高次元宇宙を考える発想もある。「ブレーンワールド」という言葉で概括されるのが普通だ。これと超球理論とは、どう違うか?
( ※ 本項は、余談ふうの話なので、読まなくてもよい。) ──
普通の物理学では、3次元空間と1次元の時間とからなる4次元の時空を考える。
これに対して、余剰次元を考える立場がある。これを本項では、「高次元宇宙」という言葉で呼ぼう。
この立場は、「ブレーンワールド」という言葉でも呼ばれる。
( ※ 「ブレーン」とは、膜という意味。つまり、2次元世界という意味。3次元から見れば2次元が膜であるように、高次元宇宙から見れば3次元は膜のようなものだ、という発想。)
両者は、内容的には同じことなのだが、言葉で呼ぶときの着目点が違う。
・ 高次元宇宙 …… 4次元時空の外の、外部宇宙に着目
・ ブレーンワールド …… 4次元時空そのものに着目
比喩的に言えば、「卵と黄身」のような関係だ。
卵の方に着目すると、「黄身を含む卵」という認識になり、「高次元宇宙」という言葉で認識される。
黄身の方に着目すると、「卵のなかの黄身」という認識になり、「ブレーンワールド」という言葉で認識される。
同じことでも、着目点の違いで、言葉が変わるわけだ。(比喩。「コップに半分しかない」と「コップに半分もある」)
──
「高次元宇宙」ないし「ブレーンワールド」の理論には、いろいろとある。
→ Wikipedia
たとえば、リサ・ランドールの「5次元宇宙」という理論だ。これもその一つだ。
「高次元宇宙」ないし「ブレーンワールド」という理論の本質は、リサ・ランドールの「5次元宇宙」という理論で代表されることになる。
──
では、その本質は? これについては、前に、次の箇所で述べた。
→ 5次元宇宙(リサ・ランドール)
要するに、簡単に言えば、次の通り。
「理論の整合性を優先して、理論をつくろうとする。そのために、高次の次元というものを導入する。そのことで、整合的な理論を構築できる」
しかし、こういう方針については、私は厳しく批判した。次の趣旨で。
「そういうのは、ただのつじつま合わせにすぎない。問題が生じたから、その問題のために、勝手な原則を新たに導入して、問題を回避する、という立場。そういう小手先のつじつま合わせをするべきではない。なぜなら、そのことで、高次元の宇宙というとんでもないものが生じるからだ。小さな問題を解決するために、この宇宙の基盤そのものを崩壊させてしまう。そういうのは、本末転倒だ」
では、どうすればいいか? 代わりの方針も示した。
「既存の理論で問題が生じたから、既存の理論に新たな何かを追加すればいい、という発想では駄目だ。既存の理論(認識)をあっさり捨てて、ゼロから新たに作り直すべきだ。」
比喩的に言えば、次のようになる。
「古典力学の世界では、矛盾が生じる。そこで『ローレンツ変換』という新たな概念を導入して、古典力学を修正しよう、という立場が現れた。しかし、そんな修正策をしても、駄目だ。ゼロから新たな理論を構築する必要がある。そうして できたものが、相対論だ」
──
この方針のもとで、超球理論という立場が誕生した。それは、次のように考える。
(1)「量子は粒子だ、という根本認識を捨てて、量子は超球だ、という根本認識を取る。超球は、粒子と波との相互転換をなす」
(2)「超球の全体は、空っぽな空間ではなく、超球に満ちた空間を構成する。その空間は、複素エーテルである」
(3)「複素エーテルは、高次の次元をもつ。ただし、その次元は、ブレーンワールドのような次元とは異なり、次の二点の性質をもつ。
・ それは、微小次元である。(プランク定数程度)
・ それは、複素次元である。(実数次元と虚数次元)」
このうち、特に (3) の点が決定的に重要だ。
第1に、超球理論では、次元のサイズは微小である。プランク定数程度のサイズしかない。一方、高次元宇宙(ブレーンワールド)の理論では、次元のサイズは巨大である。百億光年のような、巨大なサイズをもつ。
第2に、超球理論では、次元は実数次元と虚数次元の双方をもつ。一方、高次元宇宙(ブレーンワールド)の理論では、次元は実数次元をもつだけで、虚数次元をもたない。
[ 付記1 ]
なお、どの理論が正しいかは、理論だけではカタが付かない。実験的に検証されるものだ。
ただ、高次元宇宙(ブレーンワールド)という理論は、例によって、トンデモの性質を帯びている。
仮に「5次元宇宙」というものがあるのであれば、この世界に突然、物質が出現したり消滅したりするはずだが、そんなことはありえない。また、物質が5次元を経由して(SF的に)ワープすることもありそうだが、そんなこともありえない。そもそも、どうしてわれわれが3次元空間に閉じ込められているかという説明が付かない。ほとんどトンデモ。つじつま合わせをしているだけ。
[ 付記2 ]
