( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-10-28 です。)
まず、課題はこれだ。
→ 対角線論法撲滅計画
これのどこがおかしいかを示す。
──
実は、これは、なかなか興味深い問題である。ここに目をつけた人は、なかなかセンスがある。次のサイトも参照。
→ 対角線論法について
──
この問題でポイントとなるのは、次のことだ。
「実数を自然数で埋め尽くそうとすると、桁数が上がっていくにつれて、埋め尽くす速度が低下していく」
実は、実数と自然数との対応というのは、すごく興味深い。選択公理の成否を考えていると、この問題に行きつく。また、素数の分布の問題を考えていても、この問題に行きつく。
そして、その根底には、「1対1対応」という概念がかなり曖昧であることがある。区体論で考えていくと、集合論では自明に思えた「1対1対応」という概念が、かなり脆弱な概念であることがわかる。それは決して自明な原理ではなくて、ある範囲内で厳密に定義し直される必要のある概念だ、とわかる。
( ※ ポイントは、対応を付けるときの速度だ。速度が定速ですべて対応がつくならばいいが、先に行くに従って「1対1対応」の速度が遅くなると、いろいろと問題が出てくる。)
──
以上のことを背景にして、問題を見直そう。すると、上記サイトの「1対1対応」というのは、実は不完全なものだとわかる。
仮に、この「1対1対応」が完全であるとしよう。すると、偶数全体 2N の濃度が、小数全体の濃度 R に等しくなってしまうことになる。
しかし、そんなことはありえない。ゆえに、ここでは「1対1対応」は成立していないのである。
偶数全体 → 小数
という一意的な写像は成立するが、
偶数全体 ← 小数
という一意的な写像は成立しない。
( ※ 同様のことは、「T氏による批判」という形で、上記サイトでも示唆されている。 )
──
上記のサイトのような「1対1対応」は、実は「1対1対応」にはなっていない。自然数の方は一定速度でどんどん進むが、小数の方は桁数の進む速度が頭打ちとなる。自然数の方が可算無限の番号まで進んでも、桁数の方は可算無限の番号には進まない。(仮に進んだとしたら、自然数と実数とが「1対1対応」できてしまうことになり矛盾。)
──
「1対1対応」を付けるときには、その対応を付けるときの「速度」が非常に重要となる。そして、そのことは、区体論でも示唆されている。
集合論で実数を決めるときには、
点を積み重ねていく (下から構成する)
という方法を取るが、区体論で実数を決めるときには、
全体を 2n 分割する (上から構成する)
という方法を取る。
この際、いかにして、 2n 分割をするか? 一つ一つ順に分割していては、いつまでたっても分割しきることはできない。そこで、全体を一挙に分割する必要がある。そのためにはどうすればいいか……ということが話題になる。
「1対1対応」を考えるときには、その速度が大切なのだ。その速度を理解しないで、頭ごなしに「1対1対応」というものを基礎原理として据えると、上記のような「間違った論理」に陥る。
「1対1対応」は、決して、数学の基礎原理ではない。それは厳密に定義される必要があるものだ。……ただし、そのことは、集合論の世界にいる限りは、なかなか見えてこない。数学の世界にひそむ曖昧さを理解するには、区体論という道具が役立つ。
結論。
対角線論法そのものは間違っていない。ただし、その論証に不備がある。それは、「1対1対応」という概念が曖昧であることだ。ここでは天下り的にその概念を導入しているが、もっと厳密に定義し直す必要がある。そのためには、「1対1対応」に「速度」という概念を導入する必要がある。
「対角線論法は間違っている」という指摘そのものは妥当ではないが、現在の対角線論法に不備があることを示唆している。ここでは、証明が論理的に不備なのではない。現代数学における「1対1対応」という概念そのものが不備なのであり、現代数学そのものが不備なのだ。それによる不都合を示唆したのが、上記サイトの指摘である。その意味で、この指摘は有意義だ。
( ※ より詳しい話は、下記で。)
[ 補足1 ]
カントールの対角線論法は、別に問題ない。仮定からして、双方の「速度」は一定であるはずだからだ。(どちらも自然数の濃度であるから。)
その意味で、カントールの対角線論法は、間違っていないのだが、(順番を取るための)「速度が一定である」という仮定が抜けていることになる。その暗黙の仮定を浮き上がらせたという点で、上記のサイトの指摘には、興味深いものがある。
だから、これを「トンデモだ」と批判するのは妥当ではない。むしろ、「現代数学の論理にひそむ穴(考慮していない点)」を浮き上がらせた、という意味がある。その意味で、たしかに興味深い。
カントールの対角線論法は、論理的には間違ってはいないが、論証過程には小さな穴があるのである。その穴を逆にとらえると、矛盾が起こる。……その件を、上記のサイトは指摘しているわけだ。なかなか数学センスのある問題提起だと思う。good job!
( ※ その意味で、これを「トンデモだ!」と批判する人がいたら、その人は数学センスがないね。このサイトに述べられたことは、間違いではあるのだが、間違いを通じて、真実をいっそう厳密にする役目を果たしているのだ。捨て石として。)
( ※ 真実を求める人は、間違いを途中経由して、よりいっそう真実に近づく。)
[ 補足2 ]
「1対1対応」を考えるときには、速度という概念が必要だ。片方だけの速度が遅くなれば、実質的には「1対1対応」が不可能になるからだ。現在の概念では、「いつからは1対1対応ができるさ」というふうに考えているが、それでは問題が起こるのである。
ではなぜ、問題が起こるのか?
速度の問題が現れるのは、「無限」について1対1対応をするとき、「可算」と「連続」とに至る速度が異なるからだ。
ここでは、単に「1対1対応ができる」というふうに語るだけではダメで、「どのような速度で至るか」が重要となる。
その速度に留意しないと、「可算には到達できたが、連続には到達できない」という場合が生じる。
速度を考えない「1対1対応」という概念は不備なのであり、その不備である点を、上記サイトは示唆したと言える。
[ 補足3 ]
あらゆる実数のあらゆる桁の数を指定できるか?
