「利己的な遺伝子」について、その難点の核心を示そう。
「利己的な遺伝子」という概念には、二つの原理が混在している。そのせいで概念が曖昧化しているのだ。その曖昧さをなくすと、こう表現できる。
「反利己的な遺伝子」
つまり、遺伝子というものは、反利己的なのである。
ドーキンスの論旨は「遺伝子は反利己的だ」ということなのに、ドーキンスの言葉は「遺伝子は利己的だ」となっている。つまり、論旨と言葉が正反対だ。ここに曖昧さの理由がある。
( ※ 今回は、真相を示す。) ──
まず、前項 の最後のことを思い出そう。
ドーキンスの言う「遺伝子」とは、「遺伝子」のことではなくて、「遺伝子集合」のことである。彼は言葉を正確に使っていない。だからこの点を正確に表現しておく必要がある。「遺伝子集合」という言葉で。
このあと、前項の最初の言葉に戻ろう。すなわち、
「個体は遺伝子の乗り物である」
という言葉だ。
ここで、「乗り物」という言葉がさんざん話題になるが、実は、「乗り物」という言葉は、いちいち気にするほどのことはない。ただの比喩である。だから、これを書き換えて、
「遺伝子は個体を操作する」(遺伝子は個体に影響する)
というふうに表現すれば、それで済む。それだけのことだ。
問題は、「乗り物」という言葉ではなくて、「個体」および「遺伝子」という言葉の方だ。
ドーキンスは、この言葉を使いながら、「個体」および「遺伝子」とを対比させた。しかるに、「個体」および「遺伝子」を対比させるということ自体に、根源的な問題がある。
以下ではこの件を論じよう。
──
先に述べたとおり、ドーキンスの言う「遺伝子」とは「遺伝子集合」のことである。とすれば、次の三つの文は、「遺伝子」を「遺伝子集合」に書き換える必要がある。
「個体は遺伝子の乗り物である」
「遺伝子は個体を操作する」
「遺伝子は個体に影響する」
書き換えること自体は、別に問題ない。ただの言葉の置換だ。簡単に済む。
問題は、そのような書き換えはできない、ということだ。換言すれば、そのような書き換えをすれば、文が無意味化する。
なぜか? 次のことがあるからだ。
「個体と遺伝子集合とは、直接的な関係がない」
要するに、二つのもの(個体と遺伝子集合)は、関係がない。関係がないものの間に、何らかの関係を勝手に見出して表現しても、不正確な認識になるだけだ。
──
比喩的に言おう。
太郎と花子が恋人だとする。花子と葉子は姉妹だとする。ここでは、
・ 太郎 ── 花子 (恋人関係)
・ 花子 ── 葉子 (姉妹関係)
という関係はあるが、
・ 太郎 ── 葉子
という関係はない。少なくとも、直接的な関係はない。会ったこともない二人に、直接的な関係などあるはずがない。なのに無理やり「義理の兄妹みたいなものだよ」と言い張っても、ほとんどこじつけにすぎない。
この関係を「太郎は葉子の乗り物である」というふうに比喩的に表現することもできる。しかし、そこでは、どんな比喩的な表現をしようが、無意味である。そもそも「太郎 ── 葉子」という直接的な関係を見出す、というのが非本質だ。ここではむしろ、
・ 太郎 ── 花子
・ 花子 ── 葉子
という二つの関係がある、というふうに正確に見出すべきだ。何らかの比喩を使えばいいのではなくて、二つの関係を正しく見抜くことが大切だ。
──
利己的遺伝子説でも同様だ。ここでは「個体 ── 遺伝子集合」という関係について、「個体は遺伝子の乗り物である」というふうに比喩を使えばいいのではない。「ここには二つの関係がある」と正しく見抜くことが必要だ。
では、二つの関係とは? 次の表からわかる。
個体 | 個体集合 |
遺伝子 | 遺伝子集合 |
この表を見よう。
ここでは、「個体」は左上にあり、「遺伝子集合」は右下にある。この二つは、直接的な関係がない。
この表では、縦の比較も可能だし、横の比較も可能だ。だが、斜めの比較は無意味なのだ。(間接的にしか関係を見出せない。)
第1に、縦の比較は可能だ。「個体/遺伝子」という比較も、「個体集合/遺伝子集合」という比較も、可能だ。
(「遺伝子 → 個体」という関係は、前出。)
第2に、横の比較も可能だ。「個体/個体集合」という比較も、「遺伝子/遺伝子集合」という比較も、可能だ。
(いずれも、「個と全体」の関係だ。)
