2009年10月12日

◆ 進化の本質

 進化の本質は何か? 次の二つの説が知られている。
 (1) 進化とは、環境への適応だ。
 (2) 進化とは、遺伝子の自己複製だ。
 しかしいずれも現実に合致しない。では、正しくは? ──

 (1) 進化とは、環境への適応だ。
 (2) 進化とは、遺伝子の自己複製だ。
 このいずれも、現実には合致しない。そのことは、すぐにわかる。

 (1) 環境への適応
 環境への適応が本質ならば、環境の変化に応じて、次のことが起こるはずだ。
  ・ 哺乳類 → 魚類 → 原索動物 → 単細胞生物

 たとえば、陸生の哺乳類が水中に入ると、魚類になるはずだ。
 現実には、そうはならない。陸生の哺乳類が水生の哺乳類になることはあるが、魚類になることはないし、また、魚類を経て単細胞生物になることもない。
 つまり、環境への適応は、あることはあるが、それは進化の本質ではない。

 (2) 遺伝子の自己複製
 遺伝子の自己複製が本質だと仮定するならば、進化という概念そのものに反する。
   原索動物 → 魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類

 というのが進化の歴史だが、この順で進むにつれて、遺伝子の数はどんどん減ってしまう。だから、進化とは、上の順で進みながら遺伝子の数を減らすことであり、その逆に進みながら遺伝子の数を増やすことではない、という結論が得られる。
 実は、遺伝子の数を増やすことの究極の方法は、(原索動物よりももっと下等な)単細胞生物になることだ。単細胞生物になれば、100%の自己複製が可能で、しかも、数をものすごく増やすことができる。ほんの数十分間で倍増する、という急速な増殖も可能だ。つまり、大腸菌や酵母菌のような単細胞生物こそ、最も自己複製に適しており、最も進化した姿だ、ということになる。
 しかし、「単細胞生物が最も進化した姿だ」なんことでは、進化という概念の正反対になってしまう! 矛盾!

 ──

 以上からわかるように、(1)(2) の認識は、おかしい。というのも、進化というものを根本的に誤認しているからだ。
 わかりやすく言えば、ダーウィン説も、ドーキンス説も、進化というものの本質を理解していない。
 なるほど、進化の過程では、(1)(2) の現象は見て取れる。だから、(1)(2) は、完全な間違いだということにはならない。しかし(1)(2) は、完全な間違いではなくても、進化の本質をとらえていないのだ。

 (1)(2)では、進化の典型として、次の例を取っている。
 「単細胞生物における自己複製」
 これを進化の典型としてとらえている。だからこそ、そこから「単細胞生物こそ最も理想的な生物の形態だ」という結論が出ても、不思議ではない。
( ※ 比喩的に言うと、「天才とは何か?」という問題に、白痴の人間を天才の典型ととらえれば、「天才とは知能指数が低いことだ」という結論が出る。そういうふうに逆方向の認識をするとしても、不思議ではない。最初の典型のとらえ方が狂っているからだ。)
( ※ このように「単細胞生物こそ生命の典型的な姿だ」という認識は、ドーキンスを初め、多くの進化論学者が取っている。しかし、このような典型の取り方はおかしい。この問題は、かつて論じたことがある。 → 生命の本質とは? (自己複製?)

 ──

 そもそも、進化とは、どういうものか? 進化論の専門家の間では、次のように認識されることも多い。
 「あらゆる生物はどれも等しく進化している。下等生物や高等生物というものはない。細菌も両生類も爬虫類も人類も、みな等しく進化している。それぞれは、環境の違いに応じて、適応する姿が違っているだけで、進化のレベルは同じである」
 たとえば、Wikipedia にはこうある。
 かつては進化に方向や傾向があると考えられ、進歩や前進と混同されていたために、進化が進んだ生物と進んでいない生物が存在すると考えられていた。現在では、進化は進歩や前進という意味を持っておらず、全ての生物は進化の度合いは同等と考えられている。
 単細胞生物と人間は同じぐらい進化している? 馬鹿馬鹿しい。このような馬鹿げた認識は、進化という概念そのものを誤認しているとしか言いようがない。長大な時間をかけて、単純な原生動物から、高度に発達した哺乳類までの進化(その歴史的な蓄積の過程)があったのに、それをほとんど無視しているようなものだ。
   原生動物 → 原索動物 →  ……  → 哺乳類

 という歴史的な蓄積の過程。それは生物が何十億年もかけて蓄積したステップアップだ。なのに、その偉大なるステップアップを無視して、「どれもが同じ進化のレベルだ」と語るのは、進化という概念そのものの否定だ。
 つまり、今の進化論学者は、「進化という概念そのものを否定する」という自己矛盾に陥っている。(変化という概念があるだけだ。)

