燃料電池車の現状は、どうか? 1〜2年前には、「これこそが次世代のエース」と言われてきたが。 ──
燃料電池車は、1〜2年前には、「これこそが次世代のエース」と言われてきた。朝日はしばしばそういう趣旨の記事を掲載してきた。
しかし、朝日(朝刊・経済面 2008-06-17 )の記事によると、趨勢はすっかり変わったようだ。記事は、次の趣旨。
・ 各社は今も燃料電池車の研究をしている。(特にホンダが熱心。)
・ だが、実用化は、いまだ、はるか先だ。(10年以上先がメド。)
・ 価格も億円単位で馬鹿高い。(10年先で 1000万円がメド。)
・ 水素ステーション(供給所)はごく限られている。
・ 「燃料電池車の時代は来ないかも」という見方もある。
・ その一方で、電気自動車は実用化寸前。
・ 各社は 09年からリチウム電池を量産。
・ 三菱、富士重工、日産は、09 〜 10年に電気自動車を発売。
・ 三菱の目標価格は、250〜300万円。(補助金が前提)
記事では、電気自動車の難点として、次のことが指摘されている。
「燃料電池車の水素の充填は数分で済むが、電気自動車の充電は一晩かかる」
(ホンダ・福井社長・談)
なお、記事とは別だが、日産は電気自動車に全面的に舵を切り替えたようだ。燃料電池車には開発資金をあまり投じない方針であるらしい。この点では、ホンダと日産は正反対だ。(トヨタは両にらみ。あぶはち取らずというか。どっちも中途半端。 (^^); )
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朝日の記事は、現状分析としては、おおむね正しい。ただし、これをこのまま鵜呑みにするようでは、ちょっと困る。そこで、注釈をしておこう。
(1) 過去との対比
朝日は過去、「次は燃料電池車の時代だ」というキャンペーンを大々的にやっていた。そこで私が批判した。
「そんなことはないぞ。燃料電池車の実現可能性は、とても低い。春榊の話にすぎない。15年以上先の話というのは、要するに、実現の見込みが全然立っていないと言うことであって、ただの夢物語にすぎない。むしろ、電気自動車が、次の時代のエースだ」
と。( → 燃料電池車 ,電気自動車 )
今回の朝日の記事は、そういう過去のことを、まるきり無視している。自分が過去に書いたことをすっかり忘れて、それとは正反対のことを書いている。二枚舌というか、恥知らずというか。……
今回の記事は、それ自体では間違いではないが、どうせなら、「過去の記述は全部間違いでした」と訂正するべきだ。そういう訂正をしないでいると、結局は信用をなくす。(船場吉兆みたいなものだ。)
(2) 充電時間
充電時間が一晩かかる、というのは、正しいとは言えない。
なるほど、通常の電池に限れば、その通り。とはいえ、半分ぐらいの料なら、短時間で急速充電する方法がないわけでもない。
また、特に重要なこととして、次のことがある。
「電池のかわりにキャパシタを使うと、充電は5分間で済む」
( → 該当サイト )
こんなことは、ネットを検索すれば、すぐに見つかる。
要するに、燃料電池車派のホンダが電気自動車の欠点を指摘して、それを自分で確認することもなく、鵜呑みにして書いてしまったのが、朝日のお馬鹿記者。一方の側の話ばかりを鵜呑みにするなんて、記者としての基本ができていない、とも言える。
(3) 充電・充填
充電時間のことよりも、もっと重大な問題がある。充電できるかどうか、ということだ。時間はかかってもできるならいい。しかし、時間をかけてもできないのであれば、大問題だ。
電気自動車ならば、この問題はまったくない。家庭には 100ボルトおよび 200ボルトの電源が必ず通っているので、どちらの電源からでも簡単に充電できる。帰宅して、スイッチを入れれば、それでおしまいだ。いちいちガソリンスタンドに行く必要はない。とても楽ちんだ。(朝だって、暖機運転の必要もない。)
燃料電池車では、全然違う。水素ステーション(水素ガススタンド)が、現状ではほとんど皆無である。ま、将来的には、ガソリンスタンドが水素ガススタンドになるかもしれないが、その過程では、途方もなく不便な事態が続く。誰がその不便を忍ぶか? 誰もやらないでしょうね。となると、「猫に鈴を付けるネズミがいない」という状況になって、いつまでたっても燃料電池車は普及しない、というふうになりそうだ。
(4) 水素の元
朝日は「燃料電池車は水素を使うから環境に優しい」と主張するが、とんでもない勘違いである。
水素というものは、天然には存在していない。(稀薄には分布しているが、資源の形で固まって存在しているわけではない。)だから、人工的に作り出す必要がある。そして、そのためには、エネルギーが必要だ。そのエネルギーはどこから来るか? そのエネルギーが石油か石炭から来るのであれば、結局は、石油か石炭を使っているのと、同じことになる。
