前項に引きつづき、補足的な解説。その2。
あなたに双子の兄弟がいるとして、その双子の兄弟に、あなたの妻を寝取られてもいいか? 遺伝子的には、双子のどっちが孕(はら)ませたって、同じことであるが。 ──
(4) 双子の遺伝子
前項の (3) では、次のような趣旨で述べた。
「小進化の原理を述べるときには、遺伝子中心で考えていい。だが、生物の原理を考えるときには、遺伝子中心で考えては駄目だ」
つまり、生物の原理 と 小進化の原理は、別である。
この意味で、「生物は遺伝子の乗り物である」というドーキンス流の発想は、否定される。
この結論に至る理由として、「自分の遺伝子」という説における難点を示した。本項ではさらに、このことをいっそう先鋭に示そう。なかなか納得できない人のために、難点が起こる場合をはっきりと示す。
(i) 「生物の本質は、自分の遺伝子を増やすことである」(ドーキンス説)
(ii) 「生物の本質は、自分の子を残すことである」(私の説)
この二つの説を取り上げよう。この二つの説は、通常の場合には、区別がしにくい。というのは、「自分の遺伝子を残すこと」と「自分の子を残すこと」とは、通常は同じことだからである。
しかしながら、稀に、例外がある。その例外を示そう。それは、双子の場合だ。双子の場合、「自分の遺伝子を残すこと」はイエスで、「自分の子を残すこと」がノーであることもある。
──
【 追記 】
以下は、毒をたっぷりと含む逆説(皮肉)です。
毒のある文章を好む人はともかく、真面目な学究者は、字義通り
に受け取って、腹を立てる恐れがあるので、注意してください。
本項では、 「こういう おかしな理屈が成立してしまうぞ」 という
ふうに、矛盾をあばくのが狙いです。何か具体的な例に即して、
「こうするべし」というふうに主張しているわけではありません。
(あくまで比喩的な架空の話として読んでください。念のため。)
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双子(一卵性双生児)の場合、双子の遺伝子はまったく同じである。しかしながら、それぞれの子は別である。
双子の太郎と次郎がいるとしよう。太郎の子は、太郎の子である。次郎の子は、次郎の子である。しかしながら、遺伝子的には、太郎の子であるか、次郎の子であるか、区別できない。
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ここで、ドーキンス流の発想を取るとしたら、次の結論が出る。
「太郎の子も、次郎の子も、遺伝子的には同一である。ゆえに、太郎の妻を次郎が妊娠させてもいいし、次郎が太郎の妻を妊娠させてもいい。どっちにしたって、同じ遺伝子を使うのだから、同じことなのさ。しょせん、個体は遺伝子の乗り物にすぎないのだから、太郎が孕ませたって、次郎が孕ませたって、結果は同じ。だったら、どっちにしても同じことだ。いくらでも妻を妊娠させていいのさ。」
「同様のことは、双子以外の場合にも、成立する。あなたの遺伝子を遺伝子解析して、あなたの遺伝子とまったく同じ遺伝子をもつ精子を人為的に合成できる。その精子をもつサイボーグは、性器からあなたの精子を放出するので、あなたのかわりになる。ゆえに、このサイボーグが、あなたの妻を妊娠させても、あなたとしてはまったく異存ないはずだ。どっちにしたって、結果は同じなのだから。このサイボーグはまさしくあなたの遺伝子(あなたにとっての自分の遺伝子)を増やす。そしてまた、あなたは自分の遺伝子の乗り物にすぎない。ゆえに、あなたはこれからは妻と繁殖する行為は必要ない。それはすべて、スケベなサイボーグに任せればいい」
一方、私の発想を取るとしたら、次の結論が出る。
「太郎の子も、次郎の子も、遺伝子的には同一であるが、別の個体である。別の個体なのだから、同一視はできないし、あくまで区別するべきだ。ゆえに、通常の場合と同様である。双子同士でたがいの妻を妊娠させていい、ということにはならない。なるほど、結果だけを見れば、遺伝子的に同じ結果になるだろうが、そんなことは関係ない。個体は遺伝子の乗り物ではないのだ。むしろ、生物の本質を考える限り、遺伝子は個体にとって繁殖の道具にすぎない。」
「同様のことは、双子でなくサイボーグの場合にも、成立する。あなたの遺伝子をもつサイボーグがいるとしても、そのサイボーグがあなたの妻を妊娠させていい、ということにはならない。同じ遺伝子を持っているからといって、同じ人格ではないのだ。」
