2008年10月08日

◆ ノーベル物理学賞

 ノーベル物理学賞が日本人の三氏に授与された。南部陽一郎、小林誠、益川敏英の三氏。それへの論評。 ──

 私としては、このノーベル賞はまったく不当であると思う。
 不当というのは、「あげすぎ」という意味ではなく、「あげなすぎ」という意味だ。
 今回の授与は、三人で分ける形だが、とんでもない。二つを授与するべきだ。
 「南部先生と、我々2人で半分ずつ。南部先生が2分の1、私たちが4分の1、4分の1。それくらい南部先生の功績が評価された」( → 読売新聞
 と益川氏は述べているが、半分とか4分の1とかじゃないでしょう。南部氏が一つ、小林・益川氏で一つ、にするべきだ。
 そもそも、南部氏は、二つもらってもいいぐらいの業績を上げているのだが。

 南部氏は、次のように述べている。
 「待っていたわけではないし、なぜ今なのかはわからない」( → 朝日新聞
 これは痛烈な皮肉というべきか。「いくら待っても、どうせくれるはずがないと思っていた」という意味と、「何十年も前にもらって当然なのに、なぜまた今ごろになってくれるのか」という意味とがある。

 米国人ならば、もっと下らない業績でもさっさともらうのに、日本人だと、なかなかもらえない。
 考えてみれば、田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞したのも、自分の業績が認められたからではなかった。同じ業績を上げた他人が推奨されて、その人が受賞するはずだったのだが、よく調べたら、その人は田中氏の業績を発展させただけだとわかったので、最初の発明者である田中氏にノーベル賞が回ってきたのだ。
 もし「この業績を上げたのは田中耕一だから、彼にノーベル賞を与えよう」という運動が、最初からあったとしたら、どうなったか? おそらくは、「日本人の業績なんか無視してしまえ」となっただろう。
 とにかく、日本人の業績というのは、無視されがちだ。古いところでは、北里柴三郎がそうだ。他にも、業績ないし貢献度をちょっと盗まれたような例は、いくつかある。(近年でもある。他の人ばかりが脚光を浴びて、同じ程度の貢献度のある日本人には回ってこない。)

 ノーベル賞なんて、そういうものなのである。だからこそ、アメリカ人ばかりが、やたらとノーベル賞を取るのだ。
 ノーベル賞受賞者を称賛するのはいいのだが、そのついでに、ノーベル賞を与える組織における闇に目を向けるのもいいだろう。連中は、科学や真理のことなど、ろくにわかっていないのだ。というか、人種的偏見に染まりすぎているのだ。
( ※ その傾向が少ないのは、ノーベル文学賞。文学をやっている人は、さすがに反骨心が強いようだ。その点、理系は、駄目ですね。特に、若い人はともかく、年取った理系の人は、頭が固すぎ。……そのせいでつぶされる、若い研究者は、枚挙に暇がない。)

 [ 付記1 ]
 報道によると、
 「 ノーベル賞の賞金1000万クローナ(約1億4000万円)は、半分を南部氏が、残りを小林、益川両氏で等分する」( → zakzak
 とのことだ。すると、ノーベル賞は、賞金をケチったんじゃないですかね?   (^^);

 [ 付記2 ]
 あとで気づいたことがあるので、書き足しておこう。
 南部氏への受賞が遅れたことについて「不当だ」と書いたが、ある意味では仕方ないのかもしれない。
 というのは、ノーベル物理学賞の受賞基準は、「発見をしたこと」であるからだ。つまり、仮説としての理論では不十分であり、疑いなく真実であることが実験的に検証される必要がある。
 一方、南部氏の業績は、実験科学ではなく理論科学であるから、あとで実験的に検証されるまでは、理論の位置づけが不十分であり、仮説に留まる。いくら優れた理論でも、実験的に検証されるまで時間がかかるのだ。
 とすれば、受賞まで時間がかかったということは、南部氏の理論がいかに実験に先んじていたかということであり、いかに時代に先駆けていたかということでもある。
 これはちょっと、アインシュタインが相対性理論でノーベル賞を受賞できなかったことに似ている。彼の業績はあまりにも時代に先駆けていたから、とうとう相対論ではノーベル物理学賞を受賞しないまま一生を終えてしまった。