この二通りは可能だ。縦の比較も、横の比較も、可能だ。
しかし、斜めの比較は無意味だ。つまり、「個体と遺伝子集合」という比較は無意味だ。にもかかわらず、ドーキンスはその無意味なことをやってしまった。こうして無意味なことをやることで、概念が曖昧化した。
──
では、どうすればいいか? もちろん、斜めの比較をやめればいい。つまり、斜めの比較を、横の比較と縦の比較とに、分解すればいい。次のように。
・ 個体 ── 遺伝子
・ 遺伝子 ── 遺伝子集合
この二つを組み合わせれば、
・ 個体 ── 遺伝子 ── 遺伝子集合
という関係が見出される。これなら、問題ない。
要するに、
・ 個体 ── 遺伝子集合
という二点の認識をやめて、
・ 個体 ── 遺伝子 ── 遺伝子集合
という三点の認識を取ればいい。そうすれば、認識は正確になる。
──
こうして判明したはずだ。
「個体は遺伝子の乗り物である」
という発想には、二つの関係が混在している、と。その関係は、次の二つだ。
・ 個体 ── 遺伝子
・ 遺伝子 ── 遺伝子集合
そこで、この二つの関係のそれぞれについて、それはどういう関係であるかを考えよう。
まず、前者の「個体 ── 遺伝子」という関係は、前項の (1) の (a)にあたる。簡単に言えば、
「遺伝子は個体に影響する」
ということだ。この件は、前に詳しく説明した。( → 遺伝子と本能 )
次に、後者の「遺伝子 ── 遺伝子集合」という関係だが、実は、ここには重要な問題がひそんでいる。以下で詳しく説明しよう。
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まず、話を戻して考えよう。「利己的」という話題で考え直す。
遺伝子が利己的であるということは、次のように表現される。
「個体は遺伝子の乗り物だ」
「遺伝子は個体に影響する」
「遺伝子は個体を操作する」
「遺伝子は個体を奉仕させる」
このうち、どれを取ってもいいのだが、とりあえず、最後の文を取ろう。
「遺伝子は個体を奉仕させる」
という文だ。この文ので、「遺伝子」という言葉を「遺伝子集合」に書き直すと、こうなる。
「遺伝子集合が個体を奉仕させる」
これはつまり、
「遺伝子集合が利己的だ」
ということである。
結局、利己的遺伝子説では、利己的なのは、「遺伝子」ではなく、「遺伝子集合」なのだ。この点に留意しよう。
──
そこで問題だ。遺伝子集合が利己的であるとして、いったい、何に対して「利己的」なのか?
ドーキンスによれば、
「遺伝子が個体に対して利己的だ」
ということだから、これを書き換えて、
「遺伝子集合が個体に対して利己的だ」
と言えそうだ。しかし、先に述べたように、「遺伝子集合」と「個体」とは、直接の関係がない。とすれば、このような関係は、ありえない。
では、どう理解するべきか? ……こういう疑問が生じる。
──
この疑問に対しては、前述のように、斜めの関係を、横と縦の関係に分解すればいい。つまり、次の二通りの関係に。
・ 遺伝子と個体の関係
・ 遺伝子と遺伝子集合の関係
このうち、前者については、特に問題ない。後者については、次のように言える。
「遺伝子と遺伝子集合の関係は、『個と全体』という関係だ」
では、それは、具体的には、どういう関係か?
──
抽象的な議論のかわりに、具体的な例を見よう。遺伝子と遺伝子集合の関係では、次のような例が見られる。
(i) 親と子。……親は、自分自身には有利ではなくても、自分の子を育てる。それは、なぜか? そのことで、次世代の遺伝子を増やすからだ。親はそういう本能をもつ。ということは、親の遺伝子(親の行動を操作する遺伝子)は、系統の遺伝子全体のために奉仕していることになる。
(ii) 働きバチと妹。……働きバチは、自分自身には有利ではなくても、自分の妹を育てる。それは、なぜか? そのことで、コロニー内の遺伝子全体を守るからだ。働きバチはそういう本能をもつ。ということは、働きバチの遺伝子(働きバチの行動を操作する遺伝子)は、コロニーの遺伝子全体のために奉仕していることになる。
ここでは、実際に奉仕しているのは、(親や働きバチという)個体である。しかし、遺伝子レベルで考えれば、奉仕しているのは(親や働きバチにある)個々の遺伝子である。(注意!)
