2008年02月20日

◆ 自分の遺伝子 1

 「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」とは異なる。( → 前項
 さて。利己的遺伝子説では、次のように説明される。
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 しかし、この説明は成立しない。なぜなら、「自分の遺伝子」という概念は、「遺伝子淘汰」の発想によるものであり、「遺伝子集合淘汰」の発想によるものではないからだ。 ──

 【 概略 】
 前項では、「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」を区別するべし、と述べた。これを読んで、不思議に思った人もいるだろう。「なぜそんな区別をいちいちする必要があるのか」と。そこで、そのわけを示そう。
 この両者をきちんと区別しないと、とんでもない間違いを犯しがちだ。しかも、間違いを犯したことに自分で気づかない。
 具体的には「自分の遺伝子」という概念が問題となる。

 利己的遺伝子説では、次のように主張されることがある。
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」

 しかし、この主張は成立しない。この主張は「自分の遺伝子」という概念を含むが、「自分の遺伝子」という概念は、「遺伝子集合淘汰」でなく「遺伝子淘汰」の発想による主張であるからだ。
 遺伝子の淘汰を考えるとき、個々の遺伝子を単位とした淘汰を考えることはナンセンスである。それゆえ、上記の主張はナンセンスとなる。

 ──

 このあとは、詳細を説明しよう。

 (1) 「自分の遺伝子」という問題


 利己的遺伝子説では、次のような説明がされることがある。
 「生物は自分の遺伝子を増やそうとして行動する」

 たとえば、次のように。
 「オスは自分の遺伝子を増やそうとして行動する」
 このことから、オスがやたらと交尾したがることは「遺伝子を増やそうとしているのだ」というふうに説明される。

 しかし、ここには問題がある。先に示したように。( → 前出
 改めて述べよう。
 「自分の遺伝子」というのは、「自分のもの」とは言えない。たとえば、「A型遺伝子」というのは、「自分のもの」ではなく、A型遺伝子の遺伝子集合の一部であるにすぎない。そんなものを「自分の遺伝子」と呼ぶことはできない。(比喩的に言うと、国有財産を「自分のもの」と呼ぶようなもので、馬鹿げている。)
 A型遺伝子を考えよう。個体がA型遺伝子を増やそうとしているのであれば、そのとき実際には、A型遺伝子の遺伝子集合を増やそうとしているのである。とすれば、その遺伝子の持主は、A型遺伝子をもつ全員である。A型遺伝子は誰のものかと言えば、そのような全員のものである。それを「自分のもの」と呼ぶことはできない。
 同様に、目の色の遺伝子も、肌の色の遺伝子も、それぞれの個体集合のものだ。そういう遺伝子を「自分の遺伝子」と呼ぶことはできない。
 個体がA型遺伝子を増やそうとしているとき、A型遺伝子は「自分の遺伝子」ではなく、「個体集合の遺伝子」であるがゆえに、「自分の遺伝子を増やそうとしている」のではなく、「個体集合の遺伝子を増やそうとしている」のである。

 以上の指摘を読んでも、まだ問題点を十分に理解できない人も多いだろう。それは仕方ない。まだ問題点は十分に指摘されていないからだ。以上の説明では、とりあえず、「何となくおかしいなあ」「自分の遺伝子と呼ぶのはちょっと変だなあ」と疑問を感じてくれればいい。
 具体的な難点は、このあとで指摘される。


 (2) 遺伝子淘汰と遺伝子集合淘汰の折衷


 「自分の遺伝子」という概念のおかしさは、前項の
    遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰

 という区別をすると、はっきりしてくる。「自分の遺伝子」というのを考えたとき、そこでは遺伝子を「個々の遺伝子」として理解している。つまり、その発想は、「遺伝子淘汰」であって、「遺伝子集合淘汰」ではない。
 ただし、注意。この発想は、純然たる「遺伝子淘汰」とも違う。なぜなら、自分以後(子孫)の分については、「遺伝子総数を増やす」というふうに考えていて、「遺伝子集合淘汰」の発想を取り入れているからだ。
 その意味で、「自分の遺伝子」という発想は、「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」の折衷である。(足して2で割ったもの。)
 つまり、次のようにまとめられる。
  ・ 自分の遺伝子について    …… 遺伝子淘汰
  ・ 自分以降の遺伝子について …… 遺伝子集合淘汰

 こういうふうに折衷的になっている。


 (3) アダムとイブ

 
 では、折衷とはどういうことか? 「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」の折衷とは、どういう意味か? わかりやすく言おう。それは、こうだ。
 「自分が遺伝子の始祖となる。アダムとイブのように」

