2008年04月08日

◆ 自分の遺伝子 10 (生と死)

                     [ 重要 ]
 引きつづき、補足的な解説。その5。「自分の遺伝子」シリーズの最後。
 「自分の遺伝子」という発想は、正しくない。では、なぜ、そういう発想が生じたか? その基盤を探る。
 そのことから、「生と死」という重要な話題に移る。 ──

 本項は、前項の話の発展編。
 「自分の遺伝子」という発想は、正しくない。では、なぜ、そういう発想が生じたか? その基盤には、次の発想がある。
  「遺伝子中心主義」 Gene-centered view of evolution

 これは、生命について、何事も遺伝子を中心にして考えよう、という立場だ。今日では主流の発想である。何でもかんでも遺伝子で片付けてしまえ、というような乱暴な発想だ。
 しかし、これは正しくない。

 ──

 遺伝子中心主義は、正しくない。ただし、「地動説でなくて天動説が正しくない」というような意味で、「全面的に間違っている」というふうに正しくないのではない。部分的に正しくないのだ。
 簡単に言えば、遺伝子中心主義は、話が荒すぎるのである。比喩的に言えば、「白も赤も一緒くたにして考える」というような発想だ。細かな区別をしていない。そのせいで、白に当てはめているときには正しく見えるのだが、赤に当てはめると、たちまち馬脚を現す、というふうになる。

 ここで、「白と赤」というのは、「進化と生命」のことだ。
 遺伝子中心主義は、進化については当てはまるのだが、生命そのものについてまでは当てはまらない。
 進化における話と、生命における話とは、異なるのだ。このことを、次の (1)(2) で順に示そう。(……なお、前項も参照。)

 ──

 (1) 小進化
 小進化についてなら、遺伝子中心主義は妥当である
 そもそも、進化というものは、遺伝子変化の歴史的過程と見なせる。つまり、進化というのは、もともと遺伝子の現象なのだ。とすれば、それを遺伝子中心主義で語るのは、当然のことだろう。遺伝子の問題を、遺伝子中心の視点で語るのは、当然だろう。
 一般に、長い時間の歴史のなかでは、個体は次々と交替していく。そのなかで、遺伝子だけが(ほぼ)不変だ。個々の遺伝子は次々と交替するが、統計項目としての遺伝子集合だけは(ほぼ)不変だ。そして、その遺伝子集合の全体が、どう変化していくかというのが、進化だ。ここでは、遺伝子だけが重要で、それぞれの個体などはどうでもいい。どうせ個体たちは、過去において死んでしまったものにすぎないし、今では消滅してしまっている。

 (2) 生命
 生命についてなら、遺伝子中心主義は妥当でない
 それぞれの生物にとって、自分という個体は、過去において死んでしまったものではない。今まさしく生きているものだ。そして、今まさしく生きているということこそ、何より大切なのだ。生物にとって最も大切なことは、生きているということなのだ。
 生きているということ。それは、誕生から死までの過程である。それはあくまで個体の過程である。
 そして、それを遺伝子中心で語るのは、根本的におかしい。たとえば、あなたにとって大切なのは、あなたが誕生してから現在までの過去と、現在から死までの未来だ。この双方があなたのすべてだ。そして、あなたの遺伝子がどうなるかということは、あなたにとってはどうでもいいこと(二の次のこと)だ。
 たとえば、次の二者択一があったとする。
   ・ 「自分の遺伝子を残せるが、自分自身は今すぐ死ぬ」
   ・ 「自分の遺伝子を残せないが、自分自身はずっと生きられる」

 この二者択一で、どちらを取るか? 言わずもがなだろう。誰だって、後者を取る。自分が生きることこそ、何より大切だからだ。
 しかし、遺伝子中心主義の発想だと、前者を取る。自分の遺伝子を残すことこそ何よりも大切だからだ。……しかし、そんな発想は、本末転倒というものだ。だいたい、そんな発想をする連中は、冷凍精子でも残して、さっさとみんな死んでしまえばいいのだ。(ブラック・ジョークで済みません。ぺこり。)

 ともあれ、「個体は遺伝子の乗り物である」というような「遺伝子中心主義」の発想は、生命というものを本質的に誤解している、と理解できるだろう。

 ────────────


 《 生と死 》  

 さらに根源的な話をしよう。「生とは何か」「死とは何か」という話だ。

 ドーキンスは、遺伝子の特徴として、次のように述べる。
 「遺伝子は、不変のもの、不滅のものである」

 と。
 一方、対比的に、生物は、次のように言われるものだ。
 「生物は、不変のもの、不滅のものではない。生物は、死すべきものである。生物は、限界のあるものであり、一回限りのものである」


 このような対比は、当り前のことであり、もちろん正しい。ただし、そこで述べられていることは正しいが、それへの解釈は誤解されがちだ。
 人々は次のように考えがちだ。
 「不変の不滅のものは、すばらしい。限界がある一回限りのものは、詰まらない」
 ここから、次の結論が出やすい。
 「不変の不滅の遺伝子は、すばらしい。限界がある一回限りの個体は、詰まらない」
 しかし、これは、根源的な誤解だ。むしろ、次のことが正しい。
 「不変の不滅の遺伝子は、詰まらない。限界がある一回限りの個体は、すばらしい」
 では、なぜ、そうなのか? そのことを以下で示そう。

 ──

 生物の一つ一つは、誕生から死までの過程として、生存の期間がある。その期間においてのみ、生きることができる。その意味で、生とは、限界があり、一回限りのものである。
 では、それは、残念なことか? いや、すばらしいことだ。なぜなら、不変であり不滅であるということは、永遠に生きるということを意味するのではなく、永遠に死んでいるということを意味するからだ。
 生きるということは、本質的に一回限りの限定されたものである。一方、永遠だということは、ずっと死んでいるということだ。生きる機会をずっと味わえないということだ。

 一人一人の人間は、限りあるものとして生命を与えられる。そして、そのことを、たいていの人は残念がる。「永遠の存在になれたらなあ」と。
 実は、あなたが永遠の存在になる方法はある。それは、あなたが物質になることだ。物質ならば、永遠だ。特に、量子はそうだ。たとえば、電子とか、中性子とか、陽子とか、そういったものは不滅で永遠だ。また、炭素原子とか、水素原子とか、酸素原子とかも、永遠で不滅だ。あなたが物質になれば、あなたは永遠で不滅になれる。逆に言えば、あなたは永遠で不滅になりたいと望むことは、あなたは物質になりたがっているということだ。
 これは冗談ではない。実際、遺伝子(DNA)は、ただの物質である。水素や炭素などの結合した、ただの化学物質にすぎない。そんなものはいくらでも科学的に合成できる。たとえば、百万年前の細菌のDNAを知ったなら、そのDNAを参考にして、現在でも新たにまたDNAを合成できる。こうして、そのDNAは、永遠で不滅のものとなる。その意味は、DNAはただの物質にすぎない、ということだ。

