2009年01月14日

◆ 物理と確率(確率とは何か)

 どうして物理学者は、妙ちくりんな発想をするのか? その理由は、彼らが「確率とは何か」ということを、根本的に誤解しているからだ。 ──

 物理学者は「重ね合わせ」や「多世界宇宙」のような、妙ちくりんな発想をする。トンデモとしか思えないような発想をする。それでいて、平気の平左だ。では、彼らはどうして、そういう妙ちくりんな発想をするのか?
 その理由は、彼らが「確率とは何か」ということを、根本的に誤解しているからだ。
 そこで、彼らがどこをどう誤解しているかを、説明しよう。

 ──

 物理学者は、確率について、次のように考える。
 「確率とは、未来を予測する理論である。その理論のおかげで、未来を確率的に予測することができる」

 しかしこれは根本的な勘違いだ。正しくは、次の通り。
 「確率とは、未来を予測する理論ではない。その理論のおかげで、未来を確率的に予測することができるということはない。確率というものは、多数の事象についてのみ意味をもつのであって、1回限りの事象については何も言えない。(予測もできない)」

 これが数学における「確率」の意味だ。なのに、物理学者は、そのことをちっとも理解できないのだ。

 ──

 ではなぜ、物理学者は「確率」の意味を理解できないのか? その理由は、こうだ。
 「物理学者は、物理理論というものを、決定論だと思い込んでいる」

 換言すれば、こうだ。
 
 「物理学者は、物理理論というものを、理論によって実験結果を予測できるものだと思い込んでいる」

 たとえば、ニュートン力学がある。これによると、理論によって、惑星の将来の運動を予測できる。そして、その予測と、観測結果とが、見事に合致する。そこで、
 「理論によって将来を予測できるものが、正しい物理理論だ」

 と思い込む。そこまではいい。しかるに、それを逆転させて、
 「正しい物理理論は、理論によって将来を必ず予測できる」

 と思い込む。これは、ひどい勘違いだ。

( ※ こういう勘違いのもとで、「確率とは予測値だ」と思い込む。そんなことはないのだが。確率に基づいて人が予測することは可能だが、確率というものはもともと予測値とは関係ない。物理学者は「予測する」ということにこだわるあまり、確率というものの本来の意味を見失ってしまっている。)

 ──
 
 では、正しくは?
 物理理論に要請されるのは、
 「その理論が真実を語る」
 という条件を満たすことだけだ。
 一方、
 「その理論が、理論的に将来を予測できる」
 という条件は、必要ない。
 
 この違いは、確率的な事象において、顕著になる。すなわち、確率的な事象においては、正しくは次のようになる。
 「その理論が結果を、決定論的に予測できる必要はなく、確率的に(頻度を)示すだけでよい」


 たとえば、サイコロであれば、確率的に
 「6分の1ずつの頻度で発生する」
 ということさえわかればいい。そして、そのことは、事象が多数になったときには、まさしく成立する。
 しかしながら、特定の1回については、確率は意味をもたないし、事象の予測もできない。……これが確率の意義だ。

 しかしながら、物理学者は、確率的な事柄にも
 「物理理論は決定論的に予測できる」
 と思い込む。こういう決定論的な発想が、物事の認識を歪めてしまう。
 
 ──

 量子の世界は、根源的に確率的な世界だ。そこでは、決定論は成立しない。多数回の事象については確率的に言えるが、ただ1回の事象については何も言えない。(理由は前項の後半。)
 なのに、何も言えないことに対して、あえて何かを語ろうとするから、虚偽を語ることになる。それがつまり、「シュレーディンガーの猫」の本質だ。1匹の猫については「生きている」とも「死んでいる」とも言えないのに、強引にどちらかに決めようとした結果、「半分生きて半分死んでいる」という妙な結論を出した。
(「どちらとも言えないものを無理にどちらかで言わせようとする」というのは、女心を強引に決めようとするのに似ている。……これを皮肉った逸話を示したこともある。 → シュレーディンガーの猫の核心

 では、正しくは? 1匹の猫については何も言えないのだから、何も語ってはならないのだ。決定論的には言えないことを、決定論的に語ってはならないのだ。  …… 
 なのに、語ってはならないことについて強引に語るから、言葉が嘘になる。……これがつまり、シュレーディンガーの猫のパラドックスだ。

 物理学者は、確率の意味を理解していない。確率は、多数の事象について当てはまることなのに、ただ1回の事象についてまで語ろうとする。予測できないことについて、予測しようとする。「決定論」という妄想にとらわれているせいで。……ここに、物理学者の陥る落とし穴がある。

