「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」は、はっきり区別されるべきだ。
「遺伝子集合淘汰」のことを「遺伝子淘汰」と呼ぶべきではない。
( ※ 現状では混同しているが、混同するべきではない。)
──
本項で述べることは、重要ではあるが、ごく簡単だ。すぐ上のことだ。つまり、
遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰 という二つを、はっきり区別するべし、ということだ。
つまり、淘汰の単位をはっきり区別して、それぞれにふさわしい名称で呼ぶべきだ、ということだ。次のように。
・ 「遺伝子淘汰」 …… 淘汰の単位が個々の遺伝子
・ 「遺伝子集合淘汰」 …… 淘汰の単位が遺伝子集合 要するに、(
前述のように)「遺伝子」という言葉について、
個 / 集合 の区別をしたなら、そのあとで、遺伝子の淘汰の単位でも、
個 / 集合 の区別をするべし、ということだ。
こういう区別は、別に不思議ではない。実際、個体レベルであれば、次の区別がなされる。
個体淘汰 / 群淘汰 この両者を区別することは必要だ。「個体淘汰」と「群淘汰」とを混同してはならないし、「群淘汰」または「個体集合淘汰」という現象を「個体淘汰」という言葉で呼んではならない。(当り前だ。)
しかしながら、遺伝子の淘汰については、当り前のことができていない。つまり、「
遺伝子集合淘汰」という現象を「
遺伝子淘汰」という言葉で呼ぶ、ということが起こっている。つまり、なしてはならないことをなしている。
──
繰り返す。
遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰 という区別をすることは、必要である。この区別をしないと、まずいことが起こる。では、どんなまずいことが?
比喩的に言えば、赤緑色盲に似ている。赤緑色盲だと、「赤」と「緑」とを区別できない。そのせいで、本来異なる赤と緑を、同様のものとして認識してしまう。
( ※ この比喩は、差別的なニュアンスが感じられるかもしれない。当方が馬鹿なせいで、もっと良い比喩が思い浮かばない。不愉快に感じる読者がいたら、お詫び申し上げます。多謝。) 「赤 / 緑」と同様なのが、「遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰」だ。この両者を区別ができない人は、この両者を混同してしまう。そのあげく、ひどく間違った結論を出してしまう。
しかも、自分がどう混同したかを、どうしても理解できない。両者を区別するための基礎力が、根源的に欠落しているからだ。
というわけで、「遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰」の両者をしっかり区別せよ、というのが、本項の趣旨だ。
とにかく、これを強調しておこう。これさえ理解してもらえれば、本項の意図は達成されたことになる。
( ※ 「何だ、それだけか」と、あまりにもあっけないように思えるかもしれないが。)
──────────────── なお、以上の趣旨に対しては、説明不足を感じる読者も多いだろう。
「遺伝子淘汰と遺伝子集合淘汰の区別をするのはいいが、もし区別しないと、どういう問題が起こるのか?」
と。実は、こちらの問題の方が、話題としては中核的である。
しかしながら、それを書くと、非常に長くなってしまう。本項には収まりきらなくなる。そこで、この問題については、次項で長々と説明することにする。(詳しくは次項。)
ただし、あらかじめ予告しておくと、次の通り。
──
[ 次項の概略 ] 利己的遺伝子説では、次の発想がなされる。
「個体は自分の遺伝子を増やそうと行動する」 たとえば、次のように。
・ オスはやたらと繁殖活動をしたがる。 (交尾)
・ 鳥のオスはメスに好かれようとする。 (ディスプレー)
・ ミツバチの働きバチは、妹を育てる。 (利他的行動) これらはいずれも、
「個体は自分の遺伝子を増やそうと行動する」
というふうに説明される。そこには、「
自分の遺伝子を増やそうとする」という発想がある。
そこで言う「自分の遺伝子」とは、どんなものか? 「自分の遺伝子」であるからには、「自分の」という発想がある。
とすれば、そこに成立する原理は、「遺伝子集合淘汰」というより、「遺伝子淘汰」であろう。つまりそこでは、淘汰の単位は、「遺伝子集合」ではなく、「遺伝子」なのだ。
しかるに、ドーキンスの本来の主張は、「遺伝子淘汰」でなく、「遺伝子集合淘汰」であったはずだ。「遺伝子淘汰」は、「遺伝子集合淘汰」の発想からは、はずれてしまう。
「自分の遺伝子」という発想では、「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」とを混同している。その混同は、いわば、赤と緑を区別できない混同のようなものだ。そのせいで、事実に反する結論が出てしまう。
( ※ 詳しくは次項。)
