2009年01月10日

◆ 量子論の根源問題

 量子論には、根源的な問題がある。それは、「質点の量子論」と「場の量子論」の対立だ。
 現代の量子論では、思想的には「質点の量子論」なのだが、理論的には「場の量子論」なのだ。思想と理論が乖離している。 ──

 量子論には、根本的な問題がある。ただし、たいていの人は、それを「見て見ぬフリ」をする。なぜかというと、問題を直視すると、矛盾がさらけだされてしまうからだ。そこで、「体系が矛盾している」という真実から目を逸らすために、「見て見ぬフリ」をするのである。
 現代の量子論には、そういう根源的な大問題がある。そのことを、以下で説明しよう。
 
 まずは、全体の流れを示そう。
 この問題の本質は、「粒子と波」ということにある。そして、ここで量子論は、「量子は、粒子と波の双方の性質をもつ」というふうに語る。それで説明したつもりになっている。しかし、それでは全然、説明になっていないのだ。そういう説明は、ただの詭弁にすぎない。その詭弁のインチキさを、以下ではあばく。
 これが全体の流れだ。

 ──

 まずは、初心者向けに、量子論の歴史の流れを示そう。

 1. 「光は、粒子か波か」という問題があった。
 2. 粒子説と波動説があって、たがいに対立した。
 3. 量子論が、「光は、粒子でもあり、波でもある」と結論した。
 4. 量子については「粒子説」が主流となった。
    (「粒子説」の量子は、体積がゼロの質点。)
 5. 量子の解釈については、コペンハーゲン解釈が主流となった。
    (そこでも「粒子説」が思想基盤となる。)
 6. 「場の量子論」という発想が別に生じた。
    (空間を量子化すると、そこから粒子を発生させることが可能)
 7. 「場の量子論」において粒子説を取ると、「発散の困難」が生じた。
    (体積がゼロだとすると、ある物理量が無限大になる。)
 8. これを回避するために「くりこみ理論」が出現した。
    (体積がゼロの質点であることを否定することに相当する。)
 9. 「場の量子論」が現代物理学の主流となった。

 ──

 まとめて言おう。
 最後の 9.からわかるとおり、現代の量子論とは、「場の量子論」のことである。「標準理論」と呼ばれているのもそうだし、「ゲージ理論」(ゲージ場の理論)と呼ばれているのもそうだし、「ヒッグス機構」(ヒッグス場の理論)もそうだ。あれもこれも、現代の量子論で「理論」となるものは、みんな「場の理論」なのだ。
 ところが、その理論の基盤となる思想基盤は、「場の理論」ではなく、「質点の理論」なのだ。たとえば、「コペンハーゲン解釈」であれ、「多世界解釈」であれ、量子というものを「粒子」(質点)と見なしている。

 とすれば、量子論には、根源的な不整合さがある。それは、
 「木に竹を接ぐ」

 という不整合さだ。思想基盤は「木」なのに、その上に立つ理論は「竹」なのである。これでは全然、整合性がない。「木」ならば「木」で統一するべきだし、「竹」ならば「竹」で統一するべきだ。なのに、「木に竹を接ぐ」ということでは、根本的に不整合だ。

 ──

 実は、このことは、次のことに相当する。
 「粒子説(木)の上に、波動説(竹)を接ぐ」

 この不整合さを回避するために、次の解釈を取る。
 「量子は、粒子でも波でもある。(双方の性質をもつ)」

 このことで、不整合さを回避したつもりになっている。「もともと双方の性質があるのだから、不整合ではない」というふうに。いわば、「シマウマは白でも黒でもあるのだから、白または黒で統一されていなくても、問題ない」というふうに。
 この解釈は、実は、シマウマのような解釈とは違う。次の解釈だ。
 「場合に応じて、どちらかを切り替える」

 つまり、場合に応じて、「粒子説」と「波動説」を切り替えて、どちらか一方を取るわけだ。しかし、「場合に応じて、どちらかを切り替える」というのは、ただのご都合主義にすぎない。(そのことは後で示す。)
 このようなご都合主義の解釈は、ただの詭弁であるにすぎない。「粒子でも波でもある」というのは、問題の露見を回避するための、インチキ論理にすぎないのだ。
 そのことを、以下では詳しく指摘しよう。

( ※ このあとが、いよいよ、肝心の話となる。ここまでは、前フリ。歴史的説明。)

