つまり、「最も有利な遺伝子だけが増える」という遺伝子淘汰説は、ここでは成立しない。大切なのは多様性なのだ。 ──
( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-12-12 です。)
遺伝子淘汰説に従えば、「最も有利な遺伝子だけが増える」ということになる。その結果、特定の遺伝子形質ばかりが種に存在することになるはずだ。(たとえば、茶色なら茶色という形質。)
このことは、かなり多くの形質に当てはまる。しかし、その一方で、かなり多くの個体差があることも事実だ。
一般的に言えば、致命的である形質については、特定の形質だけしか存在しえないが、致命的でない形質については、さまざまな形質が存在できる。つまり、優者も劣者も同時に存在できる。つまり、多様性がある。ここでは、「自然淘汰」は、完全な意味では成立していない。
では、なぜか?
「さまざまな個体が存在する(多様性がある)方が、種全体の存続にとってはかえって有利である」
ということがあるからだ。(種全体の視点。)
実際、特定の遺伝子ばかりになると、病気に対して種全体の抵抗性がなくなり、種全体が一挙に絶滅する、という可能性すらある。(バナナやソメイヨシノは、常にその可能性に脅かされている。)
というわけで、種には遺伝子の多様性があった方がいいのだ。ここでは自然淘汰説は完全な意味では成立しないのだ。
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さて。新たに、面白い事例が見つかった。上記の発想を補強する例だ。それは、
「ドングリのタンニンの濃度には、多様性がある」
という例だ。(朝日・朝刊・土曜版 be 赤版 2009-12-12 )
ここでは、「タンニンの濃度」という形質に、多様性があるわけだ。
ドングリには、タンニンが含まれる。これは、ネズミには毒性がある。ただし、ネズミの方でも、タンニンを解毒する唾液タンパク質をもつ。とはいえ、その解毒する能力は、季節の初めのころから、徐々に形成されていく。季節の初めにタンニンの濃度の高いドングリをいきなり食べさせると、ネズミは大半が死んでしまう。
さて。ドングリとネズミとは、面白い関係がある。それは共存関係だ。ドングリは、ネズミに運んでもらう(そして地中に埋めてもらう)ことで、あちこちで繁殖できるようになる。しかし、運んでもらうのはいいが、食べられてしまっては、元も子もない。一部は食べられて、一部は埋められる、というときに、一番良く繁殖できる。全部食べられてしまっても駄目だし、全然見向きもされないのでも駄目だ。つまり、タンニンの濃度が高いと、
・ 食べられずに生き残れる
・ 見向きもされないので運ばれない。
という両面価値が同時に生じる。タンニンの濃度が高いことは、有利にも不利にもなる。
では、タンニンの濃度は、どの濃度が最適か? 最適のタンニンの濃度をもつものだけが生き残ったか?
実はそうではなくて、タンニンの濃度は、一通りではなく、さまざまだという。では、なぜ?
研究者の推定では、「さまざまなタンニンの濃度をもつことが、ドングリ全体の繁殖に適していたからだろう」ということだ。
記事から引用しよう。
どうやらネズミはちょっと味見をしたりして、タンニンが少ないものを選んで食べているらしい。それならタンニンを増やした方が、ドングリが子孫を残すには有利に思える。だが、ほどほどでないと、遠くに運んでもらえない。記事には明示されていないが、次の二つの可能性が考えられる。
「どんな事態にも備えられるように、いろいろと用意しておくのが、ドングリの生き残り戦略。そのために幅広い変異をもっているのでしょう」
・ 一つの木から、さまざまなタンニン濃度のドングリが生じる
・ 一つの木のドングリのタンニン濃度は同じ。(木の個体差が大きい。)
どちらも考えられるが、現実には、後者の可能性が高い。それで済むのに、わざわざ前者のようにする必要はないからだ。
人間には、背が高いのや低いのや、また、肥満しているのや痩せているのや、さまざまな個体差がある。それと同様に、ドングリにもさまざまなタンニン濃度をもつという個体差がある。
いずれの場合にも、種のなかには、大きな個体差がある。それが普通なのだ。「最も優秀な遺伝子がただ一通りだけ存在する」というとは言えないのだ。
そして、そのような場合に、種全体の生き残り戦略は最も高まる。
この世界の生物には、多様性がある。それはつまり、「自然淘汰」ないし「優勝劣敗」という発想が、完全な意味では成立していない、ということを意味する。
とすれば、「自然淘汰」ないし「優勝劣敗」という発想を、金科玉条のように、絶対視してはならないのだ。そういう発想では済まないこと(別の原理によって説明されること)も、たくさんあるのだ。そして、それは、決して例外ではない。「自然淘汰」ないし「優勝劣敗」という発想は、この世界において半分さえも占めない、小さな原理にすぎない。(重要な原理ではあるが、半分以下にすぎない。)
だから、経済学であれ、生物学であれ、「優勝劣敗という原理ですべてはカタが付く」というような偏頗な発想にとらわれてはならないのだ。
( ※ そういう偏頗な発想をする人の例が、経済学では古典派経済学者となり、生物学ではダーウィニズムや利己的遺伝子説の信者となる。彼らは一つの原理だけを信奉して、それ以外の原理を理解しようともしない。「他の原理がありますよ」と教えると、「おまえは優勝劣敗の原理を否定するのか!」といきりたつ。ほとんど宗教的な偏った思想。)
[ 付記1 ]
特に経済との関連で言おう。
「優秀な1種類だけが生き残ればいい」
という自然淘汰の発想で、市場原理を貫徹すると、とんでもないことになる。それは、「独占」だ。
スパコンもそうだ。日本が「安い米国製スパコンを買えばいい」という発想とを取ると、米国の独占状態となる。そのせいで、日本は不利な扱いになることが予想される。(輸出制限によって米国企業を有利にすること。)
結局、市場原理を推進したあげく、かえって独占をもたらすわけだ。自己矛盾。
どの分野であれ、単一のものによるの独占は駄目なのだ。独占を打破する多様性こそが必要なのだ。多様性がなければ、かえって弊害となる。
[ 付記2 ]
視野をさらに広げよう。この地球では、「優秀な人類だけが生き残ればいい」ということにはならない。さまざまな生物が多様に存在することが必要だ。
環境における植物もまたそうだ。多様な種のある森林が人為的に破壊されるのを防ぐべきだ。特に、「炭酸ガスの吸収量は人工林の方が多い」とか、「炭酸ガスの吸収量の多い特定の樹種を植林するべきだ」とか、極端な炭酸ガス主義になるべきではない。世界各地には、それぞれの天然林があり、樹種の多様性がある。こういう多様性を守ることが大事だ。
優勝劣敗というような概念は、いったん捨てた方がいい。その上で、新たに「多様性」や「優勝劣敗」などの概念を、等価値のものとして受け入れればいい。
市場原理や優勝劣敗というような概念は、決して世界の根本原理ではない。それはほんの一つの側面にすぎない。そのことをきちんと理解するといいだろう。
【 関連サイト 】
朝日新聞の記事については、私の要約とは別に、別の人の要約もある。下記。
→ 個人ブログ(記事の要約)