 ──

 ここで、「確率とは何か?」について説明しよう。
 数学的には、確率とは、次のようになる。
 「確率空間(確率の公理空間)の条件を満たすもの」 

 つまり、確率という概念自体は、無定義語である(と考えてよい)。ただし、その無定義語は、「確率空間(確率の公理空間)の条件を満たす」という形で規定されている。(陰形式の定義。)

 とはいえ、それは、数学的な説明だ。普通の人には、わかりにくい。わかりやすく説明すれば、こうなる。
 「確率とは、均等な頻度で発生する多数の事象についての頻度を得たあとで、そこから組み合わる形で別の頻度を得たもの」

 その本質だけを言えば、こうなる。
 「まったく同等の多数の事象から起こる事象」


 ──

 具体的に言おう。

 (1) コインの頻度
 コインでは、裏表が出る確率は、2分の1だ。これを天下り的に受け入れる。そのあとで、
  「表,表,表」という順で3回が続く確率
 というような例を考える。

 (2) サイコロの頻度
 サイコロでは、それぞれの目が出る確率は、6分の1だ。これを天下り的に受け入れる。そのあとで、
  「1,1,1」という順で3回が続く確率
 というような例を考える。
 

 どうしてそうであるのかを説明しよう。
 最初に天下り的に得られる均等な確率は、「確率空間における確率が無定義語であること」に相当する。とにかくとりあえず基本的な確率というものを導入する。
 次に、それぞれの組み合わせの確率は、確率空間の公理(測度の規定)に相当する。ここで確率の測度を規定する(公理化する)ときに、上記のような組み合わせの場合に成立する性質を公理として導入する。たとえば、「あらゆる事象の確率の総和は1である」というふうな。

 とにかく、確率空間の公理には、そのモデルとなるものがある。そのモデルの本質が、確率の本質だ。上記の (1) (2) のようなモデルを理解することで、確率空間が何を意味しているかが理解されるようになる。
( ※ ファインマンも言っていたが、物事の本質を理解するには、数式をやたらといじればいいのではなく、数式をモデル化して具体的に考えるといい。ここを理解しないで、数式だけをいじっていればいいと思うのが、凡才だ。)

 
 ──

 ともあれ、確率では、一番根源的な(基本的な)確率は、天下り的に得られる。
 そして、そのことは、量子論では、次のことに相当する。
 「(同種の)量子はどれも同じであり、たがいに区別がつかない」

 たとえば、電子はどれもが同じ電子であり、たがいに区別がつかない。陽子であれ、中性子であれ、事情は同様だ。

 具体的に示そう。たとえば、AとBという粒子が接近して、ぶつかる。そのあと、どうなるか? 
 次の図は、上から下へ順々に見る。(時間的経過)

      A      B
      ●      ●
       ●    ●
        ●  ●
         ●●

          ☆   衝突
         ●●
        ●  ●
       ●    ●
      ●      ●

      C      D

 衝突後、次の二つの可能性が考えられる。
  (ケース1) A = C  , B = D
  (ケース2) A = D  , B = C


 そのどちらが正しいのか?
 どちらとも言えないのだ。Aは、Cになったのか、Dになったのか、わからないのだ。なぜなら、(同種の)量子はたがいに区別不可能だからだ。
 ここでは、量子は、たがいに区別がつかない。それゆえ量子は根源的に、確率的な性質を帯びる。そこでは決定論的な認識は成立しないのだ。
 
 にもかかわらず、多くの物理学者は、量子について決定論的に考える。確率的なものについて、非確率的に考える。……そこに、物理学者の陥る難点がある。

( ※ 一方、それを避けているのが、超球理論だ。そこでは、量子はたがいに区別不可能なものとして理解される。だから、「ミッキーのワープ」というようなことも認識される。)



 [ 補足 ]
 物理学者の確率への認識が根本的に狂っている、ということを示そう。それには、「波束の収束」という概念を取るといい。詳しくは、前項で述べたとおり。
  → 粒子の出現

 その内容をわかりやすく言えば、こうだ。
 コペンハーゲン解釈では、粒子が出現するとき、「波束の収束が起こる」と考える。たとえば、 Ψ という関数の値は、空間のそれぞれの場所ごとに 0 以上 1 以下の値とを取っていたのだが、あるとき突然、特定の場所だけでその値が 1 になり、他の場所では値が 0 になる。
 図示すれば、次のように変化する。
 
