2008年10月17日

◆ アキレスと亀 (パラドックス)

 「アキレスと亀」というギリシア時代のパラドックスがある。これについて解説しよう。 ──

 その趣旨は、次の通り。
 亀がゆっくり歩いている。アキレスがその後を追いかける。アキレスの方が亀よりも高速だから、いつかはアキレスが亀に追いつくはずだ。 ……(*
 しかし、論理的には、アキレスは亀に追いつけないはずだ。なぜなら、次のようになるからだ。
  1.アキレスが亀をめざして1歩進むと、その間に亀は少し進む。
  2.アキレスが亀をめざしてさらに1歩進むと、その間に亀はまた少し進む。
  3.アキレスが亀をめざしてさらに1歩進むと、その間に亀はまた少し進む。
   :
   :

 こういうことが無限回、繰り返される。1回でも追いつけない。2回でも追いつけない。n回でも追いつけない。無限に続けても追いつけない。つまり、いつまでたっても、アキレスは亀に追いつけない。
 このことは、「アキレスが亀に追いつけるはずだ」ということ (*)に矛盾する。
 矛盾の発生。つまり、パラドックスだ。

( → 図による説明 のページ

 ──

 このことは通常、次のように説明される。
 「数列の収束を無限回繰り返せば、いつかは収束する。ゆえに、アキレスは亀に追いつけるはずだ。下図参照」

   ←                    ←←
   └┴─┴───┴────────┘


 しかし、この説明は、数学的に間違いである。
 数列の「収束」というのは、「極限値に近づく」ということであり、「極限値になる」ということではない。
 例として、無理数の「ルート2」を考える。有理数の数列(コーシー列)を取ると、この数列は無理数の「ルート2」にいくらでも近づく。つまり、収束する。しかし、だからといって、数列がいつか「ルート2」に届くことはない。たとえ無限回を経ても、「ルート2」に届くことはない。つまり、「いつか必ず到達する」ということはない。
( ※ 大学で解析学の基礎で学ぶ。常識。)

 ──

 なお、上記の説明では、「正解を知ろう」という立場であり、「パラドックスがどうして生じたのか」を説明していない。
 だから、もともと説明にはなっていないのだ。勝手に一方の見解を出しているだけだ。
 「Aと非Aの両方が成立します。どうしてこうなるのでしょう?」
 という質問に対して、
 「これこれの理由でそういう不思議な説明が起こるのです」
 と説明するかわりに、
 「Aだけが正しいのだ」
 と勝手に主張している。そんなのはもともと説明になっていない。単に「一方の側の論理」であるにすぎない。ギリシア哲学者がその返答を聞いたら、「あんたは問題の意味がわかっていないな。問題を読み直せ」と蹴飛ばしてしまうだろう。

 ──

 では、正解は? それは、次のようなものだ。
 「これこれの理由でそういう不思議な説明が起こるのです。なぜなら、そこには、これこれの詭弁があるからです」
 
 では、「これこれの詭弁」とは? それは、次のことだ。
 「一つの言葉を二つの意味で解釈する」
 たとえば、(灰色を意味するような)一つの言葉を、白と黒の二通りで解釈する。こうすれば、一つの言葉に白と黒の双方がまぎれこむから、必然的に矛盾が発生する。
 こうして、
 「言葉の両義性ゆえに、パラドックス(矛盾)が生じるだけだ」
 と説明すればよい。このとき、ようやく、詭弁が説明されたことになる。

 ──

 このあと、具体的な説明を見ればいい。その説明は、簡単に言えば、下記の通り。

  「いつまでも 到達しない」と言うとき、「いつまでも」という言葉を、次の二通りで解釈する。(両義的解釈)
   ・ 「何回やっても」…… 回数の意味で「無限の回数」
   ・ 「何秒たっても」…… 時間の意味で「無限の時間」

  この二通りの意味で、「いつまでも到達しないか?」と問う。
  ただし、言葉は一つでも、意味は二通り。
   ・ いつまでも 到達しない = 何回やっても 到達しない …… 
   ・ いつまでも 到達しない = 何秒たっても 到達しない …… 

 つまり、「いつまでも到達しない」という言葉には、両義性がある。その両義性ゆえに、真と偽とがどちらも成立するので、パラドックスとなる。

( ※ なお、回数の方は、思考の世界のことであり、時間の方は、現実の世界のことである。現実の世界では、ある程度の時間がたてば、アキレスは亀に追いつく。しかし、思考の世界では、思考を何回繰り返しても、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。)
  
 ──

 まとめ。

 以上のことをまとめると、次のように言える。
 「かかる回数は無限だが、かかる時間は無限ではない。そのどちらの意味であるかをはっきりとさせれば、矛盾は生じない。そのどちらの意味であるかを曖昧にすれば(両義的にすれば)、矛盾は生じる」

 結論。
 パラドックスが生じた理由は、言葉を曖昧に用いたときの両義性にある。

( ※ 言葉を曖昧に用いると、こういう両義性が発生して、矛盾が起こる。だから、科学というものは、両義性が生じないように、言葉を厳密に使うのだ。)
( ※ 一方、政治というものは、あえて言葉を両義的に使う。「前向きに検討します」というのが典型だ。これは「何かをします」というのと、「何もしません」というのと、両義性がある。与党も野党も、勝手に解釈することで、両方が満足する。)
( ※ 男と女の関係でも、言葉を曖昧にすることがある。社会ではそういうふうに玉虫色に言葉を使うことは、しばしばある。)