 アダムとイブは、自分以降については、遺伝子を増やすので、遺伝子集合を考えることになる。ただし、自分の遺伝子の分については、一つの遺伝子だけを考える。
 ここで、注意。本物のアダムとイブならば、まさしく自分が始祖となっていた。しかし、遺伝子淘汰の発想では、まさしく自分が始祖となるということはない
 たとえば、やたらと繁殖活動をするプレイボーイがいたとしよう。彼は自分が遺伝子の始祖となったつもりで、自分の遺伝子を増やそうとしている。しかし、彼は本当は始祖ではない。A型遺伝子であれ、皮膚の色の遺伝子であれ、目の色の遺伝子であれ、彼と同じ遺伝子をもつ個体はたくさんいる。つまり、たくさんの遺伝子がすでにしっかりと存在している。とすれば、彼を始祖と見なすことは無意味だ。彼が「A型遺伝子をもつ個体は自分だけだ。自分が始祖だ」と思ったとしても、実際には、A型遺伝子は莫大な数がある。とすれば、ここでは、「遺伝子集合」を考えるべきなのだ。彼が始祖になったつもりでいるとしたら、とんだ勘違いだ。
 そして、このような勘違いをもたらすのが「自分の遺伝子」という発想だ。

( ※ なお、論理的にも矛盾が生じる。彼が「自分はアダムだ」と思ったとしても、彼の父親もまた「自分はアダムだ」と思っていることになる。としたら、彼が「自分の遺伝子を増やしている」と思っていても、実際には、「彼の父親の遺伝子を増やしている」ということになる。つまり、彼が増やそうとしているのは、自分の遺伝子というより、自分の父親の遺伝子なのだ。同様に、「自分の祖父の遺伝子」「自分の曾祖父の遺伝子」……というふうにもなる。結局、「誰かの遺伝子」という発想は消えて、「遺伝子集合」という発想だけが残ることになる。)


 (4) 血縁度

 
 以上のような問題があるので、生物学者は別の発想を出した。
 まずは、「遺伝子全体の組み合わせ」というものを考えた。たとえば、太郎という男の遺伝子全体と、その息子の遺伝子全体の組み合わせを考える。太郎の「遺伝子全体の組み合わせ」が、息子の「遺伝子全体の組み合わせ」に伝われば、「遺伝子全体の組み合わせ」はうまく伝わったことになる。
 では、個体は、そのような組み合わせを増やそうとしているのか? いや、そんなことはない。なぜなら、交配が起これば、そのような組み合わせは必然的に崩れてしまうからだ。
 というわけで、「遺伝子全体の組み合わせ」というものは駄目だ。

 次いで、生物学者はもっと洗練された発想を出した。それは「血縁度」という概念だ。(ハミルトンの血縁淘汰説)
 これによると、「自分の遺伝子を増やす」ということは、次のように言い換えられることになった。
 「自分の遺伝子を増やすということは、自分の遺伝子と同じ遺伝子をもつ個体をなるべく多く増やすということだ。つまり、血縁度の高い個体を増やすということだ」

 この発想だと、「自分の遺伝子」というものは、個々の遺伝子ではなくて、ある種の抽象化された性質になることになる。これでうまく成功した、というふうに見えた。万々歳、と人々は拍手した。
 しかしながら、そこにはやはり、すぐ前の (3) の発想がひそんでいたのだ。だから、同様の難点をかかえることになる。「自分の遺伝子」という発想を取る限り、根源的に駄目なのだ。
( ※ 血縁淘汰説は、物事を見事に説明したように見えたが、実は何にも成功していない。この件は、に詳しく説明した。なお、数項目後でも改めて、この件を論述する。詳しくはそちら。)


 (5) 「遺伝子集合淘汰」による解決


 「遺伝子淘汰」も駄目だし、「血縁淘汰説」も駄目だ。としたら、何が正しいのか? 真相は?
 簡単だ。先にも述べたとおり、「自分の遺伝子」という発想を捨てればいい。かわりに、「遺伝子集合淘汰」という発想を取ればいい。すると、次のようになる。
 「生物が何らかの行動をするとき、生物が増やそうとしているのは、自分の遺伝子ではなく、その行動の遺伝子である」


 たとえば、次の例がある。
  ・ 親が子育てをするときは、子育ての遺伝子を増やそうとする。
  ・ オスが交尾をするときは、交尾の遺伝子を増やそうとする。
  ・ 働きバチが妹育てをするときは、妹育ての遺伝子を増やそうとする。

 行動でなく形質で言えば、次のことが言える。
  ・ 個体が黒色を発現するときは、黒色の遺伝子を増やそうとする。
  ・ 個体の足が長いときは、足が長いという遺伝子を増やそうとする。
  ・ 個体にツノがあるときは、ツノの遺伝子を増やそうとする。


 ここでは、その行動を取る特定の個体を見ずに、その行動を取る個体集合を見るといい。たとえば、妹育てをするミツバチの一匹を見ずに、妹育てをするミツバチの個体集合を見るといい。同時に、妹育てをしない個体集合を見るといい。そして、両者を対比的に考えると、次のことがわかる。
 これらの例では、その行動または形質を発現させる特定の遺伝子が増える。「自分の遺伝子」というさまざまな遺伝子が一挙に増えるのではなく、その行動または形質を発現させる遺伝子だけが増える。
 どうしてかというと、あらゆる遺伝子はどんどん増えようとしているのだが、そういう遺伝子がたがいに競争すると、(その行動や形質のせいで)有利なものが増えて、不利なものが減るからだ。……これが「遺伝子集合淘汰」(いわゆる遺伝子淘汰)の発想だ。