だから、このような例では、次のことが成立している。
「遺伝子が遺伝子全体のために奉仕する」
この「遺伝子」というのは、「個々の遺伝子」のことである。たとえば、親という個体にある一個の遺伝子。また、働きバチという個体にある一個の遺伝子。そういう一個の遺伝子が、遺伝子全体のために奉仕する。そういうことがある。
これがつまり、「遺伝子全体が利己的だ」ということだ。(利己的な全体が個を奉仕させる、ということ。)
──
というわけで、利己的遺伝子説の意味は、正しくは、次のことである。
「遺伝子全体は 遺伝子に対して利己的である」
このことが「遺伝子 → 個体」という影響関係によって発現すると、次のことが起こる。
「個体全体は 個体に対して利己的である」
これは、不思議でも何でもない。先に「利全主義」という言葉で説明したとおりだ。次のように。
(i) 親は、自分の利益を犠牲にして、「系統」という全体のために奉仕する。
(ii) 働きバチは、自分の利益を犠牲にして、「コロニー集団」という全体のために奉仕する。
ここではいずれも、次のことが起こっている。
・ 個体全体は 個体を奉仕させる(利己的である)。
・ 個体は 個体全体のために奉仕する。
このことは、次のことが発現したからだ。
・ 遺伝子全体は 遺伝子を奉仕させる(利己的である)。
・ 遺伝子は 遺伝子全体のために奉仕する。
──
なお、話の整理のために図式化すると、次のように書ける。
個 < 全体
遺伝子 < 遺伝子集合
個体 < 個体集合
まず、「 個 < 全体 」という関係がある。これは、「個が全体のために奉仕する」という原理だ。
このことが遺伝子レベルで起こると、「 遺伝子 < 遺伝子集合 」というふうになる。
このことが個体レベルで発現すると、「 個体 < 個体集合 」というふうになる。
──
なお、以上の話はすべて、ドーキンスの論旨に矛盾していない。というか、ドーキンスの論旨をそのままなぞっただけである。実際、私としても、ドーキンスの論旨に反駁するつもりはない。
では何をしているかというと、言葉遣いをちょっと変えているだけだ。彼が曖昧に語った言葉を、正確に表現しているだけだ。
問題は、このあとだ。言葉遣いの問題である。言葉遣いにおかしな矛盾が生じているのだ。
ドーキンスの論旨は、つまりは、こうだ。
「全体が個を奉仕させる(利己的である)」
これは、特に矛盾しているわけではない。話の趣旨としても、何らおかしくない。
しかしながら、通常の言葉遣いと比較すると、この言葉遣いはおかしい。これは通常の言葉遣いとは正反対である。なぜか?
