2009年01月12日

◆ エヴェレット解釈の問題

 エヴェレット解釈(多世界解釈・並行宇宙解釈)とは、どんなものか? その本質は? わかりやすく説明しよう。批判的に。 ──

 初めにお断りしておくが、これは私なりの説明である。物理学の公式見解ではない。百科事典ふうの説明を期待しないでほしい。
 百科事典ふうの説明をするなら、「一瞬ごとに宇宙が無限に分岐する」という説明になる。

 ただし、それを言い換えると、こうなる。
 「ものすごく多様なものが存在している。それは目には見えないし観測もできないが、たしかに存在しているのだ。存在していると私が信じているからだ」
 これは、気違いの発想と同様であろう。彼が勝手に妄想をいだいているだけだ。この件は、別のページでも述べた。次のように。
  エヴェレット解釈の「並行宇宙がある」という主張は、いわば、狂人の妄想である。狂人にはそれがまともだと信じられるのだろうが、しょせん、狂人の妄想であるから、いちいち「間違っている」と証明することはできない。そして狂人は、「おれの妄想が間違っていると証明できる人はいないから、おれの妄想は真実なのだ」というふうに主張する。
 それはそうかもしれないが、間違っていると証明できないからといって、正しいということにはならない。こんな狂気的な発想を相手にする方が馬鹿げているだろう。
( → 二重スリットと観測問題 (概要)

 その二つの宇宙は、あくまで、頭のなかの宇宙であり、現実の宇宙ではない。なのに、そのことを理解しない人々が、「並行宇宙は現実に存在する」と勘違いしてしまうのである。
 彼らの主張は、論理的に間違っているのではなくて、現実と虚構とを区別できなくなってしまっているのだ。その点では、狂人と同様かもしれない。
( → 猫の生死 (本編2)
 ──

 こういういかがわしさは、直感的にすぐにわかるだろう。だからたいていの人は、エヴェレット解釈を「いかがわしいな」と感じて、信じない。それでいいはずだ。
 しかるに、物理学者は、この説に魅力を感じる。というのは、次のことがあるからだ。

 (1) コペンハーゲン解釈批判
 現代の物理学では、主流派の解釈は、コペンハーゲン解釈である。しかし、この解釈では、「波束の収縮」という問題が生じる。人が観測したとたんに、意識の作用によって、物理的な波束が収束する、ということだ。そんなことは、あまりにもおかしい。
 しかしながら、エヴェレット解釈を取れば、この問題は存在しない。だから、コペンハーゲン解釈を回避するために、エヴェレット解釈を取ろう、というわけだ。
( ※ この説明は、あっさりしすぎている。コペンハーゲン解釈について詳しくは、別項を参照。)

 (2) 量子コンピュータへの適用
 実は、「複数の世界が同時に存在する」という説は、「量子コンピュータ」という発想によく合致する。つまり、「あちこちの宇宙で同時並行的に計算することで、たくさんの計算がいっぺんにたくさん可能になるのだ」と。

 以上の二つの点から、物理学者のあいだでは、エヴェレット解釈もかなり人気がある。

 ──

 ここまでは、よく知られた事実への説明だ。このあと、私の解釈を示す。

 (1) への批判

 「エヴェレット解釈ならば、コペンハーゲン解釈の問題を回避できる」
 というのは、まともな理屈になっていない。それは、次のことを意味するからだ。
 「小さな問題を回避するために、より大きな問題を取り込んでしまう」
 これは、私がかねて「つじつま主義」と呼んで、批判してきたものだ。
 なるほど、エヴェレット解釈を取れば、「波束の収束」という小さな問題を回避できる。しかし、その代償として、「複数の宇宙が無限に分岐する」というような巨大な問題を取り込んでしまうのでは、本末転倒だ。それはいわば、「川で砂金を得るために、金塊をぶちこわして川にぶちまける」というようなものだ。たしかに目的を達することはできるが、そのために、得るもの以上の巨大なものを失ってしまう。
 馬鹿げている。