 結局、次のように言える。
  「生命の本質は、生きているということであり、一回限りの限定的なものだということだ」
  「非生命(物質)の本質は、生きていないということであり、永遠で不滅的なものだということだ」


 上記のことは、物語ふうに、次のように説明できる。
 地球にはもともと生命は存在していなかった。ただの物質があるだけだった。それらの物質は永遠のものだ。原子の結合した分子は変化するし、分子の結合した巨大な分子集団も変化するが、原子そのものは変化しない。稀に核分裂のようなこともあるが、そういうことはほとんどなく、原子は原則として変化しない。原子は不滅の永遠のものである。
 そのなかで、原子の組み合わせである分子がいろいろと組み合わさったりするうちに、いつしか、前生物やら半生物やらが出現した。さらには、無性生物のみならず有性生物が出現した。その後は急激に進化が起こって、両生類やら、爬虫類やら、哺乳類やらが出現し、さらには人類も出現した。そのはてに、あなたという生物も出現した。
 それらの生物はいずれも、一回限りのものであり、有限のものであった。ただし、それらの有限のものが、次々と交替するうちに、どんどん生物としてのレベルを高めていった。生命のない物質は、太古の昔からずっと不変だったが、生命をもつ生物は、一つ一つのものが次々と死ぬことで、次世代を誕生させ、その次世代を少しずつ進化させていった。── つまり生物は、不変でないことにより、進化することができた。
 そして、後の時代に誕生したものは、それ以前の全体の進化の結果として、より高度な生物として誕生することができた。たとえば、あなたという人間が人間として誕生できたのは、あなた以前の莫大な数の生命が誕生して死んだからだ。莫大な数の生と死のはてに、現在の個体がまさしくその形で誕生することができた。

 とすれば、こう言える。
 あなたが今、一人の人間としてすばらしい生命を享受できるのは、あなたが生と死をもつ生物であるからだ。あなたがすばらしい生涯を味わうことができるのは、あなたの先祖が死んだからであり、あなたもまた死すべきものであるからだ。生物は、いつか死ぬからこそ、今まさしく生き生きとして生きることができる。
 一方、物質は、そうではない。物質は不滅であり永遠だ。それは、物質が永遠に生きているからではなく、物質が決して生きることがなくて永遠に死んでいるからだ。
 ドーキンスは遺伝子を「不滅の不変のもの」と述べた。その言葉は正しい。ただしその意味は、「遺伝子は永遠に生きる」という意味ではなくて、「遺伝子は永遠に死んでいる」という意味だ。つまり、「遺伝子は決して生きることはできない」ということだ。
 生きることができるのは、死をもつ個体だけだ。生と死をもつのは、個体の特権である。遺伝子にはその性質はない。遺伝子はただの物質にすぎない。

 ──

 とすれば、「個体は遺伝子の乗り物である」というような「遺伝子中心主義」の発想は、根源的におかしいのだ。
 そして、そのどこがおかしいかと言えば、理論の全体がおかしいのではなくて、理論の適用の仕方がおかしいのだ。つまり、こうだ。
 「進化という現象を説明するための理論を、生命という現象を説明するために適用している」
 「遺伝子における現象を説明するための理論を、個体における現象を説明するために適用している」

 ここには、理論の適用に混同がある。いわば、天文学の理論を、生物学に適用する、というような、トンチンカンな適用が。
 そして、そういうトンチンカンなことをしたのが、「個体は遺伝子の乗りものである」というような発想だ。

 遺伝子は永遠の存在だ。なぜなら、遺伝子は生きていないからだ。二酸化炭素がただの物質にすぎないように、遺伝子もまた物質にすぎず、だからこそ、生きていないもの、永遠のものとなる。
 その意味で、遺伝子は生命ではない。したがって、「個体は遺伝子の乗り物である」というようなことも成立しない。ちょうど、「個体は二酸化炭素の乗り物である」「個体は地球温暖化をもたらすために存在する」ということが成立しないように。……なるほど、そういう論述は、形式論理では成立するのだが、根本的に本末転倒な発想なのである。こういう倒錯に陥ったのが、ドーキンスであった。
 悪魔は「永遠の生命」という言葉で引っかけて、人間の魂を奪おうとする。われわれは、しゃれた言葉回しにだまされて論理ペテンに引っかかるよりは、心を澄ませて、生命の真実に気づくべきだ。「生命は一回限りのものであるからこそ、すばらしいのだ」という真実に。



 [ 補足 ]
 まとめふうに言おう。繰り返しになるが。
 遺伝子中心主義は、遺伝子の現象としての「進化」についてだけ適用できる。遺伝子中心主義は、決して、個体の現象としての「生命」については適用できない。
 個体が生きているのは決して遺伝子を増やすためではない。自分の遺伝子を増やすためでもない。なるほど、そういう解釈を使えば、「小進化」を説明することはできるが、「生存」「生命」を説明することはできない。(無理にやればトンチンカンになる。)
 
 遺伝子中心主義が、小進化を説明するのに役立ったからといって、何でもかんでも遺伝子中心主義で説明しようという発想(ドーキンスの発想)は、拡大解釈のしすぎである。それはもはや科学ではない。
 「遺伝子中心主義を取れば、ライオンの子殺しを説明できる」
 なんて述べても、そんな理屈は成立しないのだ。なぜなら、その理屈によれば、「人間もまた子殺しをするべきだ」というふうになってしまうからだ。
 そして、そういう拡大解釈による珍解釈は、枚挙に暇がない。その珍解釈の例は、竹内久美子の紹介する「浮気説」などに見られる。
 これを読むと、たいていの生物学者は、竹内久美子を批判するが、とんでもないことだ。間違っているのは、竹内久美子ではなくて、ドーキンスその人である。「自分の遺伝子」なんてものを導入した時点で、ドーキンスの発想は根源的に狂ってしまっている。
 竹内久美子が間違っているのではない。彼女は、ドーキンスの間違った説を、はっきりとそのまま伝えているだけなのだ。彼女を批判する人は、頭がどうかしている。批判されるべきは、彼女ではなくて、ドーキンスの方だ。