この二つの発想のうち、どちらがまともであるかは、言わずもがなであろう。
あなたがドーキンス説を信じるのであれば、あなたの妻を、双子か、あなたのクローンか、あなたの遺伝子をもつサイボーグか、そのいずれかに貸与すればいい。そいつが、あなたと同じ遺伝子を使って、あなたの妻を妊娠させてくれる。そしてあなたは大喜びだ。
「何もしないで、自分の遺伝子が増える。楽して、よかった。寝取られ男は、素敵だな」
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結論。
生物の目的は、自分の遺伝子を増やすことではない。自分の子を残すことだ。自分の妻を(自分でなく)自分の双子が妊娠させた場合、そこで生まれた子は、遺伝子的には自分の子と同じだが、自分の子ではない。つまり、遺伝子がどうのこうのということは関係なく、自分の子であることだけが大切だ。自分の双子が生ませた子は、自分が生んだ子ではないのだ。
以上は、男の立場からだが、女の場合も同様である。女が自分の腹を痛めて生んだ子と、自分の双子が生んだ子とは、(相手の男が同じであれば)遺伝子的にはどちらも「自分の子」と同様である。しかし、本当に「自分の子」と思えるのは、自分の腹を痛めて生んだ子だけだ。自分の双子が生んだ子は、「自分の子」ではなくて、あくまで「姉妹の生んだ子」であるにすぎない。
結局、親にとって大切なのは、「自分の子」であって、「自分の遺伝子」なんかではないのだ。
( ※ 「DNA鑑定」について言及しよう。通常、DNA鑑定をすることで、遺伝子の一致度により、「自分の子であること」が鑑定される。ただし、ここでは、遺伝子の一致度は「指標」であり、自分の子であることは「本質」である。「指標」と「本質」の関係に注意しよう。指標はあくまで指標にすぎず、大切なのは本質の方である。……しかるに、ここを勘違いする発想もある。それが「自分の遺伝子」という発想だ。なるほど、その発想では、双子の遺伝子は同じだから、双子の生ませた子は 自分が生ませた子であるかのように鑑定される。しかし、その鑑定は間違いだ。指標はあくまで指標にすぎない。指標が間違うこともある。なのに、指標ばかりを大切にするのは、本末転倒だろう。大切なのは、指標ではなく、本質である。遺伝子の一致度という指標にとらわれるあまり、自分の子であるか否かという本質を誤認してはならない。……こういう誤認が起こりやすいということを、本項では示した。)──────
より本質的に言えば、次のことがある。
「個体は遺伝子だけで決まるものではない」
これはとても重要なことだ。実際、次のことが知られている。
「一卵性双生児を研究すると、遺伝子的にはまったく同じだが、人格その他はまったく同じだとは言えない。たしかに、共通性は非常に高いのだが、 100%同じだとは言えない。なぜなら、遺伝子以外にも、先天的・後天的な違いが生じるからだ」
ここで、「後天的な違い」というのは、自明だろう。環境や人生経験などだ。
一方、「先天的な違い」というのも、はっきりとある。それは、「遺伝子は同じだが、遺伝子の発現の過程が微妙に異なる」という形で現れる。
個体発生の過程では、遺伝子によって分泌される化学物質の濃度や分布が、微妙に異なる。そのせいで、遺伝子そのものはまったく同じでも、そこから形成される器官は微妙に差異が生じる。こうして、誕生した時点においてすでに、双子には微妙な差異がある。なるほど、一見したところは、ほとんど同じだ。しかし、厳密に計量や計測をすれば、どこかが微妙に異なる、とわかるはずだ。
さらに言えば、「エピジェネティックス」というものもある。これは、後天的な環境による違いが、遺伝子の塩基に影響したものだ。後天的に遺伝子の違いが生じてしまうわけだ。( → Wikipedia 「双子研究」)
こうなると、「個体は遺伝子の乗り物である」というときの、「遺伝子」という概念そのものが揺らいでしまう。
──
まとめて言おう。
「個体は遺伝子の乗り物である」
というのがドーキンスの発想だ。しかし、双子を見れば、
「個体は遺伝子だけで決まるものではない」
とわかる。
結局、生物の本質は、あくまで個体である。遺伝子は個体にとって、構成要素ないし形成要素であるにすぎない。生物の本質を考える限りは、あくまでそう認識するべきだ。
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さて。ここで考えよう。本質は遺伝子よりも個体にある。ではなぜ、ドーキンスは遺伝子ばかりを重視したか?
