今回の豪雨はものすごかった。雷もものすごかったが、雨量も莫大だったようだ。29日のNHKニュースでは、ひどい惨状を報道していた。
問題は、対策だ。マスコミでは「降ったあとにどう被害を減らすか」という趣旨の話が多いが、大切なのは「もともと降らないようにすること」だろう。そして、それを知るには、「なぜ降るか」を知ることが大切だ。
では、なぜ降ったか? 気象庁関係者の話がある。
今回の豪雨は、東海豪雨と似た気圧配置で起こった。本州に停滞する前線に向け、南海上にある低気圧の縁を回って暖かく湿った空気が流れ込み、愛知県上空で一地域に積乱雲が次から次へと群生して大雨を降らせた。要するに、予測はできない。また、たとえ予測ができたとしても、被害を減らすことは難しい。「人命などの被害を減らすこと」は可能だろうが、家や道路の被害をなくすことは無理だろう。(家も道路も動けないからだ。対処の取りようがない。)
同気象台によると、前線を東へ押しやる上空6千メートルの偏西風が夏季で弱いために降雨域が一定の場所にとどまりやすいこと、日本南海の海水温が上昇していて湿った空気が流れ込みやすいことなどの指摘もあるが、8月下旬から9月によく見られる気圧配置でもあり、局地的豪雨の明確な発生原因に決め手はないという。
「大雨になるメカニズムは分かっても、どこで局地的な豪雨となるかは予測できない。愛知県ぐらいの範囲でしか…」。同気象台の小笠原明男・気象防災情報調整官は話す。
どうして広い範囲でしか予報できないのか。日本気象協会(東京)の関田佳弘主任技師は、現行システムを「網の目が粗く、小さな魚はすり抜けてしまう」と指摘する。
天気予報の基礎となるのは、気象庁が1日3回発表するシミュレーション。20キロ四方の升目で把握するため台風や前線などは予測しやすいが、今回の豪雨をもたらした積乱雲のような、わずか数キロ単位の予兆はとらえられないという。
( → 東京新聞 2008-08-30 )
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そこで、私としては、次のことを提案したい。
「人工降雨によって、雨を降らす地点を変える」
これは中国が北京五輪でやったことと同じだ。開会式や閉会式の日に、会場に雨が降るとまずい。そこで、他の場所で人工降雨を起こして、あらかじめ別の場所で雨が降るようにしておく。このことで、開会式や閉会式の日に、会場に雨が降ることをなくす。(ただし、他の地域では、「しょっぱい雨が降ってきた」という苦情もあるそうだ。 (^^); )
人工降雨というのは、技術的・コスト的には難しくない。ドライアイスやヨウ化銀をごく少量だけ飛行機から散布することで、容易に雨を降らすことができる。(ただし十分な雨雲があれば。)
中国の場合は、大量のヨウ化銀をロケットで打ち上げたようだ。これは粗っぽすぎる。「何が何でも会場を晴天にする」という意図だったのだろう。馬鹿げたやり方。
一方、今回の集中豪雨の回避のような場合には、もっと賢明にできる。次のように。
・ 集中豪雨が起こりそうだという条件を理解しておく。
・ その条件が生じたら、飛行機を用意しておく。
・ 実際に集中豪雨が起こり始めたら、ただちに飛行機を飛ばす。
・ 飛行機は、大きな雨雲を目視して、地域を確認する。
・ 地域が市街地であれば、何もしない。
地域が海上または山地であれば、ドライアイスを散布する。
・ こうして、海上または山地にある雨雲をどんどんつぶしていく。
結果的に、最初は一部の市街地で少量の集中豪雨が起こるが、まもなく、それも消えてしまうので、市街地の雨量の総量は少なくなる。そのかわり、海上または山地で、大量の豪雨が発生する。
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なお、山地よりは海上でやる方を優先したい。できれば雨雲は海上ですべて「撃墜」してしまいたいところだ。だが、NHKニュースによると、雨雲は陸地に入ってから発達するようだ。次のように。
海上や平地では、まだ雨雲が発達しないが、南風に乗って空気が山地を上昇するうちに、空気中の湿気が凝結して雨雲になる。そのせいで、山地の方で、かえって巨大な雨雲が発達するようだ。
となると、対策としては、東海地方の海上で、まだ雨雲があまり発達していないうちに、撃墜してしまうべきであるようだ。