「4次元宇宙における3次元の宇宙は、3次元宇宙における2次元宇宙(膜)みたいなものだ」というのは、比喩のように見えるが、比喩になっていない。なるほど、数学的には、比喩になる。しかし物理学的には比喩にならない。なぜなら、3次元宇宙における2次元平面というのは、理論的に存在するだけであって、現実には存在しないからだ。この世界に存在するものはすべて3次元の存在である。たとえ平面のように見えても、3次元である。薄型液晶パネルも、薄い紙も、1分子だけの厚みをもつ分子パネルも、すべて3次元の存在だ。2次元平面というものは、現実には存在せず、理屈の上で想定されるだけだ。なのに、そこを勘違いして、2次元宇宙が存在していると思うとしたら、その人は次元というものを根本的に勘違いしている。……この世界に存在するものはすべて3次元である。この世界には2次元の物質などは存在しない。たとえ厚みが1分子だけであろうと、その物質は3次元である。このことをはっきりと認識する必要がある。そうすれば、「3次元世界における2次元のようなものが存在する」という発想をすることはないはずだ。数学者ならともかく、物理学者ならば。
実を言うと、こういう矛盾があることがわかっているから、ブレーンワールドという仮説は、「通常は4次元の時空だけです」と見なす。つまり、「エネルギーが低い通常の宇宙では4次元だけで、重力だけが5次元方向に逃げる」と見なす。しかし、これもまた、つじつま主義。5次元を導入したり、5次元を部分的にやめたり、とことんつじつま合わせをしている。何とかほころびを出さないように、必死に努力しているだけ。うんざり。
もっと根源的に言えば、ブレーンワールドという仮説は、一般相対論と整合的でない。それゆえ、こんなものは最初から捨ててしまった方がいいだろう。そもそも、重力場というものを「場の理論」として表現できないような理論は、最初から価値がないだろう。この点は、「リサ・ランドール」の項で説明したとおり。
[ 付記3 ]
高次元宇宙(ブレーンワールド)という理論は、粒子説に依拠している、という難点もある。
このことから、シュレーディンガーの猫や二重スリットの問題についても、コペンハーゲン解釈と同じ問題に悩むことになる。つまり、「猫は半分だけ生きて死んでいる」とか、「一つの粒子が二つの場所に存在する」(一つのものは二つである。1=2)とかいう問題に悩むことになる。
特に、粒子説に依拠する限り、「二重スリットを通過した電子は現実には(粒子としては)観測されない」という致命的な問題がある。つまり、実験結果に反する。これは粒子説のすべてに共通する問題だ。
結局、高次元宇宙(ブレーンワールド)という理論は、「ローレンツ変換」と同様である。たった一つだけ問題を解決しても(つじつま合わせをしても)、他の多くの問題を一挙に解決することはできない、ということだ。特に、相対論との整合性のなさは、致命的だ。(明白に矛盾するというほどではないが、整合的でない。)
多くの問題を一挙に解決するためには、次元の数を増やすとか減らすとかよりも、思考基盤となる「粒子説」という発想そのものを根源的に捨てる必要がある。ちょうど、「ニュートン力学」という発想そのものを根源的に捨てて、まったく別の体系を根源的に構築したように。
【 関連項目 】
超球理論における次元(高次元・複素次元)については、ここでは詳しく述べない。知りたければ、超球理論そのものを読んでほしい。特に、初めの方を読むだけでも、かなりわかるだろう。
→ 超球理論
なお、高次元・複素次元の存在については、あくまで「仮説」である。そうすれば物事が整合的に統一的に理解される、というだけのことだ。「仮説」を認めるかどうかは、そのあとの話である。
(仮に、もっと優れた仮説があるならば、そういう別の仮説を採ってもいい。しかしながら、現状では、超球理論に変わるようなもの[ライバル]は、一つも見出されていない。「場の理論のモデル」は、超球理論だけなのだ。それ以外には、せいぜい、調和振動子のモデルがあるぐらいだろう。こいつは、あまりにも中途半端で、量子論のモデルになっていないが。)
※ 10項目ほど続いた「量子論」シリーズは、本項で終わります。
(これは初心者向けのシリーズ。将来的には別のシリーズも予定。)
2009年01月16日
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解釈間違ってますかね。
それでも大丈夫でしょうが、
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ブレーンワールド理論をSF考証に取り入れています。
フィクションの設定如きに云々は言いたくないのですが、
こう言う我らの世代で馴染みのある名作がトンデモ理論に跋扈されるなんてもの悲しい物を感じます、
悪貨が良貨を駆逐するとはこう言う物でしょうか?
それより、萌え顔のエロキャラになってしまったことの方が、ずっと許しがたい。 (^^);