具体的な例は、素数全体の量。その量は明らかに有限よりも大きいが、可算無限よりは小さい。
──
( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-10-30 です。)
【 注記 】
本項は数学理論を述べたものではありません。
思いついたアイデアを書き留めたエッセーです。
話の内容はまったく真偽不明です。
半無限とは、有限よりも大きく、可算よりも小さい量(濃度)である。
ここで重要なのは、次のことだ。
「半無限は可算ではない」
半無限は、有限よりも大きいから、無限だと思える。そこで、無限のうちの最小の量である可算と等しい、と想像される。しかし、そうではない。
つまり、
「半無限と可算無限とを1対1対応させることはできない」
となる。
なぜか? 次のことによる。
「半無限の先の方(ω)に到達しようとすると、そこ(ω)に到達するためのステップが無限になってしまうので、そこ(ω)に到達することができない」
- ※ 「絶対的にできない」というより、「実質的にはできない」「有限の時間内にはできない」「しにくい」というような意味。無限の時間を許容すれば、できないわけではないので、「絶対的にできない」とまでは言えない。
※ 普通の数学の意味でなら、(1対1対応は)「できる」と言える。ステップ数についての制限はないからだ。本項での話は、ステップ数に制限を付けた場合の話なので、普通の数学の話の対象外となる。一種の拡張だ。
たとえば、次の関数を考える。
F(n)= n番目の素数
ここで、n を
1,2,3,……
と増やしていくと、これらの自然数の全体の量は可算となる。
では、F(n)はどうか? その全体の量も、可算となるか? そうかもしれない。しかし、そうだとしても、非常に大きな F(n) に対しては、 F(n) を決定するためのステップが非常に大きくなるので、事実上、F(n) を決めることができなくなる。つまり、F(n)の全体の量を可算だと見なすことはできない。
- ※ もう少し細かく言おう。増えていく n に対して、1回のステップにかかる時間を 1/n となるように減らせばいい。すると、ステップ数 S(n) と 1/n の積は、S(n) が(多項式の) m次関数のような形なら、特に急拡大はしない。しかし、指数や会場のような形で爆発的に増えていくと、1回のステップにかかる時間を 1/n となるように減らしても、収まりが付かなくなる。(有限時間内に1対1対応ができなくなる。)……そういう意味だ。
さらに言うと、F(n)の全体の量を可算だと見なすと、矛盾が生じる。
F(n)の全体の量は、ごくおおざっぱに言って、次の値だ。(ただし 卍 は「可算」の意味。アレフ・ゼロのこと。なお、これは近似式ではない。ものすごくおおざっぱな表現。)
卍/log 卍 ? log 卍
これは「 log 可算 」のことである。
さて。ここで、F(n)の全体の量を可算だと見なすと、次の式が成立する。
log 卍 = 卍
この対数をはずすと、次のようになる。
卍 = 2卍
これは次のことを意味する。
可算 = 連続
しかし、これは成立しない。ゆえに矛盾。
──
実は、このように
可算 = 連続
という矛盾を導き出したのが、前項で示した「対角線論法撲滅計画」の内容だ。そこでは、論証の過程で、
半無限と可算とを1対1対応させる
という処理を通じて、
可算 = 連続
という結論を導き出した。
逆に言えば、「対角線論法撲滅計画」の問題がどこにあるかは、半無限という概念を使うことで明らかになる。
半無限は、有限よりは大きいが、無限よりは小さい量なのだ。なのに、
「半無限は、有限よりも大きいから、可算である」
という(誤った)推論を出して、その推論に基づいて、
可算 = 連続
という結論を導き出した。
だから、正しくは、
「半無限は、有限よりは大きいが、無限よりは小さい」
と正しく理解すればいい。そして、そのためには、1対1対応という概念を取るときに、
「1対1対応を取るためのステップの数が無限に大きくなること」
もしくは、
「1対1対応を取るための速度が無限に遅くなること」
を、きちんと理解すればいい。つまり、1対1対応という概念を厳密化すればいい。
そのことで、「半無限」という概念を導入して、対角線論法撲滅計画におけるような矛盾を回避できる。