 もう一つ、根源的な事柄がある。
 エヴェレット解釈は、コペンハーゲン解釈の「波束の収束」という問題を、解決しているのではない、ということだ。解決ではなく、回避しているだけだ。要するに、うまく逃げているだけだ。問題と取り組みかわりに、問題から逃げている。だから問題が露見しないだけだ。
 はっきり言えば、こうなる。エヴェレット解釈は、コペンハーゲン解釈の「波束の収束」という問題を、本質的には同じものとして含んでいる。それは、次の問題だ。
 「無限にある複数の宇宙から、現在のわれわれのいる宇宙だけが、どうして選ばれるのか?」
 たとえば、二重スリット実験で、1分間に1発の割で、電子を発射したとする。百分間で百発だ。その百発の分布を見ると、だいたい干渉縞になる。さて。ここで、ある1発に着目しよう。その1発は、まさしくその箇所に結果が現れている。つまり、そのような宇宙が(多様な宇宙のなかから)選択されている。それがわれわれの宇宙だ。では、その結果は、どのようにして選択されたのか? 
 ここには「複数の宇宙から一つの宇宙(われわれの宇宙)を選択する」という「宇宙の選択」という問題がある。そして、これは、「波束の収束」と本質的には同じである。
 要するに、エヴェレット解釈は、「波束の収束」という問題を「宇宙の選択」という問題に置き換えているだけだ。そして、問題を置き換えたから、「エヴェレット解釈の問題はありません」と述べているだけだ。馬鹿げている。

 比喩的に言おう。数学で、二つの命題A,Bがあるとしよう。「AとBとは同値である」と証明されたとする。
 ここで、Aには矛盾がある。ただし、Aにおける矛盾は、(同値である)Bにおいては別の形に書き換えられた。したがって、Aにおける矛盾は、Bにおいては表現されない。ここで、
 「BにおいてはAの矛盾が表現されない。ゆえに、Bにおいては、Aの矛盾が存在しない」
 と述べるとしたら、頭がイカレているとしか思えない。(問題が解決したのではなくて、単に別の形に書き換えられているだけだからだ。)
 そして、それと同じことをやって、コペンハーゲン解釈の問題を回避したつもりになっているのが、エヴェレット解釈だ。「宇宙の選択」という新たな問題が生じたことには気づかないまま。
( ※ 頭隠して尻隠さず、とはこのことだ。)


 (2) への批判

 エヴェレット解釈を使うと、量子コンピュータの原理をうまく説明できるように思える。
 なるほど、「複数のものを考える」という点で、この発想はコペンハーゲン解釈よりも優れている。ある意味で、真実に近い。ただし、真実そのものではない。では、どこが問題か? 
 「複数のものを考える」という点はいいのだが、「複数のものが存在すると見なす」という点がおかしい。このことは、ファインマンの発想と比べると、はっきりする。
 ファインマンは、「経路積分」という発想をした。これは、「複数のもの」を考えるが、それだけでなく、「その総和が1になる」というふうにする。
 たとえば、二重スリット実験ならば、複数の経路をたどるが、それぞれの事件の頻度は、1ではなくて、無限小である。(無限小 × 無限大 = 1)
 このことは、次のように対比される。
  ・ エヴェレット解釈  …… 世界の数は無限、事件の頻度は
  ・ 経路積分の発想  …… 世界の数は無限、事件の頻度は無限小


 エヴェレット解釈では、事件の頻度は である。つまり、無限の宇宙はまさしく「存在する」わけだ。
 経路積分の発想では、事件の頻度は無限小である。つまり、無限の宇宙は「存在する」わけではない。かわりに、「可能性として想定される」だけだ。
 では、「可能性として想定される」とは、どういうことか? このことは、普通の量子論では、明らかにされない。そこで、仕方なく、「可能性として想定される」という発想をやめて、「まさしく存在する」と考える(エヴェレット解釈)。その結果、「複数の宇宙がまさしく存在する」という、気違いの発想にたどり着く。
( ※ もう一つ、「重ね合わせの形で存在する」というのが、コペンハーゲン解釈だ。これはこれで、別の問題が生じる。本項以前で述べてきたとおり。)

  ────────────

 以上の問題は、超球理論では、解決される。次のように。
  ・ 「可能性として想定される」とは、「波である」ということだ。
  ・ 「存在する」とは、「粒子である」ということだ。


