( ※ 本項の実際の公開日は 2009-03-18 です) ──
血縁淘汰説については、別文書に詳しく述べてある。
血縁淘汰説とは
ただしそれは、概説のほか、細かな問題点で指摘する形であった。ちょっと知識のある人向け。
そこで、この項目では、初心者向けに簡単に示す。
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血縁淘汰説については、Wikipedia にも説明がある。
→ Wikipedia 「血縁淘汰説」
しかし、この説明はかなり歪んでいるので、正しい事情を示す。
(1) 遺伝子淘汰
血縁淘汰説の発想を「遺伝子淘汰」であるという趣旨で述べている。そのこと自体は間違いではない。ただし、次のことは間違いだ。
「この説は……次の……点でそれまでの考え方を変えた」
これは正しくない。「遺伝子淘汰」という発想は、ハミルトン(1936 - 2000 )以前から形成されつつある。Wikipedia 自身に、次の記述がある。
「適応度の概念を提唱し、数学的なモデルとして構築したのは集団遺伝学者ロナルド・フィッシャー、J・B・S・ホールデン、シュワール・ライトらであった。W.D.ハミルトンはこれを拡張して包括適応度を提唱した。」
→ Wikipedia 「適応度」
要するに、「それまでの考え方を変えた」というほどではない。すでに知られた「遺伝子淘汰」という発想を発展させたにすぎない。
(2) 血縁者経由
血縁淘汰の核心は、次のことだろう。
「自分自身が子を残さなくても、自分の血縁者を経由して遺伝子を残せば、同じ遺伝子が残される」
これはこれで問題ない。たいていは、このことをもって、血縁淘汰説の本質だと述べる。Wikipedia もまたそうだ。そして、そう語る範囲では、間違いではない。
ただし、間違いではないのだが、記述不足だ。これでは肝心のことが語られていないからだ。
「ミツバチはなぜ利他的行動をするか?」
これに対して、「利他的行動でも大丈夫だ」というふうに説明するのが、上記の説明だ。これはこれで問題ない。
しかしながら、ここではもう一つ、別のことが問題になっている。
「ミツバチはなぜ利己的行動をしないか?」
換言すれば、次のことだ。
「ミツバチはなぜ不妊なのか?」
実は、この「不妊」という問題こそ、核心的な問題なのだ。ミツバチは、妹育てをすること自体が問題なのではない。不妊ならば、妹育てをすることは、当然だろう。次の二者択一だからだ。
・ 不妊でない妹経由で遺伝子を残す。
・ 不妊である自分自身の利己主義で遺伝子を増やさない。
この二つしかないのだから、前者を取るのは当然だ。これについては、上記の説明は成立するが、ごく当たり前のことだから、いちいち騒ぐほどのことではない。
問題は、「なぜ不妊になるのか」ということだ。そして、これについては、「血縁者を通じて遺伝子を残しても大丈夫」という説明は、説明としてはまったく説明不足だ。
「血縁者を通じて遺伝子を残しても大丈夫」
ということは、
「妹育てをすることには利益がある」
ということを結論するだけであって、
「自分が不妊である」
ということを説明していないからだ。
結局、Wikipedia のような説明では、「不妊である」ことの説明としては、まったく説明不足である。それは、「不妊でも大丈夫」ということを示すだけであり、「あえて不妊になる」ということを示していないからだ。
一般に、「Aでも大丈夫」ということと、「Aでなくてはならない」ということとは、まったく別のことだ。後者を説明するには、必然性を示す必要がある。
( ※ そもそも、何事であれ、有利な形質だけでなく、不利な形質だって、存在できるはずなのだ。致命的でなければ。……とすれば、自分の子を育てるミツバチは、いくらか不利なところがあっても、存在していいはずなのだ。なのに現実には、そうではない。そこのところを説明するには、前述の説明はあまりにも力不足だ。)