《 オマケ 》
本項で述べたことは、かなり重要なことを示唆する。それは、「リーマン予想」との関連だ。
リーマン予想は数学の世界では最大の問題だとも思える。ところがそれが解決する見込みはまったく立っていない。フェルマーの大定理ならば、そこに至る道筋は次々と少しずつ埋められていったが、リーマン予想では、そういうこともない。大きな壁が立ちふさがっているようだ。
そして、そのことの理由は、本項から推察がつく。人類は、リーマン予想を解決するための武器を、もっていなかったのだ。なぜなら、リーマン予想は、半無限についての問題であるのに、「半無限」という概念そのものをもたないできたからだ。つまり、問題が何であるかさえ、その本質をつかめずにいたわけだ。問題の意味さえもわからないのに、解決ができるはずがない。
逆に言えば、「半無限」という概念をもちいることで、問題の核心を理解することができるようになる。と同時に、問題を攻略する手段を獲得できるかもしれない。そして、その手段は、「1対1対応の速度」だ。この概念を厳密化していくことで、自然に、リーマン予想の解決に向かうだろう。
[ 付記 ]
「半無限」という言葉のかわりに、「準無限」という言葉を使ってもいいかもしれない。ただ、それは、ただの言葉の問題だから、ここでは特に論じないでおく。
「半無限」の量は、 「 log可算 」と書いてもいいし、「 可算/log可算 」と書いてもいい。
( ※ 素数の分布密度は、先の方に行くに従って、「 1/log x 」という形になり、下方に底打ちする。一方、「 log x」というのは、増加の傾きが上方に頭打ちする。)
[ 余談 ]
直接の関係はないが、関連する話題を述べよう。それは、「無限小」との関連だ。
どんな有限数よりも小さく、ゼロよりも大きい数として、無限小がある。それと対称的なのが、半無限だ。
つまり、「半無限」は、「無限小」とは対称的な概念である。そして、そのいずれも、区体論では、きちんと扱える。
【 補説 】
本項で述べたことは、前項の次のことと関連する。
「実数の大部分は、存在性を示せても、具体的に指定できない」
似ているのが、上の「n番目の素数」だ。このような数は、確かに存在するはずだが、それを決めるためのステップが無限になってしまうので、それを決定できない。存在性を示せても、決定できない。
同様に、実数の大部分は、存在性を言うことはできるが、決定できない。なぜなら、決定するには、有理数と記号を使うしかないが、有理数と記号によって指定できる量はたかだか可算にすぎないからだ。(前出)
ともあれ、「n番目の素数」にせよ、大部分の実数にせよ、存在性を示せても、具体的に指定できない。とすれば、それについて「1対1対応」をつけることはできない。「1対1対応」をするためには、具体的にそれをつかむ必要があるからだ。
たとえば、「n番目の素数」というのは、存在性は言えるが、具体的に示す方法はない。たとえば、ある巨大な数 κ を想定して、その κ に対応する「κ番目の素数」というのを考えても、それは、存在性はわかるが、関数として具体的に指定できていない。
ここでは、「存在性はわかるが、決定できない」という状況にある。そういうものについては「1対1対応」をつけることはできない。
というわけで、「1対1対応」という概念は、これまでかなり曖昧だったことになる。存在性さえわかれば、「1対1対応」を付けることができると思われてきたが、実は、存在性がわかるだけではダメであり、決定することも必要なのだ。そして、「存在性はわかっても決定できない」という場合には、「1対1対応」をつけることができない。……そういうことこそが、「1対1対応の速度が遅くなる」もしくは「1対1対応を付けるためのステップが無限になる」ということの意味だ。
なお、「存在性はわかるが、決定できない」という状況は、「準関数」の場合と同様である。「準関数」の場合には、「決定できない」ということが本質的にある。一方、上記のような「半無限」の場合には、「小さな数では決定できるが、大きくなるにつれて決定しにくくなり、無限に先の方では決定できない」というふうに、なだらかに変化していく。……そういう違いがある。