 具体的に言おう。
 電子銃から電子が発射されて、二重スリットを通って、乾板にぶつかる。
  ・ 電子が真空中を通るときには、電子はである。
  ・ 電子が乾板にぶつかったときに、電子は波から粒子に転じる。

 ( ※ 玉突きモデルの概念図を参照のこと。 → 該当ページ

 電子が真空中を通っているとき、電子は波である。波としての電子は、粒子ではない。波としての電子は、「存在している」ものではなく、「存在する前のもの」である。つまり、「可能性としてある」だけだ。
 電子が乾板に達したとき、波から粒子への転換が起こる。波が粒子に転じたときまさしく、電子は「存在する」ことになる。

 ここで、注意。電子は真空中を通っているときには、真空中に広く薄く分布している。それはエネルギーの分布である。この状態がつまり、「可能性としてあるもの」(実質的にはエネルギーの分布)である。それは、ファインマンの経路積分では「無限小のもの」というふうに表現される。
 そして、このような「波の状態」もしくは「無限小のもの」は、1個の存在ではない

 以上が、つまりは、エヴェレット解釈における「複数の宇宙」の実態だ。

 ──

 エヴェレット解釈において「複数の宇宙」を考えることは、必ずしも間違いとは言えない。しかしそれを「現実に存在する宇宙」と見なしたところに、解釈の誤りがある。(「可能性」を「実在」と見なすような誤り。)
 「複数の宇宙」を考えることは、それはそれでいいのだが、「複数の宇宙」というものは、「現実に存在する宇宙」ではなくて、「無限小の可能性の宇宙」であり、「想定された宇宙」であるにすぎない。それは現実に存在するものではなくて、エネルギー分布の形で仮想的に想定されているだけだ。
 つまり、「複数の宇宙」を考えることは妥当なのだが、それを「まさに存在する」と見なすところに、エヴェレット解釈の根源的な錯覚がある。

 ──

 量子コンピュータでも、同様だ。
 量子コンピュータにおいては、複数の計算過程がある。ものすごく多様な数の過程が。……しかしそれは、「複数の宇宙が存在する」(それぞれの宇宙で計算される)という形でなされるのではない。むしろ、「複数の可能性としての宇宙で計算される」というふうに見なした方がいい。
 ただし、より正確には、「複数の宇宙」というような発想そのものを捨てる方が正確だ。もともと「複数の宇宙」というものはないのだから。
 たとえば、二重スリット実験では、「複数の宇宙」というものはない。単に波と粒子があるだけだ。量子コンピュータでも同様だ。単に波と粒子があるだけだ。そして、波の方は、「無数の粒子の可能性」というふうに解釈される。それだけのことだ。
 つまり、量子コンピュータの本質は、「電子を粒子ではなく波として扱う」ということだ。……これが物理学的に正確な表現となる。
 そして、「複数の宇宙で別々に計算する」というのは、SF的な文学的比喩にすぎない。ただの比喩を現実と間違えてはならない。
 「波というものは複数の宇宙のようなものだ」
 という比喩ならば(文学的に)成立するだろうが、それを聞いた人が、
 「波が存在するから、複数の宇宙もまさしく存在するんだな」
 と勘違いすることがある。普通の人はそんな勘違いをしないが、狂人は勘違いをする。……それがまあ、エヴェレット解釈という発想だ。

( ※ 似た例で言おう。「彼女はバラのように美しい」という比喩がある。これは直喩だ。これを隠喩にすると、「彼女はバラだ」となる。そして、これを聞いた人が、「彼女は植物の一種なのだな。千円を払って、買い取って、うちに飾っておこう。ときどき水をやるだけでいいさ」と思うようになる。……これは狂人の発想だ。比喩を比喩でなく、そのままに受け取っているからだ。そして、それと同じことをやるのが、エヴェレット解釈だ。オタク的な狂気。)



 【 参考文献 】
 エヴェレット解釈については、面白い読み物がある。
   古田 彩「多数の宇宙で計算する 常識を揺るがすコンピュータ」
 という文書。( → ダウンロード・ページ の下の方 )

 ※ これは、教科書ではなく、読み物なので、そのつもりで。
   「これを読めば正解がわかる」というものではない。
 ※ 「では、正しくはどう考えるべきか?」……という質問には、
   次項で答える。
 


 【 関連項目 】
  ・ コペンハーゲン解釈
   http://openblog.meblog.biz/article/1367818.html

  ・ 量子コンピュータ
   http://openblog.meblog.biz/article/82459.html
posted by 管理人 at 19:20| Comment(12) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
エヴァレット解釈と超球理論というのはあなたの考えを用いると同じくらい狂人的なのでは?