実は、それは、「生命の本質」と「小進化の本質」を混同したからだ。
なるほど、小進化の過程を考えるときには、遺伝子集合淘汰の発想を取っていい。このことは、見かけ上、「個体は遺伝子の乗り物である」というふうに解釈できなくもない。(比喩的表現として。)
とはいえ、それはあくまで、小進化の本質を説明するための比喩的表現にすぎない。(遺伝子集合淘汰を比喩的に表現したもの。)……このことを、生物の本質を説明するために用いるのは、拡大解釈である。そんな拡大解釈は許されない。
結局、「小進化の本質」と「生物の本質」とは、まったく別のことである。この両者を混同してはならない。また、両者の原理を「自己複製」だの「自分の遺伝子を増やすこと」などと説明してはならない。そんなのは、白も黒もひっくるめるような、粗雑すぎる発想である。
( ※ 完全な間違いとは言えないまでも、粗雑すぎるのである。和食と洋食をゴチャ混ぜにするような粗雑さ。男便所と女便所をゴチャ混ぜにするような粗雑さ。頭が粗雑すぎ。)
【 参考サイト 】
たとえ遺伝子は同じでも人格は異なる。このことは、実証的にいろいろと判明している。それを研究するのが双子研究だ。次にいくつか列挙しよう。
・ 双生児研究1
・ 双生児研究2
・ 双生児研究3
・ エピジェネティックスの違い
・ DNAのほんの一部だけが変わってしまう例
・ 双生児の親の体験談
・ 個人体験談(双子の異なる人生)
・ 2ちゃんねらーの体験談
※ 以下は、うるさい人向けの話。普通の人は、読む必要はない。
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女性は確実に自らの子ですが、男性の場合は必ずしもそうでない事が悲しい事ですね、、、(もちろんほんの少数の自由妊娠派、あるいは考えたくありませんが意図的に、、、そんな女性をチョイスする地雷を踏んでしまった場合です)
知らぬが仏と申しますように知らない方が幸せなのでしょうが、、、
怪しい場合は、現在であればDNA検査しようと思えば出来ますが、嫁さんにバレたらそれはそれは恐ろしい事になるのでしょうね。
双子の弟に寝取られた場合はわからないのですね!
やはり知らぬが仏かぁ、、、
さてその友人に、この文章を読ませられるかというと…
まず無理です。
私が、その友人の立場でこの文章を読めばどうなるかというと、
その友人は新婚なのですが、
多分十数行くらいで怒り狂うでしょうし、その勢いで私が殺されても文句を言えないでしょう。
南堂様にこんなことを言うのは筋違いも甚だしいことは重々承知でございますが、新婚者にもなんとか読める文章にはならないでしょうか?そもそも不可能な話題かも知れないとは思いますが…。
本題に触れるかもしれない話題と思い、あえて書き込む次第です。
初めの方に【 追記 】を書き足しておきました。
ただ、我々人類の過去の事例の中では相当数あった事と思い書きました。
また、私は現代日本に生まれましたので、他所の国の恵まれない環境下で生活している女性の事を考えずにおりました。
ある人は教育を受けられなかった為、ある人はレイプや強制的に、最悪は国家ぐるみで、、、(その様な国は国とは呼べませんが)
男である私は想像すらできませんが、自らがお腹を痛めて生んだ我が子をどの様な気持ちで見つめているのでしょうか。遺伝子的よりも何よりも自らの子供であるにも関わらず、人によっては殺しても殺し足りない男の子供に対して。でも悲しい事にまぎれもなく我が子なのです。母の愛を求めて泣くのです。
ある人は我が子を殺し、ある人は悲しみを心の奥に沈めその子を育てる為に生きて行くのかもしれません。
後者については母なる愛情に尊崇の気持ちをもちますが、前者については善とも悪とも私には申せません。
ただ私はそのどちらも、、、、、やはり何とも申せません。