 (1)
                      
              
 (2)
             ┃       
 
 こういう急激な変動が Ψ という関数において生じたので、粒子が出現したのだ、と考える。具体的な例は、二重スリット実験やシュレーディンガーの猫における、粒子の出現だ。
 しかし上の解釈は、確率というものを根本的に勘違いしている。実は、Ψ という関数では、急激な変動などは起こらない。 (1) という元の状態だけがあり、それが (2) に転化することはない。では、 (2) は何かというと、 Ψ という関数の値ではなくて、ただの観測値である。
 ここでは、「観測が Ψ の値を変化させた」ということはない。  Ψ の値は、観測前も観測後も、同じである。ただし、観測後には、観測値というものが新たに生じた。それが (2) だ。

 このことは、数学的な確率というものを理解しておけば、簡単にわかる。
 たとえば、コインを回転させる。そこにコップをかぶせて、コインが回転しているのを見えなくする。やがてパタンという音が聞こえて、コインが倒れたのがわかる。そこで、コップをはずすと、コインの裏表がわかる。
 これについて、物理学者は主張する。
 「コインが裏になる確率は、 50% だった。 しかし観測したことで、0%または 100% に転じた。観測がコインの裏になる確率を変化させたのだ」
 しかし数学者は、正解を教える。
 「コインが裏になる確率は、常に 50% である。確率とは、理論値だからだ。一方、観測したことで、裏表が判明する。それは観測値だ。別に、確率が急に 0%または 100% に転じたわけではない。観測がコインの裏になる確率を変化させることはない」

 物理学者は、確率というものを、「未来を予測する数値」だと思い込む。違う。確率というものは、ただの理論値なのである。それは現実値(観測される値)と一致するとは限らない。観測の前には観測値は存在せず、観測のあとには観測値が存在する。それだけのことだ。確率は理論値であって、観測値とは別なのである。
 しかしながら、物理学者は、そのことを理解できない。そのせいで、コペンハーゲン解釈という、おかしな解釈をして、平気でいるのである。

 ──

 ではなぜ、物理学者はそのことを理解できないのか? それは、
 「この世界は決定論的だ」
 と思い込んでいるからだ。そのせいで、次のように考える。
 「初めは Ψ は空間に広く分布しており、未定状態だった。しかしあるとき突然、粒子が出現した。そのときには、 Ψ もまた1点に収束したはずだ。なぜなら、 Ψ は粒子の状態を決定する関数だからだ」
 しかし、これは量子についての根本的な誤解だ。量子の世界は、決定論的ではなく、原理からして確率的なのである。というのは、そこには非常に多数の粒子があり、そこから無作為的に1個が選択されるからだ。
 たとえば、二重スリットの実験では、物理学者は次のように考える。
 「1個の電子が、電子銃から発射され、電子乾板に到達する。発射された電子と、到達した電子は、同じ電子である。ただし、到達する位置だけが、確率的にバラバラとなる」
 これは間違いだ。正しくは、次の通り。
 「1個の電子が、電子銃から発射され、消滅する。その後、量子の波が電子乾板に到達する。そのとき、たくさんある電子の超球のうち一つだけが、電子の形を取り、電子乾板に現れる。電子銃で発射された電子と、電子乾板に現れた電子は、別の電子である。電子乾板に現れた電子は、たくさんのものから一つだけが確率的に選択された」
 量子の世界はこのように、原理からして確率的である。そこでは決定論の入り込む余地はない。 Ψ が示すのは確率的な状況だけであり、そのあとの現実世界のこと(ケース・バイ・ケースのこと)には関与しないのだ。
 量子の世界は原理からして確率的だ。ところが物理学者は、それを理解できず、古典論的に決定論によって解釈しようとする。そのせいで、間違えてしまうのだ。
  
( ※ すぐ上の件は、このあとの [ 付記 ] でも説明する。)
( ※ 確率と論理について、詳しくは、「シュレーディンガーの猫」というページの詳細ページで解説した。)
 


 [ 付記 ]
 前項では「波から粒子へ」という転換について述べた。それについて、この転換が起こる場所について説明しよう。(確率的に。)
 転換が起こるとき、その転換が起こるのは、どこでか? もちろん、それは確率的に決まる。