エヴァレット解釈は観測できない無限の宇宙が存在する

超球理論も観測できない球が宇宙空間を満たしている

エヴァレット解釈も超球理論もそう考えれば論理的に整合性が取れると言っている点では同等だと考えられる
なぜエヴァレット解釈は狂人的で超球理論は狂人的でないのですか?
Posted by カピバラ at 2011年06月10日 18:55
> なぜエヴァレット解釈は狂人的で超球理論は狂人的でないのですか?

 あまりにも簡単なことだと思って示しませんでした。

 観測できるか否かということならば、どちらの理論も同じです。しかし、違いは、そこにはありません。
 どこかの世界に観測できない世界が「独立して存在する」というのであれば、それは否定も肯定もできません。たとえば、4次元宇宙だとか5次元宇宙だとかは、3次元宇宙からは観測できないので、否定も肯定もできません。

 エヴァレット解釈はそうではありません。この世界と結びついた世界が次々と分岐するのです。そのような強い結びつきがありながら、独立した宇宙であるという点で、一種の自己矛盾となっています。

 たとえば、この宇宙とは別に、X星人のいる別次元の宇宙があったとしても、それは否定も肯定もできません。しかしながら、この宇宙とは別に、あなたの分身がいて次々と事象の分岐を起こしているというのは、この宇宙と別の宇宙との間に強い結びつきを得ていて、それが超高速の瞬間伝達を起こしているという点で、妄想と同然です。そのようなことは「想像」では可能ですが、物理的な「現実」としてはありえません。「想像」を「現実」と混同するという点では、狂気的でしょう。

 観測できるか否かということは、もともと論点となっていません。それはいわば、「あっちの理論も、こっちの理論も、自然数を使うという共通点があるから、どっちも同じだ」というのと同様で、ピンぼけの批判です。

 ただし、もしエヴェレット解釈が正しいとしたら、もう一人のあなたが、別のことを主張しているはずです。だから、もう一人のあなたに、反論したらいかがですか?
 はたから見れば、そんなことをしているあなたは狂人そのものですが、あなたにとってはそれは狂気的ではないでしょう。というわけで、もう一人のあなたに、反論したらいかがですか? 
 
 p.s.
 文中のリンクが切れていました。すみません。 m(_ _)m
 リンクを付け直しました。
Posted by 管理人 at 2011年06月10日 19:21
私の結論はエヴェレット解釈も超球理論もどちらか一方だけが正しいと言えないということです。

結局その考え方を証明できる科学的な根拠がとれない(観測できない)ので、宇宙が無限に多岐するという考え方を肯定も否定もできないと思い、また同様に宇宙が無数の球で満たされているという考え方も肯定も否定もできないと思っているのです。つまりどちらの考え方が誤っているということも言うことができないと思うのです。
そのような意味で”観測できるか否か”が重要だと考えました。

その上で疑問に思ったことと反論をさせていただきます。

>この世界と結びついた世界が次々と分岐するのです。そのような強い結びつきがありながら、独立した宇宙であるという点で、一種の自己矛盾となっています。

この世界と結びついたといっても分岐した時点で相互干渉のできない独立した世界(この世界と結びついていない)となると考えれば別に矛盾は生じていないはずです。

>この宇宙と別の宇宙との間に強い結びつきを得ていて、それが超高速の瞬間伝達を起こしているという点で、妄想と同然です。そのようなことは「想像」では可能ですが、物理的な「現実」としてはありえません。

物理的な現実として”あり得ない”というのはどのような意味ですか?

