2008年03月07日

◆ 自分の遺伝子 4 (子殺し・性淘汰)

 に、「自分の遺伝子」という概念を否定した。つまり、
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という主張を否定した。ただしそれには、例外ふうの場合もある。「子殺し」および「性淘汰」という二つの場合だ。
 例として、ライオンの「子殺し」がある。ライオンはどうして子殺しをするのか? ──

 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という主張をすでに否定した。ただしこれには、例外ふうの場合もある。本項では、例外ふうの場合について述べる。
 つまり、「自分の遺伝子」というものを、なんとか認められそうな場合について述べる。
( ※ こうして例外ふうのことについて述べたあとで、次項ではいっそう深く本質を探る。)

 (1) 一般の場合

 まず、一般の場合はどうか? 「自分の遺伝子を増やす」という発想は無意味だ。なぜなら、あえて「自分の遺伝子」というふうに「自分の」という修飾語を付けることに意味がないからだ。
 逆に、ことさら「自分の」という修飾語を付けるとしたら、「自他の区別」をした上で、「自分の遺伝子/他者の遺伝子」という区別をしていることになる。そして、ことさら「自分の遺伝子を増やす」ということを目的とするのであれば、あえて「他者の遺伝子を減らす」べきだろう。(個体総数には限界があるからだ。)
 個体が利己的であるなら、自分の利益を増やすために、他者の利益を減らすべきだ。その方が自分の利益を増やすのに手っ取り早い。というわけで、「自分の遺伝子を増やして、他者の遺伝子を減らすこと」が当然となる。
 ただし一般の場合、このことは起こらない。つまり、「他者の遺伝子を減らすこと」は、起こらない。なぜか? そもそも、「自分の遺伝子を増やす」ということを目的としていないからだ。かわりに、単に「遺伝子を増やす」ということだけを目的としているからだ。
 この件については、次項で詳しく説明する。そちらを参照。
( ※ ここではまだ詳しく理解しなくてよい。この (1) の件は、次の (2) と対比されるために、対照的に示しただけだ。)

 (2) 子殺し

 すぐ上に述べたように、一般の場合には、「自分の遺伝子を増やして、他者の遺伝子を減らすこと」は起こらない。つまり、「自分の子を増やすために、他者の子を死なせる」ということは起こらない
 しかし例外的に、それが起こることがある。その現象が「子殺し」だ。
 子殺しの代表的な例は、ライオンに見られる。ライオンは、群を形成している。一匹のオスが、数匹のメスを従えて、ハーレムをつくっている。そこへあるとき、別のオスが襲う。戦ったあと、新たなオスが勝てば、元のオスを追放して、群を乗っ取る。その後、新たなオスは、元のオスの子を、皆殺しにする。するとメスが発情するので、発情したメスに自分の子を産ませる。
 これがライオンの子殺しだ。同様のことは、ハヌマンラングール(猿の一種)やゴリラの子殺しにも見られる。( cf. バンドウイルカにも子殺しがある。)
 子殺しでは、オスは、自分の子を産ませて、他者の子を殺す。ここでは、「他者の遺伝子を減らす」という効果が見られる。だから一見したところ、「自分の遺伝子を増やす」ということが起こっている。単に遺伝子を増やそうとしているのではなく、自分の遺伝子を増やすために、他者の遺伝子を減らしているわけだ。いわば、自分の金を増やすために、他者の金を減らすように。
( ※ 逆に言えば、そういう場合にのみ、「自分の遺伝子を増やす」というふうに表現できるだろう。真に「利己的である」というのは、そういうことだ。)