これは、技術的にはちょっと難しくなるかも。また、ドライアイスやヨウ化銀の使用量が増えるかも。が、だとしても、問題はあるまい。どうせ海上でやるなら、しょっぱい雨が降っても問題はない。また、環境の汚染を云々するほどの量を撒くわけじゃない。コストだって、豪雨の被害に比べれば、無視していいほど軽微な額だ。
結論。
洪水対策として、堤防や貯水池や被害者補償のために、数千億円や数兆円の金をかけるよりは、人工降雨のために、百万円単位の金をかける方が、よほどいい。それが賢明な策というものだ。
[ 付記1 ]
海上で人工降雨を起こそうとして、雨雲を凝結させたら、それが風に乗って市街地に達したとき、豪雨を起こす……ということも考えられなくもない。
が、だとしても、特に問題はあるまい。というのは、雨雲が凝結したとしても、水分が増えるわけではないからだ。降水量の総量が増えるわけではない。
どちらかと言えば、海上で降る量が増えるだけ、陸上で降る総量は減る。
[ 付記2 ]
人工降雨には、別の利点もある。次のことだ。
「あちこちで雨を降らすことで、特定の一点における集中豪雨をなくす」
これは大切だ。集中豪雨の問題は、雨の総量が増えることではなくて、雨が特定の一点だけに集中することだ。だから、あちこちで散在するように雨を降らせれば、そのことによって被害を減らすことができる。特定の一点で 100ミリを越える豪雨があれば、大被害が起こるが、2倍の地域で半分の量の雨が降れば、大被害はかなり減る。……このような「降雨の平準化」もまた、人工降雨のメリットだ。
[ 参考資料 ]
人工降雨の参考資料。
→ 国内外における人工降雨研究 ( pdf 7.4MB )
[ 余談 ]
集中豪雨(または豪雨)を予測する方法はないのか? 実は、ある。それは、人々の考えるように、
「コンピュータ予測で、網の目を細かくすること」
ではなくて、
「コンピュータ予測そのものをやめてしまうこと」
である。
そもそも、「コンピュータ予測に頼る」という方法は駄目だ、ということは、上記の記事から判明している。遠い将来はともかく、現在のところは無理だ。だから、こんな方法は、さっさと捨ててしまえばいい。それで物事はOKだ。
すると、どうなる? コンピュータ予測が駄目なら、昔の方法に戻るしかない。「西の空を見て、今後の天気を予想する」という方法だ。すると、どうなる? 29日の例で言えば、次のことが判明していた。
「29日の夕方、西空はきわめて異常な状況であった。普通なら、雲がないか、積乱雲のような白い雲が浮かぶか、灰色の雲が全天を覆うか、そのいずれかだ。しかるに、29日の夕方では、違った。雲は晴れ間があって、一部には青空が除いていたのだが、雲は恐ろしいほどの黒さであった。普通の雲は白いのに、このときの雲は黒い。その黒い雲の端から、西の太陽が光を漏らしている」
私はジョッギングをしながら、不気味に感じましたね。「何だ、この空は? 気持ち悪い。まるで地獄じゃないか」というような感じで。
そして、その数時間後、爆弾がそばに落ちたような大音響がして、雷が光った。それが何度も続いた。豪雨も発生した。
まさしく、めったにないような地獄の夕空のあとで、これまで体験したことのないような大音響の雷鳴が何度も続いたのだ。しばらくしてからテレビを付けると、各地で豪雨が発生して、被害が続いているというNHKニュースがあった。
要するに、このような極端な豪雨については、あらかじめ予想が可能である。ものすごい豪雨の数時間前には、ものすごい真っ黒な雨雲が発達しているのだ。それを西空に見るだけで、その数時間後の豪雨が予想できる。こんな予想は小学生にでも可能だろう。
そして、その予想を信じるには? コンピュータ予測なんていう無意味なものを、捨ててしまえばいい。それだけだ。少なくとも集中豪雨については、コンピュータ予測は全然アテにならないのだから、アテにならないものを信じて戸惑うよりは、アテにならないものを捨てて、アテになる西空を見ればいい。
( ※ しかしまあ、現代人は、愚かなコンピュータを信じたがる。こいつは愚かだとわかっていながら、愚かなものを信じたがる。馬鹿丸出し。)
【 関連項目 】
→ 豪雨対策2
コンピュータ予測を捨てる話は、とても刺激的なので興味がありますが、ひとつ思ったことがあります。「責任」です。
天気予報は公式な発表です。
公式な予測が大きく外れた際の責任問題は、どこにいくのでしょうか?