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そこで、「不妊であること」を積極的に説明しようという発想が生じた。それが
「血縁度の高い個体を育てる方が有利だ」
という発想だ。( Wikipedia では「 3/4 仮説」と呼ばれる。)
なるほど、この発想によれば、
「子供を育てるよりは、妹を育てる方が、有利である」
という結論は出る。しかし、これもまた、
「ミツバチは(必ず)不妊である」
ということを説明しない。(単に「有利だから多い」と結論できるだけだ。)
そもそも上の発想は、「不妊である」ことを説明するかわりに、次のことを説明する。
「(不妊ではなく)自分の子を産んだあとで、自分の子のかわりに妹を育てる」
しかしながら、これはあまりにも馬鹿げている。そんな生物は存在するはずがない。たぶん。
( ※ なぜか? 子供を産んで、子供を見捨てる、というのは、あまりにも非効率だからだ。だったら最初から産まない方がマシ。)
むしろ、真相は、次のようであるはずだ。
「もし子供を産むと、子供を育てて、妹を育てない。しかし、妹を育てないのは、それでは困る。ゆえに、(妹を育てるように)あえて不妊になる」
これが真相だろう。そして、それを説明するには、
「妹を育てるのが有利だから」
というふうに示すのでは駄目で、
「不妊であることが(圧倒的に)有利だから」
と示す必要がある。そして、そういうふうに示したとき、初めて、
「なぜ不妊であるか」
ということの説明がついたことになる。
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結論。
ミツバチが自分の妹を育てるのは、自分の子を育てるのよりも有利だからではなく、自分の子がいないからだ。
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まとめ。
血縁淘汰説は、
「妹を育てても遺伝子は残る」
と説明した。しかし、それだけでは、ミツバチが利他的行動を取ることを説明できない。それで説明できるのは、「利他的行動を取っても大丈夫」ということだけであって、「利他的行動を取る必要性がある」ということではない。
そこで、「利他的行動を取る必要性がある」ということを説明しようとして、「妹を育てることの方が自分の子を育てるよりも有利」と述べた。だが、そんなことは成立しない。なぜなら、自分の子は存在しないからだ。(存在しないものとの競争関係は成立しない。)
では、正しくは? 次の競争を考えればいい。
「不妊である/不妊でない」
そして、「不妊である」が「不妊でない」よりも有利であれば、「不妊である」という形質がひろがる。(そういう遺伝子が増える。)そして、そのことで、結果的に、不妊のミツバチのなかで、
「妹を育てる/妹を育てない」
という競争が起こり、「妹を育てる」という方の形質だけが残る。
結局、ここでは、「不妊であるか否か」が決定的に重要だ。その点を通じてのみ、遺伝子の増減が起こる。
一方、血縁度の高低をもって遺伝子の増減が起こると考えるような発想は、間違った発想だ。はっきり言って、「血縁度」という発想は、まったく必要ないのである。
( → [ 付記1 ])
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対比的にポイントを示そう。
「妹を育てること」に対比される形質は、「自分の子を育てること」ではなくて、「(不妊でありながら)妹育てをしないこと」である。
「自分の子を育てること」に対比される概念は、「妹を育てること」ではなく、「自分の子を産まないこと」もしくは「自分の子を産んでも育てないこと」である。(そういうふうに対立遺伝子をもつもの同士で比較するのが遺伝子淘汰の発想。)
なのに、「妹を育てること」と「自分の子を育てること」とを対比してしまうとしたら、比較にならないものを比較してしまっていることになる。(対立遺伝子ではないものの競争関係を論じている。)