 (3) 性淘汰

 「子殺し」に似たものに、「性淘汰」がある。つまり、メスと交尾できる権利をめぐって、オス同士が競争することだ。これは、子殺しのように他者の遺伝子を直接減らす(殺す)わけではないが、(環境でなく)自分自身の行動によって他者の遺伝子を減らす結果をもたらすという点で、子殺しにちょっと似たところがある。
 性淘汰には、次の二通りがある。
  ・ メスが特定のオスを選択する。
  ・ オス同士で暴力的に闘争する。
 前者の例は、鳥の「ディスプレー」に見られる。たとえばクジャクでは、オスがメスの前で羽を大きくひろげて、求愛する。他にも、クロヅルでは、オスがダンスをして、メスに求愛する。また、カモは、オスだけが特別きれいな羽根色をもつが、これも似た事情にある。
 後者の例は、ミナミゾウアザラシに見られる。オスは、メスに選んでもらう前に、オス同士で闘争して、交尾できる権利を争う。人間でも、野蛮な男同士だと、オス同士で闘争するものだ。メスの意向などお構いなしで。
 なお、ミナミゾウアザラシの場合、勝ったオスがハーレムを形成して、多くのメスと交尾する。ハーレムを形成する点は、ライオンの場合に似ている。

 (4) 効果

 「子殺し」や「性淘汰」があると、実際、顕著な効果が生じる。それは、「オスだけで小進化が急激に進んで、オスだけに特別な形質が備わる」ということだ。次のように。
  ・ ライオン       …… オスだけが強力になる。
  ・ ミナミゾウアザラシ …… オスだけが巨大になる。
  ・ クジャク・カモ    …… オスだけがきれいな羽根をもつ。

 どうしてそうなるかというと、「子殺し」や「性淘汰」を通じて、その形質をもたらす遺伝子が多く残るからだ。
 ライオンならば、元のオスと争って勝てるような「強力な」オスの遺伝子が残る。その結果、オスはメスよりもはるかに強力である。
 ミナミゾウアザラシならば、他のオスと争って勝てるような「巨大な」オスの遺伝子が残る。その結果、オスはメスの5倍 〜 10倍の体重になる。
 クジャクならば、他のオスよりもモテるような「きれいな」オスの遺伝子が残る。その結果、オスはメスと違って、きれいな羽根をもつようになる。

 以上のような効果がまさしくあるのだ。つまり、「自分の子だけ(自分の遺伝子だけ)を残そう」ということが本当にある場合、オスだけに特別な形質が備わるものだ。

 (5) 目的と結果

 以上のような結果が、まさしく起こる。ただし注意。ここでは、「結果」と「目的」とを勘違いしないようにしよう。
 「子殺し」などの結果、「強力さの遺伝子」「巨大さの遺伝子」「きれいさの遺伝子」などが増えた。
 ただし、そういう結果が起こったからといって、その結果がもともと目的だったわけではない。特に、「自分の遺伝子を増やす」ということが目的だったわけではない。
 この件は、ちょっと哲学的なので、後述の [ 付記1 ] で再論する。

 なお、こういう「結果」が起こったのには、理由がある。それは、「淘汰圧の強化」である。ここに注目しよう。
 通常の自然淘汰では、外部の環境が淘汰圧となって、生物を自然淘汰にさらす。
 一方、子殺しや性淘汰では、種内の個体同士で争うことで、種の内部で淘汰圧が働く。こうして、外部からの淘汰圧のほか、内部からの淘汰圧が加わることで、淘汰圧がいっそう高まる。そのせいで、「強力さの遺伝子」「巨大さの遺伝子」「きれいさの遺伝子」などが急激に優勝劣敗にさらされる。そういう結果が起こるわけだ。
 ただしこれは、結果であって、目的ではない。それらの遺伝子を増やすことが目的だったわけではないし、自分の遺伝子を増やすことが目的だったわけでもない。単に「子殺し」や「性淘汰」の遺伝子が遺伝子集合で増えて、するとそれにともなって、「強力さ」「巨大さ」「きれいさ」などの遺伝子が増えるという状況が結果的に生じただけだ。その最終状況はあらかじめ目的となっていたわけではなくて、結果的にそうなったというだけのことだ。
( ※ 一般的に言えば、進化というものは、「結果的にそうなった」というだけのことであり、最終状況が目的とされているわけではない。進化というものは目的論では語れないのだ。この点に注意。)