1つの実数の決定を1ステップとして、1ステップに有限の時間がかかるのであれば、どんなに時間をかけても無理だ。1ステップに「可算分の1」という時間をかければ、可算だけの個数をすべて指定できる。ただしそれでも、ほとんどの実数を指定できない。すべての実数を指定するためには、1ステップに「連続分の1」という極微の時間をかけるだけにすることが必要だ。
しかし、そのような無限小を扱うには、集合論の世界では無理である。そもそも集合論の世界では無限小をきちんと扱うことができない。無限小をきちんと扱うには区体論が必要なのだ。
だから、この問題は、「数学では無限小をいかに扱うか」という問題に等しい。そして、超準的な方法でモデル論的に無限小を扱うというやり方では、この問題を解決することはできないのだ。
[ 補足4 ]
結局、対角線論法は、論理そのものには問題がないが、用いている概念に曖昧さがひそんでいることになる。
ついでに言うと、同様のことは、次の二つの例でも見出される。
・ バーナンキの背理法
・ アキレスと亀のパラドックス
これらもまた、論理には問題がないが、概念に曖昧さがひそんでいることから、問題が生じる例だ。詳しくは、それぞれのリンク先を参照。
[ 付記1 ]
区体論の発想を取るとわかりやすくなる、という例には、次のこともある。
「数学を構築するのに必要なのは、選択公理ではなく、可算選択公理だけである」
この件は、別項で述べた。
→ 証明とは何か
→ 区体論のサイトの記述
( ※ ただし区体論においては、可算選択公理は、「公理」でなく「定理」である。その意味では「可算選択定理」と呼ぶべきだ。……ただしここでは慣例に従って「公理」と呼ぶ。)
( ※ 区体論では可算選択公理が証明されるので、この意味では区体論は集合論よりも強い体系だ、と言える。なお、「集合論では選択公理を証明できないこと」が、すでに証明されている。)
[ 付記2 ]
区体論の発想を取るとわかりやすくなる、という例は、もう一つある。
上記のように「1対1対応」の速度という概念を考えると、現代数学におけるパラドックスの一つを解くことができる。次のパラドックスだ。
集合論では、実数は有理数に挟まれる形で決まる(収束点として)。ところが、このようにして決めることのできる実数の全体は、有理数の全体と同じだけだから、可算である。可算は連続よりも小さい。つまり、実数には、「これ」と指定できるものは、ほんのわずかしかない。ほとんどすべての実数は「これ」と指定できない。存在性は指定できても、その数を具体的に示すことができない。なのに、具体的に示せないものを、数学の対象としていいのか? 数学とは、そんなにあやふやなものなのか?この問題は、集合論の世界でのみ生じるパラドックスだ。集合論の世界では、「点から実数を作り上げる」「有理数から実数を作り上げる」という方法を取る。だから、上記の問題が出る。
区体論では、この問題は生じない。
第1に、存在性を示すときには、公理9の関数 β を使って、一挙に存在性を示す。
第2に、具体的に数を指定するときには、 2n 分割によって指定する。この際、有理数は、循環小数になるので、任意の桁の数をきちんと指定できる。
例。「1/3 を示す小数の任意の桁の数は 3 である」
一方、有理数以外の数は、任意の桁の数をきちんと指定することができない。
例。「円周率 π の特定の桁の数は、いちいち調べないとわからない」
ただし、注意。どのような無理数であれ、その無理数の定義からして、その無理数の初めの方の数はいくらかわかる。
例。「円周率 π の初めの3桁は 3.14 である」
ここでは、初めの方の数はわかるが、先の方の数はわかりにくい。先に行けば行くほど、わかりにくくなる。……これがつまり、「(決定の)速度が遅くなる」ということだ。
《 訂正 》
円周率の例は、実は適切ではなかった。詳しくは、項末の 【 後日記 】 を参照。
結局、実数の全体は、次のように二分される。
・ きちんと指定できる実数
・ 初めの方はわかっても先の方はわかりにくい実数
前者の量は可算であり、後者の量は連続である。そして、それが自然なのだ。なぜか? 実数というものは、下から構成するものではなくて、上から構成する( 2n 分割することで得られる)ものだからだ。
区体論の発想を取れば、実数とはどんなものであるかもわかるし、そのことで従来不思議に思えてきたこと(上記のパラドックス)にも、解決がつく。上記のパラドックスは、下から構成したときにのみ生じるパラドックスであり、上から構成するときには生じないのだ。(結論は同じだが、結論に至る過程が、不自然になるか自然になるか、という違いがある。結論が自然にわかりやすい形で導き出されれば、そこにはパラドックスはない。)
( ※ 最後のパラドックスドックの出典は、野崎昭弘「逆説論理学」p.176 )
[ オマケ ]
実数を決めるときに、集合論では「有理数で挟む」(その収束点を取る)という形を取る。これはコーシー列でなされる。……ここまでは常識。
このとき、コーシー列をどうイメージするか? 通常は、「有理数」ということで、「仮分数」をイメージするだろう。たとえば、「9/4」のような形だ。
しかし、むしろ「帯分数」の形で理解するといい。「2と1/4」を示す帯分数のように。( HTMLでは書きにくいが。)
ここで、帯分数の分母を 10n にすれば、コーシー列は十進法で桁数を示すのと同じことになる。
たとえば
2 +(2/10) +(5/102)< x < 2 +(2/10) +(6/102)
というふうに x を挟む。その意味は、
0.25< x < 0.26
ということである。その意味は、
小数点以下2桁まで決まった(3桁目までは決まっていない)
ということである。( 0.25***** という数になる、ということ。)
こうして、コーシー列の「有理数で挟む」という方法と、「桁数を先に延ばす形で決定する」という方法とが、等価であることがわかった。
だから、コーシー列を考えるときには、帯分数で考えるといいだろう。
逆に言おう。
本来、実数というものは小数の形で与えられるのだから、「桁数を先に延ばす」という形で理解する方が核心的なのだ。コーシー列を使うのは、それと等価であることを、別の形で示しているにすぎない。しかも、別の形にすることで、核心から逸れて、ピンボケふうになってしまった。そこでは「有理数」であることが重視されて、「桁数を先に延ばす」という本質が見失われてしまった。
だから、その難点をなくすために、コーシー列を考えるときには、帯分数で考えるといいだろう。そうすれば、「桁数を先に延ばす」という本質を忘れずにいることができる。
( ※ 「桁数を先に延ばす」ということをするときに、速度の問題が現れる。単にコーシー列を「有理数」概念だけで考えていると、速度の問題を理解することができにくい。)
( ※ ただし、ここで示した発想は、かなり知られたことでもある。Wikipedia にもある。その意味で、この説明は「オマケ」にすぎない。)
[ 参考1 ]
上記の指摘の例では、実数の側の桁数の速度はどんどん遅くなるとしても、最終的に無限の桁数に到達できないわけではない。では、もし、無限の桁数に到達したら、どうなるか?