 たとえば、青い波の図を見よう。
   → 玉突きモデルの図
 この青い波が生じたあとで、右端で一つの粒子が出現する。つまり、「波から粒子への転換」が起こる。そのとき、どの超球が粒子に転じるかは、あくまで確率的に定まるだけだ。
 つまり、たくさんある ◯ のうちで、どの ◯ が粒子となって飛び出るかは、あくまで確率的に決まる。というのは、どの ◯ もたがいに区別不可能だからだ。それぞれの ◯ の違いは、それぞれにかかるエネルギーの違いでしかない。
 しかも、それぞれの超球に及ぶエネルギーは、いずれも、「1個の粒子が出現するためのエネルギー」に足りない。100 というエネルギーが必要でも、 10 か 20 ぐらいしかない。
 もし 100 を上回るエネルギーをもらったならば、その超球はほぼ必ず粒子になるだろう。
 しかし、10 か 20 ぐらいしかエネルギーをもたないのであれば、確率的にせいぜい1つが「粒子への転換」をなすだけだ。これはあくまで確率的な事象だ。

 こうして、「波から粒子への転換」が、エネルギーによる確率的な事象であるということがわかったことになる。

( ※ さらに言うと、これが確率的に起こることの理由は、超球にランダムな変動があるからだ。それぞれの超球は、完全に同じであるわけではなく、ランダムな微小な状・の変動をもつ。というのは、超球は常に高速で回転しているからだ。高速で回転しているゆえに、どの一瞬を取っても、ランダムに見える微小な変動がある。そして、その微小な変動ゆえに、確率的なランダムな事象が起こる。)
( ※ こういうことがあるゆえに、量子の世界は、本質的に確率的である。決定論的な認識は成立しない。決定論的に考えれば、コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈のような、トンデモふうの解釈にならざるをえない。逆に言えば、コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈が、トンデモふうの解釈であるのは、それらが根源において決定論的に考えているからだ。本当ならば、確率的に宇宙を認識するべきなのだが。)




 [ 余談 ]
 余談。アインシュタインは
 「神はサイコロを振らない」
 と言った。これは正しい、と私は思う。
 多くの物理学者は、アインシュタインの言うことは間違いだ、と思っている。つまり、「神はサイコロを振る」と思っている。しかし私の考えでは、真実はこうだ。
 「この宇宙そのものがサイコロである」
 この宇宙が超球でできているのだとすれば、すべては確率的に決まる。そこでは、神がいちいち天上でサイコロを振って決めるのではなく、サイコロがもともと地上に存在するのだ。サイコロを振るのは、神ではなくて、この宇宙そのものなのである。
 しかしながら多くの物理学者は、そうは考えなかった。「量子はサイコロだ」とは考えなかった。かわりに、「量子は決定論的に決まる」と考えた。「物理学はすべてを決定論的に予想することができる」と考えて、(多数でなく)1個の量子のふるまいについてまで予想が可能だと考えた。……それが「重ね合わせ」という奇妙な概念であり、そこから生まれるのが「シュレーディンガーの猫」というパラドックスだ。
 しかしながら、「この宇宙そのものがサイコロだ」という認識(超球理論の認識)を取れば、すべては確率的に理解される。そこでは決定論は必要ないから、「重ね合わせ」も「シュレーディンガーの猫」も生じない。もちろん、「神がサイコロを振って決める」という概念も必要ない。
 結局、現代の量子論をいかがわしいと直感したアインシュタインの方が、他の物理学者よりも正しかったのだ。多くの物理学者は、表面的なつじつま合わせができることばかりにとらわれたせいで、物事の根源的ないかがわしさに気がつかなかったのだ。
( ※ 根源的ないかがわしさとは何か? それは、に述べたことからもわかるはずだ。つまり、根源的な思想基盤を崩壊させることだ。)



 [ 蛇足 ]
 最後に一言。
 本項では、さまざまなことを述べたので、何を言いたいのか、読者は忘れてしまったかもしれない。そこで、念のために示しておく。本項で一番大事なことは、先の  のことだ。再掲しよう。
 1匹の猫については何も言えないのだから、何も語ってはならないのだ。決定論的には言えないことを、決定論的に語ってはならないのだ。
 多くの事象についてなら、確率は何事かを示せる。しかし、1つだけの事象については、確率は何も言えない。何も言えないときには、口をつぐまなければならない。
 シュレーディンガーの猫(特定の一匹の猫)の場合には、コペンハーゲン派の言うように、「半分の生と半分の死が重なっている」ということはありえない。また、「猫は半分生きて半分死んでいる」ということもありえない。では何が言えるか? こう言えるだけだ。
 「猫の状態は生か死かいずれかであるし、いずれであるかは半々の確率であろうが、この特定の猫については何も言えない」
 つまり、「何も言えない」と言えるだけなのだ。そういうふうに語るべきときに、無理に何か特別なことを語ろうとするから、言葉が嘘になる。
( ※ 好きでも嫌いでもない相手に、無理やり好きか嫌いかを言わせるようなものだ。好きと言っても嫌いと言っても、言葉が嘘になる。「半分好きで半分嫌いだ」と言っても嘘になる。なぜなら、本当は、好きでも嫌いでもないからだ。 → 解説ページ



