前項の補足。
前項では肝心のことを述べた。その補足として、「何が正しくて、何が間違いか」を、対比的に示す。
( ※ 補足的な説明。特に重要ではない。) ──
前項では、次の図式を示した。
生物の本質 = 遺伝子の作用 = 個体の誕生 + 個体の生存
この図式で示したことは大切だ。なぜなら、たいていの人々は、このことを理解していないからだ。
・ 「個体の誕生」だけに着目して、「個体の生存」を無視する。
・ 「個体の誕生」を、個体よりも遺伝子ばかりを見て認識する。
具体的に言うと、たいていの人々は、次のように考える。
「生物の本質とは、自己複製である」
「生物の本質とは、遺伝子を増やすことである」
「生物の本質は、遺伝子にある」
「遺伝子さえ知れば、生命の秘密を理解できる」
こういうふうに、何でもかんでも遺伝子を中心にして、遺伝子の自己複製ばかりを重視する発想がある。
さらに、ドーキンスに至っては、生物と遺伝子との関係を逆転させて、次のように述べる。
「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」
「個体は遺伝子を増やすことのためだけにある」
しかし、そんなことはないのだ。それでは主客転倒であるし、本末転倒である。
では、正しくは?
遺伝子が存在することが大切なのではない。遺伝子が作用するということが大切なのだ。
遺伝子の数が増えることが大切なのではない。遺伝子が作用して個体を生かしているということが大切なのだ。
生物の本質とは、「生きる」ということであり、「生きる」ということの主語は個体である。生物の本質とは、個体における本質だ。遺伝子がいくら増えても、個体が死んでしまえば、「生物の本質」に合致しているとは言えない。
たとえば、「巨人病」とか「象皮病」とか「癌細胞」とかがあって、個体の肉体が巨大化して、組織が増殖したとしよう。そこでは、細胞の増加につれて、遺伝子がどんどん増えていくだろうが、だとしても、そのことで個体が死んでしまっては、生物の本質に反する。遺伝子が増えても、個体が死んでしまっては、何にもならない。
生物の本質は、遺伝子そのものにあるのではない。もちろん、遺伝子の数にあるのでもない。個体がまさしく「生きる」ということにある。その意味で、「巨人病」とか「象皮病」とか「癌細胞」とかでは、個体が「生きる」ということが損なわれているのだから、そういう現象は生物の本質に反するのだ。
ドーキンスならば、「巨人病」とか「象皮病」とか「癌細胞」とかの患者を見て、「これらの患者は生物の本質(遺伝子の増加)に合致しているので、すばらしいことだ」と称賛するだろう。そして人々をどんどん、こういう病気にしたがるだろう。しかし私は、「これらの患者は生物の本質(生きること)に合致していないので、できれば病気を治療してあげたい」と思う。
ドーキンスのような発想(遺伝子中心主義)は、生物学における癌細胞のようなものだ。それらは、間違った思想でありながら、学界や世間においてやたらと賛同者の数を増やしていく。どんどん増殖していく癌細胞のように。そのせいで、間違った思想にとらわれた人間の思想は、癌細胞のような思想に侵食されてしまう。
だからこそ、癌のような思想への治療として、私はドーキンスの説を批判する。「生物の本質は、遺伝子を増やすことではない」と。「生物の本質は、自己複製をするすことでもない」と。そしてかわりに、新たな説を出す。「生物の本質は、生きることだ」と。
──
具体的な話として、このことを、普通の人々に当てはめてみよう。
ドーキンスはあくまで「遺伝子を増やす」という観点で考える。とすると、遺伝子を増やさない人々は、存在価値がないはずだ。むしろ、高齢者はさっさと死んだ方が、自分の遺伝子を残すのに有利であるはずだ。
たとえば、こうだ。
・ 若年期 …… やたらと乱交する。
・ 青年期 …… やたらと妻や人妻と交尾する。
・ 壮年期 …… 産まれた子供を育てる。
・ 中高年 …… 子育てを終えたら、もはや自分は用済み。
・ 老年 …… さっさと死んで、遺産を子供に与えるべき。
このほか、次のこともある。
・ 他のオスを殺して、その人妻を奪う。
・ 前夫の子(継子)を殺す。子殺し。
・ 交尾するときは、近親と。親子間・兄弟間が最適。