 ──

 パラドックスが両義性から生じる、ということについて、より詳しい話は、下記にある。そちらを参照。
  → アキレスと亀のパラドックス (泉の波立ち)

( 回数は無限に増えていくが、時間は無限に増えていかない。なぜなら、先の方では、1回ごとの時間が無限小になるから。無限大 × 無限小 なので、時間は無限大にならない。……ここがポイント。)



 [ 付記 ]
 ネットを探ると、次のような説明が見られる。

 (1) 第1の説明
 「1,2,3,……というふうに回数をどんどん増やすことはできるが、無限回に到達することはできない。n をどんなに大きくしても有限だから、n は無限 ∞ に到達することはできない。これが数学的な意味だ」


 この説明は、間違いではないが、問題の半分しか説明していない。
 ここで説明されているのは、「到達できない」ということの方だけだ。これだけではパラドックスにはならない。もう一つ、「到達できる」ということも示す必要がある。そうしてこそ、矛盾が発生して、パラドックスになる。

 (2) 第2の説明
 「無限級数を計算すると、最終的には収束する。ゆえに、到達できる」

 この説明も、間違いではないが、問題の半分しか説明していない。
 ここで説明されているのは、「到達できる」ということの方だけだ。これだけではパラドックスにはならない。もう一つ、「到達できない」ということも示す必要がある。そうしてこそ、矛盾が発生して、パラドックスになる。
( ※ なお、この説明は数学的には不完全である。先の「ルート2」の話を参照。 )


 以上の (1)(2) の説明はいずれも、説明としては不足している。この両方をともに示してこそ、パラドックスになる。(数学的に)
 しかも、である。パラドックスであることを(数学的に)説明しても、それだけでは問題を示しただけだ。さらに、問題を解決する必要がある。つまり、このパラドックスが見かけだけであることを示す必要がある。

 この件は、ちょっと面倒なので、次に 《 参考 》 として長々と示す。




 《 参考 》
 余談ふうに、参考となる話を述べよう。

 世間ではしばしば、正しい解釈として、次のように説明される。
 「回数は無限だが、時間は有限だから、パラドックスは存在しない」
 しかし、パラドックスが存在しないのであれば、論議自体が最初から無意味になる。パラドックスが存在しないと思っているのなら、存在しないものについては黙っていればいいだけだ。(ヴィトゲンシュタインふう。)
 だから、「パラドックスは存在しない」または「矛盾は存在しない」と説明しても、問題を解決したことにはならない。矛盾を解決したことにはなるが、問題の根源を説明していない。

 正しい説明とは、次のようなものだ。
 「どうしてパラドックスが存在するように見えるのか」
 比喩的に言えば、手品の説明だ。
 「ハトが消えたように見えるが、ハトは実際には消えていない」
 と説明しても、手品の種明かしをしたことにはならない。手品の種明かしをするには、
 「どうしてハトが消えたように見えるのか」
 を説明しなくてはならない。真実を明かせばいいのではなく、どうして虚偽が真実のように見えるかを明かす必要がある。

 つまり、メタレベルの説明が必要なのだ。一方、元の論議と同じレベルで説明している限りは、それは「見解の一つ」であるにすぎないので、正当性が必ずしも保証されない。
 「ハトが消えた」
 と言い張る人に対して、
 「ハトは消えていない」
 と言い張っても、両者は同じレベルで対立しているにすぎない。どちらが正しいかは、別に第三者の判定を必要とする。

 単に正しいことを主張しても、問題を解決したことにはならないのだ。求められていることは、正しい主張ではなくて、「なぜ正しいか」という根拠なのである。あるいは、「なぜ相手は間違っているか」という根拠なのである。

 結局、
 「正しいことを主張すればそれでいい」
 と思うのは、早計である。世間の多くの人々は、そういう落とし穴にはまっている。

 大切なのは、「彼はいかに だましているか」という、そのだまし方なのである。




 【 蛇足 】
 では、正解は何か? もちろん、「言葉の両義性」にある。前述のとおり。)
 本質的に言えば、言葉が曖昧ならば、命題も曖昧になる。
    例。 「この商品を買っていただけますか?」
       「結構です」

 ここでは、「結構です」という言葉が曖昧だから、それをめぐる解釈が両義的になる。つまり、一方は「イエス」と解釈して、他方は「ノー」と解釈する。二つの解釈が同時に成立する。
 こうして矛盾が発生する。パラドックスの誕生……?
 無意味な笑い話のように見えるが、「アキレスと亀」の原理はこれと同じだ。
 なのに、そのことに気づかないで、論理をいじくり回して、「ああだこうだ」と論じることほど、馬鹿げたことはない。彼らはすべて、インチキな言葉にだまされているだけなのだ。ちょうど、インチキな詐欺師にだまされるカモのように。
( ※ 詐欺師の論理ばかりを疑って、詐欺師の言葉を疑わないから、あっさりだまされる。)





 【 関連項目 】
 同じ原理によるパラドックスは、下記にある。
   → バーナンキの背理法 ( nandoブログ)

 ※ これもまた、「言葉の両義性を用いた詭弁」である。つまり、
   一つの言葉を二通りの意味で用い、矛盾があると見せかける。
   言葉レベルの両義性を、論理レベルの矛盾に見せかける。
   詳しい説明は、上記リンク先を参照。
posted by 管理人 at 12:01| Comment(2) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
後半に 《 参考 》 を加筆しました。
 タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年10月18日 20:59
中央に [ 付記 ] を加筆しました。
 最後に 【 蛇足 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年10月19日 08:59
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