その場合は、自然数の方が、「超限順序数」となる。逆に言えば、超限順序数というものは、このような形で(意味が)規定される。
ただし、超限順序数を得るためには、そのための公理(選択公理)が必要だ。実数を構築するための数学空間だけでは、そこから超限順序数を得ることはできない。(……これは区体論の立場。実数を構築するためには、可算選択公理があればよく、選択公理は不要かつ邪魔。)
[ 参考2 ]
選択公理(もしくは整列可能定理)によって超限順序数というものを導入すると、対角線論法の本質が見えてくる。
対角線論法では、「n桁目の数が異なる」というふうにして、自己言及ふうの否定を導入する。しかし、そんなことをしなくても、もっとはっきりしたことがわかる。こうだ。
自然数の側で順々に並べることのできる量は、可算である。一方、実数の側で順々に並べることのできる量は、連続である。前者は自然数で、後者は超限順序数。
そして、超限順序数のなかでは、自然数は初めの方のごく一部を占めるにすぎない。つまり、対角線論法撲滅計画のサイトで1対1対応が可能なのは、自然数のすべてではあるが、実数(超限順序数)のうちでは初めの方のほんの一部だけなのだ。
そして、どうしてそういうことが起こってしまうかというと、「自然数と対応づける」という方法では、1対1対応をつける速度が(実数のなかでは)どんどん遅くなってしまうからだ。
対角線論法では、「n桁目の数が異なる」というふうにするが、そんな技巧的なことをしなくても、より本質的なことがわかる。自然数と対応づけることのできる実数は、もともとあまりにも少ししかないのである。そして、それは、「超限順序数」の概念を導入することでわかる。
( ※ 「実数を順々に一つずつ並べる」というのは、もともとできないことではあるが、強引にそれをやってしまうのが、超限順序数だ。そして、その強引なことが可能であるということは、選択公理ないし整列可能定理によって保証される。)
[ 参考3 ]
桁が進むにつれて速度がどんどん遅くなるというのは、どういうことか? ……実は、これは、現代数学の最先端の難問であって、解決がついていない。
このことは、次のことともとうかである。
「上記のように桁の進む速度が遅くなったとしたら、自然数の側がすべて完了したときに、実数の側はいったい何桁まで進んでいるか?」
この桁数は、有限ではありえない。かといって、可算無限でもありえない。(可算無限だとすれば、可算と実数とが1対1対応できてしまうことになり、矛盾。)
というわけで、有限と可算無限との間に、もう一つ、別の種類の「薄い無限」とでもいうようなものが想定される。ただし、それがどういうものであるかは、よくわからない。(イメージ的には log 可算 と書けそうだが。)
ここで話が変わると、「素数分布」というものがある。これもまた、無限の方に進むにつれて、素数を得るための速度がどんどん遅くなる。
この二つの事柄には、「先の方の無限に行くに従って、速度がどんどん遅くなる」という共通点がある。では、この二つの事柄には、何か共通性があるのだろうか? これはなかなか興味深い問題だ。
( ※ 実は、割合だけなら、共通性がある。素数定理によると、素数の分布は x/log x という形になるが、これはごくおおざっぱには log x のようなものだからだ。)( x/log x も log x も、 x に比べると頭打ちの上昇。)(ここで、対数は自然対数。)
[ 参考4 ]
log 可算 というものを導入すれば、対角線論法撲滅計画における難点は、はっきりする。
対角線論法撲滅計画の1対1では、実数のすべての桁数を指定できない。桁数は log 可算 までしか進めない。換言すれば、有理数だけは無限桁まで指定できるが、それ以外の無理数については無限桁までは指定できない。つまり、その実数を指定できない。
ここでは、1対1対応が不可能となっている。そして、そのことを「速度が遅くなる」というふうに前では示したが、そのことを、 log 可算 でも言い換えることができるわけだ。
なお、この件は、下記で詳しく論じている。そちらを参照。
→ 半無限とは
[ 参考5 ]
結論ふうに言おう。
この問題は、現代数学の最先端の問題であり、簡単に解決はつかない。特に、 [ 付記2 ]で述べたこと(ほとんどの実数は具体的に指定できないこと)と、密接に関連する。
そして、そのことを解明するには、「実数とは何か」をはっきり知り尽くすことが必要だ。その際には、集合論ふうに(点から)実数を決めるのではなく、区体論ふうに(全体から)実数を決めることが必要となる。
そのような発想をしたときに初めて、「速度」の概念が重要性を帯び、また、「 log 可算」という概念も解明されてくる。
なお、区体論においては、自然数は実数の一部ではない。自然数は(離散的な)点集合の空間をなすが、実数は(連続的な)無限小の集まりとしての空間をなす。この両者をはっきりと別の空間として理解するような発想が必要だ。また、ここでは、選択公理は成立せず、可算選択公理が(定理として)成立する。
このように全面的に新しい立場に立脚すると、初めて、「実数とは何か」がわかってくるし、「 log 可算」の意味もわかりかけてくる。
逆に言えば、あくまでも集合論ふうの立場にこだわっていると、1対1対応という概念が曖昧なままとなり、「可算と連続とが1対1対応できる」というような、おかしな結論に結びついてしまうのである。下記サイトを参照。
→ 可算と連続とが1対1対応できる
【 後日記 】 ( 2014-02-20 )
「先に行けば行くほど、わかりにくくなる」ということの例として、円周率 π を示したが、この例は適切ではなかった。
