2009年10月07日

◆ 人類の進化の場(境界領域)

 前項では、「半水生説」を唱えた。人類進化は水辺で起こった、と。
 この水辺とは、「境界領域」にあたる。この境界領域について詳しく説明する。(前項の補足)  【 重要!】 ──

 初めに、「現代の進化論には自己矛盾がある」という点を示す。

( ※ 進化論の専門家たちは、自分たちの説が間違いであることを、自分自身で主張している。ただ、その自己矛盾に、自分で気がつかないだけだ。鏡に向かって「馬鹿だ」と批判しているのだが、その批判の矛先が自分自身に向かっていることに気づかない。……そこで、その自己矛盾を、以下で指摘する。)
( ※ わかりやすく言うと、「現在の進化論は間違っている!」と言っている人がいるのだが、そう言っているのは、トンデモ的な素人ではなく、進化論の専門家たち自身なのだ。)

 ──

 前項の最後では、進化論の専門家による「アクア説批判」を紹介した。
 「水辺に出たから進化するというのは、ご都合主義に過ぎて、非科学的だ」
 という趣旨の批判だ。
 しかし、彼の批判(アクア説批判)の論旨は正しいとしても、彼の批判の矛先は間違っている。

 なぜか? 彼が批判するべきだったのは、アクア説ではなく、(アクア説や草原説を含む)直立二足歩行説の全体だったのだ。
 「直立二足歩行によって人類は進化した」
 という直立二足歩行説(直立二足歩行による人類進化説)。これこそが最大の問題点なのだ。だから、これを批判するべきだった。そもそも、
 「直立二足歩行をすると、手が自由になるから、自由な手を利用するために、脳が発達した」
 というのは、ラマルク主義そのものだ。(その理由は下記。)

 直立二足歩行をしても、その時点では、類人猿はいまだに類人猿である。脳が発達しているわけではない。「直立二足歩行を下手にできる猿」にすぎない。
 したがって、「直立二足歩行をしても脳が発達していない猿」は、何ら有利な点がないのだから、自然環境のなかで淘汰されてしまうはずだ。草原であれ、水辺であれ、とにかく、もともといた森林以外のすべての場所で淘汰されてしまうはずだ。(これは例の専門家がアクア説を批判したのと同じ論法である。……実は、この論法は正しい。)
 つまり、
 「猿が直立二足歩行をすると、その環境に合わせて、猿の脳が発達した」
 というのは、
 「魚が陸に上がると、その環境に合わせて、魚に足できた」
 というのと同じで、ご都合主義のラマルク進化論なのだ。もちろん、間違い。

 では、正しくは? こうだ。
 「魚が陸に上がるには、境界領域で両生類に進化する必要があった」
 「猿が脳を発達させるには、境界領域で人間に進化する必要があった」

 これが正しい。従って、
 「猿が直立二足歩行をしたから、その環境に合わせて、猿の脳が発達した」
 という直立二足歩行説は、全然、成立しない

 ──

 要するに、直立二足歩行説(直立二足歩行による人類進化説)そのものがおかしい。アクア説を批判するなら、むしろ、直立二足歩行説を批判するのが正しい。トンデモだの、ラマルク主義だの、そういう批判の矛先は、アクア説だけの問題ではなくて、(草原説を含む)直立二足歩行説すべてであるべきなのだ。
( ※ だからこそ、同じ理屈の批判は、直立二足歩行説のひとつである草原説にも、そっくりそのまま当てはまる。)

 結局、例の専門家の批判は、批判としては正しいのだが、攻撃の矛先を間違えている。
 「ラマルク主義に従うのがおかしい」
 という論拠をもって、
 「アクア説がおかしい」
 と批判している。なるほど、その論拠は正しいが、同じ論拠は現代の進化論全般に当てはまるのだ。とすれば、その論拠でアクア説だけを排除するのは妥当でない。(論理は正しくても片手落ち。)

 例の専門家が語るべきことは、こうだった。
 「アクア説も、草原説も、はたまた現代の進化論も、みんなご都合主義だ。それらは『新環境への進出が進化をもたらす』という発想(ラマルク主義)を取っているからだ。そのすべては非科学的である」

