ドーキンスは全体としては立派な業績を上げた。だが、言葉遣いが不正確なせいで、認識もまた不正確になった点がいくつかある。
彼の認識のどこにどんな問題があるのかを指摘しよう。
( ※ 今回は注釈。) ──
ドーキンスの「利己的遺伝子説」には、功罪ともにある。「功」については、前項で述べたとおり。本項では、「罪」について指摘しよう。
(1) ドーキンスの功罪
彼の業績の核心は、前項で述べたとおりだ。つまり、次のことだ。
「遺伝子の増減を、個体レベルの行動で説明した」
すなわち、遺伝子の増減を、遺伝子単独で説明するのではなく、遺伝子と個体行動とを結びつけることで説明した。── これはまさしく、立派な業績である。
ただし、彼の述べた主張のすべてが完璧に正しいわけではない。ところどころには難点もある。次のように。(前述)
・ 「遺伝子」を、「遺伝子集合」と呼んでいる。
・ 「遺伝子全体の利己主義」を、「遺伝子の利己主義」と呼んでいる。
・ 「遺伝子の反利己主義」を、「遺伝子の利己主義」と呼んでいる。
これらはすべて、白いものを「黒い」と表現するような表現である。ほとんどメチャクチャと言える。
そして、表現がメチャクチャであるせいで、認識もまたメチャクチャになっている。つまり、白いものと黒いものとを混同する、という認識をしてしまっている。 要するに、(白黒で)異なるものをたがいに区別できなくなっているのだ。
ここには、「誤表現」ゆえの「誤認識」が生じている。
結局、全体の論旨として、事実を正しくとらえているのだが、表現が曖昧なせいで、その主張もまた曖昧になっている。
つまり、「自分で自分にだまされる」という状況である。そのせいで、世間もまた、ドーキンスといっしょにだまされてしまうことになった。
(2) ドーキンスの不正確さ(利己的という概念)
特にドーキンスの主張の問題点を指摘しよう。(前項では業績について説明した。本項では問題点について指摘する。)
上記で説明したように、彼の認識には難点がある。言葉遣いや認識が不正確であることだ。
特に問題なのは、次のことだ。
「遺伝子と遺伝子集合とを区別できていない」
ここでは、区別するべきものを区別できていない。そのせいで、二つの概念が混同されている。その結果、おかしな主張がなされる。
特に問題なのは、「利己的」という言葉だ。この「利己的」という言葉は、次の意味で使われる。
「遺伝子が個体に対して利己的である」
これがドーキンスの主張だ。(「個体は遺伝子の乗り物である」という表現も、ここから来る。)
なお、この表現は、正しく書き直せば、「遺伝子」を「遺伝子集合」に書き換えることで、次のようになる。
「遺伝子集合が個体に対して利己的である」
しかしながら、ここで言う「利己的」という言葉は、曖昧になっている。そこには、二通りの意味があるからだ。
このことは、「斜めの論理」と「直角の論理」からわかる。すなわち、
「遺伝子集合が個体に対して利己的である」
とは、次の二つのことだ。
・ 遺伝子集合が遺伝子に対して利己的である。(横の関係)
・ 遺伝子が個体を操作する。(縦の関係)
ここには、二つの別の原理がある。それぞれ、次のことだ。
・ 横の関係 …… (個が全体に奉仕する)全体主義
・ 縦の関係 …… (遺伝子から個体への)影響関係
この二つは、別のことだ。ところがドーキンスは、この二つを一緒くたにして、「遺伝子集合の利己主義」というふうに認識した。さらにはそれを、「遺伝子の利己主義」と表現した。
こうして、正しい認識のかわりに、歪んだ認識がなされてしまった。
( ※ ドーキンスは「利己的」という一つの原理で、多くのことを統一的に表現することに成功した。それはすばらしい業績に見えたが、本当は、統一的に表現してはならなかったのだ。なぜならそこには二つの原理があるからだ。ここでは、物事を統一的に表現することは、真実に近づくことではなく、真実から遠ざかることになってしまっている。何でもかんでも統一的に説明すればいい、というものではないのだ。)
(3) 全体主義の誤認
ドーキンスは、すべてを「利己的」という言葉で説明することで、誤認をしてしまった。そのなかでも最たることは、「横の関係」への誤認だ。
「横の関係」の意味は、「全体主義」である。つまり、「個が全体に奉仕する」ということだ。