というのは、円周率 π は「先に行けば行くほど、わかりにくくなる」というふうに見えたのだが、実はそうではない、と判明したからだ。詳しくは、コメント欄の 2014年02月19日 の箇所を参照。
ただ、これはたいして問題ではない。「例の示し方がまずかった」というだけのことにすぎないからだ。この例は不適切なので、もっと別の例を示せばいい。それだけのことだ。
ただ、イメージ的には、「先に行けば行くほど、わかりにくくなる」ということが、円周率の決め方から、おおまかにわかるだろう。円周率 π は例として不適切だったが、素数か何かのような感じで、別の例を示すこともできるだろう。
より一般的には、次のことが言える。(コメント欄の再掲)
有理数で指定できる実数の総数は、可算濃度ですから、具体的に指定できない実数が圧倒的に多数あります。そこにはとうてい届きません。
実数のうちで、決定可能なものは、ごくごく一部に過ぎません。(たかだか可算濃度以下しかありません。) 実数の大部分は、決定不可能な数です。それらの桁数は、半無限という概念で理解されます。
円周率 π であれ、自然対数の底 e であれ、既知の数は具体的に指定することが可能である。しかし(有理数によって)具体的に指定することの可能な実数は、たかだか可算濃度以下しかない。有理数をどれほど上手に使っても、他の大部分の実数は表現しきれない。(仮に表現できるとしたら、有理数の濃度と実数の濃度が一致することになるので矛盾。)
では、実数を表現できないとはどういうことか? それは、「実数の桁数の先の方(微小なあたり)がうまく定まらない」ということだ。そのことが「実数の桁数が半無限である」という概念で説明される。

そこで、両校の生徒を並べるより以前に、1人の男子と1人の女子に、手と繋いでペアになるようにさせます。ペアになった生徒は校庭の端に移動させて、男子または女子が余れば、余った方の生徒数が多いのす。このように、人数を数えて基数を得るという操作よりも、1対1の対応というのは原始的な操作です。基数を得られない場合でも、数の大きさを比較できます。ところが基数というのは1の集まりですから、1の数を数えて基数が得られれば、引き算で1対1の対応と同じ事が出来ます。基数が得られた場合は、1対1の対応は不要です。
次に n:n^2 という形の1対1の対応について考察します。これは 1:1^2,2:2^2,3:3^2,4:4^2 というふうに、無限に続けることが可能です。ところが従来の解析学では、n/n^2 において、n を無限大に増加させた極限は0となります。集合論では当然の結論でしょうが、こんな変な話を認めないためにも、1対1の対応の適用範囲を限定すべきです。
蛇足ですが、1対1の対応というのは、あくまでも基数を得る前段階の操作で、序数は順番を示すための数なので、序数に1対1の対応を用いるのは間違いです。
カントール対角線論法否定は間違い。
∵1対1対応は不完全な概念装置。
∵1対1対応を用いると、
1)2Nの濃度とRの濃度が等しくなってしま うことになる[が、それは矛盾]。
2)自然数と実数が1対1対応できてしまうこ とになり矛盾。
∵カントール対角線論法に依って。
浜岡泰治『四次元時間論』の「付録」と同じ間違いを犯しておられるようです。
> ∵1対1対応は不完全な概念装置。
これだけは、私の主張と一致しています。しかし、他のセンテンスはすべて、私の主張に反します。
誤読しないでください。私の主張を強引に、他人の主張と同一視しないでください。私は上記のようなことを言っていません。
だいたい、私の主張の結論が何であるか、わかっているんですか? (たぶん、斜め読みして、勝手に誤読しているのでしょう。)
と、ならないのは何故ですか? このブログの「先に行くに従って「1対1対応」の速度が遅くなると、いろいろと問題が出てくる」というのは 抽象的ではありますが非常に納得のいくものでした。 (速度に変化がある場合は濃度が違う、という事ですよね?)
しかし対角線論法でやっているように、 自然数と実数を1対1対応できたと仮定した後に新たに実数を作り出しても、 それは本来目的としたものを証明するものではないと思うのです。
レベル1とレベル2が1対1になると矛盾が生じる、というのが、対角線論法。レベル1とレベル2が違う濃度をもつことを示している。
速度の話で示しているのは、レベル1とレベル2の中間に何かがある、ということ。それはしかし、「濃度が違う」というのとは、別の話かもしれない。濃度とは別の概念で説明される違いだと思える。
濃度の違いとは、1対1で説明されること。速度の話は、1対1とは別の分野の話。
> 自然数と実数を1対1対応できたと仮定した後に新たに実数を作り出しても、 それは本来目的としたものを証明するものではないと思うのです。
それはあなたの考えでしょうが、私としては、対角線論法を否定しません。
世の中には、対角線論法を否定する人がいくらかいますが、たいていは、対角線論法を理解できていないだけです。「自分には理解できません」と表現することを「対角線論法は間違っている」と表現しているだけです。
ま、対角線論法がわかりにくい点があることは、否めません。しかし論法そのものは、数学的にとてもエレガントだし、物事の本質を突いており、全然間違っていません。ただ、普通の論証法とはかなり異質なので、頭の硬い人には、理解できないと思います。
即座に算出できるとしたら、それは、私の掲げるような「(決定の)速度が遅くなる」という定義には当てはまりません。ただのリカーシブ関数だった、ということになります。
例の上げ方はまずかったけれど、最初の定義(概念設定)には影響しません。
p.s.