この意味で、血縁淘汰説は、学説としては破綻している。それはもはや、遺伝子淘汰の発想から逸脱してしまっているのだ。
(自分で自分に矛盾している、というようなもの。遺伝子淘汰の発想から出発しながら、遺伝子淘汰の発想から逸脱している。首尾一貫していないとも言える。)
(ただし、矛盾というほどではない。間違っているというよりは、正しさの根拠が全然不足するという意味。)
[ 付記1 ]
「血縁者を経由して子孫を残す」
ということをいいたいのであれば、血縁度をいちいち計算する必要はない。血縁度はどんなに低くても構わないからだ。なぜなら、比較対象が「自分の子」であるならば、自分の子を産まない以上、存在しない自分の子を育てるよりも、どんなに遠縁の血縁者であっても有利だからだ。
また、仮に自分の子がいたとしても、血縁度は無意味だ。なぜなら、自分の子と比較されるのは、自分の妹ではなく、自分の姪だからだ。そこで血縁度を比べても意味はない。自分の姪は自分の子よりも血縁度は低いからだ。血縁度から得られる結論は、「自分の妹を経由して自分の姪を産むよりは、自分の子を産む方が有利だ」ということだ。これでは妹育ての理由にならない。
[ 付記2 ]
「自分の子をよりも、自分の妹の方が血縁度が高いから、自分の妹を育てる方が有利だ」
という説が成立しないことは、次のことからもわかる。
「自分が子を産めば自分の子が増えるが、自分の妹を育てても自分の妹は増えない」
これはどうしてというと、次のことによる。
(a) 不妊の妹を育てても、自分と同世代なので、まもなく滅亡する。
(b) 不妊でない妹(= 新女王バチ)は、たった1匹しかいないからだ。
特に、(b) が重要だ。…… 千匹の働きバチが、コロニーにたった1匹だけの妹を育てても、妹の数は1匹から少しも増えない。だから、「妹を増やす」という効果は皆無である。
ちなみに Wikipedia には、次の記述がある。
「その個体の兄弟姉妹を多数増やすことに成功するならば、その個体自身が子供を残さなくても、その兄弟姉妹を通じて その遺伝子は子孫に それ自身を残すことに成功する」これは間違いだ。
(a) のことゆえに、不妊の妹を増やすことはできても、遺伝子を残すことはできない。
(b) のことゆえに、不妊でない妹の数は、1匹に限られる。その1匹だけを育てても、1匹という数はちっとも増やせないのだ!
( ※ → ミツバチの利他的行動 3 )
ミツバチが増やすことができるのは、姪だけだ。だから、「姪を増やす」ということならば成立する。
ただし、その場合は、姪の血縁度が 37%になる。(これは子の血縁度である 50% よりも低い。)……その意味で、「血縁度」という概念は、「妹育て」に関してはまったく意味をなさない。もちろん、血縁淘汰説もまた意味をなさない。
妹育ての理由は、血縁度とは別のところにある。
[ 付記3 ]
妹育てをする本当の理由は、不妊だ。……だから、「不妊が有利である」ことの理由を示すのが、正しい道だ。
では、不妊は、なぜ有利なのか? これは、別項で示した。本項末尾のリンクを参照。
( ※ 簡単に言えば、不妊は、「社会性をもつこと」と裏表の関係にある。不妊をやめれば、社会性をもたない。それぞれの個体は、自分の子を産んで育てるので、単位は「家族」などになる。その場合、「コロニー」を単位とすることはできないし、社会性をもつこともできない。社会性をもつことと、不妊であることとは、裏表の関係にある。そして、ミツバチの場合、社会性をもつことが生存のためには圧倒的に有利だった。だから不妊という形質が広まった。そして、妹育ては、不妊に付随する副次的な形質にすぎない。……これが真相である。)
[ 付記4 ]
「ミツバチはなぜ、妹育てをするか?」
というのは、実は、問題自体が適切でない。正しい問題は、次の通り。
「ミツバチはなぜ、社会性をもつか?」
この問題が本質的だ。そして、この問題では、「社会性」とは次の行動を意味する。
