2008年04月09日

◆ 遺伝情報と生命情報


 「遺伝子とは生命子のことだ」と前に述べた。つまり、「遺伝形質というものは、生物のうちの個体差の部分にすぎない」と。( → 前出
 個体の生存にとって重要なのは、生命情報の部分である。遺伝情報の部分は、非本質的である。ただし、進化においては、遺伝情報の方が本質的となる。……この違いを理解しよう。
    ( ※ 「自分の遺伝子」シリーズの補足。)
 ──

 あらかじめ結論を簡単に述べれば、次のようになる。
  ・ 生命情報 …… 生物に必要不可欠な重要な情報。
  ・ 遺伝情報 …… 生物に不要だが、進化には必要な情報。


 生命情報とは、生命形質のための情報である。たとえば、腕を形成するための遺伝子(生命子)とか、骨格を形成するための遺伝子とか。これらがなければ、個体発生は失敗し、流産するので、個体は誕生できない。これらが全遺伝子のうちの 99.9% を占める。(数値はおおまか。)
 遺伝情報とは、遺伝形質のための情報である。たとえば、目の色の遺伝子とか、身長の長短の遺伝子とか。これらが少しぐらい変異しても、個体発生には影響しない。目の色が変わろうが、身長がどの程度であろうが、個体は誕生できる。これらは全遺伝子のうちの 0.01% だけを占める。(数値はおおまか。)

 われわれが「遺伝子」と呼ぶものには、この二種類がある。そして、この二種類を、はっきりと区別するべきだ。

 ──

 進化にとって重要なのは、「遺伝情報」の方である。特に、「自然淘汰」という発想では、「遺伝情報」だけに着目する。つまり、全情報のうちの 0.01% だけに着目する。その小さな部分において、「優勝劣敗」という概念が成立する。この小さな部分の差異が、長い時間をかけて、種全体に進化をもたらす。

 生命にとって重要なのは、「生命情報」の方である。「遺伝情報」の方は、生命にとってはどうでもいいことだ。
 たとえば、あなたの目の色がどうであろうと、あなたの身長がどうであろうと、あなたにとってはどうでもいい。ま、人生論的に「もっと身長が高ければいいのに」と悩むことはあるだろうが、大した悩みではない。「ある種の遺伝子のせいで白血病(など)になって、余命はあとわずか」というような致命的な問題ではないからだ。「余命はあと一年」と宣告されることに比べれば、身長の問題などどうでもいいことだ、と感じられるだろう。
 人間にとって大事なのは、自分が生きるということであり、遺伝形質の多少の差異などはどうでもいいことなのだ。

 ──

 以上のように、「遺伝情報」と「生命情報」とは、意味合いが異なる。対比させよう。
  ・ 遺伝情報 …… 進化にとっては重要だが、個体にとっては重要でない。
  ・ 生命情報 …… 個体にとっては何よりも重要だ。


 一方、前項で述べたように、次のことがある。
  ・ 遺伝子 …… 進化にとっては重要だが、個体にとっては重要でない。
  ・ 生命  …… 個体にとっては何よりも重要だ。


 この二通りの対比は、たがいに密接な関連がある。
 ただし、特に留意するべきことは、いずれの対比においても、二つの事柄を対比的に区別するべきだ、ということだ。

 ──

 一方、この二つの事柄を、混同してしまう立場がある。それがドーキンス流の「自分の遺伝子」という発想だ。
 ドーキンスの発想では、「遺伝子こそ生命の本質だ」ということになる。しかし、その発想は、「0.01% の部分こそDNAの本質だ」ということを意味するので、残りの 99.9% を見失うことになる。

 ドーキンスの発想では、遺伝子の差異ばかりを重視する。たとえば、
 「目の色が黒いと有利だから、目の色が黒いものが増える」
 「身長が高いと有利だから、身長が高いものが増える」
 というふうに。なるほど、そういう発想を取ると、0.01% の部分の変化をうまく説明できる。しかし、それで説明できるのは、あくまで 0.01% の部分の変化だけだ。残りの 99.9% を見失っている。最も重要な部分を見失っている。つまり、生命の本質を。
 さらに、あろうことか、「 0.01% の部分こそ生命の本質だ」というふうに主張してしまっている。 0.01% の部分だけを見て、「それこそがすべてだ(本質的だ)」というふうに主張してしまっている。ここにはひどい誤認がある。
 では、なぜ、そういう誤認をなしたのか? それは、先の二通りの区別をしていないからだ。その区別ができていないから、 0.01% の部分だけを見て、それをすべてだと思い込んで、99.9% を見失ってしまっている。

