2008年03月10日

◆ 自分の遺伝子 5 (結論)


 前項では、「子殺し」「性淘汰」について説明した。そこでは曲がりなりにも、「自分の遺伝子」という概念が成立するように見えた。というのは「他者の遺伝子を減らす」ということがあったからだ。
 しかし一般の場合には、そういうことはない。一般の場合には、「自分の遺伝子を増やす」ということは成立せず、単に「遺伝子を増やす」ということが成立しているだけだ。 ──

 (1) 自分の/遺伝子

 「自分の遺伝子」というものを考えるときには、「自分の」というところにポイントを置いて考える。
 しかしながら、「自分の」というところにポイントを置いて「自分の遺伝子」というものを考えることはナンセンスだ。むしろ、単に「遺伝子」というのを考えるだけでいい。
 なぜかと言うと、「自分の」というところにポイントを置いて考えるならば、「自分/他者」という区別があるはずだが、この両者を区別して、ことさら「自分」という方を取るような選択肢は、ないからだ。
 オスは繁殖行為をするとき、自分のなす交尾を通じて、自分の遺伝子を残すことしかできない。自分のなす交尾を通じて、他者の遺伝子を残すことはできない。だから、交尾をしているとき、「自分の遺伝子を残す」ことをなしているのか、単に「遺伝子を残す」ということをなしているのかは、区別はつかない。
 ここで、利己的遺伝子説を信じる人ならば、「オスは自分の遺伝子を残そうとしている」と認識するだろう。しかし私は、「オスは単に遺伝子を残そうとしているだけだ。その遺伝子がたまたま自分の遺伝子であっただけだ」というふうに認識する。
 私の考えでは、「オスは単に遺伝子を残そうとしているだけだ」となる。ここで、オスがもつ遺伝子は、自分の遺伝子だけだ。そのせいで、結果的に、「自分の遺伝子を残す」という結果になっているだけだ。ここでは別に、「自分の遺伝子を残そう」という目的があるわけではあるまい。「遺伝子を残そう」としたら、結果的に「自分の遺伝子を残す」というふうになっただけだ。(結果論)
( ※ ここでは「自分遺伝子を残そうとしている」のではなく、「自分遺伝子を残そうとしている」のである。結果的には同じだが、認識が異なる。)

 (2)子殺し・性淘汰 以外

 前項では、「子殺し」「性淘汰」について言及した。これらの例では、「自分の子だけを残す」(他者の子を残さない)ということが成立しているから、「自分の遺伝子を残す」ということが成立しているかもしれない。
 しかし、「子殺し」「性淘汰」以外の場合(一般の場合)には、「自分の子だけを残す」(他者の子を残さない)ということが成立していないから、「自分の遺伝子を残す」ということが成立していない
 では、一般の場合においては、どうなのか?

 これについては、すぐ上の (1) からわかる。一般の場合においては、個体は単に「遺伝子を残そう」としているだけなのだ。ただ、遺伝子を残そうとすると、自分のもつ遺伝子は自分の遺伝子であるがゆえに、結果的に「自分の遺伝子を残す」というふうになってしまうだけだ。
 ただし、結果がそうだからといって、そのことが目的だったわけではない。目的は、「自分の遺伝子を残す」ことではなく、単に「遺伝子を残す」ことだけだ。
 たとえば、人間の男が浮気をすること(性欲が強いこと)も、ミツバチが妹育てをすることも、そこでは、「自分の遺伝子を残そう」としているのではなく、単に「遺伝子を残そう」としているだけだ。ただし結果的に、「自分の遺伝子を残す」というふうになっている。なぜなら、個体は自分の遺伝子しかもたないからだ。ここでは単に、「自分遺伝子を残そう」としているだけだ。
( ※ 理由は、前述。一般の場合には、他者の遺伝子を減らそうとしていないから。)

 (3) 系統の存続

 一般の場合を見ることで、物事の本質がわかるようになる。
 個体は別に、「自分の遺伝子を残そう」としているのではない。単に「遺伝子を残そう」としているだけだ。正確には、「自分遺伝子を残そう」としているだけだ。
 そして、このことは、「系統の存続」という言葉で示される。生物(有性生物)の本質は、「自分の遺伝子を増やすこと」(自己複製)ではなく、「系統の存続」である。( → 前出
 これが本質だ。この本質をめざして、生物(有性生物)は、遺伝子を増やそうとする。それだけのことだ。
 個体は、「自分の遺伝子を増やすか、他者の遺伝子を増やすか」という選択肢を与えられて、「自分の遺伝子」を選択しているのでではない。単に「産むか、産まないか」という選択肢を与えられているだけだ。そして、「産む」という選択肢を取ったなら、自分の遺伝子を使って産むしかない。だから結果的に、自分の遺伝子を増やすことになる。それだけのことだ。
( ※ そもそも、「自分の遺伝子」という概念からおかしい。この件は  → 前出