このあとは補説である。特に読む必要性はないが、真実を知りたい人は読んでほしい。
( ※ 以下の補説は、ここのところ続いている「利己的遺伝子説の本質」というテーマからは はずれる。その意味では、読まなくてもいい。)
( ※ ただし、「間違いは何か?」という話題のかわりに、「真実とは何か?」という話題に興味があれば、読んでほしい。重要な真実が記してある。やや長い話だが。)
[ 補説1 ] (遺伝子と遺伝子集合)
まず基本を述べよう。次のことだ。
「遺伝子 / 遺伝子集合」という区別をするべし。 この件は、前述したとおり。( →
反利己的な遺伝子1 )
ここから、次の結論が出る。
「遺伝子淘汰 / 遺伝子集合淘汰」という区別をするべし。 このことは、「個体淘汰」と「群淘汰」(または種淘汰)とを区別するのと同様だ。
ここまでは、上の本論で述べたとおり。
( ※ なお、ポイントは、「個」と「全体」とをはっきりと区別するべきだ、ということ。そういう区別をするからこそ、あとで、「全体のために個が奉仕する」という発想も可能になる。)
[ 補説2 ] (平行関係)
遺伝子レベルにおいて「遺伝子 / 遺伝子集合」という区別をした。
そのあとは、個体レベルにおいても「個体 / 個体集合」という区別をするべきだ。すなわち、次の表で理解するべきだ。
「利己的遺伝子説」では、「個体 / 遺伝子集合」という区別があっただけだった。それは曖昧だった。そこで、正確に表現し直したのが、上の表だ。
この表では、個体レベルと遺伝子レベルで、重層的な関係がある。この関係は「平行関係」と呼ばれる。
( ※ ここまでは、すでに述べた話。)
[ 補説3 ] (マトリックス淘汰) このあとは、上の表について詳しいことを知りたい人のために、新たな話をしよう。(特別講義ふう。興味がなければ、読まなくても良い。)
ここまでの話は、利己的遺伝子説の難点を明かすのが眼目だった。一方、この補説では「真実とは何か」という点から説明しよう。 「真実とは何か」という問題意識から、上の表を考える。すると、次の疑問がある。 「重層的な関係とは、いったい何か?」 「平行関係とは、いったい何か?」 換言すれば、こうだ。 「遺伝子レベルと、個体レベルとは、どういう関係にあるか?」 この疑問には、次の (a)(b) のように答えることができる。
(a) 1対多 遺伝子と個体には、「1対多」の関係がある。つまり、次のことだ。 「1種類の遺伝子が複数の個体に乗っている」 たとえば、A型遺伝子がたくさんの個体に乗っている。ここでは、遺伝子の乗り物としての個体が、「単数」でなく「複数」である。このことに注意。 ( ※ なお、この「遺伝子」は、統計項目としての遺伝子である。個々の遺伝子ではない。遺伝子集合に相当する。「1」というのは、個体数としての1ではない。)
(b) 多対1 遺伝子と個体には、「多対1」の関係がある。つまり、次のことだ。 「複数の遺伝子が一つの個体に乗っている」 たとえば、一人の人間に2万以上の(別々の)遺伝子が乗っている。血液型の遺伝子やら、皮膚の色の遺伝子やら、目の色の遺伝子やら、髪の質の遺伝子やら。……こういうふうに、たくさんの遺伝子が一つの個体に乗っている。
さて。(a)(b) のように、「1対多」および「多対1」という二種類の関係がある。 だからといって、漠然とした「多対多」という無秩序な関係があるわけではない。あくまで、「1対多」および「多対1」という二種類の関係が同時に成立しているのだ。 では、双方が同時に成立していることを示すには? それには、二次元の表で示すといい。たとえば、遺伝子数が2万で個体数が百億であれば、 2万行 × 百億列 という表で示すといい。縦の行は「遺伝子の項目」を示し、横の列は「個体」を示すわけだ。こうして、それぞれのマスにおいて、遺伝子の状況が記述される。(例。ある個人の血液型遺伝子が「A」と示される。) この発想は、「マトリックス淘汰」と呼ばれる発想である。
マトリックス淘汰は、これまでの発想とどう違うか? 次のことだ。 「それは、個体レベルの淘汰(個体淘汰・群淘汰)でもなく、遺伝子レベルの淘汰(遺伝子淘汰・遺伝子集合淘汰)でもない。個体レベルと遺伝子レベルの双方を同時に考慮する淘汰だ」 つまり、次の二つの流れを、統合しているわけだ。 ・ 「個体淘汰 → 群淘汰」 (個体レベルの流れ) ・ 「遺伝子淘汰 → 遺伝子集合淘汰」 (遺伝子レベルの流れ) こういう「マトリックス淘汰」という発想を取るのは、「クラス進化論」の発想である。 ( ※ なお、クラスとは、「遺伝子集合に対応する個体集合」のことだ。それを説明する原理が「マトリックス淘汰」である。)