 (6) 基本と例外

 「子殺し」や「性淘汰」では、「自分の子を増やす」という事が起こっているので、「自分の遺伝子を増やす」という概念が一応成立すると見える。「自分のもつ遺伝子を増やし、他者のもつ遺伝子を減らす」ということが一応起こっているからだ。
 ただし、仮にそうだとしても、そのことはあくまで「例外」であるにすぎない。つまり、そのことは、生物一般に当てはまらない。つまり、
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 ということは、一般的に成立することではない。たとえあるにしても、例外的なことなのだ。そのことに注意しよう。

 では、こういう例外的なことが起こるとしたら、そのわけは、なぜか? そのわけを知るには、これらの種に共通することを見出せばいいだろう。すなわち、こうだ。
 「一夫多妻で群をなす」 (厳密には違うこともあるが。)
 たとえば、ライオンやハヌマンラングールは、子殺しをするが、これらの種はいずれもハーレムを形成する。すなわち、一匹のオスが多数のメスを従えて群をなす。
 ミナミゾウアザラシは、子殺しをしないが、オス同士で戦ってから、ハーレムを形成する。
 鳥の場合だと、くっついたり離れたりするので、つがいで行動をともにしないことも多いが、交尾の際には、オス同士で競争をすることがある。(クジャクなど。)
 一方、一般的な生物の場合には、「一夫多妻で群れをなす」ということはないし、オス同士の激しい競争は起こらない。(一夫多妻や乱交はけっこう多く見られるが、ハーレムを形成するほどではない。)
 ライオンのオス同士とか、ミナミゾウアザラシのオス同士とか、そういう激しい争いは、あくまで例外的である。たとえば、熊のオス同士で争うことはあるが、ライオンのオス同士の争いと比べれば、遊びか戯れか儀式のようなものにすぎない。

 (7) 種内闘争

 ライオンのオス同士とか、ミナミゾウアザラシのオス同士とかには、激しい争いがある。これは、「種内闘争」と見なせる。すなわち、外部環境への適合性において競争が起こるのではなく、種内の闘争(殺しあい・傷つけあい)によって競争が起こる。
 なるほど、それによって、(オスの)競争の度合いは高まる。しかし、だからといって、それを「進化にとってすばらしいこと」と見なせるかどうかは疑問だ。
 このことは、ESS理論(メイナード=スミス)の「タカ・ハト」の比較でもわかる。種内の個体が「タカ」という闘争の方針を取ると、たがいに傷つけ合うので、種全体(タカ全体)としてみれば、かえって利益が減ってしまうのだ。
 種内闘争は、オスの肉体を強化するメリットがある。しかしその半面として、「傷つけあうことによる総数の減少」というデメリットがある。その双方を勘案して、全体としてプラスになるのは、大型の肉食獣の場合だけだろう。大型の肉食獣ならば、他の生物を殺すことでしか生きながらえないし、また、もともと種全体の総数は限られている。(増えすぎれば獲物を食い尽くして絶滅してしまうからだ。)
 ライオンのオス同士や、ミナミゾウアザラシのオス同士が、進化によって大型化することができたのは、「総数の制限」という代償を払ってのことだった。これらの動物は自らの総数を増やすことを諦め、かわりに、「必ず生きられること」「滅びないこと」を得たのだ。
 ここでは、種にとっては、「生存」が「増加」に優先された。ということは、遺伝子レベルでも、「存続」が「増加」に優先された、ということでもある。
 子殺しの遺伝子は、その遺伝子自身を種の内部で増やす効果(比率を高める効果)があったが、その遺伝子の総数を増やすことを諦めた。……それはつまり、「遺伝子の総数を増やすことよりも、遺伝子の存続を優先した」ということだ。
 要するに、子殺しの遺伝子は、「自らの遺伝子を増やさないこと」を目的としたからこそ、その遺伝子が種のなかで高い比率を占めるようになったのだ。