 ノーベル賞って、ちょっと駄目なんですね。
 「ノーベル賞は最高の賞だ」
 というわれわれの俗信を正した方がいいのかもしれない。
 「ノーベル賞は最高の業績を評価するには、ちょっと力不足の賞である」
 というふうに。

( ※ 南部氏の業績は、物理学では広い範囲で大きく影響を及ぼしているから、物理学の形成には非常に貢献している。特定の小さな領域で実験的に検証されるというタイプよりは巨大なものだ。「パリティ対称性の破れ」は、南部氏の業績に比べて大きなものとは言えないが、実験的にすぐに検証されたがゆえに、すぐにノーベル賞をもらえた。小さな業績ほど、検証されやすいがゆえに、ノーベル賞をもらいやすいのだ。皮肉。)



 【 補説 】

 マスコミは浮かれてばかりいるのかと思ったが、見識のある記事を見出した。朝日・朝刊にある。社説と、その右下にあるコラムふうの記事。
 要するに、「基礎科学の重要性」を訴えている。こういう世界的な業績を上げるには、基礎科学を国家が侵攻しなくてはならない、という趣旨。ひるがえって現状は、若手研究者の冷遇などの問題がある、と憂えている。
 なるほど、そういう見方がある。今回の慶事から、現状の問題点を指摘する。立派なものだ。私もそこまでは思いつかなかった。たいしたものだ。

 余談だが、この記事の筆者は高橋真理子。さすがですね。昔からこの人は超優秀。朝日のなかでも抜きん出ている。社説も彼女の声が反映したのだろう。論説委員だから。

 ただし。……
 朝日にも、立派な人はいるが、たいていはお馬鹿だ。二日ぐらい前に、「太陽光発電の振興を」というバカ記事が出ていた。
 しかし、そんなことのためには、超巨額の資金を投入する必要がある。しかも、「それによる効果はほとんどない」ということを、自分の書いた記事において明らかにしている。
 記事の趣旨は、こうだ。
 「このまますれば十年後に、太陽光発電は、火力発電の発電コストを下回る。だから爆発的に普及するだろう」
 しかし、どっちみち普及するのであれば、何もしないでいれば十分。どうせドイツなどが超巨額の資金を投入するのだから、日本は何もしなくてもいいのだ。結局、朝日の記事は、「何の意味もないことのために超巨額の金を投入せよ」ということだ。それはたぶん、「日本が貢献した」という名誉でも狙っているのだろう。しかし、名誉のために超巨額の金を投入するというのは、金をドブに捨てるのも同然だ。
 こういう馬鹿げたことのために金を投入するより、金が全然不足している基礎科学の方に金を投入するべきなのだ。そして、それを訴えるのが、マスコミの役割だろう。

 企業は「景気回復のために、金を寄越せ」と要求する。
 地方は「地方振興のために、金を寄越せ」と要求する。
 偽善家は「地球温暖化阻止のために、金をここに注げ」と訴える。
 そして、こういうふうに声のデカい連中が金を奪うから、声の小さい基礎科学には金が回らなくなる。

 朝日でも、圧倒的多数は、偽善家連中だ。そのなかで、高橋真理子のような本質を見抜ける人がいることは、かろうじて慰めになる。

 [ 補記 ]
 高橋真理子って、誰? 東京の教育大附属高校を卒業して、東大の物理学科を卒業した、超優秀な人です。男に生まれたらノーベル賞をもらっていたかも。  (^^);
 ネットで検索したら、プロフィールがあった。写真もあった。(だけど、個人情報になりそうなので、どれがそうかは教えません。)
 ついでに言えば、外岡秀俊という優秀な人もいますね。こっちも優秀だけど、文系のせいか、ちょっと小粒。
 あとはまあ、ろくでもない記者が多い。昔の名物記者みたいに格のある記者は今はいないようですね。ま、朝日にはいないが、ネットには私がいるな。  (^^);



