2008年11月19日

◆ 著作権と引用

 「著作権とは何か」について、ネット上では誤解が流布している。そのせいで、正当な引用さえできなくなることが多い。困ったことだ。そこで、基本的な点を指摘しておこう。 ──

 (1) 思想または感情

 著作物とは何か? これは著作権法で規定されている。( → 出典
 「思想又は感情を創作的に表現したものであって、 文芸、学術、美術又は音楽 の範囲に属するもの」
 
 これが著作権だ。ただし、近年では、広く解釈されて、コンピュータのプログラムという実用品までが含まれるようになっている。(拡大解釈だ。当初はどうであるかは疑問だったが。)

 (2) 事実情報

 一方、著作権法に含まれないものは、明白である。
 「思想又は感情が皆無であるもの」
 「創作的に表現していないもの」


 具体的に言えば、次のものだ。
 「ただの事実の情報」
 「ただの『てにをは』のような単純な言葉遣い」

 これらは、著作権法では保護されない。誰でも簡単に同じ結果を得られるからだ。
 
 具体的に言えば、次のようなものだ。これらは、ただの事実である限りは、どこかから勝手に引用しても、「ただの事実」と見なされ、著作権法に違反しない。
  ・ マスコミ報道されたスポーツの「試合結果」や「選手成績」
  ・ 公開された「製品情報」 (カタログスペック)
  ・ 公開された「タレントのプロフィール」 (生年月日等)


 こんな情報は、ただの事実情報である。誰が知ろうが、同じ事実を得ることができる。逆に、それとは異なる情報を書けば、「嘘」となるので、許されない。
 だから、これらの事実情報は、いくらでも引用のし放題なのだ。たとえば、朝日新聞がA選手の成績を「打率 .303」と書いたとしよう。それを朝日新聞に無断で引用・転載しても、まったく構わない。その事実は朝日新聞の創作した思想や感情ではないからだ。ただの事実だからだ。(逆に、朝日新聞が勝手に「打率 .403」と書いたら、それは「虚報」として非難される。)

 ──

 以上を読んで、読者は疑問に思うかもしれない。
 「何だって、そんな当り前のことを言うんだ」
 と。なるほど。確かに、法的には当り前だ。しかしながら、ネット上では、このことが通用しない。むしろ、多くの人は、次のように思い込んでいる。
 「たとえ事実情報でも、その事実情報を記述した人に、著作権がある。だから、その事実情報を勝手に転載してはならない。転載するならば、まったく別の文章に書き換えるべきだ」

 しかし、このような発想は成立しない。
 第1に、事実そのものが同じであれば、たとえ書き換えても、内容は実質的に同じだ。だから、同じ事実についての書き換えは意味がない。
 第2に、「てにをは」や「文末表現」や「語順」というようなものをいくらかいじくっても、情報内容が同じであれば、著作権上は同等のものと見なされるから、少しぐらいいじっても無意味なのだ。

 ここのことを理解していない(勘違いしている)人があまりにも多い。
 その結果、どうなるか? 次の大問題が起こる。

 「 Wikipedia において、ちゃんと典拠のある情報が記述されると、『著作権法違反』と見なされて、項目が全削除される」


 馬鹿げたことだが、事実だ。
 たとえば、あるタレントについて、そのタレントのプロフィールを書く。
  「1980年生まれ、東京都出身」
 という情報を書いて、その出典として、そのタレントの公式サイトを示す。
  「外部リンク  → 公式サイト (URL:******* ) 
 というふうに示す。
 すると、その後、苦情が来る。
 「そのタレントの公式サイトから、無断引用がなされました。これは著作権法違反です」
 と。そういう報告がなされたせいで、その項目が全削除となる。つまり、最もしっかりした典拠があるせいで、記述できなくなる。
( ※ その一方で、誰かの勝手な憶測ならば、記述できる。ただし、それでは信頼性が皆無だ。)

