しかし、近親交配は、「自分の遺伝子を残す」という意味では有利である。ではなぜ、有利であるはずの行動が広まらないのか? ──
( ※ 本項の実際の公開日は 2009-03-17 です)
近親婚は人類においてタブーとされている。これは人類だけで見られる現象ではない。生物一般で広範に見られる現象だ。(一部の下等生物を除く。)
・ 植物における自家不和合性
・ 動物における近親交配を防ぐ行動
特に、後者の例が重要だ。一般に、動物は、成熟すると、その群(つまり家族のようなもの)を抜け出して、遠く離れた個体(つまり血縁度が低い個体)と交配しようとする。
たとえば、次の例がある。
・ ミツバチ …… 成熟したオスは、コロニーを離れて交配する。
・ 羽 アリ …… 成熟したオスは、コロニーを離れて交配する。
・ ライオン …… 成熟したオスは、群(プライド)を離れて交配する。
以下、それぞれについて、具体的に説明しよう。(生物学的な生態の説明。)
──
ミツバチについては、次の説明がある。
新女王は誕生して7日目以後の晴れて風の少ない日に、生涯一度だけの、巣の外での交尾に出かけます。こうした交尾日和には周辺の地域にいる雄バチは地上10m位の上空の一箇所に集まりたむろしています。別々の群のオスが何故一箇所に集まることが出来るかはフェロモンを感じてのことです。羽アリもまた、ミツバチとそっくりな似た事情にある。
新女王はオスがたむろしている場所に現れて飛びます。女王を見るとオスは一斉に追いかけ、先頭のオスが交尾します。
不幸にも交尾出来なかった多くのオスはそれぞれの巣に戻ります。
( → 養蜂・蜜蜂の神秘 )
羽アリってご存じでしょう。あれは地面にいるアリが、交尾するために空に上がっていったの。面白いのはね、巣が違うのに、同じ時期に全部一斉に羽アリとなって空に上がるわけ。そっちの巣も、あっちの巣も、みんな申し合わせたように一斉なんです。こうして空にどんどん上がっていくわけですが、これはオスにとっての体力検定でもあるんです。一つの巣からメスが5、6匹出るとしますね。と、その10倍のオスがメスを追いかける。そして、メスに早く追いついたオスだけが交尾できる。ライオンについては、次の説明がある。
( → アリの国家戦略 )
ライオンの群れは基本的に女系家族で、そこに『他人』の(血統的につながりが無い)オスが1〜数頭加わっています。上記のようにいろいろとあるが、そのいずれも、「自分のいる群から離れて、遠くの異性と交配する」という仕組みができているわけだ。
生まれてきた子どものうち、オスは繁殖能力が付く前に群れから出て行きます。そうしないと、自分の姉妹やいとことの間で子どもが出来てしまうからです。群れから出た若いオスライオンたちは、単独又は兄弟数頭で行動します。まだ身軽なので自分たちで狩をしたり、他の肉食獣が狩り取った獲物を素早く横取りしたりして生きて行きます。
成長して強くなり、体も大きくなったオスは、血縁関係が全く無い、他の群れを乗っ取ろうとします。なかなか成功せず、傷だらけになって追い出されることが多いようです。
……(中略)……
オスライオンは体が更に大きく、たてがみも立派になり、襲ってくる敵と戦うには良いのですが、狩をするには不向きな体になります。メスライオンの獲得した獲物の良い部分を略奪するかのように食べながら、オスライオンは急速に老いてゆきます。
生まれた自分の子どもが成長して繁殖が可能になる前に、新しいオスライオンの挑戦に破れて、老いたオスライオンは群れから追い出されて行きます。そうしないと、自分の娘との間に子どもが出来てしまいます。追い出されて間もなく、大きなボロボロになった体で、野垂れ死にするのがオスライオンの生涯です。
生きてゆくためには、群れが必要です。群れの中で近親相姦を避けて健康な子どもを作るために、自然はこのような過酷な仕組みを作っています。
( → 知恵袋 )
──
さて。このことは、血縁淘汰説や利己的遺伝子説の発想とは、矛盾する。なぜなら、遠くの異性と交配すると、「自分の遺伝子を増やす」という目的を達せないからだ。 (「自分の遺伝子を増やすのが目的だ」という原理を取ると、その原理に反する。)
場合分けして考えよう。
(1) 近親交配をしない場合
遠くの異性と交配する場合は、どうか?