( ※ 本当を言えば、ドーキンスその人が批判されるべきではなくて、今や時代遅れになったドーキンスの説を、いまだに墨守しているような、頭が化石化した現代人が批判されるべきだ。ドーキンスの説は、今では恐竜と同じく、過去の遺物になっているのだから、そんな説にこだわらず、もっと先に進むべきなのだが。)
( ※ 似たことは、前にも書いたことがある。引用しよう。「大切なのは、ドーキンス …… の原著を正確に理解することではない。彼らの業績の上に立って、そこからさらに学問を発展させることだ。つまり、先人の業績を否定的に進歩させることだ。」 → 該当項目

 [ 注記 ]
 本項では、遺伝子中心主義を全否定しているのではない。誤解しないようにしてほしい。
 遺伝子中心主義は、完全に間違っているのではない。それは、物の見方の一つである。しかし、世の中には、それ以外にも多様な見方がある。どれか一つの見方が絶対的に正しい、というものではない。進化(遺伝子の変化)について、ある見方が正しいからといって、生命(個体の生存)についてまで、その見方が正しいとは言えない。
 進化というものは、もともと個体を無視した見方である。そのような見方で、個体を見るべきではない。

 似たことを、比喩的に説明しよう。
 自動車産業というものがある。ここでは、自動車の生産・販売が最優先となる。自動車会社にとって何よりも大切なのは、自社の自動車を生産して販売することだ。そして、そこでは、個々の客の都合など、無視される。
 自動車会社にとって、客とは、「自社の自動車を買ってくれるもの」である。それ以外には何の意味もない。
 たとえば、その自動車を利用して、誘拐や強盗を実行するつもりの人がいるとしよう。しかし、そんなことは、自動車会社には関係ない。客がそれで誘拐をしようが、それで強盗をしようが、そんなことはお構いなしだ。自動車会社としては、客は単に自動車を買ってくれればいい。それ以上でもそれ以下でもない。
 自動車会社は「お客様は神様です」というふうにふるまう。しかしその内心は、「客は自動車を売るための道具にすぎない」ということだ。自動車会社としては、自社の車を販売するという目的があり、その目的のために、客を利用する。そのために、へいこらへいこらとへりくだり、へりくだりながら、最終的には客の金をちょうだいする。
 ここでは、次の発想が成立する。
 「客は自動車販売の道具にすぎない」
 これは、次の発想とそっくりだ。
 「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」
 実際、この二つの発想は、原理的には同じである。何らかの目的のために、対象を下僕にして、対象を利用する、という原理だ。
   ・ 遺伝子は個体を自らのための下僕として利用する。
   ・ 自動車会社は客を自らのための下僕として利用する。

 何だかひどいことをしているように表現されるが、これは、別に、誤りではない。実際、このように表現すれば、物事をうまく説明できる。たとえば、「自動車会社が、いかにうまく客の無知に付け込んで、排ガスをふりまく殺人凶器を高額で売りつけて、莫大な利益をちょうだいしているか」ということが、うまく説明される。
 だから、このような表現は、決して間違いではない。そのように表現することで、物事をうまく説明できるのだ。

 ただし、それがうまく行くのは、あくまで特定の範囲に限られる。次のように。
   ・ 遺伝子中心主義が成立するのは、小進化の範囲のみ。
   ・ 自動車中心主義が成立するのは、自動車販売の範囲のみ。

 一方、これを拡大解釈すると、次のような珍説となる。
   ・ 遺伝子中心主義は、個体の生存についても成立する。
   ・ 自動車中心主義は、人間の人生についても成立する。

 たとえば、つぎのように。
   ・ 個体は、自分の遺伝子を増やすために行動する。
   ・ 人間は、自動車を購入するために生存する。

 たとえば、「人間は、自動車を購入するために生存する」というのは、自動車会社の視点から見れば正しいのだが、普通の人々がそんな人生観をもったら、とんでもないことになる。(それを理解できないのが、自動車マニア。一種のオタク。オタクというのは、この手の倒錯者のことだ。)

 ドーキンスであれ、自動車オタクであれ、彼らは頭が倒錯的なのである。彼らはいずれも「何のために生きるか?」というふうに考えて、「自分の遺伝子を増やすために生きる」とか、「自動車を買うために生きる」とか、そういう考え方をする。そのせいで、最も大切なことを、見失う。つまり、次のことを。
 生物にとって大切なのは、「生きること」だ。生きることには、何の目的も必要はない。生きること自体が目的となる。だから、自分の遺伝子を残せなくても、生きることは大切だ。また、自動車を買わなくても、生きることは大切だ。
 そういうことは、たいていの人が知っている。しかしながら、ドーキンス信者と自動車オタクたちは、頭が倒錯的なので、そのことを理解できないのである。真実を理解できない倒錯者。



 ※ 余談として、感想ふうの雑感を記そう。

 [ 余談 ] (ソメイヨシノの遺伝子)
 桜の季節だ。今ではすでに散りかけているが、ともあれ、あちこちに桜が咲いており、とても美しい。
 ソメイヨシノは、どれもがそろって同じ時期に咲きそろい、どれもがそろって同じ時期に散っていく。いっせいに協調して、咲いたり散ったりする。まるでそれら全体が一つの生命であるように。
 では、なぜ? 実を言うと、あらゆるソメイヨシノは、同じ遺伝子をもつからだ。いずれも、双子のような関係にある。正確には、双子どころか、百や千や万にもなるような、多胎児みたいなものだが。
 なぜか? ソメイヨシノは、一代雑種(ハイブリッド種)であり、子ができない。不妊である。そこで、挿し木や株分けのような形で、一つの個体を増殖する形で数を増やす。

 ここで問題だ。
 ソメイヨシノでは、すべての個体の遺伝子は、みな同じである。これは、どういう意味があるだろうか? 