 ──

 繰り返す。
 0.01% の部分と、99.9% の部分とを、区別する必要がある。つまり、遺伝情報の部分と、生命情報の部分とを。
 進化にとって重要なのは、0.01% の部分だ。
 生命にとって重要なのは、99.9% の部分だ。
 だから、われわれが考察するときには、われわれが何を考えているかで、着目する部分を変える必要がある。

 われわれが進化を考えるときには、0.01% の部分(遺伝形質の部分)だけに着目すればいい。なぜなら、他の 99.9% は、誰もが同じなので、無視できるからだ。
 われわれが生命を考えるときには、99.9% の部分(生命形質の部分)にこそ、着目するべきだ。なぜなら、99.9% の部分は、(進化を考えるときには無視されるとしても、)まったく存在しないわけではないからだ。むしろ、その部分こそ、生命においては本質的だからだ。

 このように、場合ごとに、着目する部分を変えて、発想を変える必要がある。
 しかしながらドーキンスは、その区別をしなかった。進化を考えるときには遺伝情報が重要だったからといって、生命を考えるときにも遺伝情報が重要だと思い込んだ。そのあげく、「遺伝子(遺伝情報)こそ生命の本質だ」と見なして、「特定の遺伝子が増えようとすることが生命の本質だ」と考えた。あげく、「近親交配や子殺しが当然だ」という結論に至ってしまった。……こうして、倒錯的な結論が生じた。
 だから、そういう倒錯的な結論を避けるためには、「遺伝情報と生命情報」とを区別するべきなのだ。そうすれば、次のように結論できる。
 「進化においては遺伝情報が重要だが、生命においては生命情報こそ重要だ。生命にとって大切なのは、個体が誕生することであり、そのためには、生命情報がそろっていることが必要だ。そして、それがすべてだ。細かな遺伝情報の差異など、どうでもいいことだ。細かな遺伝情報の差異は、種全体の長期的な進化にとっては重要だが、今まさに生きている一個の個体にとってはどうでもいいことだ。今まさに生きている一個の個体にとっては、大切なのは、細かな遺伝情報の差異ではなくて、生命情報がそろっていること、つまり、自分が個体としてまさしく誕生して生きているということなのだ。個体にとって大切なのは、自らの生存であり、自らの生命情報である。細かな遺伝情報の差異など、生命にとってはどうでもいいことだ。(進化にとっては重要だが、個体にとってはどうでもいいことだ。)」


 結局、次のように区別することが必要だ。
  ・ 進化と生命とは区別されるべきだ。
  ・ 遺伝情報と生命情報とは区別されるべきだ。
  ・ 0.01% の部分と 99.9% の部分とは区別されるべきだ。

 そして、この区別ができないところから、ドーキンス流の「自分の遺伝子」という発想が生じた。
 つまり、「自分の遺伝子」という間違った発想の根源には、「進化と生命とを区別しないこと」ということがある。概念の混同が、誤った認識をもたらすのだ。



 なお、補足しておこう。こういう誤認が起こることの基本には、次のことがある。
 「遺伝子とは何か、ということを根本的に誤解している」
 そもそも、遺伝子とは何か? 「遺伝形質を決めるものだ」とたいていの人は信じている。しかし、それが根本的な誤りだ。遺伝形質とは、生物の形質のうちの非本質的な部分であり、0.01%の部分だ。そんなことはどうでもいい。大切なのは、生命形質であり、99.9%の部分だ。つまり、生命形質だ。
 遺伝子とは、遺伝形質を決めるものではなく、生命形質を決めるものである。その意味で、遺伝子は、「遺伝子」と呼ぶより、「生命子」と呼ぶべきものだ。
── このことは、先の項目でも述べたとおり。
 ところが、たいていの人は、このことを理解していない。かわりに、「遺伝子は遺伝形質を決めるものだ」と思い込んでいる。そういう根本的な誤解が、前述の誤認をもたらすわけだ。