 (8) 結論

 結局、利己的遺伝子説は、成立しない。むしろ、逆のことが成立する。大切なのは、「増加」よりも、「存続」なのである。そのために、「総数の増加」を犠牲にして、「種内の比率」を高めるように作用することがある。そのことが、見かけ上、利己的遺伝子説が成立するように見せかける。

 (9) 教訓

 生物が身の意味で、「自分の遺伝子を増やすために、他者の遺伝子を減らそう」というふうに行動することは、ありえない。
 なるほど、見かけ上、そういうふうに見えることはある。だが、あくまで見かけ上のことであって、真にそうであるわけではない。(i.e. 総数でなく比率での増加にすぎない。)
 そして、このように、見かけ上だけでも「自分の遺伝子を増やすために子殺しをする」と見えることは、あくまで例外的である。
 従来の説だと、次のようになった。
 「ライオンが子殺しをするのは、不思議に思えるが、不思議ではない。それは自分の遺伝子を増やすためである」
 しかし、このような説が成立するならば、他の生物もまた、子殺しをしていいはずだ。たとえば、人間もまた、他のオスを襲い、他のオスの子を殺して、未亡人を奪って、ハーレムを形成すればいいはずだ。そうすれば、人間のオスは、非常に強力になったはずだ。
 現実には、人間を含めて、たいていの生物は「子殺し」をしない。つまり、子殺しには、何の必然性もない。さまざまな生物の体色や体重がいろいろと異なるように、「子殺し」という形質もまた、あったりなかったりするだけだ。「子殺し」という形質は、生物にとって必要不可欠な形質ではなくて、ライオンにおいてはたまたま有益であったから備わったというだけのことだ。
 なのに、その点を見失って、「自分の遺伝子を増やすために子殺しをするのは当然だ」と述べるような従来の説は、ほとんど珍説に近い。それもむべなるかな。そもそも「自分の遺伝子」という発想そのものが珍説に近いからだ。

 「自分の遺伝子を増やすこと」は、生物の一般原則ではない。生物の一般原則は、単に「遺伝子を増やすこと」(存続させること)である。この件については、次項で述べる。
( ※ 次項は、例外の話ではなく、生物の本質の話となる。)




 ※ 以下の話は、上記の本文への補足。舌足らずだった分を埋める。

 [ 付記1 ]
 「目的」と「結果」とは、異なる。このことは、混同されやすいが、勘違いしないようにしよう。
 英語の「不定詞」では、「目的」用法と「結果」用法とがある。
 例。 「 eat to live 」
 これは、次の二通りに解釈できる。
  「生きるために食べる」(目的)
  「食べるから生きる」  (結果)

 この両者は混同されやすい。
 同様に、英語に限らず一般の論理で、「結果的にそうなった」ということを、「もともとそのことを目的としていたんだ」というふうに思い込みやすい。
 たとえば、「結果的にこの男性と結婚することになった」というのを、「もともとこの男性と結婚することを目的としてきた」と思い込みやすい。……こういうふうに、「結果論」を「目的論」で解釈することが、しばしば見られる。
 特に、遺伝子で言うと、次のようになる。
 [ 結果論 ] 子殺しをしたら、オスが強力になった。
 [ 目的論 ] オスが強力になるために、子殺しをする。