自分の遺伝子と他者の遺伝子が半々となるが、血縁度は、こうだ。
・ 自分の遺伝子 …… 血縁度は 100%
・ 他者の遺伝子 …… 血縁度は 0%
両者が半々だから、子の血縁度は 50%だ。
(2) 近親交配をする場合
近くの異性(親子または兄弟姉妹)と交配する場合は、どうか?
自分の遺伝子と他者の遺伝子が半々となるが、血縁度は、こうだ。
・ 自分の遺伝子 …… 血縁度は 100%
・ 他者の遺伝子 …… 血縁度は 50% (親でも兄弟姉妹でも)
両者が半々だから、子の血縁度は 75%だ。
というわけで、(1) よりも (2) の方が、子の血縁度が高い。つまり、自分の遺伝子を残す効果は、(1) よりも (2) の方が高い。近親交配をした方が、自分の遺伝子を多く残せるのだ。
直感的に言えば、次のように言える。
「赤の他人と交配すれば、その交配は、自分の遺伝子と、他者の遺伝子を残す効果が、半々である。せっせと努力をしても、自分の遺伝子を残す効果は、50%しかない。残りの 50%は、他者の遺伝子を残す効果となって、せっかくの努力が半分無駄になる。
一方、近親者と交配すれば、その交配は、自分の遺伝子を残す効果が 75%である。自分の遺伝子ではない遺伝子を残す効果を、25%まで減じることができる。その分、自分の努力が無駄にならない。同じ努力をしても、自分の遺伝子を残す効果が、かなり大幅に増える」
というわけで、
「自分の遺伝子を残す」
ということが目的であるのならば、近親交配をする方が有利なのだ。(理論的に。)
ではなぜ、さまざまな生物は、近親交配を避けようとするのか? (なぜ現実は理論に反するのか?)
──
このことは、簡単に説明が付く。論理的には、背理法だ。
「Aと仮定すれば、矛盾。ゆえに、Aではない」
今回の件で言えば、次のようになる。
「生物が自分の遺伝子を残そうとすると仮定すれば、矛盾。ゆえに、生物が自分の遺伝子を残そうとするということはない」
つまり、
「仮定は成立しない」
つまり、
「(生物は自分の遺伝子を残そうとするという)血縁淘汰説や利己的遺伝子説の説明は、成立しない」
と結論できる。これで解決がつく。おしまい。
──
さて。話はこれで完結しない。
「血縁淘汰説や利己的遺伝子説の説明は、成立しない」
ということは、わかった。では、何が成立するのか?
この件は、「遺伝子集合淘汰」の発想を使えば、簡単に説明が付く。こうだ。
「近親交配をする形質と、近親交配をしない形質とがあるとき、前者の形質よりも、後者の形質の方が有利だ」
換言すれば、こうだ。
「近親交配をする形質の遺伝子集合と、近親交配をしない形質の遺伝子集合とがあるとき、前者の遺伝子よりも、後者の遺伝子の方が増える」
こうして、「遺伝子集合淘汰」の発想で、「生物は近親交配をしなくなる」ということが説明された。おしまい。
《 まとめ 》
生物には、近親交配を避ける生物的な仕組みがある。そして、そのことは、文化的に決まるわけではなく、生物学的に決まる。そして、こういうことを説明するには、遺伝子集合淘汰の発想があればいい。すべてはきちんと説明が付く。
一方、「自分の遺伝子を増やそう」という発想がある。血縁淘汰説・利己的遺伝子説の発想だ。この発想を取ると、近親交配のタブーを説明できない。それどころか、「生物は近親交配をしたがる」という、事実に反する結論を出すことになる。
《 注記 》
本項で何がポイントかというと、次のことだ。
「自分の遺伝子というような発想を用いると、とんでもない結論になる」
このことが、「近親交配の是非」という問題からはっきりするわけだ。この問題を扱うことで、「自分の遺伝子」という発想の問題点が浮かび上がるわけだ。(血縁淘汰説や利己的遺伝子説の発想が否定されるわけ。)
( ※ 「ミツバチは、自分の遺伝子を増やすために、妹育てをする」という説が成立するのであれば、「人間などは、自分の遺伝子を増やすために、近親交配をする」という説が成立するはずだ。…… イヤミですけど。 (^^); )
【 追記 】
本項の核心( or 結論)は、次のようにも言える。
「自分の遺伝子なんてものはない」
メラニン色素の遺伝子とか、鎌形赤血球の遺伝子とか、そういう個々の形質を決める遺伝子ならばある。しかし、「自分の遺伝子」というものはない。