 利己的遺伝子説によれば、それは、理想的な状態だろう。ここでは、最高の遺伝子が最も増える。自然選択ではなく人為選択ではあるが、ともあれ、最も美しいと見なされた遺伝子が選択されるせいで、単一の遺伝子が選択されて、日本中で増殖する。ここでは、淘汰圧が最大化されて、「最強の遺伝子のみが残り、他はほぼ絶滅」という状況だ。そして、それこそ、最高に進化した状態だから、理想的な状況だろう。(利己的遺伝子説にとっては。)
 しかし、それは本当に、理想的な状況だろうか? よく考えると、そこでは、単一の遺伝子ばかりがあるから、遺伝子の多様性が失われている。とすれば、そこでは、あるとき何らかの病気によって全体が絶滅する、という危険がある。
 実際、ソメイヨシノでは、多くの個体がいっせいに病気にかかる、という状況がしばしば観察されている。(読売・夕刊 2008-04-02 の記事。)

 実は、バナナも、似た状況にある。バナナもまた、タネがないので、株分けのような形で、次々と数を増やす。そのせいで、遺伝子から多様性がかなり失われている。あるとき突然、バナナがいっせいに病気で消滅する、という危険がある。

 これに似たことは、動物でも行なわれかけている。それは「クローン牛」だ。優秀な(値段の高い)牛ばかりが増えていけば、牛全体の遺伝子では多様性が失われるだろう。

 さらに、人間でもそれが実現したら? この発想は、ヒトラーの発想に似ている。つまり、優生思想だ。アーリア人種が優秀だから、その遺伝子ばかりを残そう、とする。極端に言えば、最も優秀であるヒトラーが、自分の遺伝子ばかりを残そうとする。そして、最高の権力者であるヒトラーが、「私が最も優秀で、最も強力だ」と宣言して、自分の遺伝子ばかりを残して、彼と愛人のクローンばかりをやたらと増やす。他者はすべてガス室に送られる。……悪夢ですね。
 ただし、この悪夢が実現したとき、ドーキンス信者だけは「すばらしい理想的な状況だ。ついに遺伝子の単一化が実現した。自然淘汰の極致だ。進化の極致だ」と賛美するだろう。

 ここまで来ると、冗談だか狂気だか悪口だか、わからなくなってきそうだ。  (^^);
 ともあれ、「遺伝子から多様性をなくすことがすばらしい」「自然淘汰こそすばらしい」という発想は、成立しない。
 むしろ、その逆が成立する。つまり、「遺伝子には多様性があることがすばらしい」「自然淘汰がないことこそすばらしい」と。

 [ 最後に ]
 個体にとって大切なのは、遺伝子でもないし、種の進化でもないし、遠い将来の子孫が進化していることでもない。個体にとって大切なのは、自らが生きていることだけなのだ。それこそが生物の本質なのだ。
 とすれば、われわれ一人一人もまた、今まさしく生きていることのすばらしさを自覚するべきなのだ。「自分の遺伝子を増やそう、そのために浮気しよう」(または子殺しをしよう)などと思って、あえて遺伝子の奴隷であろうとするよりは、自分がまさしく生きているということの価値を、そのすばらしさを、はっきりと噛みしめるべきなのだ。




  【 追記 】
 本項のポイントは、次のようにも言える。
 「目に見える物質としての遺伝子よりも、目に見えない生命こそが重要だ」

 
 たいていの科学者は、物質主義である。客観的に測定のできる物質的な事柄だけが真実だと考える。そのせいで、見えないものを見失う。しかし、見えないものこそ、本当は大切なのだ。

 生命は、目には見えない。客観的に測定もできない。なるほど、心電図はあるし、脳波計もあるし、脈拍測定器もある。それらのもので、生命の状態を推定することはできる。しかし、生命そのものを測定する機械はない。「生命測定器」なんていうものはない。
 人の心理も、目には見えない。顔の赤らみや、心臓の動悸や、アドレナリンの分泌などは、物質的に測定できる。それらのもので、心理の状態を推定することはできる。しかし、心理そのものを測定する機械はない。「恋愛測定器」なんてものもない。
( ※ ジョークで言えば、昔、「ラブ・テスター」というものがあったが。ただの発汗測定器。)

 遺伝子と生命との関係もまた同様。遺伝子は、目に見える客観的な物質だ。それは科学的に測定が可能だ。そこで人々は、「これこそが生命の本質だ」と見なしやすい。しかし、遺伝子がいくらあっても、それ単独では、生命は誕生しない。また、遺伝子が機械のなかでどんなに増殖しても、生命が誕生したことにはならない。遺伝子の増殖など、アルコールの工業生産と同様で、何の意味もないことだ。(産業的意味ならばあるが。「飲んべえの役に立つ」というような意味。ほとんどジョーク。)
 遺伝子は目に見える物質だ。だから科学的に考える人々は、遺伝子こそ生命の本質だと見なしやすい。しかし本当は、目に見えないものこそが大切なのだ。科学的であろうとすることよりも、真実に到達することの方が大切なのだ。
 生命というものは、本当は、科学で分析できるようなものではない。生命の誕生の過程を、科学で探ることはできるが、生命そのものは科学の対象とはならない。なぜか? そのことは、あなた自身を見ればわかる。あなたという存在は、科学ですべて解明されるか? たとえば、あなたという存在を、何らかの数式で完璧に表現することに成功したら、あなたという存在は抹消されても構わないか? そんなことはない。生命にとって大切なのは、自分がまさに生きているということだ。自分が科学的に表現されることではない。

 科学の対象となるものは、物質であり、非生命である。非生命の物質としての遺伝子は、科学の対象となる。しかし、生命そのものは、科学の対象とはならない。というか、科学で表現し尽くすことはできない。生命というものは、表現されるものではなくて、存在するものなのだ。あなたにとって大切なのは、あなたが生きているということであり、あなたが物質的に解明されるということではないのだ。
 この意味で、生命というものは、科学の扱える領域を越えている。科学の扱える領域はごく小さく、生命というものは科学を凌駕している。
 美しい音楽や美しい詩が科学の領域を越えているように、生命もまた科学の領域を越えている。科学の扱える領域はごく小さい。なのに、生命を科学的に表現することこそが大事だと感じたら、あまりにも視野が小さくなる。
 人が生命の真実を知りたいのであれば、「そこには科学では扱えないものがある。客観的に測定できる物質ではないものがある」と気づくことが大切だ。

( ※ 似た事情は、生物学だけでなく、経済学でも見出される。経済学者は、客観的に測定できる経済量であるGDPや貨幣量などばかりを見て、人間心理というものを無視する。そのせいで、人間心理に起因する経済変動を、理解できない。人の消費心理がわずか5%程度の変動をするだけで、大好況や大不況が起こるのだが、そういうことを無視するから、景気変動というものを理解できない。あげく、「経済学を科学にしよう」と思って、やたらと複雑な数式で表現して、自己満足している。経済学というものは、経済学者が自己満足するためのオタク趣味の分野に成り下がってしまっている。そこでは「目に見えない真実をとらえよう」とする人はほとんどいない。そういう人がいれば、「非科学的なトンデモ」と悪罵されるだけだ。)