「妹育て、巣作り、蜜集め、天敵への攻撃 etc. 」 ( → 説明 )
つまり、ミツバチにおいて、「妹育て」というのは、多くの社会性のなかの一つにすぎない。特に「妹育て」だけが大切なわけではないのだ。
ここでは、社会性を全般的に理解する必要がある。そして、それは、「不妊」という形質と裏表の関係にある。……こうして、本質的な問題から、本質的な解答が得られる。
( ※ 「妹育て、巣作り、蜜集め……」などは、社会的行動である。このうちの「妹育て」だけに着目して、それを説明しようとするのが、血縁淘汰説だ。ただし血縁淘汰説は、「妹育て」以外を説明できない。これらはいずれも、社会的行動であり、利他的行動[利全的行動]であるが、血縁とは関係がない事柄なので、血縁淘汰説では説明できない。)
( ※ 血縁淘汰説には、「妹育て」だけに着目する。それでいいかというと、そうではない。「血縁度」という概念にとらわれると、間違った解答へ迷走してしまう。「1匹しかいない妹の数を増やす」とか、「血縁度の低い姪を増やす」とか、おかしな解答にたどり着いてしまう。もともと本質から はずれた概念だからだ。)
[ 付記5 ]
本項は、結論として、次のように言える。
ミツバチの「妹育て」の本質は、「不妊」「社会性」である。これと「遺伝子淘汰」の発想で、すべてはきちんと説明がつく。
そこに、「血縁度」という概念を持ち込んでも、何ら意味はない。事情がこんぐらがるだけだ。(むしろ、間違った結論を引き出す。)
また、「利己的」「利他的」という概念も、必要ない。その概念は「個体淘汰」という発想を取ったときにのみ現れる概念だから、「個体淘汰」という発想を取らないときには、必要ない。
【 関連ページ 】
→ [補説] ミツバチの利他的行動 1
ここには、もうちょっと詳しい話が書いてある。初心者向け。
血縁淘汰説については、本項のあと、こちらをご覧ください。
→ 血縁淘汰説とは
ここには、さらに詳しい話が書いてある。ただし概説のみ。
ここを出発点にして、あちこちのリンク先を読めばよい。
( ※ まともに読むと、分量は相当、多くなる。)
血縁淘汰説の難点は、「必要十分」という論理学用語を使うと、はっきりする。それは「必要条件」を満たしているが、「十分条件」を満たしていない。
(1) 妹と姪を経由して遺伝子が残ること …… 必要条件。これは血縁淘汰説で説明できる。(遺伝子淘汰説でも説明できる。)
(2) 不妊および社会性をもつこと …… 十分条件。これは血縁淘汰説で説明できない。(遺伝子淘汰説では説明できる。)
だから、血縁淘汰説でなく、遺伝子淘汰説で説明すればいいのだ。ただし、遺伝子淘汰説で説明するには、「なぜその形質が有利であるか」を説明する必要がある。そのためには、利全主義の概念が必要となる。
> しかしながら、……そんな生物は存在するはずがない。
と述べたことには、揚げ足取りが予想される。
「これこれの実例があるぞ」
というふうに。
そこで、解説しておく。
「自分の子を産んだあとで、自分の子のかわりに妹を育てる」
という実例は、「例外」としてなら、いくらでも見出される。たとえば、人間だって、弟妹や姪甥を助ける例はいくらでも見出される。特に、自分の子を死なせた人は、姪や甥を養子にもらうことがある。
また、人間以外の生物でも、似た例は散見される。
こういう例外は、けっこう見つかる。しかし、そんな例外をいくら示しても、何の意味もない。上記の文は、「例外が一つも存在しない」ということを主張しているわけではないのだから。
「そのことが(例外でなく)一般原則となるような生物はいない」
という主張をしているだけだ。
「Aが原則だ」と述べたときには、「例外としてのBが一つも存在しない」と述べているのではなく、「Bが原則とはならない」と述べているのだ。勘違いしないように。
例外を見出して揚げ足取りをして喜ぶ、という人はけっこういる。しかし、生物学においては、例外などをいくら見出しても、何の意味もないのが普通だ。
タイムスタンプは 下記 ↓