2008年09月05日

◆ 脳と遺伝子

 「脳の大きさを決める特定の遺伝子がある」という趣旨の記事が、朝日にあった。しかしこれは間違いなので、指摘しておく。 ──

 朝日の記事の趣旨は、次の通り。
 「脳の大きさは、特定のタンパク質が作用しないことで定まる。そのタンパク質が作用しないと、脳はどんどん巨大化するが、そのタンパク質が作用すると、脳の巨大化がストップする。こうして、そのタンパク質によって、脳の大きさが決まる」
(朝日・朝刊 2008-09-05 )
 
 ここで、脳を成長させるタンパク質は「コーディン」であり、コーディンの働きを阻害するタンパク質が、「ONT1」である。
 コーディンとONT1の作用がうまく働いて、脳の大きさはうまく決まる。ONT1が働かないと、脳はどんどん巨大化する。

 もしこれが正しいとしたら、ONT1が働かないだけで、脳はどんどん巨大化するわけだから、脳の進化がきわめて容易に起こることになる。しかし、そんなことは、あるはずがない。脳の進化というのは、非常に難しいものであって、特定のタンパク質がたまたま働かなかったから、脳の進化が起こった(脳が大きくなった)、ということはありえない。そんなうまい話があるはずがないのだ。
 つまり、この記事の趣旨は、とうてい信用できない。(記事の原文は最後に示す。)

 ──

 そこで、念のためにネットを検索したところ、共同通信の記事が見つかった。こちらの方は、朝日の記事とは違って、妥当である。
  チームはアフリカツメガエルの受精卵で実験。神経成長を促す別のタンパク質とONT1が、互いに抑制し合いながらバランスを取っているのを発見した。受精卵が細胞分裂を繰り返して胎児に相当する段階に進むと、ONT1が強く働いて脳形成が終わった。
 この仕組みは魚類や哺乳類などでも共通だが、人を含む霊長類などではそれに加えて、さらに脳を大きくする別の仕組みも存在するらしい。
 「別の仕組みも存在する」というふうに述べられていることからもわかるように、今回の発見は「脳の大きさを決めることのほんの一部」にすぎない。つまり、「それがあれば正常な時期に作用がストップする」というだけのことだ。
 一方、「脳を巨大化させる仕組み」は、ここにはない。ONT1が作用しないと、「脳の巨大化したカエルができる」のではなくて、もっと別のことが起こる。

 ──

 では、ONT1が作用しないと、どんなことが起こるのか?
 それについては、元の研究者によるプレスリリースがある。
  → 理研のプレスリリース

 つまり、個体において脳が巨大化するのではなくて、分化中の胚において脳組織の量(比率)が増えるのだ。ここでは、その分、他の身体組織の量が減ってしまう。
 正誤で書くと、次の通り。
 (誤) 巨大な脳のカエルができる
 (正) カエルの胚において、脳になるはずの組織の量ばかりが異常に増えて、他の身体組織になるはずの量が減る。(結果的には、個体発生に失敗する。


 つまり、ものすごく頭のいいカエルができるのではなくて、脳になりそこねた巨大な肉塊と、カエルの身体になりそこねた寸足らずの肉塊とが、ともにできる。いや、肉塊になるまでもなく、胚の時点で分化がストップしてしまうだろう。……どっちみち、個体発生に失敗するだけだ。

 ──

 結論。

 今回の発見の意味は、脳の大きさを決める過程の一部分だけがわかった、ということだ。特に、最初のあたりで、脳組織の量を定量的に定める過程がわかった、ということだ。
 一方、わかっていないことは、他にもいろいろとある。次のように。
  ・ 脳組織そのものを構成していく緻密な過程
  ・ 脳組織から脳に分化していく緻密な過程
  ・ 脳幹や小脳や大脳などに分化してく緻密な過程

 これらのことは、まだまだ神秘的な謎なのだ。たとえば、人間の大脳の新皮質が巨大化したことの理由や遺伝子は、まったくわかっていない。おそらく、一つや二つでなく、非常に多数の遺伝子が関与していると推察される。そして、そのすべてがうまく働かないと、おかしなことになってしまうのだ。(実際、先天的に脳が異常になった症例もある。)

 「脳の大きさを決める仕組みがわかった」と思うのは早計だ。また、「何らかのタンパク質が働かなくなったら、それだけで脳が巨大化する」と思うのも早計だ。
 朝日の記事は、元の発表を誤解している。こういう誤解を振りまいたせいで、人々が勘違いするとしたら、困ったことだ。
( ※ だから、この間違いを指摘するのが、本項の意義だ。)