 「自分の遺伝子」シリーズは、これで完結です。
 ただしさらに、オマケふうの話題が三つ続きます。
 その後に、「血縁淘汰説」をめぐるシリーズが始まります。

 ただし、次のシリーズが始まるまで、しばらく別の話題を扱います。パソコン関係の雑談など。(生物学の話は、一休み。……これ、真面目すぎて、疲れるんですよね。  (^^); )
posted by 管理人 at 21:42| Comment(17) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「自分の遺伝子」シリーズ完結お疲れ様でした。
全体を読ませていただき、思うところはいろいろとありますが、3点だけ、感想を述べさせていただきます。

1.二者択一について
冒頭に示された二者択一は明らかに条件付けが不十分ではないでしょうか。
「自分の遺伝子を残す」ことは「子を残す」ことですね?
であるならば、
    ・自分の遺伝子を残す=自分の子を生かす  であり、
    ・自分の遺伝子を残せない=自分の子を産まない、または生かさない となりますね?
以前に南堂さんは自分の子を見捨てる行為をして「利己的行動」とされ批判的に述べられていたかと記憶しますが、
    ・自分の遺伝子を残すために今すぐ死ぬ
     →子(が受け継いだ自分の遺伝子)を残すために熊と戦って死ぬ狼
は遺伝子中心の発想に則っていることになり、以前の話とは整合しないように思われます。
南堂さんのおっしゃる「遺伝子中心主義」の立場から、「個体の保存」と「遺伝情報の継承」の二者択一なら
後者を取る、という認識は誤りではないと思いますが、それが二者択一として成立するためには
条件として「個体の保存」=「遺伝情報の途絶」となることが必要
(個体が存続することで、それ以降の何処かの時点で遺伝情報は継承され得るならば、
「自分の遺伝子を残す」ために「個体の保存」が優先される場面はあり得るので)
ではないでしょうか。
そのような条件が成立し得るかも含めて、提示そのものが不完全である様に思われます。
Posted by ItsSin at 2008年04月09日 22:56
2.「不変不滅」と「一回限り」について

「限界がある一回限りの個体」に素晴らしさがあることは否定しませんし、
「不変不滅」に価値を見出さない価値観も理解できます。
しかしこの二項立ては対立するものでしょうか?

「不変不滅の遺伝子は(ある意味)つまらない」、
「限界がある一回限りの個体は(ときに)素晴らしい」
という二つの文脈がそれぞれに正しいことには私も同意できますが、
一方が他方を完全否定するものではないと思います。

DNAが「ただの物質」であるというのと同次元で
生体を含め実体存在は全て「ただの物質」だと認識しています。
従って、元素という「単位」と生命という「ユニット」を同列で比較することには
あまり意味は無いのではないでしょうか?
生命というユニットに対しては非生命のユニット(岩石等)を配置しなければ
正確な比較にならないと考えます。

そしてユニットとして考えれば、不変不滅の岩石などは存在しないわけで、
「不変不滅の非生命」と「一回限りの生命」という比較は、
その根本の論が成立していない(岩石は生きてはいないが永遠でも不滅でもない)ように思われます。
Posted by ItsSin at 2008年04月09日 22:59
3.生物の本質について

>「生命は一回限りのものであるからこそ、すばらしいのだ」

これについて否定するものではありません。
が、この言葉が何処に向けられたものなのか、どうもよく理解できませんでした。

今現在「個」が生きているということは、
とりもなおさずその「個」をかたちづくる情報の核が受け継がれてきたことに他ならないのではないでしょうか。
すなわち、生物の本質には「情報の継承」が不可欠である、とは言えませんか?
ご自身で仰っておられます。

>莫大な数の生と死のはてに、現在の個体がまさしくその形で生きていることができる

敢えて言わせていただきましょう。

「生命は有限であるが、
 はるかな古代から情報として受け継ぎ、
 同様にしてこれからはるかな未来まで受け渡していくことさえ可能である。
 言い換えれば遥かな古代に生まれた存在が、
 今現在生きている我々とともに、
 遥か未来まで連綿と生き続けるにも等しい。
 これは素晴らしいことなのだ」

・・と。これには「真実」はないですか?

今現在の私に繋がる、遥か古代の誰かの生命が、
遺伝子情報のかたちで
(生き続けるために増殖の枝を広げながら)
私にまで受け渡されてきているわけで、
それこそが、「個体は遺伝子の乗り物」という言葉の本質だと
私は解釈しています。


表面的な揚げ足取りのつもりはないのですが、
そのように受け取られたとしたら私の文章力のせいでしょう。

御無礼御不興には謝罪を申し上げます。
Posted by ItsSin at 2008年04月09日 23:05
1.「自分の遺伝子を残す」を否定しているとき、「自分の遺伝子を残さない」というふうに否定しているのではなく、「自分の遺伝子という概念がおかしい」というふうに否定しています。
 
> 以前に南堂さんは自分の子を見捨てる行為をして「利己的行動」とされ批判的に述べられていたかと記憶しますが、……整合しないように思われます。

 そういう疑問が来そうだな、という気はしていましたが、説明はしませんでした。一見、整合していないように見ても、整合しています。よく考えてみてください。
 ポイントは先と同じで、命題の「Aと 非A」という形ではなくて、「自分の遺伝子」という概念そのものを否定している、ということです。
 なお、

> 自分の遺伝子を残すために今すぐ死ぬ

 ということは、もちろん、成立しません。ここには「自分の遺伝子」という概念があるからです。「今すぐ死ぬ」は成立しても、「自分の遺伝子を残すため」ではありません。まぎらわしいかもしれませんが、しっかり区別してください。とにかく、「自分の遺伝子」という言葉が出るたびに、その発想を疑ってみてください。

( ※ 正解は …… 親が子を守るのは、親が「自分の遺伝子を残すため」ではなくて、「子を生かすため」です。 / 子の立場で言えば、こうなります。あなたが生きているのは、あなたの親や先祖の遺伝子を残すためではなくて、あなた自身が生きるために生きているのです。個体にとって、生きることは、生きることそれ自体が目的であり、遠い先祖の遺伝子を残すためなんかではありません。生命を考えるときには、遺伝子中心主義を捨てることが必要です。さもないと、倒錯的になります。)

> 提示そのものが不完全である様に思われます。

 それはそうです。話は完全ではありません。ここでは、まず、話の基盤としての核心を述べただけです。樹木で言えば、一番太い幹を述べただけです。そのあと、枝のような部分が発展的に言及されます。あなたの言及したことも、その一つです。
 しかし、本項はとりあえず、最初の核心だけを述べています。その他の全体を述べるまでには至っていません。不完全なのは承知です。
 ですから、不完全なことは前提とした上で、その上で、さらに枝のような部分を、あとで構築してみてください。そのことは、幹を得たあとでは、あまり難しくはありません。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 07:05
2.
> この二項立ては対立するものでしょうか?

