生物の本質は何か?
この問題は、前にも述べたが、あらためて考察する。その上で、最終的な結論を与える。(このあとも含め 4回連続。) ──
生物の本質は何か? この問題は、前出項目( A,B )でも扱った。本項と次項では、最終的な結論を出そう。
(1) 自己複製?
「生物の本質は自己複製だ」という見解がある。これはかなり広く普及している見解だ。しかし、この見解については、すでに否定的に述べた。ただ、いちいち私が述べるまでもない。実はすでに、次の否定的な見解も普及している。
「ウィルスは、自己複製をするが、生物とは言いがたい」
なぜかというと、ウィルスは結晶化するものであって、ただの物質にすぎないからだ。つまり、ウィルスは「自己複製する物質」である。(その点では、核分裂する中性子に似ている。)
ここで、生物ではない「物質」の意味は、何か? それは、「生と死とがない」ということだ。ウィルスは、壊れることはあっても、死ぬことはない。とすれば、生きているということもない。生きていないものを「生物」と見なすのはおかしい。
というわけで、自己複製をするウィルスを「生物」と見なせないことから、「自己複製」は生物の本質とは言えないとわかる。
(2) 遺伝子?
そこで新たに、次の見解も提出される。
「生物の本質はDNA(遺伝子)だ」
これはこれで、もっともらしい。実は、この見解は、現代ではひろく普及している。「DNAがわかれば、生命の神秘は解き朝される」というふうに。(ヒトゲノム計画を推進していたころの雰囲気を、思い起こしてほしい。)
だが、この見解も、おかしい。それは、次の質問からわかる。
「DNAは生命か?」
生物の本質がDNAだとしたら、DNAもまた「生命」と見なしてよさそうだ。しかし、DNAは「生命」とは見なしがたい。なぜなら、DNAはウィルスと同様に、ただの物質にすぎないからだ。
DNAは、自己複製をするが、あくまで物質である。DNAは、塩基が組み合わさったものだが、塩基はただの物質にすぎない。また、塩基を構成する炭素と酸素と水素もはただの物質にすぎない。これらの元素も、これらの元素が組み合わさった塩基も、塩基が組み合わさったDNAも、ただの物質にすぎない。
これらはいずれも物質であって、冷凍保存が可能である。冷凍したあとで解凍すれば、元通りになる。しかし、通常の生命は、冷凍したあとで解凍しても、元通りにはならない。人間を冷凍して解凍しても、冷凍人間が生き返ることはない。(特殊な方法で冷凍人間を生き返らせることはできるかもしれないが、単に冷凍するだけでは、冷凍する途中で死んでしまうからだ。いったん死んだものは生き返らない。)
(3) 生と死
以上のことから、生物の本質がわかる。それは、こうだ。
「生物の本質は、生と死をもつことだ」
(そして、いったん死んだものは、生き返らない。物質とは異なる不可逆性がある。)
元素であれ、塩基であれ、遺伝子であれ、DNAであれ、それらは物質である。それらは「生と死」とをもたない。また、状態は可逆的である。
しかし、人間であれ、犬や猫であれ、魚であれ、イソギンチャクであれ、ミジンコであれ、アメーバであれ、いずれも、「生と死」とをもつ。そして、いったん死んだものは生き返らない。── それが生物の本質だ。
つまり、生物の本質は、「生きること」だ。塩基であれ、遺伝子であれ、DNAであれ、それらは「生と死」とをもたないし、「生きること」もない。しかし、人間などの生物は、「生と死」とをもち、「生きている」という状態がある。
生物の本質は、「生きること」だ。これは、いかにも当り前ふうのことだが、まさしく本質的なことなのだ。
なのに、たいていの生物学者は、そのことを無視する。かわりに、「自己複製」ということばかりを考える。つまり、「数の増加」という定量的なことばかりを考える。
しかし、それは正しくない。生物の本質は、定量的に示されるものではなく、定性的に示されるものだ。そして、その定性的な何かが、「生きている」ということだ。
科学者は、物事をやたらと定量的にとらえたがる。しかし、何でもかんでも定量的にとらえればいいというものではない。生きることの本質は、「生か死か」という形でのみ示される。つまり、定性的に示される。
そこには「1か0か」という数値ならばあるが、「 10 か 20 か」というような数値はない。そういうところで、「定量的に示せば、科学的になる」と思い込むのは、とんでもない勘違いだ。そこでは、数字を使えば使うほど、かえって真実から遠ざかるのだ。
生物の本質は、数を増やすことではなく、生きることだ。この核心をはっきりと理解しよう。
( ※ ここまでの話については、似たことを前にも述べたことがある。本項ほどはっきりした形ではないのだが、だいたい同趣旨。
→ 生存が本質だということ
→ 増加の意味
→ 数にとらわれすぎ
→ 遺伝情報と生命情報 )
(4) 生きるとは?