ともあれ、「半無限」にせよ、「n番目の素数」にせよ、「準関数」にせよ、いずれも現代数学では最先端の話題だ。リーマン予想と同じあたりの領域の話だ。そして、それを扱うには、集合論ではいささか不自然であり、区体論の発想こそが役に立つ。これらの話題を扱うための道具は、集合論にはもともと備わっていないが、区体論では初めからそれらの道具が組み込まれている。
区体論では、自然数とは離散的な点であり、実数とは連続した無限小である。こういうふうに数の本質をつかんでこそ、物事の本質としての真実にたどり着くことができる。
「離散的な点をたくさん集めれば連続した実数になる」とか、「ある一点を境にデデキントの切断ができる」とかいうような集合論の発想は、あまりにも不自然なのだ。不自然な発想を取る限り、物事の本質としての真実は見えてこないはずだ。
集合論における「数」とは、あくまで算術的な数だ。だから、「実数の一部として自然数がある」という発想が生じる。一方、区体論における「数」とは、自然数と実数とで区別される。自然数は算術的な数だが、実数は幾何的な量(位置数)だ。その双方を対応づけることは可能だが、微妙な食い違いも生じる。
集合論が間違った体系であるということはないのだが、不自然な認識を取った不自然な体系であると理解した方がいい。だからこそ、ときどきおかしなことが生じる。(たとえば、バナッハ=タルスキーのパラドックス。)
この世には、集合論とは違った、自然でエレガントな体系もある。そういう体系では、「半無限」や「無限小」のような新たな概念を使うことで、物事をきれいに統一的に理解できるようになる。……そういう新たな発想を取ることも大事なのだ。
[ 注記 ]
半無限という概念は、区体論では「可算選択公理」と関連する。
( ※ 可算選択公理については → 証明とは何か )
対角線論法撲滅計画の論理で実数を並べるとしよう。実数を並べるためには、実数全体のなかから、特定の実数を取る(選択する)ことが必要だ。
対角線論法撲滅計画の発想では、選択公理が暗黙裏に前提されているので、実数全体を一つ一つ並べていくことになる。そのあと、可算と連続が等しくなるという矛盾が発生する。
しかし、区体論の発想では、選択公理は成立せず、可算選択公理だけが成立する。実数全体のなかから、特定の実数を取る(選択する)というのは、量が可算である範囲内では可能だが、量が可算を越えると不可能になる。(それが可算選択公理の意味。)
したがって、可算選択公理のもとでは、対角線論法撲滅計画のような1対1対応は不可能なのだ。そのような1対1対応は、可算の範囲内では可能でも、可算を越えると不可能になる。……そして、そのことを対数レベルで(つまり桁数で)認識すると、「半無限」という概念になる。
【 まとめ 】
全体の見通しをよくするため、話をまとめて整理しよう。
半無限という量は
log 卍
つまり log可算 という形で示される。
その具体的な例は、素数分布と、対角線論法撲滅計画に現れる1対1対応の桁数の部分だ。
この二つの例では、量は「半無限」であって同様だが、その原理は異なる。
素数分布の方では、量が「半無限」であることの理由は、次のことだ。
「素数の先の方については、存在性は言えるが、決定性は言えない」
どんな大きな素数についても、存在性は言える。その意味で、素数は無限にある。ただし、とても大きな素数については、決定しにくくなる。その意味で、1対1対応をするために「つかむ」(決定する)ことができなくなる。かくて1対1対応が崩壊する。だから、可算にならない。
対角線論法撲滅計画の方では、実数のすべてを一つ一つ取るには、選択公理が必要だが、実際には可算選択公理しか使えない。だから、実数のすべてを一つ一つ取って次々と並べていくことはできない。可算選択公理を使うだけでは、対角線論法撲滅計画における右側の対応では、桁数が無限(可算)にならない。(半無限になるだけだ。)
つまり、素数分布の方では、「存在性/決定性」という違いが、原因となった。対角線論法撲滅計画の方では、「可算選択公理/選択公理」という違いが、原因となった。それぞれは原因が異なる。しかしながら、量的には「半無限」という量が現れるところで、共通する。
この二つの例では、共通する点と、共通しない点とがある。ただし、重要なのは、共通する点の方だ。つまり、「半無限」という量が現れることだ。これをいかに認識するべきか、というのが本項の話題だった。