おおまかには成立しているでしょう。ここでは、「この二項対立が完全に正しいか否か」を論じるべきではなくて、「このような二項対立の発想が新たに提出された」という点が重要です。新たな思考の枠組みが提出されたわけです。

こうして対立図式が提出されたあとで、その上に、両者の関係をあらためて考察することができます。あなたの考えていることは正しいのですが、それは、もともと想定済みのことです。そして、そのような考え方を成立させるために、新たにこの二項対立が提出されたわけです。

比喩で言うと、上と下しかない世界に、新たに「右と左」という二項対立を提出します。すると、「右とか左とかいうが、単純な二項対立は成立しないぞ。その中間だってあるぞ」という反論が成立しますが、その反論は、二項対立が提出されたあとに成立するものです。また、その反論は、最初から予想されています。

ここではまず、発想の基盤を提出し、その典型的な両極を出しているだけです。基盤を得たあとで、細かく考えていくのは、各人の仕事です。

> 一方が他方を完全否定するものではないと思います。

それはそうです。これは、1. で述べたのと同様で、今はまだ基盤を出しただけだからです。

> 生体を含め実体存在は全て「ただの物質」だと認識しています。

 私はそうは思いません。生命というものはただの物質ではありません。生と死とを分かつものは、物質そのものではなくて、物質の状態です。それはただの物質と考えるだけでは済みません。
 たとえば、あなたが幸福であることと不幸であることは、物質レベルではほとんど変わりありませんが、あなたにとっては非常に重要な違いがあります。あまりりにも不幸になれば自ら自殺することすらあるかもしれません。物事をただの物質として見るだけだと、「生命」というものを理解できなくなります。なぜなら「生命」とは物質ではないからです。

> 岩石は生きてはいないが永遠でも不滅でもない

 地球上では変成しますが、宇宙空間に放り出されれば、真空中で、ほとんど永遠不滅と見なせます。ま、現実には、放射線を浴びたりしますが、一応、永遠不滅と見なせます。
 一方、生命は、宇宙空間に出たとたんに、死んでしまいます。つまり、ただの物質になってしまいます。そして、そのあとは、永遠不滅の死体となるでしょう。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 07:06
3.
> それこそが、「個体は遺伝子の乗り物」という言葉の本質だと 私は解釈しています。

 そのような解釈ならば、問題ないですよ。私はそれを否定していません。
 単純に言えば、私は、「個体と遺伝子は相互的な関係にある」というふうに考えています。
 (1) 個体レベルの系統の継承のために、遺伝子が用いられる。
 (2) 進化レベルで進化のために、個体は遺伝子の乗り物にすぎない。

 その両方が成立するでしょう。(2)を否定しているわけではありません。本文で述べたとおり。ドーキンス説を完全否定しているわけではありません。
 私が否定しているのは、次の点。
 (a)(進化でなく)個体の生命のレベルで、遺伝子を優先すること。
    (進化でなく)個体が生きていること自体を、遺伝子への奉仕と見なすこと。
  (b) 「自分の遺伝子」という発想を用いて、(a)を主張すること。

 ここで (a) の二点を混同しないでください。

>  今現在の私に繋がる、遥か古代の誰かの生命が

 ここでは混同が起こっています。
 生命というのは一回限りのものですから、昔の誰かの生命があなたの生命になるということはありません。それは「輪廻転生」みたいな発想であり、非科学的です。
 あなたにあるのは、古代の誰かの生命ではなくて、ただの遺伝子です。それはただの物質です。あなたが受け継ぐのは、遺伝子という物質であって、古代人の生命ではありません。あなたの生命は、あなただけの一回限りのものであって、昔の人のものを受け継いだわけではないし、また、あなたの子孫に受け継げるものではありません。受け継げるものは、物質としての遺伝子だけです。
 遺伝子は受け継がれますが、生命は一回限りのものです。そして、(あたなという個体にとって)大切なのは、受け継がれる遺伝子ではなくて、一回限りのあなたの生命なのです。あなたにとって大切なのは、あなた自身が生きているということであって、昔の遺伝子の一つが、あなたの隣にいる他人に受け継がれることではないのです。その遺伝子は、あなたが生きても死んでも同じですが、あなたにとってはそんな遺伝子のことはどうでもよく、自分が生きているということ自体が大切なのです。
 また、あなたの誕生のためには、あなたの遺伝子が必要ですが、それは必要条件の一つに過ぎません。あなたの誕生のためには、父も母も必要だし、父と母はあなたとの遺伝子とは異なる半分の遺伝子をもっています。その半分の遺伝子は、あなたの遺伝子ではないのですが、父と母にとっては必要不可欠なものであり、それゆえ、あなたにとっても必要不可欠です。あなたの遺伝子ではない遺伝子が、あなたにとっては必要不可欠なのです。
 また、あなたのまわりにある地球環境もまた、あなたの誕生のためには必要不可欠です。あなたのもつ遺伝子は、あなたの誕生のための必要条件のうちの、ごく一部に過ぎません。
 また、あなたの遺伝子にとって最も大事なのは、「あなたの遺伝子」ではなくて、「人間の遺伝子」です。(この件は、後日の分でまた述べます。)

 ──
> 表面的な揚げ足取りのつもりはないのですが

 いえ、そうは思いません。これまででも最も誠実なコメントだと思います。
 ただ、その多くは、私があらかじめ予想した疑問であり、それへの回答はあえて記さなかったことです。(いちいち記すと本文が冗長になるので。)
 そこで、このコメント欄で、 Q&A を書いておく感じになります。どちらかというと、本文の補足みたいになっていますね。
 同じ疑問を感じている人も多いと予想されるので、かえって読者の役に立ちそうです。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 07:08
1〜3 への回答のまとめ。

 「遺伝子が永遠であることがすばらしいのだ」
 というふうに、ドーキンス流に考えるのであれば、一人一人が生きている価値など、何もありません。
 たとえば、あなたは子供を産んで育てたあと、さっさと死んでしまえばいい。大切なのはあなたの遺伝子だけであって、あなたの生命には何の価値もないのだから。また、あなたの親(役立たず高齢者)が生きていると、あなたの子孫を増やすのには不利だから、あなたの親を殺して、それで得た金で、あなたの子孫をもっと増やせばいい。
 ドーキンス流に「遺伝子中心主義」を取るのであれば、そうなるでしょう。

