するしかあるまい。
 かくて、市場原理をとことん突き詰めると、「失業者」という経済的な劣者は、「死んでしまえ」と言われることになる。「職を持たない奴は、ろくでなしだ。そんな奴は、死んでしまえ。それが市場原理というものだ」と。

 これでわかるだろう。優生思想というものは、特別変わったものではない。むしろ、経済学の世界では、主流派なのだ。(一般には「古典派」ないし「新古典派」と呼ばれる。その総帥は、フリードマン。池田信夫の崇拝対象。)

 ──

 結局、阿久根市長を見て、「こいつはトンデモだ」と思うべきではない。彼の思想は、経済学の世界では、広く普及した発想なのだ。(対象が人間であるか、企業や労働者であるか、と違いがあるだけだ。)

 さらに言えば、その本家本元である進化論(ダーウィニズム)そのものが、「優勝劣敗」「自然淘汰」という発想を取っている。こんなものは時代遅れとさえ言えるのだが、「自然淘汰で進化が起こる」というふうに平然と語っている。
( ※ 現実には、自然淘汰で進化が起こることは決してありえない。起こるのはただの「小進化」つまり「亜種への変化」だけだ。いわゆる大進化を起こすのは、自然淘汰ではない。別の原理である。 → 小進化と大進化

 ──

 まとめて言おう。
 阿久根市長の発想は、優生思想である。優生思想は、社会進化論から生じたものだ。社会進化論は、ダーウィニズムと同様の発想を取る。また、経済学(市場原理主義)も、同じ発想を取る。……そのいずれも、「優勝劣敗によって全体が改善する」という発想をもつ。しかし、その発想は、すべて間違いだ。
 つまり、間違っているのは、阿久根市長だけではない。ダーウィニズムにも間違っているし、市場原理主義も間違っている。それらは、部分的には正しい面もある。(ダーウィニズムは小進化において正しいし、市場原理主義はミクロ経済学において正しい。)しかしながら、進化全体や経済全体を見たときには、ダーウィニズムも市場原理主義も間違っている。間違っているのは、阿久根市長だけではないのだ。
 
 ちなみに、優生思想のどこが間違いであるかは、次のように説明される。
 「完璧な人間などは、いない。例外なくすべての個体が、何らかの意味で欠陥をかかえている。健康の意味でも、誰もが何らかの意味で、健康上の問題をかかえている。(若いときには発現しなくても、年を取れば体のどこかがおかしくなる。)……人間は誰しも、何らかの点で、劣者としての形質をもつ
 このような発想は、ダーウィニズムや市場原理主義からは、決して生じない発想だ。その意味でも、ダーウィニズムや市場原理主義は間違った発想なのである。

( ※ ダーウィニズムでは、優勝劣敗により、優者だけが生き残るはずだ。だから、現在の個体は、すべて最優秀の形質だけをもつはずだ。つまり、誰もが美男美女で、頭が良くて、健康で、スポーツ万能であるはずだ。さもなくば淘汰されてしまうので。……しかしながら、現実には、そうではない。例外なくすべての人が、何らかの意味で欠陥をかかえている。)
( ※ この件[劣者としての形質が広範に残っていること]は、ダーウィニズムでは説明されないが、クラス進化論ではきちんと説明される。右記で。 → ノイズ効果



 [ 付記1 ]
 本項で述べたことの趣旨は、「阿久根市長はけしからん」という俗説とは異なり、「人のフリ見てわがフリ直せ」ということだ。世間の人々もまた、「自然淘汰」(による状況改善)という原理を信じているという点で、阿久根市長と大同小異なのである。
 世間の人々の言っていることは、「そんな露骨なことを言うな」というものであり、「露骨には言わないけれど、内心ではそう思っている」ということだ。人々もまた本音では、「障碍者なんか淘汰されてしまった方が人類にとって好ましいことだ」と思っているのだ。その点で、五十歩百歩なのである。