具体的には、次の二通り。
・ 遺伝子が遺伝子全体に奉仕する。
・ 個体が個体全体に奉仕する。
ドーキンスが発見したのは、そういう事実だ。これは、次の一言で言うこともできる。
「遺伝子集合は利己的である」
しかしながら彼は「遺伝子集合」を「遺伝子」と表現したせいで、このことを次のように表現してしまった。
「遺伝子は利己的である」
つまり、事実とは正反対に表現してしまった。……そのせいで、いろいろと問題が起こることになる。
この件は、重要なので、次項以降で詳しく説明しよう。(本項ではこれ以上は述べない。)
(4) 「乗り物」という言葉
ドーキンスの誤認(勇み足)としては、他の例もある。次の文だ。
「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」
これを正確に書き直すと、次のようになる。
「個体は遺伝子集合の乗り物にすぎない」
これは、ドーキンスの趣旨に従う限りは、特におかしくはない。つまり、これは次のことを意味している、と解釈する。
「従来の発想では、個体が主であった。遺伝子は、個体の増殖のために利用されるだけだけだった。しかし、その発想を反対にする。遺伝子が主である。個体は、遺伝子の増殖のために利用される」
これは「遺伝子淘汰」の立場からの表現である。これはこれで一応、納得できるだろう。
しかし、である。これは「遺伝子は利己的である」という発想に毒された、歪んだ解釈である。
彼は「遺伝子は利己的である」と信じるあまり、遺伝子を主役にしてしまった。遺伝子が個体よりも優位にあると思い込んでしまった。
しかし、彼の結論はそうだとしても、彼の唱えた利己的遺伝子説全体の論旨は、そうではないのだ。そのことは、前項の 表 からわかるはずだ。
そこには「平行関係」といういうものが見出される。遺伝子と遺伝子集合の関係は、個体と個体集合の関係と、重層的になっている。両者はたがいに平行しており、どちらがどちらに対して優位だとも言えない。どちらが主人だとも言えない。
では、遺伝子と個体とは、どういう関係にあるか? この両者は、一枚の葉の裏表のようなものである。あるいは生物における心と体のようなものである。そこにある関係は「一蓮托生」「不即不離」というふうに呼ぶのがふさわしい。
俗っぽい比喩で言えば、子供にとっての父と母のようなものだ。子供にとっては、父と母はともに大切だ。そのどちらも欠けてはならない。双方があるからこそ健全な家庭となる。なのに、「父の方が偉い」とか「母の方が偉い」とか述べても、認識を誤ってしまう。それと同様のことをしたのが、ドーキンスだ。
もう少し正確な比喩で言えば、「個体と遺伝子」の関係は、「ニワトリと卵」の関係に似ている。以前の人々は(個体を重視して)「ニワトリが偉い」と主張した。ドーキンスは(遺伝子を重視して)「卵が偉い」と主張した。彼はまた、「ニワトリは卵の乗り物だ」とも表現した。しかし本当は、ニワトリと卵は、どちらか一方が偉いわけではない。ニワトリと卵は、主従関係にはなく、相互的な関係にある。
個体と遺伝子とは、主従関係にはない。「遺伝子が個体に対して主人役である」ということはない。にもかかわらず、「遺伝子は利己的だ」という表現に毒されて、ドーキンスは「個体よりも遺伝子の方が偉い」という誤解をしてしまった。
それが誤解だということは、先の 表 からわかる。
個体と遺伝子とは、重層的な関係にある。一方が主人であるわけではない。
また、因果関係で言えば、次の関係がある。
・ 遺伝子 → 個体 (影響関係。本能を介在する因果関係)
・ 個体集合 → 遺伝子集合 (総数の増減の因果関係)
事実としてあるのは、上記のような関係だ。それは決して、
「個体が遺伝子に対して主人役である」
という一方的な主従関係ではない。つまり、
「個体は遺伝子の乗り物である」
という一方的な主従関係ではない。
ドーキンスは、「遺伝子は利己的だ」という言葉を使ったとき、自分で自分にだまされてしまった。結局、彼の主張した論旨は正しくても、彼が唱えた結論は歪んだものになってしまった。