 【 後日記 】
         
    別項 からの転載。


 以下では、ごく簡単に説明しよう。
 「アルファ粒子が崩壊する確率」
 というような、個別事象について、いろいろと確率を考察することができる。ではなぜ、確率を考察できるのか? その基礎には、シュレーディンガー方程式があるのだが、そもそもなぜ、シュレーディンガー方程式で確率的に示すことが可能なのか?
 それは、物事の根源を考えるといい。その根源とは、こうだ。
 「すべての素粒子はたがいに同等である」
 たとえば、電子なら電子、中間子なら中間子。これらの素粒子は、たがいに同等であると見なされる。あるところで観測された電子と、別のところで別の時点で観測された電子は、まったく同等のものだと見なされる。(同一ではないが、同等である。)
 このような同等性(均等性)がある。これが根源にあるからこそ、量子というものは確率的にふるまうのである。
 逆に、量子というものが人間のように個性をもつ別々のものであれば(たとえばそれぞれの電子がすべて個別の質量・スピン・電荷をもつのであれば)、そのときにはもはや量子は確率的にふるまうことはなくなる。(そのとき、それぞれの量子はたがいに区別可能なものとなったあげく、たぶん古典力学的にふるまうようになるだろう。……この箇所、あまり意味のある仮定ではないが。 (^^); )
 ともあれ、量子のさまざまな現象は、現象自体は(個別的であるがままに)個別の確率計算が可能だが、その根源には、量子の均等性があるのである。

( ※ サイコロの目がどうなるかを予測する場合にも、サイコロの目が6分の1ずつの確率であることが根源となっている。個別の事象は、それぞれ別々だが、それらの個別の事象の根源には、サイコロの目の均等性がある。)
( ※ なお、このような均等性がまったく前提とされていない場合には、それはもはや数学的には確率の意味を持たなくなる。たとえば、「彼女が僕を愛してくれる確率」とか、「宇宙人が存在する確率」とかは、均等性がまったく前提とされていない。そこでは、確率っぽい数字を計算することができても、それはもはや数学的な意味での確率とは異なるものとなる。)
( ※ ちなみに、天気予報の確率も同様である。一日一日の天気が異なるがゆえに、そこには均等性がない。「似た天気」という疑似的な均等性はあるが、真の均等性はない。それゆえ、その数字は確率ではない。実際、天気予報の結果を確率ごとに事後的に調べると、「大数の法則」がまったく成立していないことが判明するだろう。……根源的にランダムさが含まれていない限り、そこにある数値は「確率」にはなりえないのである。)
 
  ────────────

 《 補足 》
 ついでにもう少し補足しておこう。具体的な例を示す。
 例1。
 ある薬の有効性を知るために治験をしたら、「有効が 70%、無効が 30%」(その他はなし)と判明したとする。この薬を、特定の患者に処方したとき、「有効である確率が 70%」という結論を下すことができる。
 しかしそこで言う確率は、本来の確率ではない。なぜなら、人はそれぞれ個別に異なっており、有効であるかどうかは「白か黒か」という形で決着するからだ。実際、研究が発展すれば、個別遺伝子を知ることでオーダーメード医療ができるようになるから、事前に遺伝子を調べることで、「有効か無効か」が事前に判明する。
 では、「有効である確率が 70%」という数値は、何か? それは、「確率」ではなくて、「確率を利用した推論」にすぎない。自分の知識が不足している(個別遺伝子によるオーダーメード医療ができない)ので、「個別遺伝子については知らない」というのを、「個別遺伝子については差を無視する(無視してもいい)」というふうに仮定して、その仮定の上で下した推論であるにすぎない。……ここでは、いくら「確率」という言葉を用いても、それは本来の意味の「確率」ではないのだ。そのことを、本項は指摘する。
 例2。
 集団遺伝学で、遺伝子の頻度などについて研究する。ある遺伝子と対立遺伝子について、Aとa、Bとb、Cとc、などの組み合わせで、次世代以降の頻度を調べる。
 ここで、それぞれの遺伝子について、「複数の遺伝子はすべて同等である」と仮定するのが普通だ。その意味では、「個体の同等性」は成立していることになる。(仮定において。)
 では、その仮定は正しいか? 「正しい」と思う人が多いだろうが、実際には正しくない。なぜなら、次の差異があるからだ。
  ・ 1塩基多型(SNP)
  ・ DNAメチル化(cf. エピジェネティクス )
  ・ 他の遺伝子の影響