 皮肉を言おう。彼ら(進化という概念を否定した進化論学者たち)は、やがてこう主張するだろう。
 「地球温暖化で世界が水没しても大丈夫。そのとき人間は、水中生活に適する形で進化する。新しい環境に適応するために、魚類や単細胞生物になるだろう。そして、単細胞生物にまで進化したとき、自己複製を完全化する。単細胞生物こそ、人類の究極の進化した姿だ」
 馬鹿馬鹿しいね。これは進化論学者の自己矛盾の究極の論だろう。  (^^);

( ※ 比喩的に言おう。超高層ビルには、1階から50階まで、階を積み重ねるという蓄積の過程があった。一方、平屋建てには、蓄積の過程がない。なのに、田舎の平屋建てと、東京の超高層ビルを比較して、「両者は、場所の差があるだけで、階数は同じだ」と主張する人もいるだろう。それが現代の進化論学者だ。階数というものをまるで無視している。)
( ※ ただし、それは馬鹿馬鹿しいとしても、論理的には整合的である。最初に「進化とは環境への適応だ」「進化とは小進化が続くことだ」という前提を取れば、「進化のレベルはすべて同じだ」という結論が出るのは、論理的に必然である。問題は、その前提なのだが、「前提そのものが誤っている」とは、誰も気がつかない。)

 ──

 では、正しくは? 進化の正しい意味は? 
 進化について正しく知るには、進化の典型として、正しい典型を取ればいい。すると、次のことがわかる。
 「最も進化した生物は人間( or 哺乳類)である。逆に、最も進化していない生物は単細胞生物などである。正確に言えば、真核生物以前の原核生物など。これらは最も進化していない生物である」

 ここで、人類( or 哺乳類)が進化の典型となる。すると、次の二点がわかる。
  ・ 人類は、環境に適応する形で進化したのではない
  ・ 人類は、遺伝子を増やすために進化したのではない


 (A)環境への適応

 人類の進化は、「環境への適応」という形で起こったのではない。ラミダス猿人以降、アウストラロピテクスやホモエレクトスなどを経て、ホモサピエンスにまで至ったが、その過程では、「新たな環境への適応」という形で進化したのではない。そのいずれも「地上」という同一の環境で起こった。
 また、(進化のない)一つの種について見れば、住んでいる「地上」の形態は千差万別で、
   森林、草原、谷間、川辺、海辺、山地

 というふうに、非常に多岐にわたった。それでも、環境の差を乗り越えて、種としての同一性を保った。
 強いて言えば、ホモサピエンスの場合には、
   アフリカの熱帯 → 地中海の温帯 → 欧州・モンゴルの寒帯

 というふうな形で、環境の差による進化 があった。ただしそれは、進化でなく、小進化にすぎない。というのは、ホモサピエンスという同一種のなかで起こった人種差としての、亜種レベルの違いが生じたにすぎないからだ。それは(小進化ではあるが)「進化」とは言えない。(実際、可逆的である。)
 要するに、環境の差は、人類に進化をもたらさなかった。その一方で、ほぼ同一の環境で、人類は数百万年にわたって一貫して進化し続けた。進化の原動力は、環境ではないのだ。

 (B)遺伝子の増加

 人類の進化は、「遺伝子の増加」という形で起こったのではない。特に、哺乳類全体を見ても、そのことが言える。
  ・ 高等な哺乳類(人間など)は、多産でない
  ・ 下等な哺乳類(ネズミなど)は、多産である

 哺乳類より下等な爬虫類、両生類、魚類などを見れば、下等になればなるほど多産だとわかる。(下等であるほど、産卵する卵の数が多い。)
 そしてまた、一般に、下等な生物ほど、個体数が多い。
  ・ 哺乳類のなかで最も数が多いのは、最も下等なネズミやコウモリ。
  ・ 魚類は数が多く、単細胞生物はもっと数が多い。


 ここまで (A)(B)について見た。こうして人類を見ることで、次のことがわかる。
 「人類においては、環境への適応も、遺伝子を増やすことも、進化の本質となっていない


 ──

 では、人類の進化は、どういう形で起こったか? 環境への適応でもなく、遺伝子を増やすことでもないとしたら、そこにはどんな形の進化があったのか?
 いきなり結論を言おう。それは、こうだ。
 「個体としての完成度を高めること」
 「個体の複雑さを高めること」

 
 一般に、進化した生物ほど、個体としての完成度は高まり、個体としての複雑さも高まる。
 たとえば、霊長類でも、メガネザルのような小さな猿と、類人猿のオランウータンなどを比べると、オランウータンの方が圧倒的に複雑で高度な生物であることがわかる。
 このように、個体としての完成度・複雑さを高めることが、進化の本質である。