( ※ 「乗り物にすぎない」という言葉の問題点は、「乗り物」という点にはなく、「にすぎない」という点にある。個体と遺伝子とは、自動車と荷物という関係にある。その点はいい。比喩自体はいい。だが、ドーキンスは荷物を重視して、「自動車は荷物の乗り物にすぎない」と主張した。しかし、それを言うなら、「荷物は自動車の運搬物にすぎない」とも言える。どっちもどっちだ。なのにドーキンスは、偏った見方をしている。一方の荷物ばかりを重視して、他方の自動車を軽視している。偏見である。彼は、現象を見ているときは正しく見ているのだが、歪んだ目で見ているのでいるのだ。それが「にすぎない」という言葉に表れている。……似た例。「女は女にすぎない」。これもまた歪んだ見方。ドーキンスふうの偏見。「女」という認識は正しくても、「にすぎない」というところが偏見。)
【 余談 】
ついでに生物学的な余談。(読まなくてもいい。)
まさしく文字通り、「遺伝子の乗り物」と言えるものがある。それは生殖細胞だ。
生殖細胞は、遺伝子を運ぶこと以外、ほとんど役割はない。卵子ならば、卵細胞という重要な物も付随しているが、精子には遺伝子以外にはほとんど有益なものはない。だから精子は「遺伝子の乗り物」と言ってもいいだろう。
同様に、「遺伝子の乗り物」と言えるものがある。「ミツバチのオス」がそうだ。これは「精子が生物の肉体をかぶったもの」という感じである。つまり、ミツバチのオスが誕生したのは、単に生殖活動をすることだけが目的である。その生涯は、ほとんど生殖することだけであり、それ以外の生涯はろくにない。いったん生殖活動をしたあとでは、乗り物としての役割を果たしたので用済みになって、あっさり死んでしまう。(射精のあとでは、ポイ捨てされるわけだ。使い捨ての注射器のようなものだろう。)
似た例に、カマキリのオスもある。生殖したあとは、用済みになって、メスに食われてしまう。(食べられる注射器のようなものか。リサイクル。)
似た例に、浮気をする男もいる。プレイボーイは、あちこちで浮気をして、遺伝子を増やそうとする。こういう男は、好き勝手なことをしているように見えるが、実は、遺伝子を増やすためにやたらとこき使われているだけにすぎない。ミツバチのオスや、カマキリのオスと同類だ。その存在意義は、生殖活動以外にない。人間としての存在意義は空っぽで、「遺伝子の乗り物」にすぎない。こういうのは、生殖活動をしなくなったら、もはや社会的にはクズ同然である。最低の価値しかない存在。(リサイクルもできないから、カマキリのオスよりひどい。)
しかしながら、こういう「最低の存在」を「生物のあるべき姿」として推奨するのが、利己的遺伝子説だ。なるほど、「生物の目的は遺伝子を増やすことである」(個体は遺伝子の乗り物である)という発想に従えば、やたらと浮気をして繁殖活動をするのも、当然かもしれない。しかし、それは、ドーキンス流の歪んだ認識だ。
では、正しくは? ドーキンスを否定すればいい。個体の目的は遺伝子を増やすことではない。個体は遺伝子の乗り物ではない。個体と遺伝子は相互的な関係にある。たしかに遺伝子は、遺伝子集合の増殖のために個体を操作するが、同時に個体は、自己の誕生と生存のために遺伝子を奉仕させる。個体の誕生と生存という「生物の本質」を認識するならば、個体こそが主であり、遺伝子はそのための道具にすぎない。
もちろん、真実は、そのいずれか一方にあるのではない。ドーキンスは、古い見解があるときに、新しい見解を提出した。それ自体は意義のあることだった。しかし、新しい見解を出したとき、古い見解を否定してしまったのは、行き過ぎである。古いものと新しいものの、どちらか一方が正しいのではない。双方がともに成立するのだ。そこに、真実がある。
( ※ なお、「正しい認識はどういうことか」という話は、前項で示したとおり。)
( ※ 「浮気をする男」の件は、次々項でも詳しく説明する予定。)
※ 以下は補足的な話。
[ 付記1 ](ドーキンスの評価)
ドーキンスをどう評価するべきか、整理しておこう。
ドーキンスの業績は、遺伝子と個体行動との関係を明かしたことだ。これは、立派な業績である。この業績は、動物行動学の分野における業績だ。
ただし、それを一般的に拡張して、「生物とは何か」というふうに哲学的な論議をした時点で、話の拡大解釈をしてしまった。次のように。
「個体は遺伝子の乗り物である」
「遺伝子は自己複製子である。ゆえに、遺伝子の目的は、数の増加だ。従って、生命の目的もまた、数の増加だ」