げげげ。おぞけが立ちますね。ともあれ、遺伝子中心主義の発想では、こういう奇怪な結論となる。
しかし、そういう結論も、仕方あるまい。遺伝子中心主義の発想によれば、もともと個体は、遺伝子の奴隷にすぎないのだ。個体なんか、ほとんど価値はないのだ。そんな下らないものは、どんな気持ち悪いことをなそうと、どうだっていい。どうせ、ただの遺伝子増殖マシンにすぎないのだから。
しかし、私の発想は違う。私の発想は、遺伝子中心主義ではない。「生きること」を大切にする、個体中心主義だ。(少なくとも「生命」について考えるときには。)
そして、生物の本質が「生きること」だとすれば、ドーキンスのような主張はすべて却下される。やたらと交尾することも、子殺しも、近親交配も、すべて却下される。なぜなら、「遺伝子を増やすこと」など、個体にとってはどうでもいいことだからだ。個体にとって大切なのは、個体そのものが「生きること」だけだからだ。
──
ただし、注意。ここで「生きること」には、「自分が生きること」だけでなく、「子が生きること」も含まれる。それゆえ、「子が誕生すること」も大切になる。親にとっては、「自分が生きること」よりも、「子が誕生すること」の方が大切だ、とすら言える。( → 利子主義 )
では、なぜ「利子主義」が大切か? それは「系統の存続」のためだ。「先祖から子孫へ」という系統の流れが、絶えることなく存続することのためだ。なぜなら、そうした生物だけが、今日まで生き残ることができたからだ。( → 系統の存続 )
利子主義ゆえに、個体は別の個体から誕生した。利子主義ゆえに、個体は別の個体を誕生させる。つまり、先の世代から与えられた生命を、次の世代に受け渡す。……こうして生命を次々と伝達させていくこと。(ちょうど波が次々と伝達されていくように。)それが、生物の本質だ。
──
生命は世代から世代へと伝達されていく。そして、そのためにあるのが、遺伝子だ。
・ 個体が前世代の個体から生まれるために。
・ 個体が次世代の個体を生むために。
・ その間を含む生涯期間には、個体が自らを維持するために。
この三つの目的のために、遺伝子は働く(作用する)。ここでは、「遺伝子が存在すること」が大事なのではなくて、「遺伝子が作用すること」が大事なのだ。
個体と遺伝子とは、このような関係にある。「生まれる」「生きる」「生む」という現象は、あくまで個体の現象だが、それぞれの現象においては、遺伝子は決定的な重要性をもつ。
──
ただし、注意すべきことがある。
まず、個体を見ればすべてがわかるわけではない。(昔の生物学。)
また、遺伝子を見ればすべてがわかるわけではない。(近年の生物学。)
むしろ、個体と遺伝子のダイナミックな相互過程を見ることが、生命を知るために必要なことなのだ。(私の立場)
そして、このダイナミックな相互過程を知るためのキーワードが、「遺伝子の作用」だ。それは、「遺伝子の増加」や「遺伝子の自己複製」とは、まったく異なる概念である。
われわれは今こそ、「遺伝子の増加」や「遺伝子の自己複製」という概念を離れて、「遺伝子の作用」という概念を大切にするべきだ。
( ※ 注釈。実は、最新の遺伝子工学では、遺伝子の塩基配列よりも、遺伝子の作用を解明することが、注目されている。 → Google 検索 )
( ※ 遺伝子工学はこのように、どんどん進化している。しかるに、進化生物学の学者だけはいつまでも停滞している。彼らは、「遺伝子の数」ばかりに注目して、「遺伝子の作用」には注目しないのだ。1970年代のドーキンスの水準に留まって、ちっとも進歩しないのである。まるで進化しない猿のように。)
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[ 注記 ]
注記として、生物学者のために、学術的に述べておこう。
( ※ 参考 → 遺伝情報と生命情報 )
「遺伝子は何をなすか?」
この質問に対しては、次の二点で答えることができる。
(i) 自己複製。(二重らせんがほどけて、二倍に増えること。)
(ii) タンパク質の形成。( RNAを通じた反応。)
前者は、生殖のことである。無性生殖ならばかなり単純だが、有性生殖ならば生殖細胞を通じた「減数分裂」と「交配」と「個体発生」の過程となる。(ドーキンス説では「体細胞分裂」のことは無視されているようだ。私としては「体細胞分裂」も含めたいところだ。)