[ 補足 ]
ただ、よく考えてみると、この二つの例は基本的には同じかもしれない。というのは、「可算選択公理/選択公理」という違いは、「存在性/決定性」という違いにつながるからだ。
「可算選択公理」だけがある場合は、「存在性」も「決定性」も言えない。(連続濃度の存在を言えない。言えば矛盾する。)だから、「可算選択公理/選択公理」という違いは、「存在性/決定性」という違いと、等価ではない。
ただし、「可算選択公理」だけがある場合には、「決定性」が言えない。ここが重要だ。
素数分布の場合には、素数の数について無限個の素数の存在を言えるが、無限個の素数を決定することはできない。(半無限個の決定)
対角線論法撲滅計画の場合には、無限桁の存在も言えないし、無限桁の決定もできない。(半無限個の存在・決定)
ここでは、決定できる量が有限でも無限でもない。── このことが重要だ。
こうして見ると、「半無限」という量の性質もはっきりとしてくる。「半無限」は、「有限」よりも大きく、「無限」よりも小さい量だが、それは、算術的な量でもないし、濃度の意味の量でもない。「1対1対応ができる量」ではなくて、「1対1対応ができないことを示すための量」だ。その量は「 log可算 」のような形で示すことはできるが、これを足したり引いたりすることはできないし、また、濃度のように、等号で結びつけることもできない。この量はあくまで不等号によって示すことしかできない。次の形で。
有限 < 半無限 < 可算(無限)
ともあれ、このような意味での「半無限」が想定される。それはちょうど、連続体仮設における中間濃度のようなものだ。
このような半無限は、等号ですら扱えないから、「そんなものはあっても仕方ない」と思う人もいるかもしれない。しかし、そうではないということを、本項は示した。つまり、こうだ。
“ 「有限ではないから無限だ」という発想を取ると、もともと半無限である量を可算だと見なすことになり、矛盾が生じる。”
その具体的な例として、対角線論法撲滅計画の例があった。
「半無限」という概念は、「1対1対応」という概念が不備であることを教える。「1対1対応」という概念は天下り的にもたらされるが、実は、その前に、
「それぞれのものが決定できるか」
という問題が生じる。
素数分布ならば、「n番目の素数」の存在性は言えても、決定はできない。いつまでたっても決定できないもの(決定するために無限のステップが必要なもの)については、決定できないがゆえに、「1対1対応」もできない。
対角線論法撲滅計画ならば、可算桁の決定はできない。なぜできないかと言えば、可算選択公理では決定する能力がないからだ。(また、仮にできれば、可算が連続に等しい、という矛盾が生じる。)
この二つの場合(素数分布の場合と対角線論法撲滅計画の場合)には、「半無限」という量が出現する。ここで、「半無限とはどういう量か」を問うても、仕方がない。「半無限」という量は、算術的な数でもないし、濃度の意味での量でもない。それは等号で示すことのできる量ではない。それは「等号で示すことのできない量」つまり「不等号でしか示すことのできない量」として呈示される。
その意味で、これは、普通の意味の「数」とは違う。「数」という概念を大幅に拡張した、かなり曖昧な量である。ただし、その量を「 log可算 」というふうに、おおざっぱな形で理解することはできる。
「半無限」という量は、現代数学において見失われていた欠落を教えてくれる。「有限」という領域の先には、「無限」という領域がひろがっていると思えたのだが、実は、その両者の間には、ギャップがあるのだ。谷間のように。そのギャップをに物を置くことはできないのだが、そのギャップがあるということを理解することは大切だ。さもなくば、そこに物を置こうとして、とんでもない失敗をすることになる。ギャップがあるからには、ギャップがあると理解することが必要だ。たとえそのギャップに手を付けることはできないとしても。
なお、「物を置くことはできない」「手を付けることはできない」ということは、「決定できない」ということと、ほぼ等価である。「半無限」という概念は、何かを扱うための概念ではなく、何かを扱えないことを教えてくれる概念だ。
