2008年03月05日

◆ 自分の遺伝子 3 (関連)

 「自分の遺伝子 1」 をめぐって、関連となる話題。
 「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、私は自分の命を犠牲にしてもいい」
 という珍説について。 ──

 ホールデン(J. B. S.Haldane)という生物学者は、こう言った。
 「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」

 ( I would lay down my life for two brothers or eight cousins. )

 なかなか面白い、と感じる人も多いだろう。たしかに面白い珍説だ。
 だが、これはどう考えても馬鹿げている。にもかかわらず、彼の言葉を本気で信じている人々もけっこういるようだ。(「利己的遺伝子説」を信じている人々に多い。)
 ただしこの珍説は、真実ではない。本人は「気の利いた言葉で真実を述べた」というつもりだろうが、そうなってはいない。そのわけを記そう。

 (0) 血縁度を重視する原理

 まず、この言明の底にあるのは、「自分の遺伝子を残すことが大事だ」という発想だ。
 この発想から、「近親の血縁者を残すことが大事だ」という発想が生じた。ここから「血縁淘汰説」が生じた。(利己的遺伝子説もほぼ同様だ。)
 これらの説では、「血縁度」が重視される。そこで、血縁度を計算すると、次のようになる。
   ・ 自分 との血縁度は  1
   ・ 兄弟 との血縁度は 1/2
   ・ 従兄弟との血縁度は 1/8

 したがって、次のいずれもたがいに等価だ、ということになる。
  「 1  の血縁度をもつ 自分 が1人」
  「1/2 の血縁度をもつ 兄弟 が2人」
  「1/8 の血縁度をもつ従兄弟が8人」

 こうして、
  「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」
 という主張が出る。
 ( ※ こういう数値計算をして、科学を語ったつもりになる、という珍説はけっこう多い。)

 (1) 子と兄弟

 この珍説は明らかにおかしい。どこの阿呆が、自分の命をあっさりと犠牲にするものか。
 簡単に言えば、自分の命の価値は、無限大である。無限大について掛け算や割り算をして比較する、という発想そのものが、非数学的である。そういう初歩もわからない数学音痴が、上記のような無意味な計算をして、得意になるものだ。

 これが原則である。この原則をはずれて、相手の土俵に乗っても、上の珍説のおかしさはすぐにわかる。そのためには、彼の主張に「自分の子」を登場させればいい。
 比較対象として「自分の子」を入れると、どうなるか? こうなる。
   ・ 子 との血縁度は 1/2

 すると、次のことが結論される。
  「二人の子のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」

 このことが成立するだろうか? つまり、次のようなことがあるだろうか?
  「自分の子も、自分の兄弟も、血縁度はともに 1/2 なので、同じである。だから、自分にとっては、どちらの価値も同じだ。子も、兄弟も、どちらも自分自身の半分の価値をもつ」

 こんなことはありえない。子と兄弟は、自分にとってどちらも同じ血縁度だから、どちらも同じくらい重要だ、ということはありえない
 子と兄弟と親は、たとえ血縁度が同じであっても、明白な優先順がある。一般的に言えば、何よりも大切なのは、自分の子であり、次が自分であり、次が親と兄弟だ。
 ここでは「血縁度が高い順に優先される」というようなことはない。血縁度で命の優先順が決まるということもない。

 (2) 子への愛

 上記の珍説の計算に従って、さらに考えよう。
 子と兄弟は、血縁度がどちらも同じ( 1/2 )だ。
 とすれば、こうなるだろう。
  「二人の子のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」
 換言すれば、こうなる。
  「一人の子のためであれば、自分の命を犠牲にするのはまっぴらだが、二人の子のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」

 では親は、こんなふうに感じるものだろうか? ま、そういう親も、いることはいるだろう。しかし、通常の親は(特に母親は)、次のように感じるはずだ。
 「(二人でなく)一人の子のためであっても、自分の命を犠牲にしていい」

 そうだ。たった一人の子を救うためであれ、親は自分の命を犠牲にしようとする。そのことで自分の遺伝子がたくさん残ることはなくても、そうしようとする。
 では、なぜ? 遺伝子を残すためでないとしたら、何のため? それは、(親による)子への愛ゆえだ。

 (3) 妻への愛

 子への愛だけでなく、妻への愛もある。次のように。
 「愛する妻のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」