後者は、本項で述べた「遺伝子の作用」「生命の維持」のことである。個体が生きている限り、代謝機能などでこのことがなされる。
この二つがある。だが、ドーキンス流の発想では、前者ばかりが着目されてきた。「生命の本質は自己複製である」とか、「個体は遺伝子の乗り物である」とか、そういう発想は、前者から生じた。一方、後者の「個体は生きている」ということは無視されてきた。
そこで、「(i)だけでなく(ii)もあるのだぞ。むしろ (ii)の方が大事なのだぞ」と示したのが、本項の趣旨だ。もちろん、(i)のことを否定しているわけではない。「見失われたものに着目せよ。いっそう大切なものに着目せよ」と述べているわけだ。
では、なぜ? それは、(i)を遺伝子の本質だと見なすことは、真実ではなく、虚偽であるからだ。それはいわば、「人間の本質は右半身だけだ」と述べるような虚偽だ。もう少し正確に言えば、「人間の本質は生殖器官だけだ」と述べるような虚偽だ。まったく、情けない。
──
一人一人の人間に即して言おう。
ドーキンスならば、こう言う。「人間の目的は、自分の遺伝子を増やすことだ。乱交をして、自分の遺伝子をたくさん増やそう。優秀な遺伝子をもつ個体と、どんどん乱交すればいい。さあ。街へ出て、優秀な異性を探して、どんどん乱交しよう!」
私ならば、こう言う。「人間の目的は、自分の遺伝子を増やすことではなく、一人の人間として生きることだ。次世代の数を増やすことは、本質ではなく、ただの義務にすぎない。いわば税金を払うようなものだ。やたらと乱交をすれば、税金を払いすぎるように、体力消耗や金銭消耗などで、損をするだけだ。たしかに税金を払うことは必要だが、やたらと税金を払えばいいというものではない。必要分の税金を払えばいいだけだ。同様に、個体は次世代を残す分だけ、交尾をすればいい。やたらと交尾をする必要はない。ただし、個体には快感というものが備わる。これは個体をだまして、本当は損をする行為を得をする行為だと思わせることだ。こうして、個体はだまされて、あえて損になることをなす。つまり、交尾を。しかし、そんなことに、だまされてはならない。やたらと交尾をしても、妄想としての快感を味わえるだけで、ちっとも得をしないのだ。普通の人は、交尾をしてばかりいれば、金銭的にも物質的にも損をするだけだ。(たとえば、勉強ができなくなったり、仕事ができなくなったりして、損をする。)では、人間の目的は、何か? 次世代の遺伝子を増やすことではなく、自分自身がまさしく生きることだ。そして、生きることとは、食べたり、眠ったり、愛したり、喜んだりすることだ。それこそが人間の目的だ。( ……前項の緑枠でも、同趣旨のことを述べた。)」
たとえば、あなたが交尾をすると、あなたは自分の遺伝子を増やすことができるだろうが、そのことに満足感を得られない。やる前には何かに駆られたようにせき立てられるが、やり終えたあとは徒労感を残るばかりだ。一方、あなたが食べたり、眠ったり、愛したりすれば、そのことに満足感を得られる。「腹が満たされた」「眠りが満たされた」「愛が満たされた」という思いがして、生きることの充実を感じる。
見知らぬ他人と愛のない交尾をすることに、どんな意味があるか? ドーキンスならば、「それこそ生物の目的だ。見知らぬ他人と、なるべく多くの交尾をすることこそ大切だ」と語るだろう。しかし現実には、愛のない交尾をしたあとでは、「おれは何だってこんなことをやっているんだ?」と虚しい思いがするだけだ。
ドーキンスはそういうことをちっとも理解していない。彼は自分の遺伝子を増やすために、いっぱい乱交すればよかった。学説を語るだけでなく、学説を実行すればよかった。そうすれば、自説の間違いを実感できたはずだ。
一方、恋をしている人ならば、私の説の正しさを実感できるだろう。恋をしているとき、まさしく生きていることの充実を味わうだろう。見知らぬ他人との交尾のあとで「おれは何だってこんなことをやっているんだ?」と虚しい思いがするかわりに、「恋をすることで自分は実にすばらしい生命を味わっている」という充実を感じるだろう。