 これなら批判として道理が通る。ただし、批判として道理が通るかわりに、現代の進化論は(批判されて)破綻してしまう。

( ※ 詳しく説明しよう。新環境への進出は、進化と全然無縁であるわけではない。ただし、自然淘汰説は、劣者の排除をもたらしても、優者の誕生をもたらさない。新環境への進出で、新環境における劣者が滅びることは説明されても、新環境における優者が産まれることは説明されない。……現代の進化論は、「自然淘汰説」のほかには「突然変異」しか取っていないが、「突然変異」の確率は同じだから、優者の誕生を説明できないのだ。……そこで、やむなく、苦しまぎれにラマルク主義を取ってしまうが、それでは理論として破綻する。)
 
 
  ────────────

 さて。ここからは、真相を示す。(何が間違いかを示すのでなく、何が真実かを示す。)
 以上のことを理解すれば、前項の半水生説の妥当性がわかるはずだ。半水生説は、上記の批判を免れている。

 半水生説では、進化の理由として、次のことを掲げる。(以下では「境界領域」という用語に注意。)
  ・ 進化をもたらすのは、新環境への進出ではなく、境界領域だ。
  ・ 進化をもたらすのは、自然選択という「排除」(劣者排除)ではない。
  ・ 進化をもたらすのは、境界領域という「多様性」(劣者生存)である。
  ・ 多様性をもたらすのは、境界領域における「豊かさ」である。


 「境界領域」とは、ここでは「水辺」のことだ。「陸地」と「水」との境界領域には、水中生物も陸上生物も、あまりいない。水中における優者も、陸上における優者も、そこにはあまり進出していない。そこは一種のニッチだ。だから、既存の領域における劣者が進出できる。……そこが、「森林(樹上)」から「草原など(地上)」へと移行する進化のための、経過的な場となった。
 そこでは、自然淘汰の力が弱い。「排除」(劣者排除)の力が弱い。だからこそ、劣者もまた生き延びることができる。
 「排除」の力が弱いということは、そこでは「多様性」が成立するということだ。
 逆に言えば、「多様性」が成立するということは、「排除」の力が弱いということである。そのためには、劣者もまた生き延びることができるように、環境における「豊かさ」が必要だ。苛酷な環境では、限られた優者しか生き残ることができないが、豊かな環境では、さまざまな生物が共存できる。そして、水辺というのは、豊かな環境になることが多い。

( ※ ここで注意。従来の進化論では、自然淘汰の力が強いと進化が起こることになっている。しかし本項の説では、自然淘汰の力が弱いと進化が起こることになっている。……正確に言えば、弱い自然淘汰のなかで多様性が産み出され、そのあとで強い自然淘汰のなかで選択が行なわれる。二段構えだ。)

 ──

 というわけで、豊かな境界領域こそ、進化の場となる。そして、水辺はそれに当てはまる。
 特に、魚貝類が豊富なことは、大型の類人猿にとっては、きわめて魅力的だった。魚貝類は、肉食動物の餌にもならず、草食動物の餌にもならない。ごく限られた種(カワウソなど)が魚貝類を取るだけだ。ライバルは少ない。
 だから、類人猿が大型化して、新たな食糧を求めたときに、魚貝類の豊富な水辺こそ、新たな進化の場として役立ったはずだ。

 では、なぜ? そこが進化の場となったのは、そこが新しい種にとって有利だったからではない。(適者生存の原理が働いて、優者だけが生存できたからではない。)
 そこが進化の場となったのは、そこが多様性を許容したからだ。(適者生存の原理が働かなくて、さまざまな劣者がいろいろと共存できたからだ。)

 ホモ・ハビリスは、手が長くて、樹上生活に適した形態をしていた。その形態こそが森林の優者だった。ホモ・エレクトスは、足が長くて、地上生活に適した形態をしていた。その形態こそが草原の優者となった。
 では、ホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間種は? その中間種は、森林でも劣者であり、地上でも劣者であり、どこでも劣者だった。そんな中間種は、あっさり淘汰されてしまうのが当然だった。しかし、境界領域に限って、そのような中間種が生き残ることができた。そして、その中間種ができたあと、その中間種が橋渡しとなって、ホモ・ハビリスからホモ・エレクトスへの進化がなし遂げられた。

 進化をもたらすのは、「新しい環境」や「適者生存」ではない。かわりに、「境界領域」や「多様性」なのだ。劣者を滅ぼすことが世代の進化をもたらすのでなく、劣者を許容することが世代の進化をもたらすのだ。……そして、それの具体的な例が、「水辺における進化」なのである。