 ──

 いよいよ問題をはっきりと示すことにしよう。
 「量子は、粒子でも波でもある。(双方の性質をもつ)」

 という説明は、ただの詭弁にすぎない。そのことは、次の (1)(2) から、明らかになる。

 (1) 実験事実

 実験事実では、
 「量子は、粒子でも波でもある。(双方の性質をもつ)」
 ということは、ただの一度として観測されていない。観測されているのは、次のうちの一方だけだ。(そのときどきで、どちらかのみ。)
 「量子は、粒子である」
 「量子は、波である」
 このうちの一方だけだ。あるときは前者。あるときは後者。いずれにせよ、片方だけであって、双方ではない。その意味で、「双方の性質をもつ」という主張は、まったく成立しない。
( ※ 比喩的に言おう。「人間は、男でもあり女でもある」つまり「人間は男と女の双方の性質をもつ」という命題は、原則として成立しない。しかしながら、「人間は男である」および「人間は女である」という命題は、どちらか片方ならば成立する。とはいえ、そこから得られる結論は、「人間は、男または女である」ということであって、「人間は、男であり女である」ということではない。……こういう詭弁を、現代量子論はなしている。インチキ論理。)

 (2) 真空の意味

 真空とは何か? これに対しては、次の二通りの解釈がある。
  ・ 粒子説   …… 真空は「何もない空間」である。
  ・ 場の量子論 …… 真空は「場」である。そこには「何か」がある。

 通常は、この二つの説を、勝手に使い分けている。しかしながら、そのようなことは、論理的に許されない。なぜなら、次の矛盾が生じるからだ。
  ・ 粒子説    …… 真空には、何もない
  ・ 場の量子論 …… 真空には、何かがある

 この両者が同時に成立することは、論理的にありえない。「何もない」と「何かがある」という二つの説は、同時に成立しない。どちらか一方だけだ。
 しかも、「場合に応じて、どちらかを切り替える」というご都合主義は、ここでは成立しない。それは単に「粒子説か、波動説か」という学説の切り替えであるだけでなく、空間に「何もないか、何かが満たされているか」という切り替えであるからだ。つまり、
 「あるときには何かもないが、あるときには何かが満たされている」
 というような切り替えは不可能なのだ。つまり、「粒子説か、波動説か」という学説の切り替えは、「この宇宙の構造が根本的に二通りの原理で切り替えられる」ということだ。そんな馬鹿げたことがあるはずがない。たとえば、次のようなことはない。
 「粒子説で考えるときには、この宇宙は空っぽだが、場の量子論で考えるときには、この宇宙は何かで満たされている。人間の思考方法にしたがって、宇宙の基本原理が切り替えられる」
 このようなことは、ありえない。しかしながら、現代の量子論は、このような切り替えを前提としている。
 そういうメチャクチャな詭弁が、現代の量子論にはあるのだ。そのインチキさを、はっきりと理解しよう。



 【 補説 】

 以上の話を読むと、「現代の量子論は間違っている」というふうに主張しているように思えるかもしれない。そして「こいつはトンデモだ!」と非難する人が出てくるかもしれない。(ネットにはそういうゴミ連中が多い。)……そこで、彼らの誤読を教えておこう。 
 本項では、「現代の量子論は間違っている」とは述べていない。「現代の量子論には問題がある」と述べているだけだ。
 では、どこが問題か? 理論が問題か? いや、「理論そのものは問題ない」というのが私の立場だ。つまり、「場の量子論」に基づく理論は、何一つ間違っていない。
 間違っているのは、理論ではなく、その基盤となる思想の方だ。現代の量子論は、「場の量子論」に基づく。ただし、「場の量子論」は、とても難解だ。たいていの人は、その難解なものを理解できない。平易な「質点の量子論」ばかりを学ぶ。そして、その思想基盤を取って、「量子は粒子だ」と考えて、「量子論は質点の量子論で構成される」と思い込む。その上で、「コペンハーゲン解釈」などを信じる。
 しかし、それは現代量子論をろくに知らない連中のやることだ。現代量子論は、「場の量子論」に基づく。とすれば、平易な「質点の量子論」なんてものは、捨ててしまってもいいのだ。(ま、初歩のお勉強には役立つが。)
 当然ながら、「質点の量子論」の思想原理に基づく「コペンハーゲン解釈」も捨ててしまっていい。というか、「コペンハーゲン解釈」は、完全に間違っているのだから、捨てる必要がある。それは「場の量子論」と不整合だからだ。
 