なお、一般的に、有理数で指定できる実数の総数は、可算濃度ですから、具体的に指定できない実数が圧倒的に多数あります。そこにはとうてい届きません。
実数のうちで、決定可能なものは、ごくごく一部に過ぎません。(たかだか可算濃度以下しかありません。) 実数の大部分は、決定不可能な数です。それらの桁数は、半無限という概念で理解されます。
まず、区体論を完成させていただけないでしょうか?
1. 区体論で測度は定義できない、という反論に対する再反論がありますが、では順序対はどうでしょうか?
順序対ぐらいは扱えないとさすがにまずいでしょう。
集合論でよく使われる定義は
<a,b> := {{a},{a,b}}
ですが(他の流儀もあります)、中括弧が2重に使われてますから、区体論ではこの定義は採用できませんね。区体論では順序対はどう扱われるのでしょうか?
2. また、区体論の有限モデルがある、という話は可算区体論のモデルですね。連続区体論のモデルも提示しないといけません。
特に、強い意味の公理9を満たすモデルがあるかどうかは調べなければいけません(管理人様はもっと弱い意味を考えているのは重々承知ですが、まずは強い意味を片付けていただかないと困ります)。
一応、私なりに考えたモデルがあります。
区体論では、実数を点から構成するのではなく、数直線を分割していくやり方が載ってますね。その分割の仕方を0,1の列で表してますね。
そこで、モデルとして、区体とは、0と1の有限列か、または、φと書かれる空区体のこととします。ただし、長さ0の列も区体として認め、Ωと書くことにします(φとは異なる)。
区体はこれだけだとします。
また、
x⊂y
とは、xがφであるか、または、xが0,1の有限列の場合は、yはxの右に有限個0か1を付け加えた列であることとします。
これで、(強い意味の)連続区体論の公理が満たされます。
どんな有限列も右に0か1を付け加えれば分割可能ですからアトムは存在しません。
問題は3点:
(1) このモデルは分配法則を満たしません。つまり分配法則を満たさない連続区体論のモデルです。ところが、こういう場合、区体xの補区体x^は
1つとは限りません。010という区体の補区体は、1で始まる有限列がすべて補区体の条件を満たすので無限個の補区体があるのです。これを最初に指摘したのは「2人の討論メール」で今井さんという方が最初に指摘されたモデルです。分配法則が公理にある場合は、補区体は必ず1意に決まります。補区体が複数ある場合のx^は何を表していますか?
(区体論で証明されているとされるド・モルガンの法則は区体論の公理からは証明できません。無意識に分配法則を使ってませんか?)
(2) このモデルで「無限小」にあたるものは何でしょうか?
イメージ的には、0,1の無限列のような感じを受けますが、このモデルは無限列は区体とは認められません。
というか、区体論における無限小の定義は何でしょうか?
これがあいまいです。
もっと厳密に定義するか、例えば x%y (xはyに含まれる無限小区体である)というような記法を導入して、この記法に関する公理を記述されるとかしていただきたいです(@とは別の記号を使わないと困ります。無限小はアトムとして振舞うことが分かった、と言われても、まず別の記号で定義してから、これを@で表現しなおすことが可能であることを証明していただかないと、他の人にはわかりません)。
(3) このモデルでは「ω回の分割」(この意味もあいまい)は不可能ですが、それでも解析は可能と区体論のHPにあったと存じます。解析以前に、このモデルにおける加減乗除はどう定義されますか?加減乗除ができなければ解析どころではありません。
> 1. 区体論では順序対はどう扱われるのでしょうか?
順序対というのは、「a と {a} を区別する」という発想をする集合論に特有の概念なので、区体論ではもともと成立しない概念です。それはいわば、「ユークリッド力学の概念を非ユークリッド力学で表現したい」というようなもので、お門違いです。
区体論では、「階型」という概念がありません。これは「平行線公理が成立しない」というのに似ています。異なる世界の概念なので、順序対という概念は区体論の世界では根源的に禁止されます。「絶対にあってはならない」という概念です。
かわりに、単純に「a と {a} を区別する」という数学空間を定義することはできますが、その場合、その数学空間は、集合論と同様になります。数学的にはまったく面白くないですね。当たり前のことが起こるだけです。(手間暇をかけた上で、効果はゼロ、というだけ。ただの無駄作業。)
> 2. また、区体論の有限モデルがある、という話は可算区体論のモデルですね。連続区体論のモデルも提示しないといけません。
モデルを示すというのは無矛盾性の証明です。そんなことはあまりにも深遠な課題であり、近い将来には無理です。遠い将来においても、ゲーデルの不完全性定理によって制約されます。
> 一応、私なりに考えたモデルがあります。
それはとても興味深い話だと思います。このコメント欄ではもったいないので、どこかで公開してはいかが? 特に、ページタイトルにその言葉を含めないと、Google でも検索で表示してくれません。
一方、自分でそのページを作れば、必ずGoogle で表示されます。ライバルとなるページは存在しないからです。(私のページぐらいしか現状ではヒットしないでしょう。他はゴミばかりだし。)
> というか、区体論における無限小の定義は何でしょうか? これがあいまいです。
> もっと厳密に定義するか、例えば x%y (xはyに含まれる無限小区体である)というような記法を導入して、この記法に関する公理を記述されるとかしていただきたいです(@とは別の記号を使わないと困ります。無限小はアトムとして振舞うことが分かった、と言われても、まず別の記号で定義してから、これを@で表現しなおすことが可能であることを証明していただかないと、他の人にはわかりません)。
それは私には無理です。ここまでの体系を構築するだけで長い年月を費やしたので、それで私の数学人生は終わってしまいました。
区体論の体系は、文字数にすればあまり多くありませんが、ここに到達するためには、多大な時間がかかっています。1年や2年でできるものではありません。欧州からアメリカに到達するには、今では飛行機で数時間ですが、コロンブス以前には、どれほど長い時間をかけても到達することは不可能でした。
私がやったのは、コロンブスの発見のようなことです。それだけで私の数学人生は終わりです。ものすごく時間がかかったので。
> (3) このモデルでは「ω回の分割」(この意味もあいまい)は不可能ですが、それでも解析は可能と区体論のHPにあったと存じます。解析以前に、このモデルにおける加減乗除はどう定義されますか?加減乗除ができなければ解析どころではありません。
それは証明ではなくて、見込みです。連続区体論以後のことは、見通しの概略を示すだけであり、証明ではありません。いわば海図と航路を示す程度。実際にその航路をたどるのは、後の世代に任されます。
もっとも、「海図と航路を示しただけでは、アメリカ大陸の存在は証明されない。ゆえに、アメリカ大陸は存在しないのだ」と主張したがる人もいます。そういう見解をもつ人に対しては、「アメリカ大陸は存在しないのだと思っていていいですよ」と言うしかないですね。
> (1) 分配法則が公理にある場合は、補区体は必ず1意に決まります。補区体が複数ある場合のx^は何を表していますか?