 現代の生物学では、やたらと「目的論」が幅を利かせている。次のように。
 「ライオンが子殺しをするのは、なぜか? こういう目的のためだ」
 「働きバチが妹を育てるのは、なぜか? こういう目的のためだ」
 だが、このように目的論で語ることは、妥当ではない。なぜなら、生物はもともと、目的のために行動しているからではないからだ。特に、「自分の遺伝子を増やすため」に行動しているからではないからだ。
 では、正しくは? 「目的論」でなく「結果論」で語るべきだ。つまり、「結果的にそうなったにすぎない」と。それがつまりは、「遺伝子集合淘汰」の発想だ。たとえば、次のように。
 「ライオンが子殺しをするのは、なぜか? 『子殺しの遺伝子集合』が増えたことの結果にすぎない」
 「働きバチが妹を育てるのは、なぜか? 『妹育ての遺伝子集合』が増えたことの結果にすぎない」

 ここでは、「目的」はなく、「結果」だけがある。目的などはまったく必要ないのだ。結果だけがあればいいのだ。
 
 結局、従来の
  「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という発想には、「自分の遺伝子」という難点があるだけでなく、「目的論で語る」という難点がある。このような発想は、科学というよりは、こじつけにすぎない。
 たとえば、次のような場合がある。
  ・ 太郎が花子と結婚することになった。
  ・ 宝くじを買ったら一等になった。
  ・ 宝くじを買ったら五等になった。
 これらに対して、目的論で語ると、次のようになる。
  ・ もともと僕たちは結婚するために生まれてきたからさ。
  ・ もともと宝くじで一等になるのを狙っていたからさ。
  ・ もともと宝くじで五等になるのを狙っていたからさ。
 これらはすべて、後付の「こじつけ」にすぎない。結果がわかったあとで、「目的」をこじつけているにすぎない。
 そして、それと同じことを言っているのが、
  「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という発想だ。こんなものは、ただのこじつけにすぎない。
( ※ では、正しくは? 「とにかくそういう結果になった」というだけのことだ。別に、はるか昔から、その結果になることが決まっていたわけではない。「結果的にそうなっただけだ」と考えるだけでいい。つまり、結果論の立場を取ればいい。)

 [ 付記2 ]
 ライオンで言おう。「自分の遺伝子を増やすために子殺しをする」というのが従来の説だった。だが、そういうふうに目的論で語るべきではなく、結果論で語るべきだ。すなわち、「結果的にそうなっただけのことだ」と。「子殺しをする個体集合が有利だったから、子殺しをする遺伝子集合が増えただけだ」と。
 だから、「ライオンはなぜ子殺しをするのか?」と問うのは無意味だ。なぜなら、ライオンは「子殺しをしよう」と考えて子殺しをしているわけではないからだ。ライオンは単に本能に従っているだけだからだ。
 比喩的に言おう。人間は、水を飲み、食事を取る。なぜか? 「生きるために」と目的論で答える人が多いだろう。しかし現実の人間は、いちいち「生きよう」と考えて、そうしているわけではない。単に本能に従って、「喉が渇いたから水を飲む」「腹が減ったから食事を取る」というふうにしているだけだ。その点、他の動物と同様である。
 ライオンの子殺しも同様だ。ライオンは何らかの目的をめざして子殺しをしているわけではなく、おのれの本能に従って子殺しをしているだけだ。ここでいちいち「何のために?」と問うのは、ほとんど無意味である。ライオンに聞いても、ライオンは「おれは何も考えていないよ」と答えるだろう。(トラもそうだ。葛飾柴又のトラさん。「おれは別に何も考えていないさ。そのときそのとき、気ままに生きるだけさ。何のためにこうするかって? そんなことは聞いても無駄さ」。)