 ──

  【 追記 】
 本項の話は、「自分の遺伝子」という概念とも関連する。
 ドーキンスが「自分の遺伝子」という概念を述べているとき、彼は 0.01%の部分だけを見て、99.9%の部分を見失っている。その 0.01%の独自性だけを見て、「自分の遺伝子」と称している。
 しかし、各人のもつ遺伝子のうち、 99.9%は人類に共通する遺伝子だ。その遺伝子を「自分の遺伝子」と呼ぶことはできない。99.9%は「人間の遺伝子」であって、「自分の遺伝子」ではない。
 人が子を生むとき、0.01%の「自分の遺伝子」(遺伝形質の遺伝子)と、99.9%の「人間の遺伝子」との、双方を使って、子を生む。ここで重要なのは、99.9%の方だ。それは不可欠である。一方、0.01%の方は、必要不可欠ではない。変異してしまっても構わない。
 人が子を生むことについて、「(0.01%の)自分の遺伝子を増やすためだ」とドーキンスは言う。しかしそれは、小部分を見て、全体を見失った考え方だ。むしろ、0.01%の部分には着目せず、99.9%の部分に着目するべきだ。そうすれば、こう考えることができる。「(0.01%の)自分の遺伝子などは、どうでもいい。むしろ、(99.9%の)人間の遺伝子を必要不可欠な手段として使うことで、個体を生むことができる」と。
 目的は、自分の遺伝子を増やすことではなくて、自分の子を生むことだ。そのことは、99.9%の部分に着目すれば、はっきりとわかる。
 ただし、0.01%の部分だけに着目すると、倒錯的な発想が生じる。「自分の子を生むのは、自分の遺伝子を増やすためだ」というふうに。── 木を見て森を見なければ、真実とは逆のことが目に見える。

 ──

( ※ 「 0.01%の部分を見て、99.9%の部分を見ない」というのは、「木を見て森を見ず」ということだ。これが現代の進化論学者の立場だ。自分の見た小さな物だけを見て、それがすべてだと思い込んで、「すばらしい成果」と浮かれている。なるほど、彼はたしかに、一本の木を発見した。それは事実だ。ただし彼は、自分が見出したものについては理解しているが、自分が見ていないものについてはすっかり失念している。木を見ようとして、あまりにも木に近づきすぎたために、それまでは視野に入っていた森全体を、すっかり見失ってしまったのだ。)



 [ 参考 ]
 本項は、前々項前項の話を引き継いでいる。「進化と生命とは区別されるべきだ」という点については、そちらも参照してほしい。(特に、進化と生命の区別については、前々項が重要。)
posted by 管理人 at 17:59| Comment(2) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

 【 余談 】
 余談としての話を加えておこう。

 ドーキンスは遺伝子のうち、小進化をもたらす遺伝形質の部分についてのみ着目した。その上で、「遺伝子は不滅で永遠だ」と述べた。
 しかし、これは、おかしい。なぜなら、遺伝形質の部分の遺伝子は、変化しやすくて、永遠とは言えないからだ。一方、生命形質の部分の遺伝子は、変化しにくくて、永遠と言える。
 たとえば、血液型の遺伝子は、少しぐらい違ったって生命には影響しないから、いくらでも突然変異が可能である。歴史的には、A型遺伝子が最初にあり、次に、塩基が一つ欠落してO型遺伝子となり、次に、O型遺伝子が変異を起こしてB型遺伝子になった。そして、そのいずれの遺伝子をもつ個体も、十分に存在できた。
 一方、生命形質の遺伝子は違う。たとえば、「心臓の弁膜を形成する遺伝子」というものは、ちょっとでも損なわれると、弁膜が異常を起こして、致命的になりやすい。こうなると、生存は困難または不可能だ。だから、突然変異を起こしにくい。(もし起こせば誕生しないから。)

 ドーキンスが着目した遺伝子(遺伝形質の遺伝子)は、変化しやすい。
 ドーキンスが無視した遺伝子(生命形質の遺伝子)は、変化しにくい。
 前者の方は永遠ではなく、後者の方が永遠だ。ここではドーキンスの説は裏切られている。そのことに注意しよう。

 ドーキンスが「遺伝子は永遠だ」と述べたとき、その「永遠」という言葉は、「滅びやすい個体に比べれば永遠だ」という意味だ。その意味では、ドーキンスの言葉は間違っていない。ただし、彼の言葉がいっそうよく成立するのは、彼の着目した部分ではなくて、彼の無視した部分なのである。ここには一種の皮肉がある。

(比喩的に言うと、2007年において、レッドソックスを無視して、ヤンキースに対して「あんたが最強だ」と述べるようなもの。なるほど、レッドソックスを無視すれば、ヤンキースは最強かもしれない。しかし、彼の無視した部分にこそ、最強のものがひそんでいる。そんなことでは、彼の言葉はナンセンスだ。)
Posted by 管理人 at 2008年04月11日 00:33
最後に【 追記 】を加筆しました。
タイムスタンプは下記。 ↓
Posted by 管理人 at 2008年04月11日 08:58
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