これらは、生命についての哲学論議である。しかしそれは、明らかに誤認である。ろくに深く考えることもなく、単に「遺伝子は自己複製をする」ということだけに着目して、それを原理として、大々的に大風呂敷を広げてしまった。そのあげく、とんでもないホラを繰り広げた。しかし、そのすべては、虚偽だ。
正しくは、次のようになる。
・ 個体と遺伝子は相互的な関係にある。(上記の (4) )
・ 生命の本質は、数の増加ではなく、誕生と生存だ。
こちらが真実だ。
特に、後者については、先に「生命の本質とは何か」というシリーズで、長々と論じてきた。ドーキンスの誤解を正す形で。
ドーキンスは、動物行動学や遺伝子淘汰については立派な功績があるのだが、生命観のところで勇み足をしてしまったのだ。
( ※ どういう勇み足か? 彼の説は、小進化の原理で説明できる範囲ではおおむね正しかったが、小進化を超える範囲では正しくなかった、ということだ。 → 増加の意味 )
[ 付記2 ](ドーキンスの間違いの理由)
ドーキンスはなぜ間違えたか? その理由は、二つある。次の (1)(2) だ。
(1) 遺伝子にとらわれすぎ
ドーキンスは遺伝子を主役に据えて考えた。それというのも、遺伝子にとらわれすぎたからだ。
実はこれは、ドーキンスだけの問題ではない。現代人の多くは、遺伝子にとらわれすぎている。何でもかんでも遺伝子で片付けようとしがちである。「生命の設計図はDNAに書いてある。それさえ見れば生命のすべてはわかる」と単純に考えがちである。(その典型的な例が「ヒトゲノム計画」というやつだ。これが達成されれば大変な革新が起こる、と大騒ぎしたが、実は、大騒ぎするほどのことではなかった。)
生物というものは遺伝子だけですべてが片付くようなものではない。たかだか2万ちょっとの遺伝子の塩基配列を知れば人間のすべてがわかるというものではない。生命の神秘は、ただの塩基配列を越えたところにある。つまり、遺伝子というものは、「それがすべて」というようなものではないのだ。つまり、遺伝子は「神の代役」ではないのだ。
にもかかわらず、現代の人々は遺伝子を「神の代役」のように思い込みがちだ。「遺伝子さえわかればすべて説明がつく」と思ったり、「遺伝子からすべては演繹的に説明がつく」と思ったりする。一種の還元主義である。すべてを遺伝子から説明しようとする。そして、その典型がドーキンスだ。
遺伝子という概念は、生物学者にとって、新しいオモチャのようなものだった。多くの生物学者は、この新しいオモチャをあてがわれて、夢中になった。ちょうど、テレビゲームに夢中になる子供のように。あるいは、ケータイに夢中になる若者のように。そして、そのオモチャに目を奪われるあげく、一番大切なものを見失ってしまった。個体を。すなわち、生物の本体を。
テレビゲームやケータイに夢中になった若者は、こう思うだろう。
「僕の目的は、テレビゲームだ。僕はテレビゲームの乗り物にすぎない」
「オレの目的は、ケータイだ。オレはケータイの乗り物にすぎない」
ま、その主張は、あながち間違いでもない。たしかにこういう若者は、「テレビゲームやケータイの乗り物」と言えなくもない。しかし、そういう認識をする時点で、その人の発想はすでに歪んでしまっているのである。なぜなら彼は、「人間は生物だ」という一番大切なことを見失っているからだ。「人間の目的はゲームの点数を増やすことではなくて、良く生きることだ」ということを見失ってしまっているからだ。
彼らはドーキンスと同じ誤りに陥ってしまっている。「一番大切なものを見失う」という誤りに。
(2) 数にとらわれすぎ
ドーキンスは遺伝子の増加を重視した。ここでは「数」を重視した。そして、「数」を重視するというのは、現代の科学者の陥りやすい誤りである。
近代の科学主義では、「数値化こそ大事だ」というふうに考える。「数字で表現することで、物事を客観的に表現できる」と。
しかし、数字で表現できるものならともかく、数字で表現できないものを、ことさら数字で表現しても、そんなことには意味はないのだ。
たとえば、人間の生命の価値を、金額で表現できるか? 「彼の命は2億円だから、2億円払えば彼を殺していい」と言えるか?
たとえば、愛の価値を、金額で表現できるか? 「この彼の持参金は百万円で、あの彼の持参金は十万円だから、前者の愛は後者の愛の十倍ある」と言えるか?