現代数学は、「どんなことができるか」ということばかりを考えていたが、「どんなことができないか」ということも考えることが必要だ。できないことについては「できない」とはっきり理解することで、矛盾を避けることもできるし、真実に到達することもできる。
( ※ オマケで言おう。集合論の世界では、「決定できない」という問題を、きちんと扱うことが、なしにくい。なぜなら、そんなことを言い出すと、ほとんどの実数を決定できないことから、ほとんどの実数の存在性すら疑われてしまうからだ。というのは、決定することで存在性を示しているからだ。一方、区体論ならば、実数について「存在性と決定性は別のことだ」と明白に説明できるから、問題はない。……この両者の違いがどこから生じたかというと、実数を構成するときに、「点から構成するか」「全体から構成するか」という手法の違いから生じる。先に全体の存在を示せば、一つ一つの実数をすべて決定する必要はないのだ。……この結論は、通常の数学を扱うのに便利である。)
【 追記 】
「半無限」という概念は、実は、「実数」という概念の曖昧さに似たところがあると言える。(集合論で。)
というのは、次のことがあるからだ。
「実数をコーシー列の極限で定義すると、それで定義できる実数の総数(濃度)は、有理数の総数(濃度)に等しい。これでは実数の総数を定義できない」
存在する実数は、有理数の総数(濃度)よりも1段上なのだが、定義できる実数は、有理数の総数(濃度)と同じなのだ。このことから、「実数のほとんどすべては、存在性が言えるだけであって、定義できない」となる。何が何だかわからない幽霊のようなものであるわけだ。
「素数全体」という概念も、同様である。「素数全体」というものは、存在性が言えるだけであって、具体的には明示できない」ものである。何が何だかわからない幽霊のようなものであるわけだ。たとえば、(任意に)ある巨大な数が示されたとき、それが素数であるかどうかは、いちいち多大な手間をかけて調べないと、素数であるかどうかがわからない。「有限のステップで判明する」というようなことはないのだ。(その数が巨大になると、判定のステップも巨大になるので。)
両者には、いくらか似たところがある。
――
なお、(集合論でなく)区体論における「実数」は、特に問題がない。コーシー列で実数を定義するのではなく、「連続した数字で示される小数」(ただの数字の羅列)という形で、実数は定義されるからだ。
有理数によって下から定義するのではなく、2n 分割によって上から定義する。だから、「存在性は示せても定義することができない」という問題は、本質的に発生しない。
【 注記 】(冒頭にも述べたが)
本項は数学理論を述べたものではありません。「こんなアイデアもあるよ」というふうに、たまたま思いついたアイデアを書き留めたエッセーです。話の内容はまったく真偽不明です。正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。ただ、従来の数学とは違う発想があるので、アイデアとしては興味深い点があるかもしれない、というだけです。

それは興味深い話題ですね。
一般に、それぞれの無限(可算、連続)は、その内部に無限種類あることが知られています。
では、半無限はどうか? 半無限に無限の種類があると、半無限そのものが無限になってしまいそうです。
ゆえに、直感的には、「半無限にある種類の量は、半無限」というのが妥当でしょう。有限よりも多く、可算よりも小さい。
直感的には、そう理解するのが妥当だと思えます。(証明したわけではない。)
それは論理がおかしくない? 最後の一文は「〜に等しく」ではなくて、「〜以下である」となるはずです。
あと、あなたは半無限の意味を勘違いしているみたいですよ。半無限は、可算よりも小さい量です。ただ、普通の数学的な意味では、可算と同じだと見なされます。数え方しだいで、可算にもなるし、可算未満にもなる。
「半無限は存在しない」
という指摘ですが、それは、当り前です。既存の数学の範囲内では、「半無限」という概念は生じません。そんなことは常識です。
私が言っているのは、「既存の数学に半無限が生じる」ということではなくて、「半無限という概念を導入することで、既存の数学よりも広い範囲に数学空間を拡張する」ということです。