( ※ ついでだが、「愛」の大切さは、交尾をするたいていの動物に成立する。交尾をしないで交配する魚類などは別だが、鳥類でも哺乳類でも、オスとメスの合意の上で交尾がなされる。だからこそ鳥類のディスプレーなどが成立する。オスが一方的に自分にの遺伝子を増やそうとして強制交尾をすることはほとんどない。動物でさえ、愛の大切さを理解している。ドーキンスにはわからないだろうが。)
※ つけたし的な話を加えておこう。本文の話題からは逸れる。
「進化」と「生命」との関連について。
これまで「生命とは何か?」を考えてきたことの意義。
[ 付記1 ]
前出項目(自分の遺伝子 10 (生と死)) で述べたように、「進化」と「生命」とを区別することが必要だ。
進化について考えるときには、「個体は遺伝子を増やすためにある」と考えていい。
生命について考えるときには、「個体は遺伝子を増やすためにある」と考えはならない。それは、進化の分野における発想を、生命の分野に持ち込むことであり、お門違いだ。拡大解釈と言える。
生命を考えるときには、あくまで個体が主役である。遺伝子は、個体が生きるためには必要不可欠だが、個体が生きるために役立つ手段にすぎない。
これを逆にして、「個体は遺伝子を増やすための手段(乗り物)にすぎない」と考えてはならない。進化の分野における発想を、生命の分野に持ち込んではならない。(そういうことをしたのがドーキンスだが。)
[ 付記2 ]
そのことを踏まえて、次の結論を得ることができる。
「生命と進化とは、別のことである。両者を混同してはならない。なるほど、この両者は一体化して結びついている。しかし、生命とは個体における一回限りの現象であり、進化とは個体を越えた悠久の時間における現象である。この両者は、同じことではない」
この両者の関係は、「個と全体」である。比喩的に言おう。
・ 学校の学級において、「生徒一人一人と、学級全体」
・ 会社において、「社員一人一人と、会社全体」
いずれの場合も、両者は異なる。ここでは、「個」と「全体」とは、一体化しており、不即不離の関係にあるのだが、これらを認識するときには、別のレベルで認識する必要がある。
たとえば、会社全体の利益を考えるときには、「社員は会社のためにある」と言えるが、個人の人生を考えるときには、「会社は社員のためにある」と言える。この二つの考え方の、どちらが正しいということもない。認識の仕方によって、異なる認識がなされるだけだ。
「生命」と「進化」の関係も、同様である。「生命」に着目するときには、個体中心主義でいい。「進化」に着目するときには、遺伝子中心主義でいい。その二つのどちらが正しいということもない。認識の仕方によって、異なる認識がなされるだけだ。
そして、こういうことを理解するために、「生命と進化とは別のことだ」と区別することが必要なのだ。それが、つまり、「生命の本質」を探ってきたことの意義だ。
( ※ 逆に言えば、ドーキンスは「生命」と「進化」とを混同してしまった。彼は「生命の本質」をまっすぐ探ろうとはせず、「進化」を通じてのみ「生命の本質」を探ろうとしたからだ。彼の発想はあまりにも一面的すぎたのだ。そこで、その一面性を打破するために、新たな視点を提供しようとして、「生命とは何か」を探ろうとしてきたわけだ。)
[ 付記3 ]
なお、すぐ上の件(付記2)については、(別の形で)次のようにも述べた。
“ このように、単に「遺伝子」という言葉で呼ばれていても、「進化における遺伝子」と「生命における遺伝子」とは、まったく別のものである。前者は「遺伝子集合」のことであり、後者は「個々の遺伝子」のことである。両者は同じものではない。”[ 付記4 ]
( → 個体は遺伝子の乗り物か? )
「生命」と「進化」とは、別々のことである。ただし、まったく無関係のことではない。この両者は、不即不離の関係にある。
そして、この二つを結びつけるためのキーワードが「遺伝子」である。
[ 付記5 ]
遺伝子は、「生命」と「進化」を結びつける。ここで、遺伝子がどのような作用をなすのかを探ることが、生物学者の役割だ。
ただし、遺伝子の作用を探るときには、注意するべきことがある。
生物学者の役割は、事実を観察して、事実の奥にひそむ真実を探ることだ。それは、事実を見たあとで、事実から「帰納的」になされることだ。
一方、自分の頭のつくりだした思想や原理によって、すべてを説明しようとすることもある。それは、「演繹的」な方法だ。