 《 注記 》

 「個体としての完成度・複雑さ」が高まることは、「エントロピーが減少する」というふうに言い換えることもできる。それはまた、「生物らしさが高まること」とも言える。
 生物がどんどん進化していくということは、生物がどんどん生物らしさを高めていくということだ。……そういうことが「エントロピーの減少」という言葉から理解できるだろう。

  ────────────

 ここで、注意。個体としての完成度・複雑さを高めることには、二通りの道がある。
  ・ 旧種と新種が競合する
  ・ 旧種と新種が競合しない


 この二通りは、次の二通りに対応する。
  ・ 同一環境にいる。 (だから競合する。)
  ・ 異なる環境にいる。(だから競合しない。)


 同一環境にいれば、旧種と新種が競合するので、「種の交替」が起こる。旧種は滅びる。これは、人類の進化に見られたし、馬の進化にも見られた。
 異なる環境にいれば、旧種と新種が競合しないので、「種の分岐」が起こる。たとえば、陸生生物から水生生物が分岐する。この際、両者は競合しないから、水生生物が生じても、陸生成物が滅びることはない。

 ここで、注意。後者の「種の分岐」の場合には、「新たな環境への適応」が起こる。
 つまり、「新たな環境への適応」は、進化の原動力ではない。進化にともなって「新たな環境への適応」が起こることある、というだけだ。
 そして、進化が生じても、「新たな環境への適応」は必ずしも必要ではない。(それが「種の交替」だ。)
 たとえば、人類が進化した過程で、人類は新たな環境に進出したわけではない。また、新たな環境に進出しても、進化は起こらなかった。(前述。)
 要するに、「進化」にともなって、「新たな環境への適応」が起こることもあり、起こらないこともある。それだけだ。「新たな環境への適応」は、進化にともなうオマケみたいなものであって、特に重要性があるわけではない。
 ただ、進化にともなって「新たな環境への適応」があると、種の形態が大きく異なる。そのことで、非常に目立ちやすくなる。これについては、下記。

 詳しく言おう。「新たな環境への適応」は、進化の方向性を大きく左右する。水中生活に適するような形になるとか、樹上生活に適するような形になるとか、そういうふうに、進化の方向性を大きく左右する。そのせいで、非常に目立つ
 とはいえ、「新たな環境への適応」は、進化の原動力とはならないのだ。「新たな環境への適応」は、進化の本質とは関係がない。単に進化の方向性を決めるだけだ。

( ※ 比喩的に言うと、自動車を動かす推進力は、エンジンによるタイヤの回転である。これが本質だ。一方、ハンドルを操作してタイヤの向きを変えると、自動車の進行方向を左右できる。……自動車の推進力と、自動車の方向決定とは、別のことである。これが「進化の原動力」と「進化の方向性」との違いだ。)
( ※ 自動車の速度が変わっても あまり目立たないが、自動車の進路が変わると非常に目立つ。そのせいで、進路を変えるハンドルばかりに着目して、「自動車を新しい道に走らせたのはハンドルである」と誤認することもある。そういう誤認をするのが、現代の進化論だ。ハンドルばかりに着目して、自動車を走らせる推進力を見失っている。もちろんハンドルも大切だが、一番大切なのは自動車の推進力なのだ。それこそが自動車の本質なのだ。)

 ──

 進化の本質は、個体としての完成度や複雑さを高めることだ。(進化の原動力。)
 一方、進化の方向性は、「環境への適応」という形で決まる。
 この両者を、きちんと区別しよう。

 ダーウィンの自然淘汰説は、「進化の方向性」を説明するための理論である。そして、それは「進化の本質」を説明する理論とはならない。
 しかしながら、たいていの進化論学者は、両者を混同している。「進化の方向性」を決める理論で、「進化の推進力」を説明したつもりになる。そのせいで、「新たな環境に進出すると進化が起こる」というご都合主義の理屈を唱える。
 進化の本質とは何かを、はっきりと理解する必要がある。

 《 注記 》

 「進化の推進力とは何か?」という問題もある。これについては、「境界領域が進化をもたらす」というふうに説明できる。詳しくは、下記。
  → 人類の進化の場(境界領域)