[ 補説4 ] (干渉) 「遺伝子集合淘汰」の発想では、上の (a) の点が重視される。 一方、「クラス進化論」の発想では、上の (b) の点が重視される。特に、次のことが重要だ。 「複数の遺伝子が、一つの個体の上で、たがいに干渉することがある」 たとえば、複数の遺伝子 A,Bがあるとしよう。 それぞれの遺伝子がまったく独立に効果を出すのであれば(他方があろうがなかろうが結果は変わらなければ)、そこでは「干渉はない」と見なされる。 一方、それぞれの遺伝子がまったく独立に効果を出すのではなければ、そこには何らかの相互的な影響があるあずだ。それを「干渉」という言葉で呼ぶ。 さて。「干渉」のうち、特に重要なのは、次のことだ。 「不利な形質と不利な形質が組み合わさると、有利な組み合わせになる」 これは、クラス進化論では「劣者連合」または「クラス交差」と呼ばれる。 具体的な例としては、次の例がある。(わかりやすく述べた例。)
「キリンの前身となる種(オカピのようなもの)があった。それは、鹿か馬のような種であった。その種において、次の二通りの突然変異が生じた。 ・ 首が長い ・ 足が長い このどちらも、それ単独では、不利だった。理由は次の通り。 ・ 首が長い …… 足が長くないので、長い首をもてあます。 ・ 足が長い …… 首が長くないので、足元の水を飲みにくい。 こうして、どちらの形質も不利だった。しかし、その双方が組み合わさると、有利になった。 ・ 首が長くて足が長いと、高い樹木の葉を食べることができる。 (しかも不便がない。) かくて、不利な形質が二つ組み合わさることで、有利になった」
結局、「干渉」のある場合には、次のことが言える。 「(単純な)自然淘汰の原理は成立しない」 自然淘汰説によれば、「首が長い」という形質の遺伝子も、「足が長い」という形質の遺伝子も、「不利な遺伝子」として、環境の中でどんどん減るはずだ。 しかしながら、その二つの遺伝子をともに備えた個体においては、それらの不利な遺伝子は「有利なもの」に転じる。ここでは、「不利なものが有利になる」という逆転が成立する。その意味で、(単純な)自然淘汰の原理は成立していない。 ダーウィン説であれ、ドーキンス説であれ、とにかく自然淘汰説によれば、不利な形質をもつものはどんどん減少するはずだった。ところが、クラス進化論では、不利な形質であるはずのものがどんどん増えていくことがある。単独では減るはずのものが、二つ組み合わさることで増えていくことがある。……こういう形で、(単純な)自然淘汰の原理を越えたことが成立する。
( ※ 以上は、「クラス進化論」の基礎原理である。この基礎原理から、次のような独特の結論が得られる。 ・ 「大進化は突発的に起こる」 ・ 「大進化ではたくさんの遺伝子が一挙に置き換わる」 こういう結論は、従来の進化論とはまったく異なる。) ( ※ 従来の進化論では、「進化はなだらかに漸進的に進む」 「大進化は小進化の蓄積で起こる」というふうに結論された。しかしクラス進化論では、「小進化がいくら蓄積しても大進化は起こらずに ほぼ停滞している」 「大進化はときどき突発的に大規模に起こる」というふうに結論される。……詳しい話は、クラス進化論のサイトを参照。) ( ※ なお、クラス進化論の意義は、「マトリックス淘汰」自体でもなく、「クラス交差」自体でもない。それと似た概念ならば、もともとあった。大事なのは、これらの発想自体ではなくて、これらの発想を基本として、新たな大進化の理論を示したことだ。つまり、上の赤字の箇所のことだ。……この点、誤解なきように。) ( ※ ついでだが、小進化に関しては、クラス進化論は従来の学説とまったく同様である。その意味で、従来の学説を全否定しているわけではない。大進化の箇所だけを部分否定している。)
[ 補説5 ] 「マトリックス淘汰」という概念から、何がわかるか? 第1に、個体と遺伝子との関係がはっきりとする。先に「重層的な関係」「平行関係」と呼ばれたものが、具体的にはどういう関係であるのか、はっきりとする。 第2に、淘汰の単位としては遺伝子集合を取るべきだ、ということがわかる。すると、「自分の遺伝子」というような発想は駄目だ、ということがはっきりする。この件は、次項で詳しく論じられる。 そもそも、「マトリックス淘汰」という概念は、 表 を正確に表現することを狙ったものだ。「マトリックス淘汰」という概念を使えば、 表 で述べたことはいっそう正確になる。ただし、 表 で述べたことだけでも、それなりに十分役立つ。多くの場合、単に「遺伝子集合淘汰」という概念を使うだけで済み、「マトリックス淘汰」という概念を使うまでもないだろう。それはそれでいい。 次項の「自分の遺伝子」という話題でも、「遺伝子集合淘汰」という概念だけで足りる。「マトリックス淘汰」という概念は特に必要ない。 ( ※ ただし、大進化の原理を知るときには、「マトリックス淘汰」という概念は必要だ。)
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※ 以上の [ 補説 ]は、あくまで補足的な話だ。ここのところ続いている「利己的遺伝子説」の話題とは、あまり関係ないことである。
次項ではふたたび、「利己的遺伝子説」の話題に戻る。「遺伝子淘汰」と「遺伝子集合淘汰」の区別が必要だ、という話題で、「自分の遺伝子」という問題を取り上げる。