 しかし私は、そうは考えません。
 「遺伝子が永遠であることがすばらしいのだ」
 とは考えず、
 「個体が一回限りの生をまさしく生きていることが大切だ」
 と考えます。そして、そのために、遺伝子が利用されるだけです。

 そもそも、生命をもたらすもので、永遠のものといえば、遺伝子に限らず、たくさんのものがあります。水だって、炭酸ガスだって、太陽エネルギーだって、どれもが生命をもたらす(半)永遠のものです。なるほど、それらはすばらしいかもしれない。しかし、それらがすばらしいものであるためには、それらをすばらしいと感じることのできる生命が必要なのです。もし生命がなければ、水も太陽エネルギーも、何の意味もないはずです。
 「生命があるという前提のもとで、遺伝子のすばらしさを唱える」
 というのは、間違ってはいません。しかしそれは、
 「その前に、生命という根源的なすばらしいものがある」
 ということを見失った発想です。

 たとえば、あなたは、「この音楽がすばらしい、この料理がすばらしい、この書物がすばらしい」と感じることができますが、何よりもその前提として、「あなたが生きている」ということがあります。それを見失って、「この音楽がすばらしい」と言っても、無意味でしょう。
 人は、病気になって初めて、健康のありがたさがわかる。病気になるまでは、健康のありがたさがわからない。
 あなたもそれと同じです。「生きていること」のすばらしさを見失っているから、「自分は生きている」ということを前提とした上で、その上で、「遺伝子はすばらしい」と語っているわけです。
 なるほど、そのことは、間違いではありません。私はその発想を否定はしません。音楽がすばらしいとか、遺伝子がすばらしいとか、そういうことを否定はしません。ただ、そこでは、いっそう大切な何かが見失われている。……そういうことを指摘しているのです。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 15:03
本文の最後に【 追記 】を加筆しました。
タイムスタンプは下記。↓
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 17:58
真摯な対応をいただき有難うございます。
概ね想定の範囲だったということですので、少し気楽になりました。
また、こちらとしてもある程度想定内のお答えを頂けましたので、
大きく誤読はしていなかったものと胸をなでおろしております。

その上で、自前の厚顔に任せ、さらに重ねさせていただく事をお許しください。

>親が子を守るのは、親が「自分の遺伝子を残すため」ではなくて、「子を生かすため」です

この部分に親の立場から「自分の遺伝子を残す」という意味付けが可能かという点を
敢えて問わせていただきたく思います。
何故「自分の遺伝子を残すため」を全否定する必要があるのかが理解できません。
これを「遺伝子が目的のために個体を制御した結果」とすることは妥当でないとしても
その行動の意味付けから「自分の遺伝子を残すため」を排除しなければならないのでしょうか?

>上と下しかない世界に、新たに「右と左」という二項対立を提出します。

無礼の謗りを恐れずに申し上げるなら、
私の感覚では、上と右を比較してどちらが手前かを論じているように感じられています。
右の項を立てているのに左の項が立てられていないように思われたということです。

>> 生体を含め実体存在は全て「ただの物質」だと認識しています。
>生命というものはただの物質ではありません

これに関しては、私が混乱させてしまったかもしれませんが、
私が申しましたのは「生命」ではなく「生体」です。
既に公開されている次のエントリーとも関連するかもしれませんが
「生体」は具象であり物質であるのに対し「生命」は現象だと認識しております。
ですから「生命」が物質であるとは私は言っておりません。

永遠不滅という言葉については、話が拡散しそうなので、ここで述べることは控えさせていただきます。
Posted by ItsSin at 2008年04月10日 21:34
>「個体と遺伝子は相互的な関係にある」

これについては理解できますし、そのうえで遺伝子と個体に優劣をつけるべきでないという主張と理解します。
その上で褌をお借りするなら

 (1) 遺伝子によって個体レベルの系統の継承が可能になった。
 (2) 長大な時間を亘る進化という大きな流れの中にあっては、個体は遺伝子の乗り物のように位置付けられる。

とするのが適当のように思いました。
遺伝子は進化のためにあるわけではないと思えます
(むしろここで「進化のため」という目的論が顔を出しては台無しでしょう)。
進化は手段に過ぎないと言って良いのではないでしょうか?

>昔の誰かの生命があなたの生命になるということはありません
>あなたにあるのは、古代の誰かの生命ではなくて、ただの遺伝子です
>あなたが受け継ぐのは、遺伝子という物質であって、古代人の生命ではありません

重ね重ね、無礼と取られるかもしれませんが
混同があるようです。私は生命活動を情報と捉えて
その情報の伝達を述べたつもりです。
スピリチュアルな話ではありません。

「遺伝子は物質に過ぎない」のですから、
古代の「遺伝子という物質」を私は持ち合わせません。
古代の「遺伝子という物質」が内包していた情報を私は受け継いでいます。
(このあたりも次のエントリーに関わる部分かもしれません)
古代人の遺伝子情報であり、それによって再構築される生命活動という情報ネットワークが私という個です。
「物質」は受け継いでいないし、生命そのものを受け継いでいるのでもありません。
生命という言葉を曖昧に、散文的に使ったこちらの問題でしょう。
その点について、この場で謝罪申し上げます。
Posted by ItsSin at 2008年04月10日 21:45
>遺伝子は受け継がれますが、・・・あなたにとってはそんな遺伝子のことはどうでもよく、自分が生きているということ自体が大切なのです

そのレベルで遺伝子がどうのこうのを論じるべきではないという主張はよく理解できますし、私も賛同するところです。
勿論の事として私は私のために生きているのですし、私の生きる目的は私自身に帰結するものです。

しかし私が生まれたのは私の親や先祖の遺伝子があったからなのも動かし難い事実です。
私は遺伝子を受け継いでいることの意味を考えているのであって、
それを目的とは捉えていないということを申し上げています。
私は遺伝子を残す「ために」生まれたとは思いませんが、
遺伝子を受け継いでこられたから生まれたのも事実だと思っています。

ですから、

>あなたのもつ遺伝子は、あなたの誕生のための必要条件のうちの、ごく一部に過ぎません

これは違うだろうと思うわけです。
私という個が存在するためには、私が持っている(受け継いできた)遺伝情報は絶対条件の第一であって、
少なくともごく一部では無いと思えるのです。
もちろん環境が必要条件であることは確かですが、その振り幅はかなり大きいといえるでしょう。