宇宙が刻一刻と分岐するような性質をもっているとしたら「二重スリット実験」の量子の振る舞いに合理的な説明ができるというものが、なぜ物理的な現実としてあり得ないと言えるのですか?

結局観測できないものに関してその考えが間違っているといえないのではないでしょうか?

超球理論は観測できない領域に”そこに球がつまっていてそれが波を伝播させている”とエヴェレット解釈では”刻一刻と宇宙が分岐するので波のような性質に見える”という風に解釈をした。

超球理論でも宇宙に球がつまっているというのが宇宙の性質として話をしているならば、エヴェレット解釈の刻一刻と宇宙が分岐するというのが宇宙の性質というものと全く同等である。よってエヴェレット解釈を否定することはできないと思うのですが、どうでしょう?

P.S.
エヴァレット解釈ではなくエヴェレット解釈でした...失礼しましたorz...
Posted by カピバラ at 2011年06月13日 20:35
論理的に否定するか否かということなら、エヴェレット解釈は論理的に否定できませんよ。つまり「矛盾がある」とは言えません。
 
 私が述べているのは「エヴェレット解釈には矛盾がある」ということではなくて、「狂人の妄想と同様だ」ということです。
 これに対して「論理的に否定できないという点では同様だ」と述べるのは、あまりにも論点が狂っています。それは私の主張を否定しているのではなくて、肯定しているだけです。

 この宇宙が超球で埋まっているというのは、一つの仮説です。その仮説によって現実の事象がうまく説明できるのであれば、その仮説を取ればいい、というだけのこと。その仮説が正しいかどうかは、その仮説自体からは決められず、演繹された結論から決められます。

 どうも、「仮説と演繹」という、科学主義そのものを理解していないようですね。基本から学び直してください。
 
 なお、エヴェレット解釈は、「仮説と演繹」という方針の外にあります。よその宇宙があるということは、この宇宙のなかでは観測できません。正しいかどうかは検証不可能です。
 一方、超球理論が正しいか否かは、検証可能であるはずです。何らかの実験が可能であると思えます。あくまでこの宇宙における理論ですから。

 ──

 ともあれ、あなたの言い分について、別の宇宙のあなたは逆のことを言っているはずですから、別の宇宙のあなたに文句を言えば? 

> 宇宙が刻一刻と分岐するような性質をもっているとしたら
 
 その濃度はどれだけですか? 連続濃度のべき集合は、連続濃度には収まらないので、そのような宇宙は、この宇宙と同等の数学空間には収まりません。連続濃度のべき集合の濃度をもつ宇宙が必要となります。そのための表現ができる数学を構築してから、その説を主張してください。
Posted by 管理人 at 2011年06月13日 20:47
> 宇宙が刻一刻と分岐するような性質をもっている

 それはエヴェレット解釈じゃないですよ。
 エヴェレット解釈というのは、量子の一つ一つが変動するたびに、宇宙全体が分岐する、という解釈です。宇宙におけるミクロ的なたった一つの量子が、宇宙全体に影響を及ぼして、宇宙全体を分岐させてしまう、という神理論です。(量子の一つ一つが神となって、新たに宇宙を創造する、という神理論。)
Posted by 管理人 at 2011年06月13日 22:52
なお、何か勘違いしているようですが、私は「超球理論は正しい」と述べているのではありません。「超球理論は量子力学を成立させる科学的な仮説だ」と述べているのです。
 そして、量子力学を背立させる科学的な仮説は、現時点では、超球理論以外にはありません。
 たとえば、二重スリットやシュレーディンガーの猫を科学的に説明する説は、他には一つもありません。
 ちなみに、コペンハーゲン解釈は、「観測とは何か」という定義が曖昧で非科学的なので、科学的な理論ではありません。もう少し説明すると、「観測」という言葉が意味するのは、「いつ・誰が・どこで・どうやって・何を見て」という点が、あまりにも曖昧です。たとえば、複数の人が複数の時点で複数の場所で観測したとき、観測とはどの観測のことを言うのか? まったく不明です。また、人間の意識も関わります。
 超球理論では、このような非科学性はありません。その意味で「科学的な仮説」です。それが私の主張です。正しいかどうかを述べているのではなく、科学的であるか否かを述べています。
Posted by 管理人 at 2011年06月14日 01:54
>、エヴェレット解釈は、「仮説と演繹」という方針の外にあります。よその宇宙があるということは、この宇宙のなかでは観測できません。正しいかどうかは検証不可能です。 一方、超球理論が正しいか否かは、検証可能であるはずです。