比喩的に言えば、超準解析に似ています。超準解析は、普通の数学からは出てきません。普通の数学には無限小というものは出てきません。しかし新しい概念を導入して、既存の数学を拡張すると、超準解析を構築できて、その数学空間の中では無限小というものを導入できます。
私が言うのも同様です。既存の数学の中に半無限が存在するということではなくて、半無限という概念を導入するような新しい数学空間を構築できる(拡張できる)ということです。
ここで、「既存の数学には半無限は存在しない」と指摘されても、「そんなことは、当り前」と言うしかないですね。
<!--
なお、何らかの形で「可算と有限との間に、中間濃度が存在できる」ということは、すでに証明されています。それは「連続体仮設が他の公理からは独立している」(肯定も否定もされない)という事実です。
私の言う半無限ではなくても、似たようなものが存在できるということは、数学的に証明済みです。
あとは、そのようなものを構築するための具体例を出すことだけです。もし出せれば、既存の数学を拡張したことになります。(新公理の導入という形。)
-->
> 区体論の某評者によりますと、区体論は、ゲーデル不完全性定理にも拘らず、数学の無矛盾性と完全性を担保する試みだそうですが、
完全な誤読ですね。私の話を読まずに、タイトルだけ読んで、誤解しているのでしょう。
区体論は、ゲーデルの不完全性定理の「前提条件の外」に出ているだけです。
比喩的に言えば、「すべての偶数は……」という定理に対して、「一方、奇数についてはその説の範囲外である」というふうに述べているだけです。ここがキモです。
どうも、人の話を理解できないで、誤読ばかりしているようなので、「もっとちゃんと読んでくれ」としか言いようがないですね。
というか、人の話も読まずに難癖を付けるような人とは、話したくないです。
> ところが、区体論に濃度の定義が無い以上、集合論のZFまあたはAZCの濃度を使わざるをえなくなります。
> すると……矛盾。
これも完全な誤読。
本項では、「集合論とは別の数学を作るべきだ」という主張がしてあります。したがって、「集合論の濃度を使うしかない」というのは話を正反対に理解しているとしか言えない。「集合論の濃度を使わない」というのが本項の主張です。
では、区体論の濃度は何かというと、まだ未定義です。詳細不明。本項ではおおまかな見通し(予想)を示しただけであり、証明を示したものではありません。
本項はあくまでも「予想だ」という点に留意して下さい。
なのに、「予想だから間違いだ」というような主張をする人は、(何年か前の時点で)「谷山志村予想は証明されていないから間違いだ。ゆえにフェルマーの定理は成立しない」と主張するようなものです。
こういう非論理的なことを主張するような人は、数学的能力が根本的に欠けているので、本サイトには来ないで下さいね。
区体論で新たに導入される「濃度」は「決定可能濃度」とでも呼ぶべきもの。「存在性」だけでなく「決定性」をも含むような「濃度」。集合論における「濃度」をさらに狭義にしたような濃度。
その実態は、「リカーシブ関数」という概念を含むようなものだと思える。これはかなり専門的になるので、ここではいちいち示さない。(ググってみたけど、この語は日本語文献ではほとんど見つからないようだ。そのくらい専門的。)
なお、このような形で「半無限」が定義できるとしても、その際の「濃度」の定義は、初歩的な定義(たとえば1対1概念による定義)ではない、と思える。
というのは、半無限という概念は、普通の数学では出てこないからだ。これが特別な場合にだけ出てくる概念であることからして、この概念を定義する原理もまた、初歩的な定義ではない、と思える。
例。「円周率小数点以下8000兆桁目の計算を達成」(ただし2進法表記)
→ http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/133/133861/
8000兆桁目が決定できるくらいなのだから、このくらいの数は、素数のように決定しがたい数とはまったく別の種類に属するとわかる。
あなたは人生の多大な時間を、ただ浪費のために使っている。何もしないで遊んでいればまだいいのに、勝手に妄想を構築して、妄想を否定することだけに人生を費やしている。
可哀想に、と同情するだけです。
救われたかったら、自分の話をプリントアウトして、病院に行くといいですよ。