 【 補説1 】
 なぜ、進化は次々と起こるのか? 進化の原動力はなぜ止まらずに続くのか? そこにはなぜ一貫性があるのか? ……この問題は、ジャック・モノーが話題にしたことがある。
 「生物は一貫して同じ方向に進化しつつあるように見える。人間は一貫して脳の容積の拡大があるし、馬は一貫して中指だけの巨大化がある。こういうふうに一貫した進化は、どうして起こるのか?」
 このような疑問は、ダーウィン説を取るからこそ起こる。
 「進化とは環境への適応だ」
 「進化とは形質の変化だ」
 という認識を取るから、一貫して同じ方向性を取ることが理解できなくなるのだ。(たとえば、猿なら一挙に脳の容積を拡大すればいいのだし、馬なら一挙に中指を大きくすればいい。どうせ遺伝子レベルの突然変異によるのだから、一挙に変化することだって可能なはずだ。なぜそうしないのか? これが疑問となる。)

 しかし、本項を読めば、この問題には簡単に解決がつく。
 「進化の本質は、個体としての完成度・複雑さを高めることだ。そして、そのことは、同一方向にしか進みようがないからだ。また、蓄積は、一挙になし遂げることができず、逐次的にしかなしえないからだ」

 比喩的に言うと、積み木を積んでいくという行為には、積み木の数が増えるという一貫性しか生じない。積み木をどんどん積んでいけば、積み木の数は増えるしかないのだ。当り前。そしてまた、積み木は一つずつ積んでいくしかない。
 なお、生物が退化すれば、その個体は劣者として滅亡してしまうから、無視される。(積み木を積むのに失敗すれば、その行為はチャラとなって、もういっぺんやり直すだけだ。)
 また、積み木が同じ高さのま真横に移動することがあるとしたら、それは、別の積み木と見なされるだけだ。(同じ積み木とは見なされない。別種への分岐。)
 また、積み木を積みながら、斜め方向に伸びていくことはあるが、それはそれで、特に論じるに値しない。(ごく当たり前のことだ。常に垂直に積み木が上がっていく、ということの方が稀だ。)

 【 補説2 】
 ともあれ、進化というものは、積み木を積んでいくようなものだ。そういうふうにして、個体としての完成度・複雑さを高める。
 ただし、そういうことがあっても、従来の積み木が消滅してしまうわけではない。単細胞生物、魚類、両生類、爬虫類などが、さまざまな進化にともなって消滅してしまうことはなく、いつまでも残る。
 現在も存在する単細胞生物、魚類、両生類、爬虫類などは、これまでの生物の進化の過程(進化の段階)をそのまま残している。
 「単細胞生物は人類と同じぐらい進化している。生きる環境が違うだけだ」
 というようなことはない。環境の違いなどは、進化にとっては非本質的だ。大事なのは、進化の段階を上がることだけだ。
 メガネザルのような原始的な猿を見て、人間と比べることもできる。そのとき、猿と人間との決定的な違いは何かと問われて、「生きる環境が違う」と答えるのは正しくないし、「手足や諸器官の形が違う」と答えるのもピンボケだ。
 原始的な猿と人間との決定的な違いは、個体としての完成度・複雑さの違いだ。「人間もメガネザルも、同じぐらい進化した生物である」ということはない。個体としての完成度・複雑さは、人間の方がずっと上だ。ここに進化の本質がある。

 【 補説3 】
 「個体としての完成度・複雑さ」は、数字で示せるか? 示せる。それには、「ゲノム内における遺伝子の数」が指標となる。
 進化の歴史では、進化にともなって「ゲノム内における遺伝子の数」が増えてきた。たとえば、人間は2万数千。この数がどんどん増えていくというのが、進化における一貫した傾向だ。
 遺伝子レベルで言うならば、進化の本質は、「種内におけるゲノムの数」が増えることではなく、「ゲノム内における遺伝子の数」が増えることだ。「進化の本質は遺伝子が増えることだ」という表現は、この意味で解釈する場合にのみ、正しい。ドーキンスみたいに、「種内におけるゲノムの数が増えること」を進化の本質と見なすのは、とんでもない勘違いだ。
 例示しよう。「ゲノムにおける遺伝子の数」は、人間だと、2万〜2万7千。ハエだと、1万4千。大腸菌は、4千。……このように、下等なものほど、「ゲノムにおける遺伝子の数」は少なくなる。その一方、「ゲノムの総数」は、おおまかには、下等なものほど多くなる。たとえば、大腸菌や酵母菌なら、ちょっとしたタンクに何十億もいる。大きなタンクが一つあれば、それだけで地上の哺乳類全体の数を上回る。
 「ゲノムの総数」にこだわるドーキンス流の認識は、「遺伝子」の意味を根本的に勘違いしているようだ。そもそも、ドーキンスの認識には、遺伝子とゲノムの区別すらない。遺伝子がそれ単独で増えたり減ったりするように認識しており、ゲノムという単位の認識がすっぽり欠落している。あまりにも古すぎる。