ドーキンスはそのように、演繹的な方法を取った。しかし彼は、その方法によって、隠れた真実を見出したのではなくて、真実らしきものを虚偽によって上手に説明しただけだった。
数学のような思念の世界では、演繹的な方法は重要だ。だが、生物学のような事実の世界では、帰納的な方法こそ重要なのだ。ドーキンスは、「利己的な遺伝子」という自己流の原理によって、すべてを説明できたと喜んでいた。だが、説明することがいくら上手にできても、そんな説明には何の意味もない。それはただの「詭弁」(ソフィスティケーション)にすぎない。それは「真実の発見」とはまったく無縁のことであり、ただの「虚構世界の構築」にすぎない。
そして、虚構の話を聞いて、それが虚構であると見抜くためには、生命のすばらしさを心で感じることが大事なのだ。もし感じていれば、ドーキンスの言葉を聞いたとき、「変だな」と気づくはずだ。「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」という説を聞いたとき、「これは、生命を侮辱しているから、どうもおかしいぞ」と気づくはずだ。
真実を見出すためには、虚偽を虚偽と感じる感受性が必要だ。そのためには、心を常に生き生きとさせておくといいだろう。
( ※ 似た趣旨は → 前出項目の [ 付記 1,2 ] )
[ 付記6 ]
比喩で示そう。
遺伝子と生命との関係は、水と波との関係に似ている。
水の一部が盛り上がり、波となる。その波が、次から次へと伝わる。(津波のような波。)
T1 ∧
T2 ∧
T3 ∧
T4 ∧
水は遺伝子に相当し、生命は波に相当する。遺伝子のおかげで、波が盛り上がる。その波の全体を見ると、一つの波が左から右へと移動しているように見える。
しかし、そうではない。波が移動しているように見えるが、本当は何も移動していない。実際には、それぞれの場所で、水が盛り上がり、元に戻るだけだ。
ここで、それぞれの水が、特定の時点で一回限り盛り上がるということが、波になるということである。それが「個体が生きること」に相当する。
一方、水はそれぞれの時点でどこにも同じものある。これが「遺伝子は永遠であること」に相当する。
永遠の遺伝子があることのおかげで、個体はそれぞれの時点で一回限りの生を盛り上げる。
ここでは、「波のために水がある」という発想は成立するが、「水のために波がある」という発想は成立しない。そのことがわかるだけでも、役立つだろう。
( ※ あくまで比喩だ。必ずしも適切とは言えないが、イメージ的に理解する一助としてほしい。)
[ 付記7 ]
裏話ふうのことを示しておく。(特に読まなくてもよい。)
本項(まで)で述べたことは、完全に私の独自の説というほどでもない。他の人々の意見も参照している。
たとえば、「生命の起源は代謝だ」という説がある。ここでは「自己複製」のかわりに「代謝」というものが対比的に提出されている。
そのあと、この「代謝」というものを考え直して、「遺伝子の自己複製でなく、遺伝子の作用」というふうにとらえ直したのが、私の説だ。
なお、私の説では、単に「言葉の言い換え」をしているのではなく、「認識の変更」をしている。そもそも、「代謝」というものはどのレベルでなされているか判然としていないが、「遺伝子レベルの作用だ」とはっきり限定的に指摘している。ここでは、「どのような作用があるか」ということではなく、まさしく「(何らかの)作用がある」ということを強調している。しかも、ここにある視点は、「個体と遺伝子」という視点であり、それによって、「遺伝子の作用がある」と示している。
が、僭越ながら、水を遺伝子とするのは不正確なように思われます。
水(分子)を個体とするほうがより比喩として適正ではないでしょうか。
すなわち、
波を起こす「力」が遺伝子(情報)である、とすると分りやすいのではないかと思えます。
水分子が遺伝子の情報という力を受けて波となり、
それ自体はその場にとどまりながら、次々に波という象を「伝えて」いく。
私はこの比喩を見て、「力」が「波」という象(かたち)の乗り物に乗って
水分子から水分子へと受け渡されていくイメージを描きましたが
このイメージは誤っているでしょうか。
私にはこれで、「個体(水分子)が遺伝子(波を起こす力)の乗り物(波)である」というレトリックを理解できるように思います。
お好みでどうぞ。