 なお、ここでは、あくまで「遺伝子集合」が増えようとしている。決して個体が「自分の遺伝子」を増やそうとしているのではない。利己的なのは、遺伝子集合であって、個体ではないのだ。
( ※ 「自分の遺伝子」という発想だと、利己的なのは遺伝子集合でなく、個体になってしまう。それではおかしい。そんな発想は利己的遺伝子説に合致しない。)
( ※ 「自分の遺伝子」という発想は「自分の」という言葉を使っている時点で、個体淘汰の視点に立ってしまっている。そこがおかしい。)


 (6) まとめ


 まとめて述べよう。
 ミツバチが妹育てをするとき、ハミルトンやドーキンスは、この行動を説明しようとして、「自分の遺伝子」という概念を導入した。そして、「自分の遺伝子を増やそうとして行動する」と説明した。また、「妹育てをすることで、自分の遺伝子を増やせる。だから妹育てをするのだ」と説明した。
 しかし、その発想は、「遺伝子集合淘汰」の発想ではない。それは「自分の遺伝子を増やす」という発想だ。その発想は、「利己的な遺伝子」の発想ではなく、「利己的な個体」の発想である。
 その発想は、ほとんど個体淘汰の発想に近い。それは、正確には、「遺伝子についての個体淘汰」である。つまり、(遺伝子集合淘汰でなく)「遺伝子淘汰」だ。 
 個々の遺伝子についての「遺伝子淘汰」では、各個体の個々の遺伝子の増減が考察される。たとえば、ミツバチ  を一匹とって、そのミツバチ  の固有の遺伝子について増減が考察される。しかし、そのような発想は、(遺伝子全体を考える)「遺伝子集合淘汰」の発想からはずれている。

 また、その発想は、発想のうちに論理的な矛盾を含む。たとえば、働きバチが「自分の遺伝子」と思っているものは、「自分の遺伝子」というよりは、「自分の母親の遺伝子」であるにすぎない。その方が真相に近い。なぜなら、自分の遺伝子が突然変異を起こした場合、妹育てをしても、その突然変異を起こした遺伝子を増やすのではなく、突然変異を起こしていない母親の遺伝子を増やすだけだからだ。
 「自分の遺伝子」と思えたものは、実は、「自分の遺伝子」ではなく、「母親の遺伝子」であったのだ。それが真相だったわけだ。(さらに言えば、母親の遺伝子というものも、その祖先の遺伝子である。)

 「自分の遺伝子」という発想は、根源的に狂った発想だ。そんな発想はあっさり捨るべきだ。かわりに、「遺伝子集合淘汰」という発想を取るべきだ。
 にもかかわらず、人々は、「自分の遺伝子」という根源的に狂った発想を取る。それでいて、自分の誤りに気づかない。
 なぜ? そもそも、「遺伝子」と「遺伝子集合」の区別をしないからだ。だから、「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」の区別をしないまま、「自分の遺伝子」というナンセンスな概念を取ってしまうのだ。
 言葉の使い方がメチャクチャなせいで、概念が混乱し、思考が混乱する。かくて最終的には、間違った論理を組み立てながら、自分でそのことに気づかないハメになる。

 

 [ 付記 ]
 上記では、ドーキンスの利己的遺伝子説を否定した。ただし、否定してはいるが、全否定しているのではなく、部分否定しているだけだ。注意。
 本項で否定しているのは、利己的遺伝子説の本体部分ではなくて、ミツバチの利他的行動の部分だけである。

 ドーキンスがハミルトンの「血縁淘汰説」を準用した部分。「自分の遺伝子」という概念で説明した部分。── そこだけに難点がある。ドーキンスの述べたことの核心部分は、別に影響されない。

 ただし、注意。
 ドーキンスの説が正しいことの理由として、ミツバチの利他的行動を例に挙げる人が多い。実際、ドーキンスも、そうした。しかしながら、ミツバチの利他的行動の説明は、ドーキンスの説が正しいことの理由にはならないのだ。なぜなら、その説明は、根源的に狂っているからだ。
 とはいえ、ミツバチの利他的行動についての説明は狂っていても、ドーキンスの説の本体は、別に揺らぐことはない。最大の根拠は狂っていたことになるが、この根拠とは別の根拠を使えば、結論はそのまま正しく成立する。

 ただし、これを聞いて、「だったら構わないじゃないか」と思ってはならない。世間には、ここを勘違いして、こう思う人が多い。
 「ハミルトンの血縁淘汰説は正しい。それを変形したドーキンスの説明も正しい。ゆえにドーキンスの利己的遺伝子説も正しい」
 と。しかし、それは間違いだ。正しくはこうだ。
 「ハミルトンの血縁淘汰説は間違いだ。それを変形したドーキンスの説明も間違いだ。ただし、ドーキンスの利己的遺伝子説だけは、別の根拠ゆえに(おおむね)正しい」
 こういう事情をしっかりと理解しておこう。




 ※ 肝心の話は、これでおしまい。次項以降では、補足的な話を述べる。
 ※ 「血縁淘汰説」については、下記で述べる。
     → 血縁淘汰説とは
posted by 管理人 at 22:05 | Comment(0) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
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