 【 補説4 】
 いっそう正確に考えることにしよう。ゲノムにおける遺伝子の数だけでなく、遺伝子1個あたりの複雑さも勘案する方がいい。次のように。
 ゲノムにおける遺伝子の数だけ見ると、人間は大腸菌の6倍程度の複雑さでしかない。(2万数千 対 4千)
 しかし、遺伝子のかわりに塩基対の数で比べると、大腸菌の塩基対は 470万で、人間の塩基対は 60億。人間は大腸菌の 1300倍となる。この数字の方がいっそう正確で有意義だろう。
 つまり、進化の程度の指標は、
 「ゲノムにおける遺伝子数 × 1遺伝子あたりの複雑さ」

 となり、その値は、
 「塩基対の数」

 で示すことができる。

( ※ このような認識は、重要である。当り前のように見えても、現代の進化論では当り前でないからだ。たとえば、人間とチンパンジーの差を比べるとき、「遺伝子は 99%が一致している」と言われる。しかし、そこでは、「ゲノムにおける遺伝子数」の違いを見るという発想がない。「遺伝子がいっそう複雑化していること」「塩基数が増えていること」を見るという発想もない。そこにある発想は、「両者の遺伝子数は同じであると仮定した上で、両者の違う部分の比率だけを比べる」という発想だ。「絶対的な差分を無視して、相対的な差の比率だけを見る」という発想だ。……しかし、そのような発想では、「人間が類人猿よりも発達している」ということを正確に見抜くことはできない。要するに、「進化の本質は何か」ということを理解しないと、物事を調べる方法さえも間違えてしまうのだ。現代の進化論は、そういう落とし穴にはまってしまっている。)
( ※ 比喩的に言うと、大人と子供を比べるときに、その絶対的な差を見ないで、体つきのプロポーションを比率で比べるだけ、というようなものだ。そういう発想では、大人が子供よりも成長している、ということを見失ってしまう。……こういうふうにして、従来の発想だと、進化の本質を見失う。)



 [ 付記1 ]
 ダーウィンでは、「突然変異による遺伝子の変化」ばかりを認識してきた。しかし、その発想では、「ゲノムにおける遺伝子の数」を増やすことができなくなる。大腸菌の 4千という遺伝子数はずっとそのままとなる。進化によって、遺伝子の種類が代わるだけで、遺伝子の数は増えないことになる。
 というか、進化によってゲノム内の遺伝子の数が増えても、そのことを認識せず、遺伝子の種類の交替ばかりを見ていることになる。
 また、ドーキンスでは、種内のゲノムの総数を増やすことばかりにとらわれており、「ゲノムにおける遺伝子の数」を増やすことへの認識が欠落している。
 というわけで、ダーウィンも、ドーキンスも、進化の本質をとらえていないのだ。
 特に、ドーキンス流の認識は、問題がある。現代の進化論は、ドーキンス流の認識に汚染されてしまっている、とすら言える。先の「ハリナシバチ」についての認識もそうだ。「種内のゲノムの総数を増やすことが重要だ」という認識ばかりをしているから、トンチンカンな結論を出してしまっている。

 [ 付記2 ]
 なお、ドーキンスの認識の基本は、「種内のゲノムの総数を増やすことで、進化そのものが起こる」ということなのだろう。だが、それが実際に成立するのは、小進化だけだ。そして、小進化においては、「遺伝子の交替」はあっても、「ゲノムにおける遺伝子の数」を増やすことはできない。また、小進化においては、可逆性も成立する。小進化は、本当の意味の進化(種の違いをもたらす大進化)とは、全然別のものだ。小進化と大進化は違うのだ。
 
 [ 付記3 ]
 ダーウィン説は、それを狭義に理解すれば、今日では科学的に否定されている。
 ダーウィン説を「進化があった」というふうに解釈するならば、それは否定されない。(反対の創造説みたいな話は成立しない。)
 ただし、科学的な学説としてのダーウィン説は、今日では科学的に成立しないと判明している。
 「ダーウィン・フィンチという小鳥は、それぞれの島ごとに形質が異なる。このような環境による違いが蓄積して、進化が起こったのだろう」
 というのが、ダーウィン説だ。(個体淘汰説。) しかしながら、この学説は否定されている。というのは、次の事実が判明したからだ。
 「ダーウィン・フィンチという小鳥は、それぞれの島ごとに形質が異なるが、その差はただの亜種の違いに過ぎない。それらはいずれも同一の種である。ここにある変化は、可逆的な小進化であり、不可逆的な進化ではない」
   ( → 分岐と進化
 ダーウィンは、ダーウィン・フィンチの違いを見て、「進化の証拠だ」と思ったのだが、それは進化の証拠ではなかったのだ。「進化がある」という大きな枠組みは正しく認識していたのだが、ダーウィン・フィンチをその証拠と見なしたのは全然見当違いだったのだ。(小進化を見て、大進化を結論してしまっている。)
 ダーウィンの説は、「間違った根拠から正解を言い当てた」というのに等しい。それは、(部分的に)正しい結論にたどり着いたとしても、「まぐれ当たり」のようなものであって、科学的な学説ではないのだ。(根拠なしだから。)
 というか、「小進化があるから、大進化もある」という推論が、まったくのデマカセにすぎなかったのだ。
 