たとえば、大雨が降るとの予報で町中の店が傘を仕入れたが、結局晴れた、なんてことがあると困る。もしそれが人間が空を見て判断してました、などというと、一般市民の皆さんはどう反応するのか・・・?
ぼくはコンピュータを用いる発想は、むしろ、賢いと思います。コンピュータ(事実上公認の論理的な判断者)がわからなければ、それでいいのです。
たとえば最近でいえば、産科医が無罪になった事件でも、結果的に患者は死亡したが、妥当な判断だったということで刑事責任はなし。特にこの事件でなくとも、「最大限努力」しても手術に失敗した医師は、どう責任を問われるのか・・。たぶん焦点は、それが最大限の努力の結果だったかどうか、というふうに心情的に民衆は思うでしょう。
つまり、ある判断の妥当性を保証する(とみなが信じるもの)がコンピュータというわけではないでしょうか?
(判定方法が複数種類あったりして、どれを用いるかを選んだ人間の責任が問われることもあるのかもしれないが・・・)
当たるも八卦、当たらぬも八卦。
> コンピュータがわからなければ、それでいいのです。
人間でも同じ。どっちみち、予報を本気で信用する方がおかしい。あっさりだまされるタイプですね。 (^^);
僕も実は当たらぬも八卦と思う人間のほうが賢明のように思います。
ですから、「余談」とある部分の記述が、いわゆる「現実的な考え」風(豪雨対策にあるような)ではなく「そもそも〜〜あるべきだ」という理想的状態を与えていたことがはっきりしたなら、僕の意見は体をなしません。
わざわざのご返答ありがとうございました。
まず膨大な数の航空機を用意、
それらを司令するシステムを備えなければいけませんが、
具体的にどのような種類の機体をどれくらいの密度で
配備しておけば妥当だと思われますか?
人工降雨はどこかの地域に雲を作る、
というきっかけを作ることが出来る程度で、
実際思うとおりに雨を、天候を支配するとなると、
相当に慎重な判断が必要ですよ?
特に雨なんて利水も含めて色んな地域の兼ね合いがありますから。
そのためにはキメの細かい気象観測システムと
それらから集められたデータによる予報システムが
必要不可欠だとも思われますが…
寧ろ逆に天気予報システムの重要さが増し、
本末転倒になってしまうと思います。
大量のデーターを蓄積・分析するためには優秀な予報士に加えて、
大容量で高速のコンピューターがこのシステムを動かす上で
必要不可欠になってくると思いますが、どうでしょうか?
(コンピューターを盲目的に信じろといっているのではなく
多くのデーターを捌くには必要だということです)
綿密な観測・分析もなしに適当に雨だけを分散させれば良い、
という考えは危険な結果を招くのではないでしょうか?