なるほど確かに検証可能性が超球理論にはあり、エヴェレット解釈にはないので、超球理論の方が科学的であるということですか

納得しました。

別の宇宙の自分は私の心の中だけにしまっておきます^^
Posted by カピバラ at 2011年06月14日 20:54
エヴェレットの多世界解釈
ウイキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A4%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A7%A3%E9%87%88
>ちなみに観測が起きたらイベントが分岐し、2つの世界が現れおのおのの道を進むというような解釈をされていることが非常に多いが、これはオリジナルのアイディアとはかけ離れた解釈である。

管理人様の言う複数の世界が無限に分岐するという考え方は間違った解釈だと思いますよ。
Posted by まだら at 2011年06月19日 22:34
私の解釈が間違っているんじゃなくて、俗流の解釈が間違っているんです。で、間違っている即流の解釈を「間違っている」と批判しているんですから、私は別に間違っているわけじゃない。
( ※ 「本来の」エヴェレット解釈の批判にはなっていないので、それへの批判としては無効だ、という説ならば、甘んじて受けます。) 

 わかりやすく書くと、次の二通りがあると思えばいい。
  ・ 元祖エヴェレット解釈
  ・ 俗流エヴェレット解釈

 本項は、俗流への批判です。それが元祖への批判になっていない、というのならば、甘んじて受けます。
 しかし、「元祖の批判としては間違った批判だ」というのは、誤読でしょう。元祖への批判はしていないんですから。

 ──

 元祖への批判は、コメント欄に説明してある話を読めばわかります。「矛盾」ではなくて、「科学になっていない」ということです。「間違い」とは言えないが、「真実だ」という保証がまったくない。(その点ではコペンハーゲン解釈も同様だが。)
Posted by 管理人 at 2011年06月19日 23:00
俗流への批判をするのは構いませんが、「狂人の発想である」と言ってしまうのはどうなんでしょうか。

超球理論を誤読した上で「狂人の発想である」と言っている人がいたら管理人様はどのような感想を持つのか興味があります。

「あくまでも超球理論を誤読している連中を批判しているだけだ」と言われて納得するのでしょうか。

それにコペンハーゲン解釈に対して「科学になっていない」というのは批判になっていないでしょう。
科学になりうるような説を創ることができないというのが量子力学の問題点だとされているのだから。

自分の説は科学になりうると主張するのは構いませんけどね。

「観察できないものをどう扱うか」という問題が科学的ではないのは当たり前のことです。
Posted by まだら at 2011年06月21日 16:58
批判は承りました。

 ただ、口が悪いのは本サイトの特徴なので、ちょっとは我慢してください。お上品な人は、本サイトには向いていません。  (^^);

 それでも、「特定個人への罵倒はしない」という方針はあります。「こういう思想を持つ人」というふうに一般化した上で悪口を言うことはありますが、それは、思想への悪口です。個人への悪口とは違うので、その点は理解してください。

 ──

 なお、「自分とは別にもう一人の自分がいる」と思うのは、実際、狂人の症状ですよ。それは別に悪口というわけではありません。超球理論はそんなことは主張していません。
 超球理論が述べているのは、あくまでミクロレベルのことであり、マクロレベルのことには言及しません。その点が、コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈とは決定的に異なるところです。狂人のようなことは、主張したくてもできないのです。「狂人になれない」「狂人になる能力がない弱い理論だ」と思ってくださっても結構です。
Posted by 管理人 at 2011年06月21日 19:08
狂人という表現を使っていること自体は別に気にしていないですよ。

コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈は科学ではなく哲学だと言っているだけです。「観察問題」への解答ということですね。

超球理論は、観察問題は存在しないという解答になっているのではないかと思います。
Posted by まだら at 2011年06月23日 07:50
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
  ※ コメントが掲載されるまで、時間がかかることがあります。

過去ログ