遺伝子中心主義を目的論的に捉えるから問題なのであって、
事象の因果律のひとつとして考えれば、説明原理としての遺伝子中心主義に問題があるとは思いません。

>あなたの遺伝子にとって最も大事なのは、「あなたの遺伝子」ではなくて、「人間の遺伝子」です

はい、その点に関しては(「自分の遺伝子」についての主張と併せ)理解しています。
こんな拙い話が何らかの役に立つなら幸いです。
Posted by ItsSin at 2008年04月10日 21:48
ここまで書いたところで、まとめに気が付きました。
あらかたは既に書き込ませていただいたとおりであるのですが、
繰り返させていただきます。
私の考えは「遺伝子が永遠であるからすばらしいのだ」というものではありません。
同時に
「遺伝子が永遠であるからすばらしいのだ」と考えるならば一人一人が生きている価値など、何もない、
とも思いません。
この部分が私が感じる違和感の根源であるようです。
Posted by ItsSin at 2008年04月10日 21:56
管理人です。お答えします。

> 「自分の遺伝子を残すため」を全否定する必要があるのかが理解できません。

「自分の遺伝子」なんてものは存在しないからです。何度も述べたとおり。
 たとえば、「山田太郎の遺伝子」なんてものは存在しない。ある特定の遺伝子を取り出して、「これは誰の遺伝子か?」と問うても無意味。「山田太郎」という名前が付いてるわけでもない。 
 あちこちを読み返してください。一番肝心の所を読み落としているようなので。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 22:31
> 古代の「遺伝子という物質」が内包していた情報を私は受け継いでいます。
 それは問題ないですよ。しかし、情報を受け継ぐこと自体が大事なわけではないでしょう。もし情報を受け継ぐこと自体が大事ならば、いちいち生命なんている滅びやすく変化しやすいものを用いる必要はなく、ロゼッタストーンのようなものを用いれば済むだけです。
 ロゼッタストーンはずっと不変ですが、遺伝子なんていうものは長い時間のなかでどんどん変化していきます。あなたの内部にある(遺伝形質の)遺伝子が1万年後に残るかといえば、その大半は残らないでしょう。あなたが自分の存在の形跡を残しておきたいのであれば、変わりやすい遺伝子なんかには頼らずに、国会図書館にでも書物を残す方が、よほど確実です。
 生命の継承には先祖の情報が必要ですが、だからといって、情報の継承そのものが重要なわけではありません。「目的と手段を間違えるな」「本末転倒の考え方をするな」と言っているわけです。
 比喩的に言うと、人は生きるために金儲けをしますが、金儲けそれ自体が目的であるわけではないでしょう。そういうふうに「目的と手段を間違える」「本末転倒の考え方をする」ということを、いましめているわけです。
 しかしまあ、これは、考え方の問題ですから、言ってもわからないのであれば、仕方ありません。「金儲けこそ私の目的だ」と言っている人には、何を言っても無駄でしょう。あなたに対しても、私は「あなたが生きているのは、生きること自体が大切だ」と述べても、あなたは「いや、私が生きることなんか二の次だ。昔の遺伝子を伝えることこそ私の目的だ」とあなたは語ります。ドーキンスも同じ。……いってもわからないのであれば、仕方ありません。勝手に遺伝子の下僕として生きてください。(私は遺伝子を自分の下僕にしますが。)

      《 つづく 》
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 22:31
と書いたのですが、その次のコメントを読んだら、私の誤解でしたね。上記のことは理解してくださっているようです。

> 私は遺伝子を受け継いでいることの意味を考えているのであって、
> それを目的とは捉えていないということを申し上げています。

 とすれば、ドーキンス説とは違うんですね。

> 私という個が存在するためには、私が持っている(受け継いできた)遺伝情報は絶対条件の第一であって、

 それは、構いませんよ。「条件のうちで何番目か」というのは、その人ごとの価値観ですから。
 私が述べているのは、それは「条件にすぎない」ということです。「目的ではない」ということです。(ドーキンス説の否定。)
 遺伝子の継承は、人間の生命の条件です。つまり、「人間の生命」という主題ないしご主人様があって、その従属物ないし下僕としての「条件」があります。この関係さえ理解していれば、十分。そして、下僕のなかで一番偉いとしても、それはそれで問題ありません。
 私が述べているのは、「個体の生命の方が重要だ」ということです。「遺伝子の増殖こそ重要だ」というドーキンス説を否定しています。一方、個体の生命を成立させるさまざまな条件のうちで、「遺伝子の継承」が最も重要だとしても、それはそれで、構いません。私は別に否定していません。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 22:36
どうも、論点が食い違っているようなので、どこがどう食い違っているかを、はっきり理解してください。

 《 図式化 》
(上に位置するものがご主人様で、下にあるものが下僕。)

  (ドーキンス説)      (私の説)         (そちらの説)

    遺伝子        個体(生命)          ?
  ──────    ────────    ───────
  個体(乗り物)     遺伝子(手段)       遺伝子 (最重要)
                               環境など(二の次)


 ※ そちらの説は、「個体の生命こそ重要だ」という論点とは別に、個体の生命の基盤となるもののなかで、「遺伝子こそ重要だ」と述べている。ここでは、論点が食い違っている。
 そちらは、私の述べていることとは別のことを述べている。反論にはなっておらず、別のテーマで別の見解を述べているだけ。
Posted by 管理人 at 2008年04月10日 22:41
まとめていただいて有難う御座います。

論点が食い違っているというのはそのとおりですね。
その意味で、南堂さんが仰る「自分の遺伝子」というものが存在しないことについては反論していないのです。
南堂さんが捉えられている「自分の遺伝子」(という言葉が指す概念)と
私が認識している「自分の遺伝子」(という言葉が指す概念)とは明らかに違っています。
ですからこれまでその部分には敢えて触れませんでした。
私は主従といった考えをもっておりませんでしたので、図式化は出来かねます。
それこそ、主従といった上下の2項ではなく、
左右か前後か、はたまた裏表か、そのような別の軸を提示したいのですが、
うまくまとめきれません。
どうしても散文的なところが残ってしまいそうです。
どうも「生命」という言葉が曲者のようです。
ただ、私は「私(自分)」という「個」の発生が遺伝情報に基づくものだということは述べていますが、
そのことをして「遺伝子が素晴らしい」とか、目的云々を述べていないことは繰り返させていただきます。

このような勝手な意見感想の提示に終始するのはご迷惑かもしれませんね。
陳謝いたします。
Posted by ItsSin at 2008年04月10日 23:44
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