 では、どうすればいいか? 次のようにすればいい。
 「質点の量子論(粒子説)に基づくモデルを捨てる。かわりに、場の量子論に基づくモデルを取る」


 要するに、こうだ。
 「理論は、場の量子論なのだから、モデルもまた、場の量子論に従うモデルを取る」


 ここまで理解すれば、先の問題も明らかになるだろう。「木に竹を接ぐ」(粒子説の思想基盤の上に、場の量子論を構築する)ということが、現代量子論の問題だった。そこで、新たになすべきことは、「木に木を接ぐ」(粒子説の思想基盤の上に、粒子説を構築する)ということではなくて、「竹に竹を接ぐ」(場の量子論の思想基盤の上に、場の量子論を構築する)ということなのだ。
 こういう形で、「場の量子論」だけに統一することで、不整合さはなくなる。
           
    理 論    竹   竹 (= 場の量子論)
           ┃   ┃
              
   思想基盤   木   竹

 ──

 ただし、言うは易く、行なうは難し。「場の量子論の思想基盤」つまり「場の量子論のモデル」というものは、これまで存在しなかった。そういうものを、取りたくても、取れなかったのだ。(選択肢のなかに正解はもともとなかった、ということ。正解を取りたくても取れない。)
 ただし、このたび新たに、「場の量子論の思想基盤」つまり「場の量子論のモデル」というものが出現した。
 この件は、下記で述べたとおり。
   → 場の量子論とは
   → 超球理論
   → シュレーディンガーの猫の核心
    ( ※ 粒子説の「重ね合わせ」という認識が、いかにデタラメであるかを示す。)

   → 「コペンハーゲン解釈の破綻」 [ 付記 3]
    ( ※ コペンハーゲン解釈の難点を示す。)


 [ 注記 ]
 本項は、「現代量子論は間違っている」と述べているわけではない。問題点をいったん指摘してから、問題点を解決しているわけだ。問題の提示と解決。それが本項の趣旨である。誤読しないでほしい。
( ※ ネットにはやたらと誤読する連中が多いが。)
posted by 管理人 at 22:47| Comment(4) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
schrodinger方程式では

方程式を立てるときは、粒子の運動として扱い

解は波動(物質場?)として解釈します。

何か、矛盾してますよね。
Posted by johannes chrysosotomos at 2009年01月07日 09:11
なるほど。いい着眼ですね。念のために説明しておくと……

 たしかに、「方程式を立てるときは、粒子の運動として扱い」です。
 ただ、その後に「量子化」という操作をなします。そのとき「粒子の波動化」がなされることになります。
 だから、理論としてみる限りは、問題ない。「粒子の波動化」によって、粒子でなく波動として認識することになるので。
 ただ、問題は、「粒子の波動化」(量子化)をしているのに、その本質を忘れて、「ずっと粒子のままだ」と思いつづけていることなんですよね。

 比喩で言うと、「性転換」した男性を見ても、「性転換した」という事実を忘れて、「男性だ」と思いつづけているようなもの。……そういう錯覚があるわけだ。
Posted by 管理人 at 2009年01月07日 09:44
「木に竹を接ぐ」の図式(茶色と緑)
 が、MS-IE では正常に表示されなかったので、書き改めました。

  タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2009年01月07日 23:35
今の量子論は言葉だけで粒子と波動の二重性をいっています。それは先生の言うとおりです。

以下のポアンカレのいうE=mc^2の発展系でいかがですか?

粒子の質量と波動の抵抗の関係 は、

光速度c^2=粒子速度p^2+波動速度w^2において、
地表での光子の運動量は、(p0)=(m0)(w0)
絶対屈折率は、n=c/w
その全エネルギーは、E=n(p0)c=(p0)/w・c^2=mc^2
抵抗は、m=(p0)/w=(m0)(w0)/w
地表の波動速度w=(w0)なら、m=(p0)/(w0)=(m0)
その抵抗が、粒子の質量mであり運動量mvである。
但し、p^2=v^2+重力ポテンシャルΦなので、
光子には重心移動速度vがなくその粒子運動量mvがない。

だから光速度c相関で運動量と質量の関係はp=mwで相関させなければ
質量のない光子と質量のあるその他物質というように矛盾が生じる。

光の速さは、c=1/√(ε0・μ0)、光波速度は、w=νλ=1/√(ε・μ)
物質中の波動速度w=√(c^2−重力ポテンシャルΦ)
これは真空中でも物質中もスカスカの真空なので同じですね。

絶対屈折率は、n=c/w、光子のエネルギーはE=pc=mwcだから
量子の全エネルギーは、E=npc=(c/w)(mwc)=mc^2
以上からエネルギーと質量は光速度一定にみると単位の違いという結論になる。
Posted by ひゃま at 2012年09月17日 03:49
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