 半水生説は、自然淘汰説とはまったく異なる立場から、人類の進化を説明する。そして、それゆえ、前項で述べた専門家の批判(現代の進化論はラマルク主義だという批判)を、逃れることができるのだ。
 


 【 関連サイト 】
 優者が残る自然淘汰よりも、劣者が共存する多様性こそが、進化の原動力となる。── これが本項の基本的立場だ。そして、そのために役立つのが、「境界領域」だ。
 ではなぜ、劣者が共存する多様性こそが、進化の原動力となるのか? ……この問題については、下記サイトで詳しく論じている。そちらを参照。
  → クラス進化論
 
( ※ なお、誤解を招きやすいが、「劣者」とは「普通の劣った形質をもつもの」のことではない。「生存競争で最優秀できなかったもの」つまり「次善以下のもの」のことだ。甲子園野球で言えば、優勝チーム以外のすべてのことだ。もちろん、優勝できなかったからといって、普通の人より野球が下手なわけではない。誤解なきように。)
  


 ※ 以下は、批判への反論。特に読まなくてもよい。
 [ 付記 ]
 「半水生説」に対して、「証拠がない。化石がない」という批判が出ることも予想される。しかしそれは見当違いというものだ。半水生説が正しければ、化石がほとんどないことは、もともと予想されることだからだ。
 そもそも、「水辺で進化したのであれば、水辺で進化したという化石があるはずだ」という発想が、妥当でない。「水辺で進化した」というのは、「水辺という環境に適応した」という意味ではないからだ。
 「新しい環境に出現すれば、新しい環境に適した形になる」
 という理屈そのものを否定するのが「境界領域」を重視する説だ。境界領域は最終的な適応の場ではなくて、進化の場である。そこは一時的に経由する「踊り場」のような場所だ。そこには長らく滞在しないから、そこでは化石が見つかりにくくて当然なのだ。

 実際、両生類の進化を、考えてみるがいい。両生類の前の魚類(肺魚のようなもの)の化石は、かなり見つかっている。両生類になったあとの化石も、たくさん見つかっている。しかしながら、魚類と両生類をつなぐ中間種の化石は、ほとんど見つかっていないのだ。アカントステガやエルギネルペトンなどの化石もあるが、ほとんど例外的で、数はごく少ない。また、種類も不十分だ。

 一般に、境界領域の進化は、短期間に限定された場で起こり、それゆえ、残された化石は少ないはずなのだ。だから、「化石で証拠を出せ」と言われても、なかなか出せないのが普通だ。「化石で証拠を出せ」と言われたら、それが出せない時点では、その説は否定されかねない。次のように。
  ・ 両生類は、魚類から進化した。
  ・ 鯨は、四つ足の哺乳類から進化した。

 これらのことは、ここ 5〜30年ぐらいの間に、急激に化石がたくさん見つかって判明してきたことだ。それまでは、推定であり、証拠は不十分だった。しかし、直接的な化石が不十分だということで、上記の説が否定されることはなかった。

 境界領域における進化の化石は残りにくい。そのことを理解した上で、「境界領域で進化は起こったのだろう」と推定することができる。そして、
 「境界領域で進化があったという証拠がないから、その説は正しくない」
 という論理は成立しない。「まだ化石が見つかっていない」ということで、「その生物は存在しなかった」と結論することはできない。両生類の祖先種であれ、鯨の祖先種であれ、化石が見つかっていない時点から、その祖先種の存在は予想されていた。そういうふうに祖先種の存在を推定するのが、学問的な立場だろう。
 「化石が見つかっていないから、その祖先種は存在しない」
 と結論するのは、あまりにも非科学的だ。
( ※ そもそも、人類の化石が次々と見つかっているのは、近年のことだ。トゥーマイであれ、ラミダス猿人であれ、近年になっていろいろと新たな化石的真実が発見されている。今はまだ見つかっていない化石がいっぱいあるのだ。「化石が見つかっていない」ことは、何かを否定することの根拠にはならない。比喩的に言えば、「宇宙人の化石が見つかっていない」ことは、広い宇宙のどこかに宇宙人がいる可能性を否定しない。化石が「ある」ことは存在を証明するが、化石が「ない」ことは非存在を証明しない。)
posted by 管理人 at 20:42| Comment(0) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
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