  【 追記 】
 今回のノーベル賞受賞に乗じて、火事場泥棒みたいに金儲けしよう、という連中が出てきた。例によって自民党である。  (^^);
 「ノーベル物理学賞はすばらしいから、日本も物理学に貢献したい。そこで、リニアコライダーを日本に建設するために、数千億円を支出したい」
 という方針。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081008AT1G0801508102008.html


 ふん。科学への貢献なら、日本に建設しようが欧州に建設しようが、どっちだって同じことである。だったら、欧州に建設して、そこに多額の金を投入すればいいだろう。
 しかし、そうしない。なぜ? 
 本当の狙いは、科学への貢献なんかではなくて、地元にたっぷりと公共事業費を落とそう、ということだ。どうせ自分の金じゃなくて国民の金なんだから、いくらでも浪費してやろう、というわけ。(そのためにノーベル賞を利用するわけ。何たる腹黒さ。)

 そんなことに巨額の金を使うくらいだったら、やはり、日本国内で基礎科学の振興に金を使うべきだろう。数千億円もいりません。あと百億円だけでも増やしてください。せめてコンピュータと学術雑誌を買う金ぐらいは出してくださいね。
 しかしながら、現状では、その金は出されない。どこの大学も、コンピュータの台数削減やら、学会誌の購入削減やらで、四苦八苦している。
 今回のノーベル賞から、全然、教訓を得ていない。
( ※ 高橋真理子さんとは正反対。ああ、情けないね。)



 [ 余談 ]
 オマケふうの余談。
 ノーベル賞を受賞した小林・益川氏に対して、異論がある。もう一人の人物であるニコラ・カビボ氏について、「彼にも受賞資格がある。むしろ彼の方が基礎的な業績を成し遂げたぞ」という主張。あげく、「ノーベル賞を盗まれてしまった!」という声まである。  (^^);
   → zakzak 
 これは、ごもっとも。そういう見解は成立するだろう。たしかにまあ、立派な業績(小林・益川理論)の基盤を築いた、これもまた立派な業績がある。
   → CKM行列
 とすれば、ノーベル賞は、次の形にしても良かった。
   ・ ニコラ・カビボが半分
   ・ 小林・益川が半分(それぞれ4分の1)
 そして、その場合、南部陽一郎にはまるまる1個の賞が行く。
 以上が妥当だろう。最初からそうしておけばよかったのに。

( ※ なお、ニコラ・カビボと、小林・益川の、どちらか一方に与えるとしたら……後者の方が妥当だろう。数学的に見れば、前者の方が圧倒的に独創的だが、その後、式の重要性を見事に解明して、物理学に寄与したのは、後者だからだ。前者から後者へは、誰にでも簡単にわかりそうに思えるが、それは後世の立場からの解釈だ。その当時は、誰もわからなかった。ある式に対して、本人も気づかなかった重要性を見抜いて、その意義をうまく拡張して、物理学に寄与したなら、そういう応用的なことをやった人の方が重要だ。「最初の独創的な分野の開拓」ではなくて、「見抜けかなったものを見抜く」ということの意義だ。数学ならともかく、物理の世界では、物理学的な意義の方が優先される。……仮に数学のノーベル賞を与えるなら、前者に与えられるだろうが、ここは物理学賞なんだから、仕方ない。数学的な独創性は評価されず、物理学的な独創性だけが評価される。)



 ※ 本項の話題は、次項に続きます。
   
   → 次項
posted by 管理人 at 18:10| Comment(3) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
[ 付記2 ] を書き足しました。本文の真ん中へん。
 タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年10月09日 01:18
最後に[ 余談 ]を書き足しました。
 タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年10月09日 13:30
新たなニュース。
 文科省は、南部氏を日本人でなく米国人としてカウントすることにした。
 しかしながら、そのとき負け惜しみふうに、次の一言を加えた。
 「現在の国籍上、日本国民とはいえない。だが、業績を挙げた時点の国籍は日本だ。」
 しかし、新聞記事によると、こうだ。
 「南部氏は1952年に渡米し、70年に米国籍を取った。今回の受賞対象になった研究は60年代初めの業績だった。」
http://mainichi.jp/select/science/news/20081016k0000m040072000c.html
Posted by 管理人 at 2008年10月15日 20:53
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