 妻の血縁度はゼロだ。上記の学者であれば、「妻のために命を犠牲にするつもりはない。妻の血縁度はゼロだから」と言うだろう。
 しかしながら、多くの男は、妻のために自分の命を犠牲にしてもいい、と思うものだ。特に、新婚などで、愛の強い夫はそうだ。
 また、それほどではなくても、夫としての責任感から、そうする男が多いはずだ。たとえば、ボートに二人きりしか残れないとしたら、たいていの男は、子と妻を残すだろう。上記の学者ならば、妻を見捨てて、自分が生きようとするだろうが。
( ※ なお、自分の子を産んでくれた妻ならば、「妻を残せば、子の遺伝子を残す」ということが一応成立する。だから、「子の遺伝子を残すために、あえて妻を残す」という解釈も一応成立する。ただし、相手が恋人の場合には、それも成立しない。この件は、次に示す。)

 (4) 恋人への愛

 さらに言えば、恋人への愛もある。次のように。
 「恋人のためであれば、自分の命を捨ててもいい」
 恋人は自分との血縁度がゼロである。この点は、妻と似ている。
 さて。恋人はまだ自分の子を産んでいない。また、新婚ほやほやの新妻も、まだ自分の子を産んでいない。(できちゃった婚を除く。)
 にもかかわらず、男は、恋人や新妻のために、自分の命を犠牲にしようとすることがある。そのことで自分の遺伝子を残すことはできないのに。
 しかも、である。驚くべきことに、こういう形の愛情が、最も強いのだ。たいていの男は、「自分の命を失う」という場面にぶつかったら、躊躇する。「死にたくないな」と思う。しかしながら、愛する恋人や新妻のためであれば、恋愛のさなかの強力な愛ゆえに、男は「自ら喜んで死のう」とするものだ。
 そして、こういうふうに激しく自己犠牲をしようとするとき、その相手は必ず、血縁度が(ほぼ)ゼロなのだ。血縁度がゼロであるからこそ、愛情はかくも激しいものとなるのだ。
( ※ 仮に、血縁度がゼロでないとしたら、その相手は近親結婚や近親相姦の相手だということになる。その場合には、これほど強い愛情は湧かないはずだ。たとえば、従妹や姪や妹などと近親交配をしたときには、これほど強い愛情が湧くはずがない。その方が血縁度は高いのだが。)

 ──

 結論。

 以上からわかるはずだ。血縁度などは、ほとんど意味はない。「血縁度の高い近親者ほど自分にとって大切だ」ということはない。
( 救命ボートに残るときの優先順位を考えるなら、血縁度順にすれば、「 自分 > 子 > 妻 」 となるが、普通の男ならば、「 子 > 妻 > 自分 」 とするだろう。)
 「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」
 というのは、ただの珍説である。それは気の利いた冗談でしかない。

 さて。ここで問題だ。
 血縁度が大切なのではないとしたら、かわりに、何が大切なのか? 血縁度以上に大切なものとは、いったい何なのか?
 それは、自分で考えてほしい。ここまでに私が述べてきたことを理解していれば、正解はわかるはずだ。(もちろん「自分の遺伝子」なんかではない。)


           *     *


 以下では正解を記す。ただし、読む前に、まずは自分の頭で考えてほしい。




 生物にとって最も大切なのは、何か? 
 例示的に考えよう。上で述べた例では、子、親、兄弟は、いずれも血縁度が同じだが、優先順位ははっきりとつく。子が最優先だ。しかも子は、血縁度が 1 である自分よりも優先される。
 このことは、次のように表現できる。
 「子への愛が最強である」


 親は自分よりも子を大事にする。それは「親は子を愛する」ということだ。では、その意味は? 「利子主義」(系統の利全主義)だ。すなわち、こうだ。
 「自分自身は、自分の親のおかげで誕生して育ってきた。自分はすでに、この世に生まれて生きてきたという利益を得た。ならば、自分もまた、自分の親がしてくれたように、自分の子のために尽くそう。自分の子を生んで、自分の子を育てよう。……自分の子は、まだ十分に育っていないし、まだ生まれたことの利益を十分に得ていない。だから、その利益を与えよう。かつて自分の親が自分に与えてくれたように」

 これが親の愛だ。有性生物(特に哺乳類)は、そのことを本能として知っている。だからこそ有性生物(特に哺乳類)は、高度に進化した生物として生きてこられた。仮にそのようなことがなかったら、親は子をほったらかしにして、十分に育てないので、どの個体も高度に進化した種として生きることはできなかっただろう。(たとえば、授乳をしてもらえないので、生きられない。)