もちろん、生命の価値や、愛の価値は、数字では示せない。そんなことは誰でも知っている。しかし、それを理解しないのが、ドーキンスだ。(そして彼を信奉する人々だ。)
この件は、先にも述べたことがある。次のように。
「生物にとって大切なのは、個体として生きることだ」
と。しかるに、ドーキンスは、次のように語る。
「生物にとって大切なのは、子孫の数を増やすことだ」
と。このような認識は、生物の本質を履き違えている。とんでもない誤認と言うべきだろう。
生命の価値というものは、質の価値であり、量的な価値ではない。人の生命は唯一無二のものであり、量に換算などはできない。一方、子孫の数ならば、ただの量で示される。「一人、二人、三人……」というふうに。そこでは数だけが重要だ。そして、数だけを重視したとき、質の重要さを理解できなくなる。遺伝子の数ばかりにとらわれたとき、それぞれの個体の生命の無限の価値を理解できなくなる。
数にとらわれることで、質への意識を失う。科学的であろうとすることで、真実を見失う。
[ 付記3 ](人々の誤認)
本項では、ドーキンスをいろいろと批判してきた。ただし、本当は、ドーキンス本人を批判したいわけではない。
そもそもドーキンスの業績は、ずっと昔のことだ。原著刊行は 1976年。和訳刊行は 1980年。十年一昔の遺伝子分野では、三十年も前のことは「三昔も前」のことになる。彼の業績は、もはや歴史的なことなのだ。そんな昔の人について、現在の価値観から批判することは、妥当ではあるまい。(比喩的に言えば、最新のパソコンの水準で、「 1976年のコンピュータは性能が悪かった」と批判するようなものだ。技術の進歩を無視した話。)
では本項は、ドーキンス本人を批判したいのではないとしたら、何をしたいのか? ドーキンスを盲目的に信じる人々の誤解を批判したいのだ。
ドーキンスはすでに過去の人である。その過去の人の言説を、あたかも金科玉条のごとく信奉して、無批判的に崇めまつろうとする人々が多い。こういう人々は、「学問の進歩」や「技術の進歩」というものを理解できないのだろう。彼らはただ原著だけを崇拝して、「原著を正確に理解せよ」と言い張る。いわば、「アリストテレスを正確に理解せよ」と主張するように。
しかし、大切なのは、ドーキンスやアリストテレスの原著を正確に理解することではない。彼らの業績の上に立って、そこからさらに学問を発展させることだ。つまり、先人の業績を否定的に進歩させることだ。(弁証法的な「止揚」とも言える。)
ドーキンスの主張には、正しい点もあれば、不正確な点もある。ここで、われわれがなすべきことは、彼を肯定することでもなく、彼を否定することでもない。肯定やら否定やらは、喧嘩好きの人々に任せておけばいい。(そういう喧嘩ふうの論争が好きな人のためには、2ちゃんねるがある。)
大切なことは、肯定でもなく否定でもなく、彼の業績の上に立って、さらに学問を発展させることだ。その際、ドーキンスの主張を見て、その一部を取り、その一部を捨て、その一部を修正して、さらに何かを付け加える。こうして、学問というものはしだいに発展していく。
私は、ドーキンスの一部を取り、その一部を捨て、その一部を修正して、さらに「平行関係」などの概念を付け加えた。……こういう形で、ドーキンスのあとを継ぎ、ドーキンスの進めた道をさらに開拓していくこと。それが私の狙いである。
( ※ ただし、そういう方針を見て、足を引っ張る人もいる。次のように。
「おまえはドーキンスを誤読しているぞ。正確に読んでいないぞ」
「おまえの表現は重箱の隅で、学術的に不正確だぞ」
「おまえの主張には、こういう例外が見つかるぞ」
こうやって、鵜の目鷹の目で、アラ探しをして、揚げ足取りをしようとする。人間という生物種は、どうやら猿からあまり進化していないようだ。)
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※ 「反利己的な遺伝子」というシリーズ(計4回)は、今回で終わる。
ただし、同じテーマは、次項に続く。
次項では、関連して、非常に重要な話が述べられる。
2008年02月17日
過去ログ
しかしながら、その程度ではありますが、私的には概念を少しは理解出来たのではないかと思っています。
止揚、アウフヘーベンとならった様な気がします。
私も先生の意見に賛成です。
ドーキンス先生の礎がなければ我々は更なる上へのステップは出来ませんので、ドーキンス先生は、彼が生きた時代その時に最高の見識を我々に残してくれたのだと私は考えます。
宗教を批判したくはありませんが、行き過ぎの人はちょっとその様な傾向(過去に確定されたと思える真実を貫く気持ち)があるのかな?とIQ100以下の私は考えてしまいます。
先生のおっしゃる通り、我々は猿からあまり進化をしていない、とは言い過ぎですが、少なくとも数千年前からは大した進歩はしていないかもしれませんね。(ここで言う進歩は精神的なもの)
しかし、驚くべき事に、カメの歩みよりも遅いかもしれませんが我々は進歩しているのです。これは私の独断です。批判されても何も言えません。本当に頭が悪いので。
私の妄想をここに述べますが、我々は思考の共有を急速に高めていると思います。
今、メールを打っていて思った事です。
思考の共有が更に進んだ時、我々はどうなっているのでしょうね。
つくづく便利な世の中になったのだと私は思います。
我々の共有した思考が明るいものである事を期待したいですね!