本来の遺伝子ならば、それはゲノムであり、その塩基はきちんと決まる。電子顕微鏡で分子を見ることもできる。しかし、「自分の遺伝子」は違う。「自分の遺伝子」には、特定の塩基配列などはない。また、電子顕微鏡で分子を見ることもできない。「自分の遺伝子」とは、特定の遺伝子のことではなくて、ある個体に備わるさまざまな遺伝子の全体のことだ。
・ メラニン色素の遺伝子はこれこれ
・ 鎌形赤血球の遺伝子はこれこれ
……
という2万余りの遺伝子の全体のことだ。そして、そのような遺伝子全体は、(個体ごとに)自然淘汰で競合することはない。自然淘汰で競合するのは、あくまで、それぞれの形質の遺伝子だ。
要するに、「鎌形赤血球の遺伝子が、自然淘汰で競合する」ということならばあるが、「(各人の)自分の遺伝子が、自然淘汰で競合する」ということはありえない。……これが現代の集団遺伝学の発想だ。
ドーキンスは、本来、集団遺伝学の発想に基づいて、自説を形成した。しかしながら、いつのまにか、自説に反することをやらかしてしまったのだ。「自分の遺伝子」という概念を提出したときに。
( ※ では、正しくは? 「自分の遺伝子」という概念を導入しないで、単に形質ごとの遺伝子の増減を考えれば良かったのだ。そうすれば、自己矛盾に陥らないで済んだ。)
( ※ 例。ミツバチの妹育てを説明するときには、「ミツバチが自分の遺伝子を増やそうとする」と語るよりは、「妹育てをする遺伝子が自然淘汰のなかで増えていく」と語ればよかった。そこには「妹育ての遺伝子」という発想はあるが、「自分の遺伝子」という発想はない。)
( ※ 詳しくは → 自分の遺伝子 6 (解説A) )
※ 以下は特に読まなくてもいい。
[ 付記1 ]
なぜ近親交配をしない形質が有利なのか? そのわけは、有害な劣性遺伝子が発現しないからだ。
このことは有名なので、いちいち解説しない。次を参照。
→ Wikipedia
[ 付記2 ]
本項では「生物は近親交配をしない」と述べた。ただし、細かく言えば、例外はいくらでも成立する。つまり、「近親婚をしがちである」という形質をもつ種は、かなりたくさんある。
特に、やや下等な生物では多い。骨のない下等生物だけでなく、魚類にも近親交配はかなり見られる。
かなり高度な種でも、猿には、近親交配がかなり頻繁に見られる。これは、「近親交配をしたがる」というよりは、特に忌避する形質が備わっていないだけだろう。
なお、近親婚がかなり広範に見られるのは、次の理由によるのだろう。
・ 個体の差(血筋の差)を認識できない。
・ とにかく近距離の個体と交配する。
・ あえて遠距離に出向いて交配するという形質をもたない。
最後の点はかなり重要だ。ライオンならば放浪をすることが可能な草原があるが、猿ならば群を離れたところに生存可能な領域があるとは限らない。となると、猿山(?)を抜け出すことが困難になりがちだ。つまり、近親婚を避けようとして流浪の旅に出ると、餓死しかねない。必然的に一定集団の外に抜け出しにくくなる。
( ※ 何だか最近の不況を考えると、まずい感じがしてきますね。 (^^); )
【 関連項目 】
近親交配については、
→ 自分の遺伝子 3 (関連)
※ ここにも「近親交配」の話がある。ただし、内容は薄くて水っぽい。
本項の方が詳しいので、上記項目は特に読まなくてもよい。
──
自分の遺伝子については、別途、シリーズがある。次の項目から始まるシリーズ。
→ Open ブログ 「自分の遺伝子 1」 〜
このことは、血縁度が50%である親子や兄弟間の交配で成立する。ただ、iPS 技術を使うと、自分自身の遺伝子から精子と卵子を作ることで、血縁度が100%の交配も可能となる。
しかし、そのように血縁度が極端に高い交配は、劣性遺伝病を発現しやすいので、進化論的には不利である。(つまりドーキンス説は成立しない。)
→ http://b.hatena.ne.jp/entry/diamond.jp/articles/-/26955
「種としての遺伝子を残していくことが目的」というのは、現実のことです。それは遺伝子集合淘汰説できちんと説明されます。それは「血縁淘汰説や利己的遺伝子説の発想」(存続ではなく増加が目的)とは違います。
「矛盾する」という言葉の意味を理解してください。論理矛盾のことです。間違っているという意味ではありません。