 【 参考 】 
 朝日の記事の原文は、次のところにある。
  → http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200809040081.html
 これは将来、削除されるかもしれないので、念のために、コピーして、ここに掲げておく。(著作権上は、問題がある。だが、朝日がとんでもない報道をしたので、どうしても広く告知する必要があるので、例外的に丸写し。)
 以下、朝日の引用。(間違いなので、信用してはならない。)
 脳の大きさにほとんど個体差がない謎、解けた
 脊椎(せきつい)動物の受精卵から体が形づくられる過程で、二つのたんぱく質が協調して働いて脳の大きさを一定にする仕組みを、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の笹井芳樹グループディレクターらが見つけた。なぜ脳の大きさに個体差がほとんどないのかという長年の謎が解けた。5日付の米科学誌セルに発表する。
 脳や心臓など主要な臓器の大きさは、発生するときの温度などの環境によらず、ほぼ一定だ。脳ができる時には、コーディンと呼ばれるたんぱく質が働くが、実験でコーディンの量だけ増やしても、巨大な脳ができることはない。
 グループの猪股秀彦研究員らは、アフリカツメガエルの神経ができる時に働くたんぱく質ONT1を発見。これが、コーディンを分解することを見つけた。さらにコーディンの増減に合わせて増減し、コーディン量を調節することを突き止めた。ONT1の働きを止めてコーディンを増やすと巨大な脳ができた。これらの結果から脳のサイズはコーディンとONT1が協調して制御すると結論した。
 サイズを調節する仕組みは臓器ごとにあると考えられており、コーディンは骨や腎臓の成長にも関与している。将来、万能細胞を使って臓器をつくり、再生医療につなげる段階になれば、それぞれの臓器を適正な大きさや形にすることも必要で、今回の成果は基礎となる知識として役立ちそうだ。(木村俊介)
 【 注記 】
 繰り返すが、「巨大なができた」ということはない。胚における脳組織の量の比率が上昇しただけだ。両者を混同しないこと。
(当然だが、何かが生じたのではなくて、何も生じなかったのである。個体発生に失敗したのだから。)



 [ 付記 ]
 「遺伝子」という言葉で言うと、ここでは、「タンパク質」と「遺伝子」とは、だいたい同じような意味で使われている、と考えてよい。正確に言えば、特定の遺伝子が、特定のタンパク質の作用する量や時期を決める。コーディンやONT1の作用する量や時期を決める遺伝子がいくつかあって、そういう遺伝子のせいで、これらのタンパク質が適切に作用する。遺伝子というものは、そもそもタンパク質をつくるものなのである。
 なお、その遺伝子がどういう遺伝子か、ということは、また別の話。具体的には、一つでなく複数の遺伝子が関与しているはずだ。

 簡単に言おう。脳の発達したカエルを生むには、ONT1の遺伝子が欠落したカエル(ONT1の作用しないカエル)があればいのではなく、脳の発達に関与するいくつもの遺伝子がうまくそろったカエルがあればいい。
 あなたが遺伝子を見抜く能力があるとしよう。あなたが頭のいい異性と結婚したければ、ONT1の遺伝子が働かない異性を探せばいいのではなく、脳を発達させるいくつもの遺伝子をもつ異性を探せばいい。もしONT1の遺伝子が働かない異性と結婚すれば、子供は流産するだけだろう。
( ※ あくまでたとえ話だが。) 



  【 補説 】
 なぜ脳の大きさは一定に保たれるのか? その理由を考えよう。
 脳の大きさが一定に保たれるとしたら、その必要があるからだ。逆に言えば、脳の大きさが一定に保たれなければ、不都合が生じるからだ。では、どうして?
 こういうことを考えるには、比喩的に他の場合を考えるといい。たとえば自動車のエンジンでは、エンジンブロックのボア・サイズや、ピストンの・ボアサイズなどが、非常に厳密に決まる。一方、バネのサイズや重さなどは、けっこうバラツキがあっても大丈夫だ。……ここから言えるのは、「エンジンは精密部品だ」ということだ。エンジンの部品のサイズにバラツキがあると、エンジンそのものの性能が大幅に損なわれてしまう。
 脳の場合も同様だ、と考えられる。脳は精密部品なのである。誤差はほとんど許されない。
 一方、腕や足や指などのサイズは、少しぐらいズレていても構わない。だから(ビタミンAの濃度勾配などで)おおざっぱに決まる。
 では、脳はどうして、精密部品なのか? それは、脳の大きさだけでなく、脳の機能にも影響するからだ。精密部品は、あらゆる部品のサイズがきちんと決まっている。たまたまいくつかの部品のサイズにズレがあれば、他の部品との組み合わせに食い違いが生じて、部品がうまく噛み合わなくなる。脳の場合も同様だろう。脳は、(肝臓のような)単一の組織でもないし、筋肉と骨だけという腕や足とも異なる。脳には、さまざまな神経回路が組み込まれており、その位置関係もきちんと決まっている。たとえば、聴覚なら、「内耳神経 − 蝸牛神経核 − 上オリーブ核 − 外側毛帯 − 下丘 − 内側膝状体 − 大脳聴覚野」という関係。このような複雑な関係がある。それはまさしく精密部品の関係だ。だからこそ、サイズもまたきちんと決まっている必要がある。
 ここでは、「元の材料を多くすれば、大きな脳ができる」というような発想は成立しない。それはいわば、「自動車のエンジン・ブロックの製造過程で大量の鉄を注入すれば、排気量の大きなエンジンができる」というような、粗っぽい発想である。ほとんどメチャクチャだ。それでできるのは、排気量の大きなエンジンではなくて、エンジンの出来損ねだけである。
 「エンジンブロックの鉄の量は決まっている」という話を聞いたあとで、「だったら鉄の量を増やせばエンジンが大きくなる」と思うのは、あまりにも早計過ぎる。それよりはむしろ、「エンジンというものは精密部品なのだ」と理解する方が、正しい認識だ。