 実を言えば、「自然淘汰」という原理を信じる限りは、阿久根市長の方が正しい。学術的に言えば、「自然淘汰」という原理からは、「身障者は死んだ方がいい」という結論が演繹されるからだ。それに比べて、「阿久根市長の言っていることは人道的ではない」というのは、非論理的な感情論にすぎない。
 要するに、論理的に論じるのであれば、阿久根市長の言っていることの方が、よほど道理が通っている。ただの感情論(人道主義論)なんて、非科学的なトンデモだとさえ言える。
 だから、阿久根市長の言っていることを論破するには、ただの感情論(人道主義論)ではなくて、科学的にきちんと論破する必要がある。そして、そのためには、「自然淘汰」(による進化)という原理を、あっさり捨ててしまえばいいのだ。その原理が根源的に間違っているのだから。……それが本項の趣旨だ。

 [ 付記2 ]
 そもそも、自然淘汰主義(利己的遺伝子主義を含む)には、「個体を大切にする」という発想が欠けている。
 そして、そういう歪んだ思想が、阿久根市長のような形で典型的に現れただけだ。阿久根市長のような発想は、本質的には、ダーウィニズムのうちに、もともと内在されているのである。
 なのに、そのことを、進化論学者や古典派経済学者は、理解していない。彼らは「人のフリ見てわがフリ直せ」ということができていない。それが本項の趣旨。



 [ 余談 ]
 ついでだが、阿久根市長を見るといい。かれは、頭がイカレている。こういうふうに頭がイカレた人間は、頭が知的障碍者なのだから、社会的に排除されてしまっていいはずだ。しかしながら、逆に、選挙に勝って、生き残ってしまう。
 阿久根市長は、馬鹿の見本であるが、馬鹿でありながら、ちゃんと生き残っている。頭がイカレた知的障害者であっても、排除されないで生き残っているのだ。
 つまり、頭がおかしくても生き残れると示したことで、自分の説が成立しないということを、自分自身で証明しているのだ。
 このことからも、「自然淘汰」(による進化)という原理がいかに間違っているか、よくわかるはずだ。

[ とはいえ、「自然淘汰」(による進化)という原理を信じている限りは、感情的な人道論は、阿久根市長の理屈の前にあっさり敗北するしかない。……人々はそこに気づいていない。]
 


 【 関連項目 】

 進化と自然淘汰の関係については、次項で詳しく説明する。
  → 自然淘汰と多様性

 ※ その趣旨は:
   進化にとって大切なのは、自然淘汰ではなく、多様性である。
   優者が生き延びることより、劣者が生き延びることが大切だ。
   そういう状況でのみ、進化が起こる。(自然淘汰説の逆。)
posted by 管理人 at 12:46| Comment(2) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>頭がおかしくても生き残れると示したことで、自分の説が成立しないということを、自分自身で証明しているのだ
ということで、市長の主張は有害な遺伝子によるものだと管理人様は考えていらっしゃるのでしょう。

クラス進化論の立場から言えば、そのような自然淘汰でも排除されないような弱い影響の遺伝子は集団中にたくさん存在するでしょう。
すると、ほんの些細な違い(収入の高低でも出身地でもなんでも)に優劣を見つけ、集団中に差別がはびこる可能性があります。


ともあれ、自然淘汰が優生思想に結びつくため正しくないとするのは、ダーウィニズム否定(ID論、創造論など)にみられる典型的な、勘違いを基にした批判です。
進化はそもそも生物全般を扱うための概念であるため、それをそのまま人間社会に当てはめることが間違いです(より詳しくはドーキンスの著書などをご参照ください)。

このようなことを知っていれば
>阿久根市長の理屈の前にあっさり敗北する
ことはないでしょう。
Posted by k at 2010年09月19日 15:09
> 自然淘汰が優生思想に結びつくため正しくない

 そんなことは言っていません。ひどい誤読。もっと日本語をきちんと読んでください。

 自然淘汰理論が間違っているのは、自然淘汰は劣者を排除するだけで、優者を誕生させないからです。
 これが理由。勘違いしないでください。あなたの理解は、ほとんどが勘違いと誤読。

 だいたい、本項は皮肉なんだから、皮肉に対していちいちまともに反論しないでください。本項では何も理論を述べていません。
Posted by 管理人 at 2010年09月19日 15:25
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
  ※ コメントが掲載されるまで、時間がかかることがあります。

過去ログ