分配法則がある場合しか考えたことがないので、分配法則がない場合については未考察です。
私は問題のすべてを解決したわけではありませんし、すべてに答えられるわけでもありません。私がやったのは、フロンティアを開くことだけです。そのあとの作業は、後続の人々に委ねられます。
> 区体論を完成させていただけないでしょうか?
無理です。「集合論を完成させる」という人類の目論見さえ、全然できていないのに。
提示したモデルで、xがφでない場合
x⊂y
は、「yがφでなく、xはyの右に0,1を有限個付け加えたもの」でした。逆になっていたようです。申し訳ございません。
これは言いすぎでした。すみません。
私の言いたかったことは無限小の存在がわかるぐらいまではやってほしい、ということです。
>このコメント欄ではもったいないので
ここに書いたのは、分配法則の問題だけでなく、もっと重要な問題がありまして。
(★) 無限小(らしきもの)を持たないモデルが作れてしまった
というところで「これはまずい」と思ったからです。(もちろん、ご指摘の通り、あくまで「自然数論(+追加仮説、かもしれない)が無矛盾ならば、強い意味の連続区体論も無矛盾」という相対的な無矛盾性ですが)
区体論の目的のひとつに
・実数の存在を示す
ことがあったはずです。そのためには無限小が存在しなければいけません。
しかし、無限小が存在しないモデルができるということは、
(★★) 公理9まででは、無限小の存在は証明できない。実数の存在を言うためには、無限小の存在を保証するさらなる公理が必要だ
ということになります。
私も数学徒というわけではないので「公理が不足しているぞ」というところまで突き止めるのが精一杯ですので、それ以上は私の手に余ります。
>多大な時間がかかっています
それはそうだったと思います。しかし、厳密とまではいかなくとも、区体論における無限小というのはどんな意味で言っているのか、の概略ぐらいまでは、パイオニアである管理者様が頑張って示さないと、後続の人々というのが出てこないのではないかと思いまして。
また、もしかしたら私の誤読かもしれないのですが。
集合論では実数の存在が示せていない、というようなことが書かれていたと思いますが。
>このようにして決めることのできる実数の全体は、有理数の全体と同じだけだから、可算である。
このパラドックスは存在しなかったと思います。
有理数は有限種類の記号を有限個組み合わせて書けるので可算無限個ですが、「有理数のコーシー列」全体は非可算無限です(コーシー列が無限列であることに関係します)。どんな実数もなんらかの有利コーシー列の収束点となります。
まあ、これは私の誤読だったとしても、無限小の存在を示すことは必要だと思います。
> (★) 無限小(らしきもの)を持たないモデルが作れてしまった
> というところで「これはまずい」と思ったからです。
分配法則がないからダメなだけです。分配法則があれば大丈夫です。
分配法則は分出公理から得られます。
> (★★) 公理9まででは、無限小の存在は証明できない。実数の存在を言うためには、無限小の存在を保証するさらなる公理が必要だ
> ということになります。
分出公理ですね。(分配法則は分出公理の一部として導き出されます。)
イメージ的に言うと、分出公理がない連続区体論は、区体と呼ばれるものがあちこちに散在している状態です。そこでは(ひとつの)「無限小」と呼ばれるものは、あちこちに分布しています。一つのものでありながら、あちこちに分散して存在しています。そのような状況でも、公理1〜9を満たすので、公理空間を成立させます。
しかしながら、それは図形的な意味での無限小という条件を満たしません。あちこちに広く散在しているからです。
このような「あちこちに散在する(ひとつの)無限小」という概念を禁止して、「ごく一部にのみ局所的に存在する(ひとつの)無限小」という概念を導入するためには、分配法則(分出公理)が必要となります。
実は、分出公理の位置づけは、私はまだ十分にできていません。これは公理10という形で示されており、「続く公理」という扱いです。
結局、次の順序になります。
(1) 可算区体論による自然数の定義
(2) 自然数が定義されたあとで、連続区体論による連続区体空間の定義。
(3) 分出公理による、連続区体空間の規定。
実数をきちんと導入するには、(2) の段階では足りず、(3) の段階になってから、ということになります。(2) の段階では、実数はきちんとしたものにはならず、「実数もどき」みたいなものができるだけだ、となります。
それが、今回のあなたの指摘で判明した、と言えるでしょう。
私がこれまでに示したのは、(2) までであり、(3) については軽く言及しただけでした。ただ、(3) に言及するには、まずは(2)をきちんと示しておく必要があります。そこで、(2) まではきちんと示しておきました。それが私のやったことです。
※ 「きちんと」というのは、完全な公理化という意味ではなくて、公理化の概略という程度。
というわけで、(2)と(3) の関係について、このたびはいくらか明らかに書き出された、と言えるでしょう。これまではあまり言及していませんでしたが。
※ 区体論の話をするのは数年ぶりです。
──
下記はオマケ。
> もしかしたら私の誤読かもしれないのですが。
> 集合論では実数の存在が示せていない、というようなことが書かれていたと思いますが。
それは誤読です。集合論では、実数の「存在性」は示されています。ただ、決定することができないだけです。
「分出公理がないと不足だ」と述べました。それは変更ありません。ただ、これは新たにわかったことではなくて、最初からその設定です。区体論はそれ自体で完結した体系ではないからです。
そもそも自然数の定義ですら、可算区体論だけでは完結しません。ペアノ公理によって自然数を定義する必要があるし、また、分出公理によってさまざまな数を切り出す必要があります。(有理数もそこに含まれます。) つまり、自然数や有理数の範囲で数学空間を構築するだけでも、分出公理は必要です。
実数空間も同様です。無限小を含む空間を構築するには、連続区体論だけでは足りません。分出公理が必要です。連続区体論は、「それだけで完結した体系」「それだけで無限小を構築できる体系」ではありません。実数を含む数学空間を構築するには、連続区体論のほかに、いくつかの前提が必要です。特に、前提として、次のものが必要です。
・ 可算区体論
・ ペアノ公理
・ 可算区体論における分出公理
・ 可算選択公理も (?)