「全体が個を奉仕させる」
ということは、通常、「利己的」という言葉では表現せず、「全体主義的」という言葉で表現されるからだ。(「反利己的」と言ってもいい。)
──
普通の言葉遣いでは、同様のことを、「全体主義」という言葉で表現する。次のように。
・ 戦争において、個人が国家全体のために奉仕する。
・ 野球において、選手がチーム全体のために奉仕する。
・ 会社において、社員が会社全体のために奉仕する。
このような例は、いずれも「全体主義」と呼ばれるものだ。そこには「個が全体のために奉仕する」という原理がある。
しかしながら、まったく同じ原理に対して、ドーキンスは逆の言葉を使っている。「全体主義」「反利己的」のかわりに「利己的」という言葉を使ってしまっている。
これは、言葉遣いとしては、おかしい。倒錯と言える。女を「男」と呼ぶような。
──
では、どうして、こういう倒錯が起こったか? それは、前項のことを思い出せば、理解できる。
ドーキンスが「遺伝子」と呼ぶものは、実は「遺伝子全体」のことである。そして、「全体が利己的である」ということは、「全体が個に対して利己的である」ということである。
そして、それは、「全体」の側から見れば「利己的」と見えるが、「個」の側から見れば「全体主義的」と見える。
つまり、視点の置き方しだいだ。まず、「全体を優先する」という方針がある。これは、視点を「全体」の方に置けば、「(全体の)利己主義」と見える。一方、視点を「個」の方に置けば、「全体主義」と見える。
ただし、普通の言葉遣いでは、このような事柄は「全体主義」と表現するはずだ。「(全体の)利己主義」というのは、「利己主義」という言葉の原義からは大きくズレてしまっている。本来は「反利己主義」と呼ぶべきものを「利己主義」と呼んでいることになる。白いものを「黒い」と呼ぶようなメチャクチャな表現だ。
──
では、どうすればいいか? ドーキンスのメチャクチャな言葉遣いを改めればいい。つまり、こうだ。
「ドーキンスの言う『遺伝子の利己主義』は、『遺伝子全体の利己主義』である。そう認識した上で、『遺伝子全体の利己主義』というものを、『全体主義』という言葉で呼び替える」
要するに、次のように表現し直せばいい。
「遺伝子は全体主義的である」
「遺伝子は反利己的である」
こう表現したとき、初めて、ドーキンスの説は正しく理解されたことになる。
ドーキンスは、自著の題名を「利己的な遺伝子」ではなく、「利己的な遺伝子集合」または「反利己的な遺伝子」とするべきだった。「遺伝子は利己的にふるまう」と語るのではなく、「遺伝子集合は利己的にふるまう」または「遺伝子は反利己的にふるまう」と語るべきだった。そうすれば、彼の言葉は、科学的に正確に表現されたはずだ。
(英語だと、 ドーキンスの the selfish gene とは、 a gene のことでなく、 genes という集合のことである。彼は単数と集合形とを混同してしまった。一種の(言語的・哲学的)な認識エラーである。)
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結論。
ドーキンスの説は、論旨としては正当である。ただし、その表現が、曖昧で奇妙な表現となっている。
ドーキンスは「遺伝子は利己的だ」というふうに述べた。しかし、正しくは「遺伝子集合は利己的だ」ということだ。
正確に見よう。ドーキンスの言葉には、二重の原理が込められている。次のように。
・ 遺伝子と個体の関係
・ 遺伝子と遺伝子集合の関係
前者については、「遺伝子は個体に影響する」というふうに修正すればいい。(二段階から三段階への修正。)
後者については、表現を改める必要がある。「遺伝子は利己的だ」と表現するかわりに、「遺伝子全体は利己的だ」と表現するべきだ。あるいは、同じことだが、主語を「遺伝子」にして、「遺伝子は反利己的だ」と表現するべきだ。
ドーキンスの述べたことは、論旨全体としては、正しい。(小進化や動物行動の範囲では。)
しかしながら、その表現は、正確な表現に比べると、正反対の表現を取っている。「遺伝子は反利己的だ」と表現するべきなのに、「遺伝子は利己的だ」と表現している。
このように正反対の表現を取るところから、言葉の上での矛盾が生じる。そのせいで、彼の学説には、曖昧さが生じてしまう。
この曖昧さをなくすためには、遺伝子の性質について正しく表現するべきだ。すなわち、「遺伝子は反利己的だ」と。
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※ 以上の話に、キツネにつままれたような気分になる人も多いだろう。
そこで、次項では、いろいろと詳しく説明する。理解しやすいように。
[ 付記 ]
本項の要点を、図式的に解説しておこう。
まず、先の表を再掲しよう。
個体 | 個体集合 |
遺伝子 | 遺伝子集合 |
ドーキンスはこの表で、左上と右下を見て、「個体 ── 遺伝子集合」という関係を見た。このような見方を「斜めの論理」と呼ぼう。
一方、
「個体 ── 遺伝子」(縦)
「遺伝子 ── 遺伝子集合」(横)
というふうに、二つの関係に分けて見ることもできる。このような見方を「直角の論理」と呼ぼう。
「斜めの論理」によって短絡的に見ると、真実を正しく理解できない。真実を正しく理解するには、「直角の論理」によって見ればいい。
一般に、本来は比較対象にならないような二つのもの(別次元のもの)を比較するには、「斜めの論理」を改めて、「直角の論理」を取るといい。つまり、合成された原理を、二つの原理に分解するといい。そうすると、物事を正確に見ることができるものだ。