 ともあれ、ダーウィン説の
 「進化がある」
 ということ自体は、問題ない。ダーウィンは、それをうまく言い当てた。しかし、「進化がどうして起こるか」ということについては、まるきり見当違いのことを言い出したのだ。(この点は、ドーキンスもまた同じ。)

 そして、彼らが間違えた理由は、いずれも、「進化とは何か」という本質を正しく理解していなかったからだ。
 魚と人間との本質的な違いは、「水生動物か、陸生動物か」というような、環境の違いによるのではない。両者の本質的な違いは、個体としての完成度・複雑さの違いだ。そして、それを見失って、環境の違いやら、遺伝子の違いやらを、いくら言い立てても、進化の本質を理解したことにはならないのだ。
( ※ 環境への適応ばかりを言い立てているから、多くの進化論学者は、「細菌も人間も同じぐらい進化した生物である」なんて述べて、平気でいられるのである。「進化とは何か」を根本的に取り違えている。)



 [ 補足1 ]
 「どの生物も進化のレベルが同じである」
 という通説は、「進化」と「変化」とを区別できていない。
 実際、今の進化論では、「進化」とはただの「変化」であるにすぎない。そこでは、「進化」「蓄積」という概念が欠落している。旧種と新種の間に「変化」を見出すことはできても、旧種と新種の間で新たに加わったもの(レベルアップしたもの)を見出すことができない。……こういう発想では、進化の本質を見出すことはできない。
 特に、通説の発想では、「進化の不可逆性」を説明できない。
 「進化には順序があり、下等なものから高等なものに進化すれば、いったん高等になったものがふたたび下等なものになることはない
 というのが「進化の不可逆性」だ。しかし、通説に従えば、下等なものと高等なものにレベル差を見出せないのだから、「進化の不可逆性」も説明できなくなる。

 [ 補足2 ]
 ただし、「進化の不可逆性」が説明できないというのが、妥当であることもある。つまり、「進化の可逆性」が成立することもある。
 それは「小進化」の場合だ。小進化においては、進化は可逆的である。つまり、「可逆性」が成立する。したがって、「進化の不可逆性」が説明できなくても、当然である。
 具体的には、ダーウィン・フィンチがある。各島の亜種は、すべてダーウィン・フィンチというひとつの種の亜種である。それらは、いずれも進化のレベルが同じであり、いずれも可逆的である。
 ダーウィン説は、「小進化の理論」であり、小進化について語る限りは、まったく正しい。……ただし、「小進化の理論」を、大進化に当てはめてしまった。そこに、現代の進化論の根本的な誤謬がある。そんなことをすれば、小さな衣服を、大きな体に着せるようなもので、衣服が破けてしまう。それが現代進化論の破綻だ。
 
 [ 補足3 ]
 なお、どうしてこのような誤謬が生じるかと言えば、ダーウィン説では、小進化と大進化の区別をしないからだ。
 ダーウィン説では、「大進化とは小進化の蓄積である」と見なされる。単純に突然変異の量が多いのが大進化だ。そして、突然変異の量は、現代の現生生物でも、現代の人間でも、初期の現生生物とに違いは同程度であるはずだ。(なぜなら、時間ごとの突然変の量は同じだからだ。)……というわけで、突然変異の量に着目する限りは、「あらゆる生物の進化のレベルは同じだ」という結論に至る。
 私の説(および 断続平衡説 )では、大進化とは、「旧種から新種へのステップアップだ」と見なされる。ゆえに、「小進化の蓄積は大進化ではない」と見なされる。同じ種の中にとどまる限り、どんなに突然変異が蓄積していても、それは進化ではない。進化と突然変異とはイコール関係ではないのだ。進化があるかどうかは、突然変異がたくさんあるかどうか(小進化がたくさんあるかどうか)によるのではなく、進化の本質があるかどうかで決まる。
 では、進化の本質の有無とは? それを論じたのが、クラス進化論だ。要するに、進化の本質は、「種の形成」である。それは「分岐」とは違う。分岐というものは、道が二つに分かれるようなものだ。しかし「種の形成」は、旧種は旧種のまま留まっているのに、そこに新たに新種が追加されることだ。そこではステップアップの形で新種が追加される。……ともあれ、詳しい話は、「クラス進化論」にあるとおり。
   → クラス進化論 ( 表紙 / 概説
  