これらをすべて用意した上で、連続区体論を導入します。(連続区体論は、それ単独で使われる体系ではありません。)
というわけで、「分出公理なし」の体系を論じることには、あまり意味はありません。
区体論は、それ単独で意味を持つ数学空間ではありません。それ単独で意味を持つ数学空間(ベクトル空間など)を構築するための、基盤となる基礎理論です。縁の下の力持ちみたいな、あくまで基盤です。
「基盤はそれ自体では何の意味を持つか?」と問うのは無意味です。それは「土台だけの建物に住むことはできるのか?」と問うようなものです。建物は土台だけでは住めません。しかし、土台がなければ、どのような建物も構築できないのです。
区体論は、その上にさまざまなな体系を構築するための基盤であり、土台です。土台自体で何らかの意味のある空間を構築しようと思っても、無意味です。自然数を構築するためだけでも、ペアノ公理を必要とします。
区体論はあくまで基盤であるということを理解してください。当然、基盤の上にペアノ公理その他の公理をいろいろと追加することが、利用上の前提となります。
────────────
《 参考 》
連続区体論の区体一般について分出公理は必要か? それは疑問です。私としては「そのような分出公理は必要ない」という見込みを立てています。必要なものは、次のものだけでしょう。
・ 無限小についての分出公理
・ 無限小についての選択公理
これらは、扱い方は、可算の場合と同様になります。(無限小をアトムのように扱います。)
しかしながら、その濃度は、可算の場合とは違って、連続となります。つまり、濃度が1ランクアップします。
以上のことは、たぶん、定理の形で決まるでしょう。(予想)
一方、無限小ではない一般の区体については、分出公理や選択公理が成立するかどうかはわかりません。「無限小の集まり」という形でなら成立する(*)でしょうが、無限小という概念を使わないままで(素のままで)成立するかどうかは疑問です。
なお、「無限小の集まり」という形でなら成立する(*)というのは、「近似的に」とか「モデル的に」とかいうのと同様です。
「無限小は ≒ という記号のもとで、無限小をアトムのように扱える」
というふうに説明されました。つまり、 = のかわりに ≒ という記号を導入することで、「近似的に」または「モデル的に」無限小をアトムのように扱えます。また、無限小の集まりを、アトムの集まりのように扱えます。その意味で、「近似的に」または「モデル的に」分出公理や選択公理は成立するでしょう。ただし、素のままで成立するのとは違います。
以上が私の予想です。
私も誤読かもしれないと思ったのは「この『決定』ってどういう意味だ?これが分からないなあ」と思って疑問だったからです。
分出公理にあたる公理10を引用すると。
>[公理10]
アトムである X に関する任意の命題 Ψ(X) に対して、
(∃P)(∀X)
Ψ(X) ⇔ X@P
となりますが、これは、区体論の考察の初期(まだ、可算区体論が考察の主体だった頃)の大昔の形ですね。
これだと「アトムがない場合はどうなるんだ?」という人が現れる可能性があるので、連続区体論バージョンでの公理10を作った方がよいかな?という感覚がします。
ただ、管理人様が連続区体論版の公理10を作ったとしても、分出公理まで出てくる場合、論理学の高度な知識が必要となりますので、自力で「分出公理を追加すれば、本当に無限小の存在が出てくるか?」を確かめるのは実力的に私には無理ですねえ。
もう、私の実力の限界を超えていることがはっきりしましたので、これで退散させていただきます。
お騒がせして、大変申し訳ありませんでした。
やはり、「決定」という言葉の意味が判りません。
>ただ、決定することができないだけです。
有理コーシー列による実数の構築を採用するとき、有理コーシー列全体の集合に同値関係を定義し、その商集合をとりますね。ですから、任意の有理コーシー列をとったとき、それを代表元とする同値類は当然一意に決まるわけですから、それをもって「その有理コーシー列は実数を決定する」と言ってはいけないのでしょうか?