 ──

 今の Wikipedia では、こういう馬鹿げたことがしばしば起こっている。「著作権とは何か」を理解していないのだ。
 「事実をそのまま掲載するから著作権法違反だ」(虚構ならばOK)
 「ちゃんとした典拠があるから著作権法違反だ」(憶測ならばOK)
 「字句の修正をしていないから著作権法違反だ」(字句修正でOK)
 というふうな。あまりにも馬鹿げている。著作権とは何かを理解しない人々が、あまりにも多すぎる。

  ────────────

 では、正しくはどうすればいいか? 私なりに示そう。

 第1に、絶対的に必要なのは、引用したならば必ず出典を示すことだ。このことは、事実の引用であっても、必要だ。(「出典」というよりは「典拠」の形になることも多いが。)

 第2に、勝手に文章を書き換えてはならない、ということだ。(「著作人格権」)……ただし、読みやすくするために、若干の手直しをすることは許容される。(その旨の記述が必要だが。)

 第3に、ただの丸写しだけではダメだ。まわりに何らかの「批評」が加わっている必要がある。つまり、批評が主であり、引用が従であるべきだ。ろくにコメントしないときには、ただの転載であるが、そういうのは許されない。そういう「転載」をしたいときには、単にリンクだけを付ければいい。

 他にも、注意すべき点はいくらかあるだろうが、とりあえずは、上の三点を重視すればいい。ここでは基本だけを述べた。

 なお、他に留意するべき点として、次のことがある。
 「その情報を書くことで、誰かに損得があるか」


 これは倫理の問題だが、倫理を考えると、法的に間違わずに済む。「法的にどうか否か」にとらわれると、かえって倫理を見失って、正解を見失いがちだ。
 たとえば、「法的には合法だから、相手に損をさせてもいい」というような発想をするべきではない。そういう法的解釈は、たいていは間違いである。相手に損をさせるようなことは、いくら合法に見えても、たいていは違法である。
 逆に、「法的に違法だから、相手の利益になることをやってはいけない」というふうに思うべきでもない。ちょっとぐらい違法に思えても、相手の利益になることであれば、違法とは見なされないのが普通だ。
 たとえば、あるタレントのプロフィールを掲載することは、「著作権法違反」と見なせそうに思えるが、実際には、当のタレントにとって宣伝効果になるのだし、当のタレントの利益となる。だから、それが違法に見えても、実は違法ではないのだ。(違法性がない、ということ。)
 逆に、「転載は違法だから、そのタレントの項目を全削除してしまえ」というのは、合法的な善行をしているように見えて、実は当のタレントに大迷惑をかけていることになる。おせっかいというべきか。たとえ合法でも、あまりに非倫理的だ。

 ──

 世の中には、「自分は正しいことをしている」と思いながら、他人に大迷惑をかけている連中が、たくさんいる。そういう連中は、法律を頑なに遵守しよう(させよう)として、かえって社会や他人に損害をもたらしているのだ。
 独りよがりの思い込みによる「善行」ほど、迷惑なものはない。それ自体がほとんど犯罪的だ、とすら言える。そして、そういうことが、ネット上でははびこっている。「自分は善人だ」と思う人々によって。



 ※ 以下、同じような馬鹿げた発想(奇妙な善意)を示す。

 [ 付記 ]
 似た発想に「レジ袋有料化」「レジ袋廃止」というのがある。善をしているつもりで、かえって石油浪費を増やすことになる。(ゴミ袋の方が大量に石油を食うから。)
 「地球温暖化阻止」というのも、似たようなところがある。善をしているつもりで、かえって環境破壊をもたらす面がある。(例。石油消費を減らすために、バイオエネルギーを推進して、アマゾンの開墾を推進する。)
 「景気回復策」というのも同様で、馬鹿げた方法を取ることが多い。典型的なのは「ガソリン税減税」(民主党)とか、「高速道路の週末無料化」(自民党)とかだ。まったく、何考えているんだか。どうせなら、「石油浪費推進キャンペーン」とでも銘打って、「用もないのに無駄に自動車を走らせましょう」と大々的にに宣伝すればいいのにね。
 例。「ハイブリッド車を無駄にいっぱい走らせれば、こんなにガソリンを節約できます。ハイブリッド車をどんどん無駄に走らせましょう。」というキャンペーン。   (^^);