さて。このあとがいよいよ本題だ。(ここまでの話は、すでに述べたことに似ているが、このあとが重要となる。)
生物の本質が「生きる」ことだとすれば、「生きる」とは、いったい何なのか? それが問題となる。
まず、「生きる」とはどういうことかを、ざっと見てみよう。
生物は生きる。「生きる」とは、誕生から死までの期間の状態だ。では、その期間に、何が起こっているか?
生物がいったん死ねば、もはや生物でなくなり、ただの死体となる。では、生物と死体とを区別するものは何か? それが問題だ。
つまり、生物の本質を知るには、「生物と無生物とのあいだ」を知ればいいのではない。「生物と死体のあいだ」を知ればいいのだ。そして、これについて考察すれば、こうわかる。
「生物が生きているとは、遺伝子があるということだけでなくて、遺伝子が活動しているということだ」
生物と死体とを見よう。すると、どちらも遺伝子がある。また、死体を分解して、遺伝子増殖機で操作すると、遺伝子を増やすこともできる。しかし、そんなふうにして、いくら遺伝子を増やしも、遺伝子が増えるだけで、生命が誕生するわけではない。
生物の本質とは、遺伝子が活動しているということだ。それこそがまさしく「生きている」ということだ。このことをはっきりと理解しよう。
( ※ なお、この意味では、ウィルスはどうか? ウィルスは、「生きたり死んだりするもの」というふうになるので、「生命と無生命の中間」というふうに見なせるだろう。活動しているときには生物であるが、結晶化しているときには非生物だ。……ただ、非可逆的ではなく可逆的であるという意味で、死ぬことはないから、生物とはいいがたい。)(なお、このようなことは、ウィルスについての便宜的な分類だから、あまり深く考えなくてもいい。今は、ウィルスの本質より、普通の生物の本質を考えればいい。)
(5) 個体と遺伝子
生物の本質は「生きること」だ。ここで、「生きる」という言葉の主語である「生物」とは、何か? 生物とは、個体であって、遺伝子ではない。……このことは重要だ。
ここで、個体と遺伝子との関係を考えよう。次のように示せる。
・ 誕生 …… 遺伝子が作用して、個体を誕生させる。
・ 生存 …… 遺伝子が作用して、個体の生存を維持する。
このいずれにおいても、遺伝子が作用する。つまり、遺伝子が作用するのは、個体の誕生するときだけでなく、個体の生存しているときもある。
このことは重要なので、はっきりと理解しよう。
「遺伝子」という言葉からして、遺伝子の役割は「遺伝」つまり「親の形質を子に伝えること」、とばかり思い込まれやすい。(たとえば、ドーキンスの発想がそうだ。 → 遺伝情報と生命情報 )
その発想では、遺伝子の作用として、個体の「誕生」のときの作用だけを見ていることになる。だが、本当は違う。
遺伝子の作用とは、個体の「誕生」のときに働く作用だけでなく、個体の「生存」のときに働く作用もある。たとえば、あなたが誕生したときにも作用するが、そのあとも、あなたが生きている限り、遺伝子はずっと作用しつづける。「生命子」として。( → 遺伝情報と生命情報 )
ここまで述べれば、はっきりとわかるだろう。次のように言える。
生物が「生きている」とは、「遺伝子がある」ということではなく、「遺伝子が作用している」ということだ。
たとえば、あなたであれ、近所の犬や猫であれ、空を飛ぶ鳥であれ、樹上の昆虫であれ、地中のミミズであれ、見えない細菌であれ、そこでは、個体が生きている限り、遺伝子が作用している。遺伝子が活発に働いている。それらの遺伝子は、決して誕生のときだけに働くわけではないのだ。遺伝子は、個体の誕生のあとも、個体の生命活動を維持する生命子として、ずっと働き続けるのだ。
逆に、遺伝子が何ら作用していなければ、たとえ遺伝子があっても、それはもはや生物ではない。たとえば、死体がそうだ。また、他にもある。抜けた髪の毛根もそうだし、風に舞う葉もそうだし、傷から出血した血液の赤血球もそうだ。これらは、いずれも遺伝子をもつが、いずれも生物ではない。一方、個体から分離せずに、個体の一部分としてある限り、それらはまさしく生物の一部分となっている。