しかし全体を見ると、有理数の全体で決定できる実数の総数は、有理数の濃度と同じです。(可算です。)
残りの大部分(連続濃度)は、その方法では決定する(示す)ことができません。
──
実数の全体は、「自然数を並べた数値列の全体」という形で、存在性を示すことはできます。
しかし、その一つ一つを具体的に示す方法は、有理数の全体と同じで、可算です。
これは動かしがたい数学的な真実です。
このことは、区体論では、特に問題となりません。存在性と決定性は別のことだ、と理解すればいい。それだけの話。
一方、集合論の方法だと、問題が生じる。というのは、集合論の方法だと、コーシー列の方法(および同値な方法=デデキントの方法を含む)によって、実数の存在性と決定性を同時に示すからです。「決定できなければ存在性も言えない」というふうにして、存在性について根源的な問題が生じます。
これが現代数学(集合論の方法)による、根源的な問題です。
──
どうしてこの違いが出るかというと、次のことによります。
・ 集合論では「点を先に得て、点から実数を構成しようとする」
・ 区体論では、「全体を先に得て、全体を無限分割することで実数を構成しようとする」
前者は「下から構成する方法」であり、後者は「上から構成する方法」です。
前者は存在性と決定性を同時に示しますが、後者は存在性だけを先に示します。決定性については、その後、有理数によって決定します(コーシー列など)が、そこで決定される総数は可算です。つまり、ほとんどすべての実数は決定できないままです。(それで問題ない。)
有理数ではなく、有理数のコーシー列が決定するために、非可算無限となります。
>後者は存在性だけを先に示します
ですから、早く存在性を示して欲しい、と言っているのです。昔の記事の部分だけしか読んでなかったのは大変失礼いたしました。
しかし、まだ存在性までは到達していないようですね。
「無限回分割が可能」ということを体系内部で示すメカニズムが必要だと思います。
しかし、順序対さえ原則禁止というのでは非常な困難が予想されます。
体系の外部に新たに公理を追加してやるのが原則です。
自然数でさえ、ペアノ公理が必要ですから。
あなたの言っているのは、「区体論ではペアノ公理がないと体系の内部で自然数が構築できない。だから区体論では自然数を構築できない」というようなものです。
順序対は数学を行うときの基本的な構成要素です。
順序対は禁止されると言ったのは、管理人様です。
これでは、区体論+何か、をやろうとしても、何か、の中で順序対概念が必要なとき区体論が(やくにたつどころか)邪魔になります。
それでは、区体論が可哀想です。
私なりの答えを示してみます。
2変数関数 pair(x,y)を追加し、
(*順序対の公理) #x#y#u#v(pair(x,y)=pair(u,v)
←→ x=u ∧ y=v)
を追加します。
この2つを順序対が必要になったときに随時区体論に追加して使用します。
集合論の順序対は
{x,y}∈<x,y>
のような、余計な定理が出てしまいますが、集合論では、この定理は使わないという暗黙の了解事項があります。この方法ならそういうことはありません。
このぐらいの知恵を絞らなければ、全然進みません。
何をやろうとご自由ですが、存在しないパラドックスを出すとかはおやめ下さい。
このように「集合論の概念を区体論に翻訳する」という方法で、すべては問題なく進みます。
一方、集合論の方法そのものを区体論に導入すると、集合論における「階型」という概念が付随しますが、この「階型」という概念が区体論では禁止されるのです。
集合論の「順序対」の概念は、Wikipedia でも示されていますが、そこではいずれの方法でも、カッコが二重カッコになって現れます。このように二重カッコを使うのが集合論の順序対の本質なので、そこから二重カッコの概念を排除して、二重カッコの部分を抜いた本質的な成分のみを取り出せば、区体論に翻訳された順序対となります。あなたが上で述べたのは、そういうことです。
このように、集合論の世界で述べられた概念から、二重カッコの概念を取り除いて翻訳することで、集合論の世界のほとんどすべては区体論に翻訳できます。
ただし、カッコを排除することが根本的に不可能な公理もあります。(たとえば、べき集合公理)……これらについては、翻訳が不可能なので、区体論の世界には根源的に導入されません。
ただし、個別の形であるならば、区体論の世界に導入可能です。
例。自然数の集合についてのみ「べき集合公理を認める」→ これは区体論に翻訳可能。
例。あらゆる集合について「べき集合公理を認める」→ これは区体論に翻訳不可能。(形式的には翻訳可能だが、導入すると不自然なことになるので、あえて導入しない。)
もう少し正確に言うと、順序対の short版(Wikipedia を参照)には ZFC の正則性公理が必要だとされていますが、逆に言うと、正則性公理があれば順序対の short版ができる。しかし、そこには二重カッコが付随するので、区体論の発想とは対立します。
区体論の世界で話を進めるには、二重カッコを除くことが必要ですから、二重カッコ概念をもたらす正則性公理を導入することは禁止されます。ここが私の言いたかったことです。
「順序対は禁止される」という先の表現は、ちょっと曖昧だったので、誤解されやすかったですね。どこが問題なのかを示さなかったので。……この点はお詫びします。
なお、この件で大切なのは「体系の中か外か」ということです。集合論ならば、正則性公理で定義されるので、順序対は体系の中にあります。区体論ならば、順序対は別の公理で定義される必要があるので、順序対は体系の中にあるとは言えません。(拡張された区体論の体系の中にはありますが、区体論単独の体系の中にはありません。)
──
とにかく、「区体論とは、カッコのない集合についての公理系だ」という本質を理解してください。それゆえ、カッコを付け足すような形の概念(順序対もその一つです)は、カッコ付きのままでは導入されません。カッコを抜いた形で導入されます。
徹夜続きでハイの思いつきなので、このままでは齟齬が出る可能性もあります。なんらかの制限が必要かもしれません。
まだ確かめていないのですが、≒の導入による無限小の存在は可能性がありますが、これが無限回分割のような意味にならない可能性があるような気がします。数学的帰納法の導入などを検討されているようですが、必要かもしれません。しかしこのような概念(極限操作も含む)が出てくるためには、区体列(数列の区体版)のような概念(括弧がまた(下手すると2重に)増える概念です)を、区体論のやり方でできるのか?できないのか?などなど、問題は山積みです。
(以上のことは、現在頭がもう正常に働いていない状況なので、信用しないでください)。
まあ、集合論は強力な空母のような力があるのを、自分で手かせ足かせして手漕ぎボートで追いかけているわけですから、遠い道のりだと思います。ちなみに、完全に私の実力を超えています。
もう限界なので、寝ます。助力は無理のようです。もう少し、集合論がどのくらいの強力さを持っているか調べることも大事かもしれません。