 哺乳類では、自分の子を最も大切にする。自分自身よりも、自分の子を大切にする。ここでは血縁度など、何の意味もない。あるのは「親の愛」だけだ。それは「本能」という形で、遺伝子によって組み込まれている。── ここに真実がある。この真実を知ることが大事だ。
 逆に、この真実を知らずに、血縁度ばかりを重視する学者もいる。そういう学者は、自分の信念に従って、血縁度の高い子を生むために、せっせと努力するといいだろう。
 ミツバチは血縁度が 0.75 の妹を育てる。それに似ているが、人間も血縁度が 0.75 の子を生む方法がある。だから、その方法を実行して、血縁度の高い子を生んで育てればいいのだ。それほどにも血縁度を重視するのであれば。

( ※ 血縁度が 0.75 の子を生む方法は、ある。それは、親または子とまぐわうことだ。あなたが男なら、あなたの母親または娘とまぐわえばいい。そうすれば、血縁度が 0.75 の子を生むことができる。血縁度ばかりを重視する阿呆な学者は、近親相姦をすればいいわけだ。……彼は、生物として生きることよりも、血縁度の数値が大事なのだから。一種のオタクですかね。本質以外の枝葉末節にこだわり、最も大切なものを見失う。)
( ※ ハミルトンやドーキンスは、「血縁度が 0.75 の子を育てる」という理屈で、ミツバチの妹育てを説明した。しかし、そんな説明が成立するならば、あらゆる有性生物は、近親交配をして、「血縁度が 0.75 の子を生んで育てる」というふうになったはずだ。しかるに、そんなことはない。つまり、ハミルトンやドーキンスの説は、破綻しているのだ。)

 【 注記 】

 本質を簡単に言うと、次のことだ。
 「生物にとっては、世代交代が大切だ。兄弟を育てても、世代交代はないから、意味がない。しかし、子や姪を育てれば、世代交代があるから、意味がある。だから、どうせ比較するならば、子を育てるのと、姪を育てるのとを、比較した方がいい」
 ただし、自分の子に対して、自分の姪や甥は、価値がずっと小さい。親は自分の子のために命を投げ出すことはできても、姪や甥のために命を投げ出すことはできにくい。
 この件については、次も参照。(血縁淘汰説への批判)
  → [補説] ミツバチの利他的行動 3 [ 補足 ]



 【 追記 】 (2009-03-23 )
 ホールデンは、どこをどう間違えたか? その本質を示す。
 ホールデンが勘違いしたのは、次の点だ。
 「進化の問題と生命の問題を、混同する」

 換言すると、こうだ。
 「マクロの問題とミクロの問題を、混同する」


 もうちょっと詳しく説明すると、こうだ。
 「進化というものがある。これは、マクロ的なものだ。つまり、非常に長い時間における、莫大な数の個体に関する現象だ。
 一方、生命というものがある。これは、ミクロ的なものだ。つまり、(進化に比べれば)非常に短い時間における、たった1つだけの個体に関する現象だ。
 この二つは、まったく異なることである。なのに、ホールデンは、この二つの問題を混同した。」


 では、どういうふうに混同したか?
 「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」
 という発想は、マクロにおいては、成立するだろう。しかし、ミクロにおいては成立しない。それが事実だ。なのに、マクロにおける命題を、ミクロに持ち込んでしまった。

 莫大な数の個体を統計的に見るときには、一つ一つの個体のことなどどうでもよくて、単に遺伝子の流れを見るだけでいい。だから、そのときには、ホールデンのように考えていい。
 しかし、だからといって、一つ一つの個体に着目して生命としてとらえるときには、そういう発想は成立しないのだ。

 だから、ホールデンの発想は、次のことと同じだ。
 「一人一人の人間は、遺伝子の統計における標本の一つにすぎない」

 これは、集団遺伝学的に考えている限りは正しいが、現実の人間を見ているときには正しくない。なのに、ホールデンは、そういう発想をした。そのあげく、次のような発想をした。
 「私という人間は、遺伝子の統計における標本の一つにすぎない」

 これは完全に間違いだ。これは、集団遺伝学の発想を、現実世界に持ち込んでしまっているからだ。これが行き過ぎると、次の発想になる。
 「この集計は失敗したから、この集計は全部廃棄して、集計をやり直そう。だから、この集計の人間たちは全部殺して、別の人間たちを人さらいしてこよう」

 つまり、「集団遺伝学のために標本としての人間を勝手に操作する」という発想だ。こういう狂気的な発想が、ホールデンの発想だ。それは、マッドサイエンティストの発想だ。

 結局、こう言える。
 マクロとミクロとを、区別する必要がある。進化と生命現象とを、区別する必要がある。両者を混同してはならない。そして、両者を混同すると、ホールデンのようなマッドサイエンティストの発想をするハメになる。

 《 参考 》
 もっと詳しい説明は、次のリンクに記してある。実は、上記の説明は、下記リンクの要約にすぎない。ぜひ、下記リンクを読んでほしい。
  → 個体は遺伝子の乗り物か?
 