( ※ これらは、それ単独では生物ではないが、生物の一部である。生物の一部は、物質ではないので、注意。たとえば、あなたの心臓の細胞は、あなたの一部であるから、その細胞を「これは生物ではないぞ、ただの物質だぞ」と思ってはならない。もしあなたの心臓の細胞を勝手に破壊すれば、あなたは死んでしまう。)
結局、生物の本質とは、遺伝子が作用しているということだ。それはつまり、遺伝子が生体の一部として活動しているということだ。
そして、遺伝子がその活動をやめたとき、個体は生物であることをやめて死体となる。つまり、ただの物質となる。
こうして、「生物の本質は何か?」という問題に対する解答が、一応与えられたわけだ。「生物の本質は、生きていることである」と。つまり、「生物の本質は、遺伝子が作用している(活動している)ことである」と。
※ 本項は、話の前段である。このあと次項で、話の後段に移る。
そちらに重要な話がある。(本項では、以前の話のまとめが多い。)
→ 次項
まず最初に申し上げておきますが、何堂さんの主張の根幹の部分についての反論ではないことをお断りしておきます。明らかな誤り、あるいは誤りを誘導しそうな表現についての感想文と御承知いただければ幸いです。
> 「ウィルスは、自己複製をするが、生物とは言いがたい」
これは「生物の本質は自己複製である」という命題の「逆」を述べていますが、
「命題が真であってもその逆は必ずしも真ではない」、というのは論理学の初歩であるかと思います。
仮に命題が真であればその対偶も真となる筈ですから、
対偶が真でないことを示せば「生物の本質は自己複製である」という命題は否定されます。
この場合の対偶は、「自己複製しないものは本質的に生物ではない」でいいかと思いますが、
「自己複製しない生物」を提示すれば命題を否定したことになり、
最初の命題そのものを否定することができます。
ウィルスという「自己複製する非生物」では「生物の本質は自己複製である」という命題の否定にはなりません。
従って、
>自己複製をするウィルスを「生物」と見なせないことから、「自己複製」は生物の本質とは言えない
・・・は、論理で言うなら明らかな誤りです。
「生物が生と死を持つ」ことも確かに本質の一部ですが、
これが生物の本質としての「自己複製」を否定する根拠にならないことも明らかです(参照する面が異なります)。
私が述べていることは、「生物は自己複製をする」であって「自己複製をするものは生命」ではありません、念のため。
本文の本質とは関係無いと窘められるかもしれませんが、どうしても気になってしまいましたので。
これも誤解を招く表現だと思います。まあいいたい事は漠然とわかりますが・・・。
以前にも感じたのですが、「生命」と「物質」の二項の位置付けが腑に落ちません。
もうひとつ言葉の問題ですが、「遺伝子の活動」という表現が適当か疑問です。
「遺伝子は生きていない」とは南堂さんご自身が再々に強調されていることかと思います。
通常、物質である機械装置が「活動している」とは言わないはずです。
この場合は「作動している」若しくは「稼動している」、「機能している」とするのが適当に思えます。
は、生物学の話じゃなくて、論理学の話ですね。では、論理学の解説。
「誤りです」ということはなくて、「真だとは言えない」だけです。「偽である」と示されたわけではなくて、「真だと言うには論拠が足りない」というだけです。
だから、(ここには記されていない)他の論拠があれば、「真だ」というふうになることも考えられます。実際、その通り。「生物と無生物のあいだ」という発想では、「ウィルス以下と、それ以上」という形で境界線を引いている。そのことが論拠となります。そのことは、本項では記していませんが、他の項目では記されています。つまり、他の項目の論拠を使えば、「真だ」と言えます。「偽だ」ということはありません。
> 「生命」と「物質」の二項の位置付けが腑に落ちません。
「物質」とは「無生物」(非生物)のことだと思って下さい。