 馬鹿の同類はたくさんいるものだ。彼らは「自分は正しいことをしている」と信じているのが共通点。



 [ 補足 ]
 著作物の引用について、著作権問題の実例を示す。
 ( ※ 細かい話です。特に読む必要はありません。)

 [ 実例1 ]
 実例を示す。私のサイトで言うと、次のページが最も「引用」の度合いが高い。
  → http://google-and.meblog.biz/article/1307283.html
 ここでは、読売の記事の抜粋ばかりがあって、自分の意見がほとんどない。ちょっと考えると、「著作権法違反」っぽい。
 ただし、次の5点から、問題はないだろう。
  ・ もともと事実情報である。思想などではない。
  ・ もともと他者によって指摘済みの事実が多い。
   (特にそのうちの一部は私がすでに指摘したことだ。)
  ・ 全面転載ではなく、一部抜粋のみ。
  ・ 私のページは営利目的ではない。
  ・ 「詳しくは上記の読売サイトへ」という誘導を最後に示す。
   つまり、読売のページを読む読者が増える。


 特に、最後の点が重要だ。このことは、法的には何も意味しない。ただし実質的に、読売の利益が増える。損するどころか、得する。そのことで、「可罰性」が稀薄になり、「違法性」がなくなるのだ。
 法律の世界では、形式よりも実質が大事となる。つまり、「常識」が大切なのだ。法律の表面的な文句ばかりにとらわれて、「常識」の欠落した理系馬鹿が多いので、注意しよう。
 「意味よりも形式こそが大切だ」
 というのが成立するのは、数学だけだ。そんな原理を現実世界に適用しようとするのは、常識知らずの理系馬鹿と見なされる。人間性の欠落。いや、社会性の欠落。(ネット・オタクに多い。)

 [ 実例2 ]
 トヨタとホンダの社内情報を、私のホームページで引用する、という例がある。
  → http://google-and.meblog.biz/article/1309348.html
 これは、相手にとって、不利益である。ゆえに、著作権については、徹底的に配慮する必要がある。ほんのちょっとでも、著作権法違反であってはならない。
 では、この例ではどうか? その点は、大丈夫。これは「公開情報」だからだ。本人が勝手に「公開」にしてしまっているからだ。
 従って、「出典」を明らかにすれば、問題ない。この点では、「トヨタ」「ソニー」という出典を明らかにしている。とはいえ、あまり明らかにすると、今度はかえって本人に迷惑がかかる。だから、出典を開かしすぎるのも、問題だ。
 この例では、「社内情報の漏洩の事例」という公共的な目的がある。ここで情報を隠してしまっては、実例のサンプルとはならない。隠すことがかえって、社会の利益に反する。
 だから、この例では、プライバシー情報に配慮することで、公開は可能となるだろう。
( ※ また、そもそも、「思想」などはなく、ただの事実情報だから、もともと「著作権法」の保護の対象とはならない。どちらかと言えば、「営業妨害」などの対象となる。とはいえ、それも無理だろう。自分で勝手に公開してしまっているからだ。)

 ともあれ、この例では「公共の利益が目的であって、私自身の利益が目的ではない」という点に注意。仮に、そうでなければ、犯罪性はかなり高まるだろう。たとえば、Google カレンダーから社内情報をたくさん探り出して、それを外部に高額で販売する、というような業者が現れたとすれば、それはあまりにも悪質だから、処罰されるだろう。
 形式的に何をするかが問題ではなくて、そのこと自体の常識的な善悪が問題となる。……この点、はっきりと理解しておこう。物事を形式だけで判断してはならない。




 [ 余談 ]
 本項について、「あまり役立つことが書いてないな」と不満に思う人は、次のサイトを読んでください。たぶん、ご希望の話が見つかります。
  → http://staff.aist.go.jp/toru-nakata/sotsuron.html
    「東大で学んだ卒業論文の書き方」

 ※ どのくらい役立つか、という不満ないし注文は付けないこと。
   無料なんですから。   (^^);
posted by 管理人 at 18:03 | Comment(0) | 一般(雑学)1 | 更新情報をチェックする
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