 また、次のところにも、ちょっと参考になる話題がある。(最後のあたり。)
  → 生物と遺伝子 (その3)



  ※ 以下は余談。ただし重要な話。

 [ 付記 ]
 ホールデンの発想の基盤には、一つの発想がある。それは、「自分の遺伝子を残そう」という目的が、生物にはもともとある、という発想だ。
 しかし、そんなことは、成立するだろうか?
 たとえば、あなたは「自分の遺伝子を残したい」という思うか? 具体的に言えば、あなたのクローンを残したいと思うか? あるいは、自分の子供を「自分のクローンになるべく似たもの」にしたいと思うか?
 「イエス」と答える人もいるだろう。だが、「ノー」と答える人が大半だろう。なぜなら、むしろこう思うからだ。
 「子は、自分と配偶者のどちらかに、そこそこ似ていればいい。特に自分にいっぱい似ている必要はない」
 どちらかと言えば、「自分よりも、自分の配偶者に似ている方がいい」と思う人も、けっこう多いだろう。「自分に似た息子よりも、妻に似た娘の方がいい」と。
 たいていの人は、ことさら「自分の遺伝子を残したい」と思ったりしない。基本は「自分または配偶者に似ていればいい」ということだ。その意味は、「自分たち夫婦の子であればいい」ということだ。だから、自分たち夫婦の子であれば、たとえ自分に似ていなくても、それでいい。
 また、自分が出来の悪い人間であった場合、子供が出来のよい子供が生まれたなら、どう思うか? 「こいつはおれに似ていないから嫌いだ」と思うか? いや、「トンビがタカを生んだな」と喜ぶだろう。逆に、「自分がバカだから、バカな子がいい」ということはないだろう。「自分が病気だから、病気の子がいい」ということはないだろう。
 親というものは子に、「自分に似てほしい」と思うより、「自分以上のものであってほしい」と思うものだ。
 結局、個体が望むのは、「自分の遺伝子を残すこと」でもないし、「自分に似た子を残すこと」でもない。望むのは、「自分たち二人の子を残すこと」である。また、「自分に似ているというより、自分以上のものであること」を望む。

 では、なぜ、そういうふうに望むのか? それは、われわれが有性生物だからだ。
 無性生物ならば、「自己複製」が原理だ。そこでは、「自分の複製」をつくることしかできないし、「自己複製」が目的となる。
 有性生物ならば、「交配」をなす。そこでは、「自分の複製」をつくるかわりに、それ以上のことをなす。つまり、「交配」を。その目的は、「遺伝子を組み合わせることで多様な子を生み出す」ことであり、「子が親以上になる可能性をもたらすこと」である。( → 有性生物と無性生物

 次のような発想がある。
 「親は自分の遺伝子を残したがる」
 「親は自己複製を残したがる」
 「親は血縁度を高めたがる」
 こういう発想は、生物一般のための発想ではなく、ただ無性生物(だけ)のための発想なのだ。なるほど、無性生物ならば、無性生殖をすることによって、自己複製が可能となる。しかし、有性生物は、そうではない。有性生物では、血縁度の高い生殖よりも、血縁度の低い生殖をなすことが大切だ。なぜなら、そのことによって、遺伝子の多様性をもたらすことができるからだ。
 有性生物においては、血縁度を高めるということは、近親交配をすることと同義である。それは、有益なことではなく、有害なことなのである。

 血縁淘汰説であれ、利己的遺伝子説であれ、そこにある発想は、
 「血縁度を高めると、自分の遺伝子を残すことができて有利だ」
 ということだ。しかし、そういう発想は、まったくの間違いだ。それは、有性生物のための発想ではなく、無性生物のための発想である。
 しかも、そこでは、「自分の遺伝子」という誤った概念がまぎれこんでいる。そんなものは現実にはありえないのだが、そんなものがあると思い込んでいる。そして、この概念が、とんでもない間違った結論をもたらす。「自分の遺伝子を残すことが大切だ。近親交配は大切だ」というような。
 
( ※ 「自分の遺伝子」という概念には、いろいろと問題がある。これらの問題を、このあとも話題にしよう。この話題は、まだまだ続く。)
posted by 管理人 at 20:14| Comment(1) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最後よりも少し前に、 【 追記 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは 下記 ↓
Posted by 管理人 at 2009年03月23日 01:06
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