本当に(極地的な)集中豪雨というものは暖気の中に寒気の塊が
一気に流れ込むような形の、規模としては小さな雲によるものが
多いそうですが、そんなものを発見するためには
緊密で高精度な観測・予報システムの
重要性を認めざるを得ないのではないでしょうか?
(1) ここで言う人工降雨は、一般の人工降雨とは違う。晴れた日に好き勝手に雨を降らすのではなくて、集中豪雨を早めに降らすだけ。(「思うとおりに雨を、天候を支配する」というわけではない。)
(2) 集中豪雨の雲は、特異な形態をしており、目視が容易。普通の雲と違って、厚い塊となっている。団子みたいなものですかね。(空中撮影したビデオがネットにある or あった。)
(3) 集中豪雨が特定の一箇所でしか起こらないのであれば、いちいち対処するほどのこともない。集中豪雨が広い領域で起こり、その雨雲がたくさんあるときにのみ行えればいい。つまり、巨大な厚い雨雲が広域に分布する場合。(8月29日のような特殊な場合。)
(4) その場合、特定の地域を狙ってピンポイントで行なうのではなく、どこでもいいから厚い雲を見つけるたびに行なえばいい。いちいち特定箇所を探す必要はまったくない。
(5) むしろ、巨大な雲が発生する前に、湿度の高い空気中で広域に人工降雨を起こせばいい。雲を探す必要すらない。今回の場合でいえば、東海地方の沿岸海上で広域に行なえばいい。探す必要はまったくない。
(6) 飛行機は、民間のセスナの借り上げや、自衛隊の飛行機の利用などが考えられる。近隣の韓国の飛行機の利用も考えられる。……いずれにせよ、かなりの費用がかかるが、「地下の貯水タンク」とか「地上の貯水池」とかで、一箇所あたり百億円の金をかけるよりは、ずっと安上がり。つまり、数千億円もの金はかからない、ということ。
(7)
> 具体的にどのような種類の機体をどれくらいの密度で配備しておけば妥当だと思われますか?
そんなことは実務者の仕事です。トップが決断するべきことではありません。大臣がいちいち作戦の細部を決めるわけがないでしょう。
……以上を記しましたが、考えてみれば、当り前ですね。だから書かなかったんだ。質問を出す前に、自分の頭で考えてみてください。
冗談じゃない。そんなはずがないでしょう。そんなことをすれば、ひどい集中豪雨がもっとひどくなって、被害が増えるだけです。逆効果。
本項の提案は、「集中豪雨が起こる前に、大量の湿気を海上で凝結させること」です。厚い雲を撃墜することが目的なのではなくて、薄い雲や湿気を撃墜することが目的。そして、そのために、厚い雲を見て判断に利用するだけ。……勘違いしないでくださいね。
酷い事になった過去の事実についても検証してみては如何でしょうか?
軽率に
>問題はあるまい。どうせ海上でやるなら、しょっぱい雨が降っても問題はない
というような発言はあなたが例え、その学問の権威であったとしても
控えられた方が良いのでは?
その気持ちはわかります。無為無策が一番 普通の方針でしょう。世間の大多数はあなたを支持すると思いますよ。「何もしないのが最善だ」と。
しかし本サイトは、「無為無策」ではなく、「最善とは何か」を追究するのが方針です。実現はともかく、研究だけはする、という立場。
ちなみに、次の例はどうでしょう?
人間が経済をコントロールしようとして、ひどい目にあった世界恐慌のことを忘れるべきではない。経済というものはコントロールしないのがベストなのだ。無為無策がベストなのだ。神の思し召しに従うべし。今の不況が続いても、何もしないで、不況を放置しよう。
人間が生命をコントロールしようとして、病気を悪化させた時代のことを忘れてはならない。生命というものはコントロールしないのがベストなのだ。無為無策がベストなのだ。神の思し召しに従うべし。病気が続いても、何もしないで、病気を放置しよう。
人類は昔から、そういう方針を信じる人々が大多数でした。あなたの見解は、ごくごく普通のものです。支持者はたくさんいると思いますよ。