 (4) 自分にある遺伝子

 個体は、「自分の遺伝子を残そう」としているのではなく、単に「遺伝子を残そう」としているだけだ。すると、自分遺伝子を残すことになる。
 では、「自分遺伝子を残す」ときに、何を残すのか? 「自分の遺伝子」をか? 違う。正確に言えば、「自分にある遺伝子」である。
 ここで、「自分にある遺伝子」とは、「自分の遺伝子」のことではない。なぜなら、その遺伝子は、自分だけに備わるものではなく、他者にも備わるものだからだ。
 たとえば、A型の遺伝子、色黒の遺伝子、直毛の遺伝子、などがある。これらの遺伝子は、その個体にとって「自分の遺伝子」と見なされがちだが、現実には、その個体だけにあるわけではなく、他の個体にもある。(たとえば、A型遺伝子をもつ個体はたくさんいる。)
 だから、A型の遺伝子をもつ個体が繁殖行為をしているとき、「A型遺伝子はその個体の遺伝子だから、その個体は自分の遺伝子を増やそうとしている」と見なすべきではない。A型遺伝子は、彼にとって「自分の遺伝子」なんかではないのだ。A型遺伝子をもつ個体全員の遺伝子なのだ。

 (5) 血縁度

 以上のことからわかるように、「自分の遺伝子」というものは存在しない。それは一種の比喩的表現である。「自分の遺伝子」というものの正体は、「遺伝子における自分らしさ」という抽象的な性質のことであり、実質的には「血縁度」のことだ。
 「遺伝子における自分らしさ」すなわち「血縁度」は、「遺伝子の共有度」として計算される。具体的には、次のような値になる。
  ・ 自分では 1
  ・ 子では  0.5
  ・ 親では  0.5
  ・ 兄弟では 0.5

 では、こういうふうに再定義すれば、「自分の遺伝子」というものは認められるか? 
 いや、駄目だ。そのことを、前項と前々項で指摘した。具体的には、次の二つの論拠がある。
 「子殺しや性淘汰以外の場合では、そのことは成立しない」(他者の遺伝子を減らそうとしないので。…… 前項
 「仮に、血縁度を高めることが重要であるならば、近親交配をすることが理に適っているが、現実にはそうでない。(近親交配を避ける。…… 前々項


 (6) 遺伝子集合淘汰

 では、正しくは? 「自分の遺伝子」という発想を捨てて、「遺伝子集合淘汰」という発想を取ればいい。(何度も述べたとおり。)
 具体的に例を挙げると、次の通り。
 「オスの性欲が強いのは、なぜか? 『強い性欲の遺伝子』が増えたことの結果にすぎない」
 「働きバチが妹を育てるのは、なぜか? 『妹育ての遺伝子』が増えたことの結果にすぎない」
 「ライオンが子殺しをするのは、なぜか? 単に『子殺しの遺伝子集合』が増えたことの結果にすぎない」
 「働きバチが妹を育てるのは、なぜか? 『妹育ての遺伝子集合』が増えたことの結果にすぎない」
 ( ※ 以上は  → 前項

 「自分の遺伝子」という発想では、競争している遺伝子は、「自分の遺伝子」と「他者の遺伝子」である。これは「個体淘汰」に基づく発想だ。(ゆえに不適切だ。)
 一方、「遺伝子集合淘汰」の発想では、競争している遺伝子は「その形質の遺伝子」と「その形質でない遺伝子(対立遺伝子)」である。たとえば、次のように。
  ・ 子殺しをする遺伝子/子殺しをしない遺伝子
  ・ 妹育てをする遺伝子/妹育てをしない遺伝子


 で、どうなったか? 次のようになった。
  ・ ライオンでは「子殺しをする遺伝子」の遺伝子集合が増えた。
  ・ ミツバチでは「妹育てをする遺伝子」の遺伝子集合が増えた。


 ただし、たいていの生物(ライオンやミツバチ以外)では、そういうことは起こらなかった。そういう形質の遺伝子集合は増えなかったから、そういう形質は種に備わらなかった。それだけのことだ。すべては結果論で済む。目的論は不要だ。