 [ 補足4 ]
 進化の過程とは、ステップアップを蓄積した過程である。……これが私の説だが、このことは生物学的にすでに証明されている。それは、ヘッケルの反復説だ。
 「個体発生は系統発生を繰り返す」( → 

 このことは、数学の法則のように完璧に例外なく成立するわけではないが、おおむね成立する。特に、個体発生の最後の部分を除けば、途中まではかなりよく成立する。(とうてい偶然の結果だとは思えない。)
 では、なぜ、このようなことが起こるのか? 簡単だ。進化の過程とは、ステップアップを蓄積した過程だからだ。たとえば、両生類までの進化の蓄積の上に、爬虫類としての進化が追加的に蓄積した。爬虫類としての進化の蓄積の上に、哺乳類としての進化が追加的に蓄積した。……このように考えれば、ヘッケルの反復説(の図)は説明される。
( ※ ただし、完璧に追加されるのではなく、個体発生の最後の部分が削除されてから、新たな蓄積が追加される。)
( ※ この件、詳しくは、ネオテニーの話を参照。 → クラス進化論「第2部 概要」
 
 [ 補足5 ]
 進化の本質を「突然変異の蓄積した量」と見なす発想もある。しかし、これは妥当ではない。突然変異だけなら、有効な突然変異も無効な突然変異もあるが、進化にとって大切なのは、有効な突然変異だけだからだ。……ここのところを誤解している人が多いようだが。
 たとえば、分子時計というものがある。これは、「時間がたつほど突然変異の量が多い」という事実に基づく。ただし、注意。ここで計測される遺伝子は、「有効でない遺伝子」に限られる。具体的には、「形質の差をもたらさない塩基レベルの差異」だ。これについては、たしかに、「時間がたつほど突然変異の量が多い」という事実が成立する。
 しかし、有効な形質をもつ遺伝子は、新種の発生にともなって突発的に生じるだけだ。「時間長ければ長いほど生じやすくなる」ということはなく、新種の発生にともなって一挙に生じる。
 普通の進化論学説を信じる人は、
 「突然変異は生じる確率が同じであり、時間が長くなるほど突然変異は比例して起こりやすくなる」
 とだけ信じている。なるほど、それは生化学的には正しい。しかし、新種の発生のときには、突然変異は一挙に大量に生じる。
 進化の本質は、突然変異の量的な拡大ではない。有効な突然変異の量的な拡大である。そして、それは、普通の進化論学説では決して説明されないのだ。
( ※ 無効な突然変異は時間的に比例するが、有効な突然変異は時間とは別の理由で発生するのだ。)
( ※ 「ではそれは何か? 何が進化をもたらすのか?」……という話は、クラス進化論のページを参照。)
posted by 管理人 at 10:48| Comment(7) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そういえば昔、大阪の日本橋の電気街の裏通りに、「五階百貨店」というのがありました。もちろん平屋建てです。
Posted by jiangmin at 2009年10月08日 02:05
【 補説4 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2009年10月08日 05:47
進化関係のエントリをまとめ読みさせていただきました。非常に面白かったです。

ただ、読んでいて少し気になったことがあります。
このエントリにおいて、
>つまり、進化の程度の指標は、
> 「ゲノムにおける遺伝子数 × 1遺伝子あたりの複雑さ」
> となり、その値は、
> 「塩基対の数」
> で示すことができる
とありますが、両生類や爬虫類、魚類の中にはヒトよりも遺伝子数や塩基対の数が大きいものが多くいます。
また、被子植物や菌類の進化の度合いはどう見做されているかは存じませんが、被子植物や菌類に関しても同様に大きいものが少なくなく、ヒトのゲノムサイズは特別大きいとは言えません。
さらに、ヒトはアルコルビン酸やレチノールのような、生存に必須の物質を合成する能力も失っており、時にこの欠点が致命的になることもあります。
こういった、シンプルになる方向に変化したものについて、どのように解釈をなさっているのか、是非お伺いしたいです。
Posted by happyT.F. at 2010年01月26日 13:22
DNA をロボットで細かく解析したのはヒトゲノム計画が最初で、そのあと、マウスなどと、稲などが、いくらか実現しました。ただし、爬虫類や魚類は、まだやっていないはずです。
 爬虫類や魚類の遺伝子数というのは、推定された分ですが、これはかなり曖昧です。ヒトゲノムも、当初は 10万と推定されたのに、実際に数えてみたら 2万数千。以前の推定分には、「偽遺伝子」(働いていないもの。遺伝子の残骸)がまぎれこんでしまったのです。
 爬虫類や魚類の遺伝子数というのも、偽遺伝子込みで推定しているのでしょう。そのせいで、DNA のサイズは巨大になりますが、実際に働いている遺伝子の数はずっと小さくなります。
 cf.  http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=188799