( ※ 余談だが、日産のGTRのエンジンの精度は極めて高い。そのせいでコストがものすごくかかっている。エンジンだけで 250万円ぐらいするらしい。全体の3分の1だ。普通の車に比べて、エンジンのコストが異常に高い。自動車のエンジンは人間の脳に相当するだろう。)



  【 追記 】
 より正確に( or 本質的に)説明すれば、次の通り。

 今回の研究でわかったことは、次のことである
 「個体ごとに、脳の大きさにバラツキがない仕組みがわかった」 …… (1)

 換言すれば、次のことである。
 「個体レベルで、脳の大きさを決める仕組みがわかった」
…… (2)

 これは、次のことではない
 「種レベルで、脳の大きさを決める仕組みがわかった」 …… (3)

 (1) から (2) のことは言えるが、(1) から (3) のことは言えない。(2) と (3) とは別のことなのだ。だから、(2) と (3) とを、はっきり区別する必要がある。
 しかしながら、単に「脳の大きさを決める仕組みがわかった」というふうに記述すると、(2) と (3) とが混同されてしまう。だから、「脳の大きさを決める仕組みがわかった」というふうに記述してはならないのだ。(朝日はそうしているが。)

 比喩的に言おう。次の二つが考えられる。
  ・ 地球から月にロケットを飛ばす仕組み。
  ・ 月に到達したロケットが特定の地点に着陸する仕組み。
   (バラツキがないようにする仕組み。)

 この二つは別のことである。次のように。
  ・ 前者は、地球から月への推進する能力。
  ・ 後者は、到達点に対して微小な制御をなす能力。

 つまり、おおまかに月へ向かう能力と、月にほぼ到達したあとで特定の一手にからズレないようにする能力とは、別のことである。
 なのに、この両者を混同して、「月の特定の一点に向かう能力」というふうに表現すると、表現が不正確になり、認識も不正確になる。

 要するに、こういう区別を理解できていないのが、朝日の記事だ。「半可通」と言える。そのせいで、読者を混同させてしまうのだ。
posted by 管理人 at 20:15| Comment(2) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
《 余談 》
 本論に続く形で、余談を示す。特に読む必要はないが。

 脳と遺伝子の関係については、Newsweek に興味深い記事があったという。以下、該当ブログより引用。

 ──

 「現代の人間に近づいたのは脳の構造が変化したためだろう。研究者らは、より高度な知性の産物である言葉や芸術、文化と同時期に『誕生』した3つの遺伝子を特定した。その1つがFOXP2遺伝子、2つ目はマイクロセファリン遺伝子、そして3つ目がASPM遺伝子。」
 FOXP2遺伝子(20万年前から)は言語に関係し、マイクロセファリン遺伝子(3万7千年前から)は象徴という概念を理解できるもので、ASPM遺伝子(5800年前から)を人類が持った時期は、中東に人類史上初の都市ができる少し前のことだという。
 → 該当ブログ http://www.vec-member.com/salon/68/salon68.htm

 ──

 ASPM遺伝子は、小頭症に関係するものだが、これをもって「人類の脳を発達させ多遺伝子だ」と見なすのは、早計だろう。もしそんなことが成立するならば、「アフリカ人は、ASPM遺伝子を持たないので、知性のある人類ではない」というような結論が出てしまいかねないからだ。
 はっきり言って、現代人(クロマニョン人)は、20万年前以降、ほとんど進化していない。わずかな進化はあるが、小進化にすぎないし、亜種を生む程度のことだ。メラニン色素が多いか少ないかとか、瞼が一重か二重かとか、その程度のことにすぎない。脳の知性を決める遺伝子はたくさんあるが、上記の遺伝子はそのうちのごくわずかにすぎない。「この遺伝子があるから人類は急激に進化したのだ」というような発想は、ほとんど眉唾だ。脳においては、「一つの遺伝子で一つの機能」というようなことは、成立しないのである。(脳はあまりにも精密な構造をもつからだ。)

 ──

 サルとヒトの遺伝子の進化の速さは他の生物よりも大幅だ、という記事がある。
 → http://obio.c-studio.net/science/062.htm

 これを見てもわかるように、脳の発達には多くの遺伝子が関与しているはずだ。
Posted by 管理人 at 2008年09月05日 22:25
最後に 【 補説 】を加筆しました。
 タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年09月05日 22:26
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