 [ 付記3 ]
 物事を目的論で語るべきではない。しかしながら、生物学者はしばしば、目的論で語るという錯誤をやらかす。
 余談だが、ジャック・モノーは著作「偶然と必然」で、こう語った。
 「生物はある目的をめざして進化しているように見える」
 たとえば、アリクイの舌や、象の鼻など、それらの特殊な形状は、たまたまそうなったというよりは、特定の目的をめざしてその方向にどんどん進化していったように見える、ということだ。そこにはあらかじめ、特定の目的があったように見えるし、常にその特定の目的をめざしていて進化してきたかのように見える。── 彼はこのことを「合目的性」という言葉で呼んだ。
 しかし、これもまた、「結果的にそうなった」というだけのことだろう。現実にそうなったあとで、後づけの理由で、「そこをめざしてきた」と感じるだけだ。だから、あくまで結果論で考えればよく、「目的」というような言葉や認識は捨てた方がいいだろう。(彼は無意味な問題を立てて、無意味な回答を出しただけだ。)

 [ 付記4 ]
 利己的遺伝子説を信じる人々は、次のような目的論を信じている。
 「生物の目的は(遺伝子の)自己複製である」
 これを信じているので、「生物は自己複製をめざして行動する」と考える。こうして、「自己複製」(つまり自分の遺伝子を増やすこと)という概念に基づいて、
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という発想が生じる。── だから、誤りの根源は、
 「生物の本質は自己複製である」
 という基本的な発想にあるのだ。
 しかも、この基本的な発想は、根源的に間違っている。( → 前出 )結局、基本的な発想が間違っているから、その上に成立する発想もまた、やはり間違ったものとなる。こうして、
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 という誤った発想が生じるわけだ。誤った土台の上に、別の誤りが成立する形で。

( ※ では、誤りでなく、正解は? 「遺伝子集合淘汰」の発想である。前出のとおり。「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」のではなく、単に「有利な遺伝子集合が増えた」というだけのことだ。それが正解。なお、「どうしてそうなのか?」という問題については、またあとで述べる。)




 [ 補説 ]
   ( ※ うるさい人向けの話。読まなくてもよい。)

 「子殺し」も「性淘汰」も、単に「遺伝子集合淘汰」で理解するのが正しい。次のように。
  ・ 子殺しの遺伝子が増えた。だからオスに子殺しの形質が備わった。
  ・ 性淘汰の遺伝子が増えた。だからオスに特別な形質が備わった。
 ここでは、「自分の遺伝子」という発想は必要なく、「遺伝子集合淘汰」の発想だけがある。

 なお、本文中では、「自分の遺伝子を増やそうとして行動する」ということを、一応認めているようにも説明した。だが、厳密に言えば、認めているわけではない。「自分の遺伝子」という概念については、こう述べている。
 「子殺しや性淘汰の場合には認められるとしても、他の場合(一般の場合)には認められない。なぜなら、他者の遺伝子を減らすとしていないから」
 ここでは、「他の場合には成立しない」ということが主眼なのであって、「子殺しや性淘汰の場合には成立する」と言っているわけではない。
 比喩的に言うと、「あなたと結婚するくらいなら、ゴリラと結婚する方がマシよ」という言葉がある。ここでは「あなたと結婚しない」と言いたいのであって、「ゴリラと結婚する」と言いたいわけではない。「AよりもBの方が悪い」と述べたときには、「Bが悪い」と述べたいだけであって、「Aは良い」ということを意味していない。混同しないように。
 「自分の遺伝子」という概念は、子殺しや性淘汰の場合には、まだ認められるように見える。が、だとしても、本質的には、認められない。「自分の子を残す」ということはあるが、「自分の遺伝子を残す」ということはない。なぜなら、「自分の遺伝子」というもの自体が、もともと存在しないからだ。
 この件については、次項以降でさらに詳しく論じる。





       【 後日記 】
 次の項目も参照。
   → 「ハヌマンラングールの子殺し」

 ※ 本項の続編。「子殺し」について、より本質的なことが書いてある。
  (「自分の遺伝子」という話題からは逸れるが、「子殺し」については詳しい。)
posted by 管理人 at 19:00 | Comment(1) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
[ 付記2 ][ 付記3 ]を追記しました。タイムスタンプは ↓
Posted by 管理人 at 2008年03月07日 23:52
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