 植物の場合はまったく別で、比較の対象にはならないでしょう。私の推定では、遺伝子の数は多いけれど、一つ一つの遺伝子の塩基数は小さいと思えます。また、働いていない分(偽遺伝子)の分も相当に大きいでしょう。
 
> シンプルになる方向に変化したもの

 遺伝子が働かなくなるというのは、偽遺伝子になるということです。その遺伝子の本体は残っているのに、その遺伝子を発現させる部分がストップしています。そのあと、偽遺伝子の部分は、急激に変動していきます。(中立説)
 実は、これが、大進化をもたらす要因です。たとえば、恐竜の前肢の遺伝子が働かなくなり、恐竜の遺伝子が消失する。そのせいで恐竜の前肢そのものが消失して、恐鳥類となる。それが走鳥類となる。その後、偽遺伝子の分が急激に進化して、腕の遺伝子に変化します。そのとき、偽遺伝子が発現して遺伝子となると、突然、腕がニョキニョキと生えてきます。このようにして一挙に起こる進化が大進化です。

 クラス進化論の第2部に書いてあるとおり。
 → http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_21.htm
 → http://openblog.meblog.biz/article/1812652.html
Posted by 管理人 at 2010年01月26日 20:40
丁寧な解説ありがとうございます。

おっしゃる通り、偽遺伝子の割合はまだ不明瞭な生物種が多いのを失念しておりました。
ゲノムの解析が進むにつれ、クラス進化論の評価も変わっていくのかもしれませんね。
しかし、まだ若干、腑に落ちない現象がありますので、質問させてください。
例えば、マウスの遺伝子数と塩基対数はともにヒトを上回っているとされます。
マウスは研究がよくされている生物ですから、偽遺伝子の割合を見誤っている可能性は低そうですが、こういった現象は例外のようなものなのでしょうか。
また、真核生物で起こる選択的スプライシングは、DNA複製コストを下げますので、「進化するほどシンプルになる」方向性を産みそうに思えます。
この点については、どのような説明がなされているのでしょうか。

後半部分についてですが、アスコルビン酸やレチノールの合成能を失うことは、大進化のきっかけになり得るということで解釈しましたが、合っておりますか?
このような説は学校のような場では聞く機会がないため、非常に興味深いところであります。
Posted by happyT.F. at 2010年01月26日 23:29
> マウスの遺伝子数と塩基対数はともにヒトを上回っているとされます。

先日の報道では、マウスの遺伝子数は人間よりもちょっとだけ少なかったはずです。
なお、進化の順序では、哺乳類同士ではあまり意味がありません。もっと大きな枠組みの差でないと。

> また、真核生物で起こる選択的スプライシングは、DNA複製コストを下げますので、「進化するほどシンプルになる」方向性を産みそうに思えます。

全体としてプラスになるというのは、プラスばかりがあるという意味ではなく、プラスとマイナスの差し引きがプラスになるということです。

> 後半部分についてですが、アスコルビン酸やレチノールの合成能を失うことは、大進化のきっかけになり得るということで解釈しましたが、合っておりますか?

あっていません。  (^^);
それはたぶん小進化のうちの退化でしょう。そのうち、アスコルビン酸の合成能をもった人間(同じくホモ・サピエンス)が突然出現しても、別に不思議はない。
Posted by 管理人 at 2010年01月26日 23:39
Q&A

> ・個体としての完成度・複雑さを高めることが、進化の本質の根拠

 それは一種の哲学や仮説のようなものです。立場。
 根拠があるからそう考えるのではなく、そう考えると物事がどう認識されるかです。それで物事がうまく説明されるなら、その仮説は妥当だと見なされます。

> ・完成度・複雑さとは具体的にどういった状況なのか?(例えば他者との接触を避ける超個人主義などいただければ!)

 一般的には遺伝子の量で計測されます。複雑な遺伝子は簡単なものから時間をかけて形成されます。

> ・なぜ、「個体としての完成度・複雑さ」が高まることが、「エントロピーが減少する」になるのか?

   複雑さの程度 = エントロピーの少なさ

 というのが物理学の常識です。生物学にこの概念を導入したのは私ではありません。シュレーディンガーだったはず。「エントロピー 生物」で Google 検索してください。

> 大変面白い考えでしたので、そこに至るプロセスを教えていただければ幸いです。

 思考のプロセスなんか自分でも意識していませんし、他人に説明できるものでもありません。
Posted by 管理人 at 2012年09月03日 12:54
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