 (7) 結論

 以上のことから、結論を得よう。
 「自分の遺伝子を増やすため」という発想があるが、これは、「個体淘汰」を基盤にしている点で不適切であり、また、目的論を取っている点でも不適切である。むしろ、「遺伝子集合淘汰」を基盤にするべきであり、また、結果論を取るべきだ。
 こう認識すれば、生物の行動を見て、「不思議だ」とか「変だ」とか思うこともなくなるだろう。「単にその生物ではそういう形質が備わっただけだ。なぜなら、その形質の遺伝子集合が増えたから」と見なすだけで済む。
 たとえば、ミツバチならば、「なぜ利他的行動をするのか?」と考えるべきではなく、「単に妹育ての遺伝子が増えただけだ」と考えればいい。(そしてその理由を探ればいい。それは純粋に生物学的な問題だ。ミツバチの生態を観察する方がいい。)
 また、ライオンならば、「なぜ子殺しをするのか?」と考えるべきではなく、「単に子殺しの遺伝子が増えただけだ」と考えればいい。(そしてその理由を探ればいい。それは純粋に生物学的な問題だ。ライオンの生態を観察する方がいい。)
 ミツバチの妹育てやライオンの子殺しを見て、多くの進化論学者は、「自分の遺伝子を増やすため」というふうに目的論で語る。しかし、目的論で語るべきではない。目的論で語りながら、「これこれのため」というふうに説明しても、それは、まともな説明になっているというよりは、ただのこじつけになっているにすぎない。

 ミツバチは、何らかの目的のために妹育てをなすのではない。ライオンは、何らかの目的のために子殺しをなすのではない。単にそういう形質が備わった(そういう遺伝子集合が増えた)だけのことなのだ。
 ミツバチを見て、「血縁度の高い繁殖をするのは素敵だ」と見なすのは、妥当ではない。単に「ミツバチにはそういう行動の形質がある」と見なすだけでいい。
 ライオンを見て、「子殺しをするのは残酷だ、エゴイスティックすぎる」と見なすのは、妥当ではない。単に「ライオンにはそういう行動の形質がある」と見なすだけでいい。……ライオンは、「子殺しをしよう」という残酷な考えゆえにそうしているのではなく、単に本能に従ってそうしているだけだ。( → 前項 ) それについて、「残酷だ」と見なすのは、人間の価値観の押しつけであり、妥当ではない。
 生物の行動には、目的論はなく、結果論があるだけだ。とすれば、さまざまな生物のそれぞれの形質を見たとき、「すばらしい」とか「残酷だ」とかの価値判断をする余地はない。われわれは単に「事実をあるがままに受け止める」というふうにするだけでいい。
 目的論で語る人々は、やたらと目的や理由を発見しようとして、こじつけの説明をする。(竹内久美子が代表的だが、ハミルトンやドーキンスも同じ穴のムジナだ。)
 しかし、真実を求める学者ならば、目的や理由を発見しようとするべきではなく、事実としての結果だけを見ればいい。
 進化については、「そういう進化があった」というふうに、単に事実を見ればいいだけだ。「これこれの目的や理由があったから進化があったのだ」というふうに説明するのは、科学ではない。それはむしろ、特定の解釈であり、宗教に近い。
 多くの進化論学者は、物事を宗教のように目的論で説明しようとする。だが、そういう説明は物事を歪めて見ている。われわれはむしろ謙虚な目で、事実をあるがままに受け止めるだけでいい。

 (8) 歴史的な位置づけ

 歴史的な観点から、本項の話を歴史的に位置づけよう。学説の歴史は、次のようになる。

  1.「自然淘汰による進化」という説。(ダーウィン)
  2.「個体は自分の利益のために行動する」という説。(ダーウィン)
  3.「子育ては自分の利益のためだ」という説。(ダーウィン)
  4.「ミツバチの妹育ては、 3.では説明できない」(ダーウィン)
  5.「個体は遺伝子の利益のために行動する」という説。(ドーキンス)
  6.「ミツバチの妹育ては、 5.で説明できる」(ドーキンス)
  7.「個体は何らかの目的(利益など)のために行動するのではない。
    ただの結果にすぎない」という説。(私を含む人々)
  8.「結果とは、つまり、遺伝子集合が増えたこと」(私)
  9.「遺伝子集合淘汰という概念だけで十分である。自分の利益とか、
    自分の遺伝子とか、そういう概念は不要だ」(私)

  
 要するに、こうだ。
 「自然淘汰」という説で説明したときは、「個体が行動するのは自分の利益のため」と説明した。だが、それではミツバチの行動が説明できなかった。そこで、「個体が行動するのは遺伝子の利益のため」という説が出た。ただしそこで、「遺伝子」というのを「遺伝子集合」という概念で理解すれば問題はなかったなのだが、「自分の遺伝子」という概念がまぎれこんだので、おかしなことになってしまった。だから、「自分の遺伝子」という概念を捨てて、「遺伝子集合」という概念だけで理解すればいい。そうすれば問題はない。
 そして、もう一つ。「〜のため」という目的論を捨てて、結果論で語ればいい。個体の行動を説明するとき、「どうしてこうなったか」という理由を説明することは大切だが、「何のためにそうするのか」という目的を説明する必要はない。量子の運動であれ、天体の運動であれ、化学分子の反応であれ、「どうして」という理由を説明することは大切だが、「何のために」という目的を説明する必要はない。物理学者や化学者はそのことを理解しているのだが、生物学者だけはそのことを理解できないでいる。その代表がダーウィンやドーキンスだ。彼らはあくまで物事を目的論で語る。