 最初の二つは、よく知られているものだ。(だからいちいち解説しない。知りたければ、ググればいい。)
 最後の「他の遺伝子の影響」とは、次のことだ。
 「遺伝子は、それ単独で存在しているのではなく、DNA の約2万個の遺伝子のうちの1個として存在している。だから、特定の遺伝子の影響を調べようとしても、それ単独で調べることは不可能であり、他の遺伝子の影響を免れない」
 たとえば、こうだ。
 「ある遺伝子と対立遺伝子 A/a の差を調べようとして、統計を取ったとしても、現実には、 A/a の差だけでなく、他の遺伝子の違いも影響してくるので、 A/a の差だけを見ることはできない」
 換言すれば、こうだ。
 「集団遺伝学において、『各遺伝子は同等のものである』と見なすのは、ただの仮定にすぎない。その仮定は現実には満たされない」
 たとえば、「Aという遺伝子はすべて同等である」と仮定するのはいいが、その仮定は現実には満たされない。なぜなら、Aという遺伝子が発現したことの結果には、他のさまざまな遺伝子が発現したことの結果が混じってしまうので、Aという遺伝子が発現したことの結果というのは、それぞれの個体ごとに異なるからである。現実のAという遺伝子はすべて同等であるとしても、その結果として観測されたものは個体ごとに異なるのだ。
 さらに言えば、最初の二つのこと(一塩基多型とDNAメチル化という違い)もある。
 というわけで、集団遺伝学においても、「各遺伝子は同等のものである」ということは成立しない。それはただの仮定である。しかも、その仮定は満たされない。……というわけで、集団遺伝学でどれほど確率的に論じようと、それは「現実には成立しない仮定のなかでの話」にすぎないのである。いわば机上の空論である。そのことに留意するべきだ、ということを、本項は教える。

( ※ 「だから集団遺伝学などの議論は無駄だ」と批判しているわけではない。「その議論には一定の有益性があるが、限界もあるのだとわきまえよ」と注意点を指摘している。「既存の学問を否定するのはトンデモだ!」などと頭に血をのぼらせないようにしてほしい。それは誤読である。)
( ※ 一般に、賢明な人は、自らの限界について常に注意しようとする。一方、愚かな人は、自らの限界を指摘されると怒り狂う。よくあることだ。)



 【 関連項目 】
 → 粒子の出現
   http://openblog.meblog.biz/article/1379265.html

 → 神はサイコロを振らない?
   http://openblog.meblog.biz/article/86071.html
posted by 管理人 at 19:04| Comment(2) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昔の記事になりますが、読んでイライラしたのでコメントさせてもらいますね。
物理学者は別に確率について誤解などしていませんよ。
根本的に間違っているのは波動関数と言うのは時間のタームも含んでいるから未来のことも記述していると言うのが普通の解釈です
波動関数とは空間的、時間的な広がりを持つものだから、確率を記述しているのです。
また、粒子の見分けがつかないと言う議論ですが、あなたの論理では粒子を衝突させると言うところか
ら始まりますが、これでは論理が破綻していますよ
正しくは粒子は波であるから、衝突させたとき波の重ね合わせるからその後見分けがつかなくなる(反射波か透過波かわからない)です。
Posted by おさむ at 2013年09月06日 18:50
あなたは本項で述べていることをまったく理解していなくて、単に「誤解などしていません」と反発しているだけです。話の趣旨が見当違い。本項とは関係のないことを言っている。

> 確率を記述しているのです。

 それはその通りですよ。一方、本項は「確率とは何か」を論じています。「それは個別的なものではない」というふうに。つまり、あなたの話とは関係ない。

> 正しくは粒子は波であるから、〜

 それはその通りですよ。一方、本項は「だから量子は確率的だ」と論じています。あなたの話とは関係ない。

 本項とは全然別の話を持ち出されても、私の知ったことではありません。本項と無関係の話は別の人と論じてください。あなたの言っていること自体は、別に間違ってはいないけどね。お門違い。
Posted by 管理人 at 2013年09月06日 19:29
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