とすれば、「水素を使うから環境に優しい」ということはないのだ。しいて言えば、次のようになる。
「都会では水素を使うから、都会では環境に優しい」
「地方では水素を作るために石油や石炭を莫大に使うから、地方では環境に悪い」
「両方を差し引きすると、ガソリン自動車と大差ない」
ただし、一つだけ、大丈夫な方法がある。それは「原発を使う」ということだ。(太陽電池や風力発電は、既存の電力使用量をまかなうことすらできない。新たに発生する大量の自動車用電力をまかなうことはできない。)
しかし、である。「原発を使う」のであれば、そこで生じるエネルギーは電力なのだから、そのまま電力として、各家庭に配布する方が、よほど合理的である。そうして電気自動車の電源として使えばいい。
一方、厳罰の電力をいったん水素に変換して、その水素を水素ステーションに運搬し、さらに各自動車に分配し、そのあとで燃料電池で使う、……問いのでは、あまりにも過程が増えすぎて、効率が悪い。無駄。やっていることが馬鹿丸出しである。
( ※ 比喩的に言えば、氷を得るために、いったん氷を溶かして煮沸してから、あらためて冷蔵庫で製氷する、というようなもの。無駄の上塗り。)
(5) エネルギー構想
こうして見ると、燃料電池車の根源的な欠陥がわかる。それは、「エネルギーを総合的に構想していない」ということだ。
燃料電池車を考えるときは、「水素はあらかじめ与えられている」というふうに考える。「水素はある」ということを勝手に前提として、その前提の上で、物事を考えている。
なるほど、それは、「石油がふんだんにある。だから石油をいくらでも使っていい」という 90年代には、妥当はな発想であった。しかし、今や時代はすっかり変わったのだ。「石油はふんだんにはない。価格が高騰しており、資源量が限定されている」と。こういう時代にあっては、「水素はあからじめある」という前提は、もはや成立しない。「どうやって水素を作るか」ということを考えなくてはならない。そして、そう考えれば、こうわかるはずだ。
「石油や石炭を前提とした水素エネルギーの自動車は、もはや時代遅れだ」
と。
燃料電池車の時代は、もはや終わったのである。実現しないうちに、終わってしまったのだ。生まれる前に老いてしまうように。そして、その理由は、技術開発の遅れというよりは、「石油資源が限定されている」ということだ。こういう事態が昨年以降、新たに発生してしまっている。こういう状況では、もはや燃料電池車の時代は来そうにないのだ。
(6) 電気自動車の問題
電気自動車にある問題は、電池だけだ。そして、電池の問題は、急速に解決されつつある。「電池の技術的進歩」や「キャパシタの進歩」である。
( → 泉の波立ち「キャパシタ」 )
そして、これを実現するために、何よりも問題となるのは、技術的進歩ではなくて、「原発の増設」なのである。
やがて数年後に、電気自動車が実用化して、次々と普及していったとしよう。そのときになって、「あ、発電所が足りないぞ。大急ぎで作らなくっちゃ」と思っても、そのときになってからでは遅いのだ。(それはいわば、「バイオエネルギーを普及させよう」と思っていたら、「トウモロコシと小麦の価格が暴騰して、バイオエネルギーどころじゃなくなった」というようなものだ。)
原発と電気自動車は相性がいい。原発は夜間電力が余るが、電気自動車は夜間電力を使うからだ。
朝日のようなマスコミがなすべきことは、「電気自動車は充電時間がかかりますよ」なんていう燃料電池車派の策略に載せられてだまされることではない。むしろ、心を澄ませて、先を見通すことだ。「やがては電気自動車が普及するだろうし、現状のままでは電力危機を招きそうだ」と。
エネルギー問題を理解するには、自動車会社ばかりを取材していても駄目なのだ。それでは策略に載せられて、うまく踊らされるだけだ。
[ 付記 ]
「水素はクリーンだ」
ということを重視するのであれば、別に、燃料電池車にこだわる必要はない。「水素エンジン車」というのもある。マツダやBMWが開発している。水素をガスボンベに入れて、それをガソリンエンジンで燃焼させる、というもの。
ガスボンベに入れるのがちょっと面倒だと思われているが、その点は燃料電池車だって同様だ。上記の朝日の記事では、ホンダの燃料電池車はでかい水素ガスボンベを使っている。
(爆発しないかな、とヒヤヒヤ。ま、ツェッペリンじゃあるまいし、そんなことはないだろうが。)
(その他、水素エンジン車について細かいことは、ネット上の情報を参照。Wikipedia など。)
2008年06月18日
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