 (9) まとめ

 すぐ前のことは、次のようにまとめることができる。

 《 間違い 》
  ・ 「自分の遺伝子」という発想。
  ・ 「目的論で語る」ということ。


 《 正しいこと 》
  ・ 「遺伝子集合淘汰」という発想。
  ・ 「結果論で語る」ということ。


 結果論について、少し付言しておこう。
 厳密に言うと、「どうしてその遺伝子が増えたのか」という理由・原因を探ることは大切だが、「遺伝子は自分を増やそうとしている」という目的論はまったく不要である。
 比喩で示そう。「どうして子供の身長は伸びるのか」と理由・原因を探ることは大切だが、「子供は身長を伸ばそうとしているからだ」というような目的論は不要である。そういう論議は、非科学的な 形而上学にすぎない。そういう非科学的な発想からは、事実よりも虚偽が得られる。)

 「どうしてその遺伝子が増えたのか」という理由・原因については、話が長くなるので、このあとの「血縁淘汰説」をめぐるシリーズで説明する。
 ただ、ここで簡単に言うなら、そのわけは、「遺伝子集合にとって有利だから」である。つまり、遺伝子集合に有利になるような「全体主義」が成立しているからだ。遺伝子全体が「利己的」であるがゆえに、「個々の遺伝子」や「個体」は、遺伝子全体のために奉仕することになるのだ。 ( → 前出

 なお、「自分の遺伝子」のために個体が奉仕するのではない。それは虚偽である。そういう虚偽を語ったのが、ドーキンスだ。
 実は、個体は、「遺伝子集合」のためには奉仕するが、「自分の遺伝子」のために奉仕することはない。なぜなら、そもそも「自分の遺伝子」なんていうものはないからだ。ドーキンスが「自分の遺伝子」なんていうものを語ったとき、彼は自分の学説を裏切ってしまっているのだ。



 [ 余談 ]

 結果論と目的論について、比喩的に語ろう。
 あなたは仕事をして、金をもらっている。では、金をもらうことが、あなたの目的なのか? ま、そうかもしれない。
 では、あなたの妻は? あなたの妻は、あなたと結婚して、あなたの金をもらっている。また、あなたの子は、あなたから生まれて、あなたの金をもらっている。では、あなたの妻やあなたの子は、あなたの金をもらうために、結婚したり生まれたりしたのか? 
 もちろん、違う。あなたの妻やあなたの子は、あなたの金をもらうが、それは、結果であって、目的ではない。結果と目的とは違うのだ。
 ただし、こういうことを理解できる人は、少ない。特に、たいていの生物学者は、まったく理解できない。彼らはあくまで、物事を目的論で語る。
posted by 管理人 at 20:21| Comment(3) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ドーキンスは目的論者ではありません。
生物学では、目的論的な説明がしばしば見られますが、それは言葉の綾でしかありません。日常言語だと、原因-結果タイプの文章は冗長になったり、読みにくくなったりしますから。

むしろ目的論的な誤解は素人に多いんじゃないでしょうか。
Posted by よってぃ〜 at 2008年03月11日 03:25
その件は、次項で解説します。
Posted by 管理人 at 2008年03月11日 19:54
恐らく私は内容を全て理解出来ていないと思います。
余談についてですが、私が感じた事を述べさせて下さい。

自らの妻、子供に対してでも養う事は大変(そうじゃない人もいると思いますが)ですが、仮に自分の遺伝子の子供では無い場合はどうなのでしょう?

もしも生活がカツカツならば、その子供に対してストレスを感じるかもしれません。でも彼は何も悪くないのです。
また、自分の遺伝子の子供が生まれ、兄弟喧嘩とはいえ、下の子供がいじめられてられていたらやはりストレスを感じると思います。しかし同じ母親から生まれたので彼ら同士には何とも関係ないのです。
それを思えば、妻を愛していれば大丈夫な人もいるかも知れません。

問題は、やはり経済的な部分でのストレスが原因になってしまうかも知れません。人によっては自分の遺伝子の子供でさえストレスになる場合も多いと思いますので。

あっなるほど、、、
ストレスの原因を作らないようにすれば、自分だろうが自分でなかろうが遺伝子にこだわる必要は無いのかも知れません。
簡単ではありませんが。

要は、互いが互いを認め合う。思いやる。気持ちを持てれば良いのですね。でもこれについてはその度合いがサイコロの目の様に運まかせの要素が、、、と考えてしまいますね、、、
Posted by naoki0217 at 2008年03月12日 23:04
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